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                       竹溪閑話


****平成二十年(2008年)度****



(平成十九年度(2007年度)はこちらです。)




  かしはで

  昨日(08.2.13)、テレビのクイズ番組で、柏手(かしわで)の起源についての設問があり、正解は「古代、行き逢った双方の人が武器を持っていないことを証明するために手をたたき合った」としていた。これは違うだろう。
  「倭人在帶方東南大海之中」で有名な『三国志・魏書・東夷・倭』(一般に『魏志倭人伝』といわれているもの。『魏書』の最終部分)が編纂された時代(=西晋の陳寿が在世の西暦二百年代後半)には既に、倭国では「
大人所敬,但搏手以當跪拜。」(身分の高い人にまみえる時には尊敬を表すのに、ただもっぱら手を拍(う)つことで(中華の地の)跪拝に当たるものとする)という風習があったと、中国・魏でも認識されていたわけだ。まとめて言い直すと: 西晋の陳寿は、卑弥呼と同時代の倭国の現状として、倭国では貴人に対しては手を打ち鳴らすのが最高の儀礼とされていることを記録しているのだ。

  このクイズの解答は、土俵入りの所作の根拠附けと混同していないか。それならば、『古事記』でのヤマトタケルとイヅモタケルの戦いぶりから見ても、納得できる。
                    (2008.2.14)



  李纓監督の名

  今、喧(かまびす)しく報道されているのが李纓(りえい:Li3Ying1:リーイン)監督の『靖国 YASUKUNI』だが、監督の名前の「纓」字には鮮烈な意味がある。辞書では「冠(かんむり)の紐(ひも)」の意ぐらいしか出ていないが、豪放詞系統では「異民族を征伐して、捕らえて縛る縄」の意で使われる。この後者の意で使われているものに、唐・魏徴の『述懷』「中原初逐鹿,投筆事戎軒。縱計不就,慷慨志猶存。杖策謁天子,驅馬出關門。
南越,憑軾下東藩。鬱紆陟高岫,出沒望平原。古木鳴寒鳥,空山啼夜猿。既傷千里目,還驚九折魂。豈不憚艱險,深懷國士恩。季布無二諾,侯嬴重一言。人生感意氣,功名誰復論。」や、南宋・岳飛の『滿江紅』登黄鶴樓有感「遙望中原,荒煙外,許多城郭。想當年,花遮柳護,鳳樓龍閣。萬歳山前珠翠繞,蓬壺殿裏笙歌作。   到而今、鐵騎滿郊畿,風塵惡!兵安在?膏鋒鍔。民安在?填溝壑。歎江山如故,千村寥落。何日請提鋭旅,一鞭直渡C河洛。却歸來、再續漢陽遊,騎黄鶴。」、現代・毛澤東の『清平樂』六盤山「天高雲淡,望斷南飛雁。不到長城非好漢,屈指行程二萬。   六盤山上高峰,紅旗漫捲西風。今日長在手,何時縛住蒼龍?」などがある。また、自民族の精神を確乎として保持していく意としては、文天の『正氣歌』楚囚其冠,傳車送窮北。鼎钁甘如飴,求之不可得。」がある。「會向藁街逢」である。
  「纓」が監督自身によって附けられた号(ペンネーム、芸名)であれば、「他民族を撃ち破り、確乎たる自民族精神を発揚する」と謂う明確な意志が込められている。
  もっとも、別段、それが悪いこととは限らないだろう。自民族のために闘う戦士は、それはそれで尊いものだからだ。(ただ、穏やかであってほしいとは願うが……)。
                             (2008.7.12)



毛沢東と黄巣

  毛沢東は文化大革命発動直前に『卜算子』「詠梅」「風雨送春歸,飛雪迎春到。已是懸崖百丈冰,犹有花枝俏。   俏也不爭春,只把春來報。
待到山花爛漫時,她在叢中笑。」というを作った。毛沢東は、「讀陸游詠梅詞,反其意而用之」と記して、陸游の詞『卜算子・詠梅』「驛外斷橋邊,寂寞開無主。已是黄昏獨自愁,更著風和雨。   無意苦爭春,一任羣芳妬。零落成泥碾作塵,只有香如故。」の影響を受けたことを示している。
  その通りだが、毛沢東の『卜算子』「詠梅」は、黄巣の『詠菊』詩「
待到秋來九月八,我花開後百花殺。衝天香陣透長安,滿城盡帶黄金甲。」を意識して作られてもいる。毛沢東は、叛乱に惹かれたのか、大斉の皇帝にだろうか。黄巣は唐末の農民叛乱「黄巣の乱」の指導者のことだ。黄巣は「(黄巣)致令殺人八百萬,血流三千里」(『殘唐五代史演義傳』)とも評された人物なので、両者の類似は詩詞好きな者は分かっていても、触れられていない(ような気がする)。
                          (原:2003.12.28)
                         (補:2008. 8.23)



なぜ、旧字・平水韻・旧仮名なのか

  なぜ、わたしのホームページは、旧字(中国では繁体字)・平水韻・旧仮名(歴史的仮名遣い)なのか。それについて述べる。
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  旧字(繁体字)、に対して新字(常用漢字・当用漢字)や、中国では簡化字(簡体字)といった字体がある。
  例えば「遲」は「遅」・「迟」となり、「認」は「認」・「认」となり、「轉」は「転」・「转」となった。(「敢えて日本の常用漢字とは変えた」(郭沫若談−わたしの記憶)。)
  また、中国内では「醜」は「丑」に、「徴」は「征」に、「裏・裡」は「里」に、「雲」は「云」に等と、統一されてきた経緯がある。前者の簡略化された字体(簡体字)や後者の漢字の置き換えは、(これらは北京語に拠った新・形声文字なので、北京語を知らない)日本人には、一見して読めるものではない。同様に日本の「同音の漢字による書きかえ」も書き換え後(の日本語文中の漢字)は、中国人(など漢字文化圏の人々)には理解しがたいところがあろう。
  それゆえ、わたしのホームページは、相互で理解が可能な旧字(繁体字)を使い、国際性を高める配慮をした。
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  平水韻については、わたしのホームページの自作詩詞(漢詩)は平水韻を使った押韻をしている。これも漢字文化圏(曾て漢字文化を受容した東北アジア諸国)で使用されてきたもので、歴史的な深さに裏付けられた国際性や、南方人(nan2fang1ren2;南方中国人の謂い≒粤・閩・(呉))の地方言には入声が保持され、周辺諸国も入声が伝えられて、保存されている。それゆえ、自作詩詞(漢詩)は平水韻を使った押韻をし、歴史的な国際性を意識した。
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  旧仮名(歴史的仮名遣い)をなぜ採用しているのか。それは、歴史的仮名遣いは、旧時に日本に伝わった漢字古音をより正確に保存しているからである。曾て漢字文化を受容した漢字文化圏との共通項としての古音を極めて貴重な(漢字文化圏全体の)文化遺産として、重視しているためである。
  例えば、現代仮名遣いで「きょう」と表記されるものに 共凶胸恭恐、梟嬌教橋僑、郷強疆姜彊狂響、京卿驚境、協峡…、などがある。 これらは旧仮名遣いでは次のように区別して表記され、その区分は現代中国語(ここの音の例は、北方方言≒北京語≒普通話)と共通するところがある。また、概ね平水韻の区分とも合致するものである。((呉や、)閩や粤の方言が分かれば一層面白いことがわかろうが…)

@〔きょう;-ong〕冬韻:凶胸恭 (共恐)
A〔けう;-iao〕蕭韻:梟嬌教橋僑
B〔きゃう;-iang〕陽韻:郷強疆姜彊狂 (響)
C〔きゃう・けい;-ing等〕庚韻等:京卿驚 兄(境)
D〔けふ;-p〕入声韻:協峡…

このように、正確に漢語は分析されてきた。それゆえ、本ホームページは、旧仮名(歴史的仮名遣い)表記を採用し、歴史的に保存されてきた古音(現代では「古音に基づく表記」になるが)を重視し、歴史的に漢字文化を受容してきた大漢語文化圏の伝統を尊重しているためである。
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  日本語的発想を軸足にしない。また、中国語を軸足にもしない。わたしは、歴史的に受容されてきた国際性のある汎東アジア漢語文化の上に立っていきたい。少なくとも、わたしはそのように意識してこれらに接してきた。
  以上、わたしが、旧字・平水韻・旧仮名遣いを採用してきた所以(ゆえん)である。

                          (2008.9.9)



  魏志倭人伝』の云うところ

  『三國志・魏書・東夷』の倭人の条(所謂『魏志倭人伝』)「倭人在帶方東南大海之中…」に、古代日本の姿が記録されており、我々日本人の夢をかき立て、さまざまに解釈されてきた。とりわけ女王・卑彌呼の都とする邪馬壹國に至る「水行十日,陸行一月」をはじめとした読み方と、字句の解釈の仕方(漢字の解釈の仕方)で、より様々な解が出されている。


  わたしは、閑なとき、『史記』『漢書』『後漢書』『三國志』…や、『淮南子』(ゑなんじ)、『山海經』(せんがいきゃう)…を看る。それらには、地理誌的要素もあって、わたしは当時の世界観に驚き且つ堪能している。面白いことに、これらの書での地理誌的記載の仕方は、標記の『三國志・魏書・東夷』の倭人の条(所謂『魏志倭人伝』)と似通ったところがある。(正確には『魏志倭人傳』の筆者・陳寿の方が先賢の書の表記に倣って表記した(二十四史では『魏書』での倭人の条の成立が一番古いが))。「似通った」というのは、文体が似ている、表記、叙述様式が似ているということだ。わたしの読み方は、漢文訓読をしないので、例えば「置き字」といわれる部分も文の構成要素の一(ひとつ)として読んでおり、国文(日本語文)や英文のように、文を叙述順に従って把握・理解している。素読のようなものである。その際に感じる文の構成や表現の類似性のことである。


  わたしは『魏志倭人伝』の解釈法は知らないが、(原稿用紙数枚分の『魏志倭人伝』中の漢字にのみとらわれずに)中国には厖大な量の地理誌がある。その伝統的な地理誌群の中の一として、(他の地理誌群の表記法と比較し、その表記法の意味するところを参照して、)正確な『魏志倭人伝』の読解を期待したい。そうすれば、また別の世界が広がるのではないか。
  すこし、「漢字」の「字解き」から離れて、見ていくべきものだろう。
                          (2008.9.21)


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