竹溪閑話
(平成二十年度(2008年度)はこちらです。) 江不流 陳舜臣の小説に『江は流れず-小説日清戦争』というタイトルのものがある。これは恐らく清・譚嗣同の『夜泊』「繋纜北風勁,五更荒岸舟。戍樓孤角語,殘臘異ク愁。月暈山如睡,霜寒江不流。窅然萬物靜,而我獨何求。」から来ていよう。「江不流」とは「川は流れない」の謂いだが、この詩では時代閉塞感を表す。(このことは、『江は流れず-小説日清戦争』の後書き等に記されているかの確認が必要だが)。 (2009.6.2) 西郷さんの辞世の漢詩 ? 2009年9月12日(土曜)の讀賣新聞の夕刊に、表題のような(「?」符号はなし)記事があった。「西南戦争で自刃した西郷隆盛が…詠んだ辞世とみられる漢詩が見つかった。官軍側の医師・山崎泰輔の日記「明治十年 西遊日記」に記されて…」いたとある。 この詩について、次のように作者を推理している: 「西郷南洲顕彰館は、大学教授らと検証した結果、 @文章構成が西郷の作品に似ている A社会的地位の高い山崎が西郷に成り代わって詠むとは考えられない B結句の『何の顔(かんばせ)あって照公(島津斉彬)に対せん』は斉彬公を師と仰いでいた西郷ならではの表現」としている。 また、「ただ、『半生の功罪両般の跡』などと自らに厳しく評価を下していることから『山崎が城山で散った西郷のことを詠んだのではないか』と慎重な見方をとる研究者もいる」ともしている。 その詩とは: 肥水豊山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公 西郷隆盛 とのことである。 この詩、西郷隆盛の詩なのか、山崎医師の詩なのか。 わたしは、この詩を次のような理由から山崎医師の詩であると見る。 @起句は宋・陸游詩の『遊山西村』の「山重水複疑無路, 柳暗花明又一村。」や、王維詩(リンク未だ)の影響下にある。 A「路已窮」は項羽の陰陵を、「覇図」は項羽と劉邦の天下争覇を、「何顔」は『史記・項羽本紀』の項羽の最期の場面(我何面目見之)」を思い起こさせる。 B辞世で自分の一生を「半生功罪」と表現できるのか。 C「兩般」(二種類の…)といった批評じみた表現で、自己の心情を表すのか。 Dこの詩の平仄等は ●●○○●●◎ ●○○●●○◎ ●○○●●○● ●●○○●●◎ となっている。精確な作りである。 漢学の素養が深い幕末/明治初期の日本人であっても、寄せ来る敵弾の中で、推敲なしで作りおおせるものなのか。なかなか難しかろう。(後日註:山崎医師の日記の中で推敲されていた…という(平成22.4.4)) もし、西郷作とすれば、前もって作っていたのだろうか、「路已窮」「覇図空」「功罪両般跡」「何顔対照公」といった不景気なことばを用意していたとは。考えづらいことだ。 この詩、山崎医師が作ったと見れば疑問は氷解するし、自然だ。なお、新聞記事の読み下しの「何の顔(かんばせ)あって照公に対せん」は、「何」といった疑問詞がある場合(疑問・反語)は、助詞「…か」「…や」「…ぞ」を附けた方がよい(係り結びに配慮して)。「何の顔(かんばせ)あってか照公に対せん」等と。 (2009.9.12) 「」「間」「閑」 「閨v「間」「閑」 『高青邱』の『行香子』 昨日、『高青邱』を読んだ。最後のページは「詩餘」の章となっていたが、掲載作品は一闋のみ『行香子』「芙蓉」だけだった。読み下しや解釈に疑義がある。 1.「恨月濛濛 人杳杳 水茫茫」: これを「恨月濛濛(こんげつもうもう) 人杳杳(ひとゑうゑう) 水茫茫(みづばうばう)」と読み下している。 これについて、わたしは次のように見る: この「恨」は逗(豆)(領字)であって、「恨月濛濛 人杳杳 水茫茫」の句の構成は、
2.「不見春光」のこと: 「不見春光」を「春光(しゅんくゎう)を見(み)ず」と読み下し、「春をも知らぬあはれさよ」となっているが、 これについて、わたしは次のように見る。 晩夏、初秋に咲く芙蓉の花は「不見春光」、つまり「春景色の時には現れない」ということ。そしてそれは、次の句「3」へ続く。 3.「向菊前蓮後纔芳」のこと: 「菊前蓮後に向ひて纔に芳ふ」と読み下し「芳ひぞ始むる菊の前、蓮さへすぎて漸々に」となっているが、ここの「向」は「於」の意で、仮に「向ひて」と読み下しても解釈は「於」の「…に」「…で」の意になる。「芙蓉の花は、春には姿を現さないで、秋の菊の前で、夏の蓮の花の後といった時期(八、九月:晩夏〜初秋)にやっと咲く。」これがこの部分の詞意。 (2010.6.11) 次(平成24年度)へ このページのトップへの 平成二十年度(2008年度)はこちらです。 |
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