不定期日記

2001年 1月〜4月


「ユニクロ礼讃」 2001.4.24

 AERAが、トップでユニクロの中国生産現場をリポートしている。検閲でも受けたかのような「ユニクロ礼讃」広報記事だ。見出しを列挙すると、『高給に求職者が行列』『異物混入を徹底排除』『日本製の最新編み機』・・・。いわく、中国の工場は男女平等で、給与も高く、清潔で、冷房完備で、カラオケ室や卓球台、ビリヤ−ド台、寮に食堂も完備、日本製の最新機械で技術力も高く、すばらしい品質を生み出す。毎日100人以上が採用してくれ、とひたすら待っている、まるで夢のような労働環境。ユニクロという一大権力を監視しようとした「跡」さえ全く感じさせない見事な大本営発表記事だ。例えば、肝心の労働時間には一切ふれていなかったりする。

 ユニクロのような儲かっている企業からテレビCMをはじめ巨額の広告収入を得ている朝日グループとしては、批判などしたら処分の対象になり兼ねないのだろうが、それにしても露骨である。もちろん「悪いことは書きません」という暗黙の了解があってこそAERAの独占取材に応じたのだろうが、新聞社系週刊誌としてのプライドのようなものはないのだろうか。これではユニクロ広報部そのものだ。
 
◇既存新聞社の問題
 日本の新聞社は、ウォルフレンが指摘しているように、社会秩序を維持することが目的だと思っているフシがある。「官僚だけでなく新聞編集者にとっても、社会秩序の維持は何より重要な目的なのだ。問題を深く追求しすぎたり、日本でなされているやりかたに根底から疑問を投げかけるような報道をしたりすれば、間違いなく社会の混乱を招く、と新聞編集者たちは考えている。たいていの場合、彼らは意識してそう考えてはいないだろう。意識してそう考えたことはないかもしれない。だが、編集者がそろって社会の混乱を懸念しているため に、無意識のうちに論調が左右されている」(カレルヴァンウォルフレン「怒れ!日本の中流階級」)

 一方で、田勢某が書いているように、いったん落ち目になった人や権力に対しては徹底的にコテンパンに打ちのめすから始末が悪い。最近では光通信や森首相、かつては田中角栄が良い例だ。つまり、弱いものイジメばかりして、権力者には逆らわない性格を持っている。人間としても最低だ。

◇読者側の問題
 さらに、そうしたマスコミに対し、読者側も、疑問なく受け入れてしまう。一体、どれだけの人が、このAERAの記事の裏に思いを馳せただろうか。原因の1つは、メディア教育が全く為されていないことにある。

 「たとえばメディア・リテラシーが発展しているカナダでは、高校生が『ナイキのバスケットシューズの原価は、5ドル60セント(1993年調査)でしかないのに、その10倍以上で売られている』のはなぜかと考え、それは『有名スポーツ選手を莫大な契約金で広告に起用しているからだ』と判断するような、さらに関連して『スニーカー工場で働く途上国の女性労働者には、1日1ドルも支払われていないことを指摘』するような、メディアに関するそんな教育が行われているそうだ。」(岩波新書「メディア・リテラシー」)

 日本では、メディアリテラシーに関する教育は一切、行われていない。これだけ情報化社会だと言われながらも、基本的なメディアの構造や取材のプロセス、取材先との力関係などを理解している人がどれだけいるか。私は取材する側に立った経験があるからわかるが、一般人はほとんど無知であり、知らず知らずのうちにマスコミの影響を受け、権力サイドに有利な情報ばかりが流れ、洗脳されているのである。

◇まともな新聞がないという問題
 ジャーナリスティックな視点から報じる新聞が、逆の立場から報じたものがあるなら、AERAやユニクロの化けの皮もはがれよう。例えば私なら、中国人の「鎌田慧」を雇って、潜入ルポをやって貰う。労働者の立場からはユニクロの契約工場がどう映るのか。中国は人権が問題にされる国である。少なくとも、鎌田氏が「自動車絶望工場」のルポを描いた時代よりも生々しい現実があることだろう。コンベア労働のシジフォス的単調さは、容易に想像できる。もちろん、ユニクロの広報部が案内するままに書いた記事とは正反対のものになるはずである。そういう企画を実行できる新聞がないことが日本の不幸だ。

 私は衣類の多くをユニクロで買っている。ユニクロの大ファンだ。消費者として、製造過程の情報が出て来たこと自体は評価したい。しかし、いくらなんでも、都合の悪い事実を全て省いたとしか思えないAERAの記事では、この会社を信用するには余りに不十分である。ある程度眼の肥えた読者にとっては、「ルポにとって都合の悪いことは無視して、都合のいいことばかり集めるると、そのルポはウソになり、説得力を失うでしょう。米兵の『良いこと』は巨大な悪の中の小善に過ぎないこと、その小善のバカらしさによって、むしろ巨大な悪を強く認識させることができます」(本多勝一「事実とは何か」)ということなのである。とはいえ、企業が積極的に自社に都合の悪い情報を開示する訳がない。これはジャーナリズムの使命だ。

 上記三点の問題を解決すること、すなわち、読者の情報を読み解く力を高め、「権力サイド起点の情報量」と「市民/消費者/生活者起点の情報量」のギャップを埋めていく、ということは、日本の民主主義の成熟にとり必須事項である。誰かが、やらねばならない。「AERA」4/30-5/7

「恐怖人事による統制」 2001.4.19

 日経の恐怖人事が珍しくメディアに載った。もちろん私の例に及ばず、明るみに出ているのは氷山の一角に過ぎないが、情報統制が厳しいあの会社でも、さすがに紙面に名前が出ている編集委員となると隠し通せなかったのだろう。編集委員でさえこの有り様だから末端の記者やいかに、という1つの証である。(私もかつて取材を受けたことがあるが、「週刊朝日」は一応、ちゃんと取材はする媒体である)
 
 この機会に、八千万円の賄賂を受け取って辞めた森田の時代から社内体質は変わっていないことや、それが業界全体の流れであること、その根本的な原因は、新聞を定期購読して経営を支えている愚かな読者達であることを、非新聞社系の雑誌がやるべきだと思う。

 裸の王様(鶴田)とその部下たちは約4000人(社員数)いる。月極4000円以上でかつ、同額程度の広告収入が入るため、日経を定期購読している読者は、毎月、一社員に対して二円以上を支払い、この愚かな言論機関を支えているのである。

 かつて内定者が、形だけ社長に面会したことがあった。まず「○○大学○○学部○年、○○○○です」と言うように指導される。「君は他にどこに受かっていたんだね」。鶴田は、内定した学生たちに対して、ただそれだけを聞く。大企業の名前が挙がると、嬉しそうに「ほー、そうかね」。折角の機会なんだから、もっとましなこと聞けないのかね、と思ったものだ。学歴とか、蹴った大企業とか、そんなものしか興味がないのだ。学生としても、1つくらいまともな新聞社でもあればそこに集まるのだろうが、1つもないのが問題である。 

 以下、行動に移して欲しい。
  一般読者:週刊朝日を一応買い、「興味深いので第二弾をやってくれ」と投書し、新聞の定期購読をやめる。
  新聞社の社員:積極的に週刊誌に恐怖人事などの情報提供をする。
  週刊誌の記者:新聞社の情報統制と既得権の問題について取材に入る。
「週刊朝日」4/27


「OhmyNewsの衝撃」 2001.4.15

 昼のFNNニュースで韓国のインターネット新聞「OhmyNews」が取上げられていた。昨年オープンしたばかりだが、現在は4人の常駐スタッフと、「ニュースゲリラ」と呼ばれる市民記者1万1千人で構成。市民がバンバン現場から写真と一緒に報告してくる記事が受けて、1日に14万件のアクセスがあり、同ニュースのなかでは「韓国で影響力のあるメディアで1位にランクされている」とのこと。「高速インターネットの普及がアジアで最も進んでいるため」とも解説されている。実際にサイトを見てみると、ハングルを読めなくても画像だけでワクワクさせられる。
 
 なぜ日本にはないのか。一つの原因は日本の無能政治により通信環境が余りにも遅れていることにある。ただ、それが今後、追い付いたとして、果たしてこのようなサイトが発達するのか。私は、『時代』的に、これほどまでにアツいサイトにはならないと思う。韓国は今、日本における60年安保の時代の真っ最中なのだ。そこに権力の検閲を受けないインターネットという最適なツールが、たまたまあった。韓国政府は国策として情報通信環境を高速化して普及させた結果、思いがけず権力を監視するツールを国民に与えてしまったということだろう。皮肉なものである。

 日本に、あの『若者が若者らしく行動するのが当たり前』だった時代が再来することは考えられない。自分が経験したからわかるが、大学生の政治や権力に対するシラケぶりは救いようがない。しかし日本でも市民運動・NPO活動は着実に盛り上がりつつあり、こうした市民セクターの成長こそ、日本の民主主義の成熟であり、不可逆的な歴史の流れだ。しかも、日本には不幸なことに、『大本営発表紙』だった戦前から存続している権力の広報新聞しかない。OhmyNewsよりも落ち着いた形で、ネット新聞は確実に市民の側に立った媒体として成立するだけのニーズは間違いなくある。

 http://ohmynews.com/を是非見て欲しい。そして、ハングルが分かる方、ニュースの「分け方」(政治、経済、社会、、、)だけでも訳して貰えないだろうか。また、同サイトについての関連情報を知っている方、情報提供を頼みます。


「人権を守るインターネット」 2001.4.10

 司法改革市民会議の高見澤事務局長がこう述べている。「中間報告でも『被疑者の自白を過度に重視する余り、その取調べが適正さを欠く事例が実際に存在することを否定できない』と指摘しています。ところが、先進国では被疑者の当然の権利とされている『取調べ状況の録音、録画や弁護人の取調べへの立会い』については、そのような意見があったことを認めながら、『被疑者の取り調べの機能の捉え方や重点の置き方の違いから、それらに消極的な意見もあり、結論を得るにいたっていない』ということで、これも実現しそうにありません。」(「週刊金曜日/貧困なる精神136」より)

 取り調べ状況が録音できない理由は明らかで、本多氏が言うように「自白の強要に邪魔なのでしょうが、これでは冤罪はなくなりませんね」という訳である。こういった重要な論点を、マスコミは全くといって良いほど報道しない。権力と癒着している上に、そもそも予防的視点がないからだろう。

 「日本の黒い夏」でも自白を強要する場面が描かれている。録音されていることが分かっていれば、「おまえがやったんだろう!」と声を荒げる人権無視の取調べはなくなるはずだ。

 録音の重要性は私も身を持って体験している。法務室からヤクザのような話し方と態度をする人間が来て、「おまえが悪いんだろう!懲戒免職か、依願退社か、どちらかにしろ!」と夜中の2時まで、3:1で、12時間も延々と追い詰められた。自白の強要そのものだ。あの場面を録音さえしておけば、今ごろ日経など潰れているのに、と悔やまれてならない。一生の後悔だ。

 96年、東芝のひどい顧客対応を録音した消費者が、音声をHPで公開したことにより、東芝の副社長がマスコミの前で謝罪した事件は記憶に新しい。セクハラでも何でも使えるが、とにかく
権力の横暴から一市民が身を守るために、録音によって証拠を残すことは決定的に重要だ。それは裁判で証拠として認められなくても、HPで公開することにより同等以上の威力を発揮するからだ。インターネットは使い方次第で、人権を守る正義のツールになり得るのである。
日本の黒い夏」 2001.4.8


 松本サリン事件(94年6月)の冤罪報道の過程を、テレビ報道を中心に描いた同作品を観た。弱者の視点だとこう見えるのか、というのがよくわかる。個人的には、新聞報道を中心に描いたものこそ観たい。なぜなら、圧倒的なマンパワーを持つ新聞がテレビ報道をリードしているのが実態だからだ。テレビ側を中心に描いても、本質は見えない。

 あの冤罪報道は、まさに日本の新聞社の取材方法の本質的な欠陥を露呈したものだった。つまり、日常的な警察幹部などへの夜回りによる、記者と警察の癒着・馴れ合いである。冤罪を生んだ誤報は、記者が東京(警視庁)での夜回りで得た不確かな情報が長野に伝播したことが最大の原因だった。

 警察は自分達が犯人だと思い込んでいる容疑者を逮捕しやすいように、警察に都合の良い情報を新聞に書かせることで既成事実化したいのだ。公式に発表すると、嘘だった場合に責任を取らされる。そこで夜、官舎の前で記者にリークする。両者の間には、取材源を明らかにしないで書くという暗黙の了解(=癒着)があるから、両者とも責任をとらなくて良い。新聞社は、いくら情報の真偽を問われても、「取材源の秘匿」というジャーナリズムと正反対の勘違いな論理を掲げて説明しない。嘘を知らされている読者も、文句を言わず平気で毎月、定額料金を納める。

 世界のジャーナリズムの常識では取材源の明示こそ原則だが、日本は取材先が警察のような「権力」そのものであろうが、取材源の秘匿が原則。これがいかに悪どいことか。秘匿することで、情報提供者も取材した記者も、責任を逃れてしまう。

「誰がそんなことを言ったんだ。嘘だ!その人に会わせてくれ!」河野義行さんは映画の中で、でっちあげ情報に対して何度も叫ぶ。それでも、新聞の読者が毎月カネを支払っているうちは、何も変わることはない。新聞の経営者は何も困らないので、今でも日常的な夜回り取材を記者に義務付け、情報源を秘匿して報じている。冤罪が判明した後も、何も本質的な反省はせず、変わっていないのだ。この映画を観て、よく考えて欲しい。新聞を月極購読するということは、人権を蹂躙する行為に加担しているのだ、ということを。

「雨」 2001.3.31


 世田谷文学館(東京都世田谷区)の「沢木耕太郎の旅展」に足を運んだ。ノートや手紙などを熱心に読む客が多く、悪天候の割に、かなりの混雑ぶりだった。 沢木の弱者起点の文章は実にジャーナリスティックで、私の心を捉える。そんな文章が出来上がるプロセスを少しでも知りたかった。

 日々書き連ねた「旅のノート」と知人宛の手紙、そして「旅の感想ノート」が、深夜特急連載用ノートに変わり、原稿用紙に変わって行く。原稿も四回推敲され、その度に「ユーラシアをバスに乗って」「ユーラシアを駄馬に乗って」「深夜特急」と題名が変わり、主語も「僕」から「私」に変わる。10年後にサンケイ新聞で連載が始まるまで、実に6段のステップがある訳である。ワープロのない時代の、何とも手間のかかった作業には感心するばかりだ。なかでも、日々のスケジュールと金銭出納、場面ごとに感じたことを、いかに緻密に「旅のノート」に記すかが重要に思えた。それにしても字が綺麗で、繊細でマメな人である。
 
 今日は雨。沢木の文章のなかで気に入っているところを思い出した。
「なぜたった1日で会社を辞めてしまったのか。理由を訊ねられると、雨のせいだ、といつも答えていた。私は雨の感触が好きだった。雨に濡れて歩くのが好きだったのだ。雨の冷たさはいつでも気持ちよかったし、濡れて困るような洋服は着たことがなかった。ところが、その入社の日は、ちょうど梅雨どきであり、数日前から長雨が降り続いていた。そして私の格好といえば、着たこともないグレーのスーツに黒い靴を履き、しかも傘を手にしているのだ。よほどの大雨でもないかぎり傘など持ったこともないというのに、今日は洋服が濡れないようにと傘をさしている。丸の内のオフィス街に向かって、東京駅から中央郵便局に向かう信号を、傘をさし黙々と歩むサラリーマンの流れに身を任せて渡っているうちに、やはり会社に入るのはやめようと思ったのだ、と。この話に嘘はない。」(「深夜特急2マレー半島・シンガポール」
 ちなみに、私も濡れて歩くのは嫌いではないし、現在、傘は持っていない。自由な気がするからだ。

「無法地帯」 2001.3.29

 「『日本の会社の中では憲法は及ばない』と評論家の佐高信氏は断言するが、そのとおりで、この国の賃金労働者には自由がない。メディアも例外ではないのだ」。浅野健一教授は「新聞記者を辞めたくなったときの本」(編者・北村肇)のなかでそう述べている。その通りだと思う。(特に若手記者は奴隷そのものだ)

 日本国憲法によると、
「第十三条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

「第二十一条【集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密】 1集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

 私は公共の福祉に反していないばかりか、記者クラブや癒着等の権力に関する事実を知らせることによって、公共の福祉に貢献した。勿論、全くプライバシーに関する事実を公開したこともないので、これは当然、保障されるべき表現の自由としか言いようのないものである。

 要するに、会社は憲法違反を平気でやってのけたことになる。それにしても、民主主義国において憲法が及ばない無法地帯が存在することは、考えてみれば恐ろしいことだ。こうなってしまった原因の1つは、従業員が戦ってこなかったために、司法が機能していないためだろう。戦わないから、会社は従業員をみくびり、どうせ憲法違反をしたって司法に訴えないだろう、とタカをくくっている。

 しかし、それでは法治国家は機能しないのだ。憲法の条文の個別具体的な定義は、裁判の結果である判例が積み重なることでしか明確化しない。誰かが争い、線を引いて行かないならば、法を守らぬ会社の思う壷なのである。

 公共の福祉とは何か、表現の自由とは何か。憲法にまた1つの細かい定義を加える裁判が、5月8日の午前10時30分(第1回期日)、東京地裁の7階710号法廷で始まる。


「テレビCM タブー」 2001.3.26

 民主党のCMが、自民党の圧力を気にしたテレビ局(日テレ、テレ朝)によって修正された。自主規制である。テレビの力は大きいので、これは有権者の重要な判断材料を失いかねない深刻な問題だ。私は民主党政治家ら、ほうぼうにメールで働きかけた。「民主党は、少なくともホームページでこの経緯を説明するべきだと思います。それとも、テレビ局、マスコミに対して、何も言えないのでしょうか?そんな政党なら、自民党と同じです」

 一部で反応があった。「表現の自由を重んじるマスコミが、他者の表現の自由に対して、表現の中身が誤っていないのにクレームをつけることは問題があると思いますので、修正前CMと修正後のCM双方をホームページに載せることを検討中です」

 そして現在、民主党ホームページ(http://www.dpj.or.jp/)で修正前と修正後のCMを見比べられるようになっている。テレビ局の利権や権力(=自民党)との癒着に関するニュースは、親会社の新聞がタブー視するため、日刊ゲンダイのようなタブロイド紙くらいしか書かない(そもそも権力の広報紙である日経は論外で最初から書く気がない)。いきおい、有権者の監視の眼と行動力が重要になる。

 今回のCM自主規制事件でもわかるように、大新聞やテレビを見ていても、ジャーナリスティックな(権力を監視する)ニュースは知ることができない。逆に権力に洗脳されるだけである。それでもあなたは新聞を定期購読して権力を支えるのですか。


「JR タブー」 2001.3.25

 午後6時過ぎ。ある人里離れた新幹線の駅で、手持ちの現金がないことに気付いた。しかし、東京に帰らねばならない。田舎だから、既に銀行のCDは閉まっている。「みどりの窓口」は開いているが、普通のクレジットカードは絶対に使えない。使えるのは「VIEWカード」というJR東日本が発行する特殊なカードだけだ。クレジットカードで現金を借りようとしたが、キャッシングマシーンもない。ちなみに、VIEWカードだけ使えるというキャッシングマシーンはあるから頭に来る。

 さて、どうするか?選択枝としては、1.隣の少し大きめの駅まで行く分のカネはあるので、取りあえず隣の駅まで行き、そこで降りてキャッシングマシーンを探す。2.悪いのは公共の地位を利用して自社カードを押し付けようとするJRなのだから、抗議運動の意味も込め、とにかく乗って到着地で精算させる。VISAとMASTERのクレジットカードがあるのに、それで切符を買えないのがおかしい。

 結局、後者を選び、「急いでるから社内で精算する」と言ってとりあえず乗ることにした。車内で、クレジットカードを見せてどうどうと言えばいいのである。「民間ではタクシーでもレストランでもカードが使えるけど、公共の交通機関であるJRでどうして使えないのか。新幹線なんて金額が高いんだから使えるようにしてくれないと困る。利用者のことを考えよ。CDがある東京駅で精算させて貰う」

 私は何度もこういった場面に遭い、憤慨している。調べてみたところ、「ビュー」の会員数は一九九九年度末で約百八十万人。会員数を増やすために他社カードを扱えないようにしている。しかし、年会費が五百円もかかる。これは客をバカにした行為で、社会に余計な負担を強いている。ちなみに新聞報道によれば、田中康夫長野県知事は昨年、運賃誤表示問題で謝罪に訪れたJR東日本の野崎哲夫長野支社長に対し、「クレジットカードを使える窓口を増やす」など三点を要求。NTT東日本にも「営業窓口の統合は性急」と申し入れるなど、公共性の高い企業に対して、県民の意を体してどんどん注文をつけている。こうした「当たり前のことを当たり前に言える長野県に」という政策が県民の心を掴んでいるのは間違いない。

 本来、こうした利用者の立場から独占権力の公共機関を監視するのはジャーナリズムの使命だ。しかし、そのような記事は、ついぞ見ない。新聞を見て出てくるのは、いつも発表モノの垂れ流しだ。最近の例で言えば、新大久保駅で泥酔客が原因で男性客三人が電車にはねられた事故が起きれば「JR東日本と東日本キヨスクは、山手線など二十四駅のホームにある売店で、酒類の販売を当面自粛すると発表した」。起きる前に警鐘を鳴らすといった事故予防的な記事は一切見あたらない。諫早湾の件もそうだが、マスコミはいつも手後れになってから騒ぐ。

 原因の1つは、このページでしつこく述べているように、規制(再販/宅配/記者クラブ)によって情報環境が固定化されていることだ。現状では、供給者(政/官/業)が発表(またはリーク)する情報ばかりが過剰に流れ、受益者(生活者/消費者/有権者/利用者)の視点による情報はほとんど流されない。

 もう1つ、この件に関するの重要な原因は、「JRタブー」である。九四年、「週刊文春」でJR東日本の労使関係を批判する連載があった際、JR東日本は「事実無根」としてキヨスクでの店頭販売を約一か月半にわたり拒否した。駅売り比率の高い雑誌は、JRを批判すると商業的に損失を被ることを再確認した。新聞も、特に日経のごとき最も駅売り比率の高い新聞はタブー視せざるを得ない。JRのCMがバンバン流れるテレビ局などは企業の奴隷だ。それならばと、例えば「週刊金曜日」等は駅売りをしないのだから、JRを徹底批判するコーナーを常時設置するなどして他メディアとの差別化を図れば良いのだが、それもやっていない。東京には田中康夫的な政治家もいない。最後の手段が、こうしてネットで情報共有することであり、利用者個人の立場で私のように抗議運動をすることなのである。

「News Release」  2001.3.21

 以下を、ファクスにて一部メディアに流した。大多数派を形成する新聞社系列には流さないので、反応は少ないだろう。

2001年3月21日
 21日(水)午後、日本経済新聞社を相手取った民事訴訟の提訴を行いますのでお知らせ致します。日本の新聞業界は記者クラブ等を通して仲間意識が強く相互批判をしないため、本プレスリリースは、非新聞社系列の各誌を中心に流しています。 

 本件は、日経新聞に3年半ほど在籍した記者が、在籍中に、記者クラブ問題や企業との癒着の問題等について個人のインターネットホームページ上で論じたがために、それを権力で封じ込めようとする会社側と対立し出勤停止処分となった件について、処分の無効と取消し等を求めるものです。

 本件の意義は、日本の新聞業界が旧態依然としている原因の一端を明らかにできる点にあると考えます。なぜ日本には戦前から存続する新聞社しか存在せず新規参入がないのか。なぜ旧態依然とした『大本営発表モノ』の記事ばかりで、権力を監視する役目を果たせないのか。社内に言論の自由がなく、人事権などで情報が完全に統制され、問題点が社外の監視の眼にさらされないからです。これが言論の自由を守るべき「言論・報道機関」として不健全であることは言うまでもありません。

 問題の性質上、週刊誌などは面白おかしく取り上げる可能性がありますが、これは単なる醜聞ではなく、日本の新聞業界がいかにジャーナリズムと正反対の存在なのかを明らかにする、重い課題を背負っています。是非、真面目に報じ、論じて広く議論の対象となるよう協力していただきたいと存じます。(勿論、司法記者クラブといった壊されねばならないシステムを通して発表するつもりはありません)

 訴状や争点、経緯等は以下URLに掲載しておりますので、ご確認下さい。


「新聞を定期購読すること=自民党に投票すること」  2001.3.6

 内閣不信任案は、あっけなく否決された。あれだけ「辞めろ」と公言している与党議員達が、しゃあしゃあと信任票を入れる。酒場で会社や上司の裏口はさんざん叩くが、いざとなると行動に移せないサラリーマン記者たちにソックリだ。本音と建前を見事に使い分ける。彼等にプライドはないのだろうか。

 新人記者時代、よく「大人になれ」などと言われたものだが、その意味は、「長いものには巻かれてろ」とか「正義を捨てて実をとれ」とか、要するに「プライドを捨てて生きよ」ということにしか、聞こえなかった。今聞かれても、同じように聞こえるだろう。おかしいものはおかしい、と言えないような新聞記者にどんな存在価値があると言うのか。公の場で行動に移せず、何も改革できない国会議員に、どんな価値があるのか。

 新聞社でも、社内から改革を訴える人はいる。しかし、それは森を信任する石原伸晃であり、小泉純一郎なのである。彼等がいくら「解党的出直し」などと党内から訴えようが、何も変わりようがないし、実際に変わっていない。それは、本音と建前を使い分ける「大人」らしい、程度をわきまえた戦いに過ぎず、本当の意味では戦っていないからだ。現実が変わっていない、という事実こそ正しい。それは、客観的な外部の眼からは「ガス抜き」にしか映らない。

 それでも、多くの「大人」の議員は、まだ本音では国民の「森辞めろコール」のほうが正しいと思っているだけ、ましである。私は、背筋が凍る思いを何度もした。それは、新聞社の上司が 平気で権力との癒着や利権を正当化するのを聞いている時であり、それを批判する記者の言論の自由を平気で奪う時であった。最低限の善悪の区別が付かないほどに、洗脳されているのだ。森は、自分がいかに国益に反する人間かを理解できないくらい麻痺しているが、今の大新聞の幹部も、同じ状態ということだ。どうやら、「信任されたと考えている」と平気で発言する森と同じくらい、「本音でも」自らが悪いことをしていると気付かないのである。こういった本当の「悪」が、残念ながら今の体制、今の権力構造の上層部を占めている。

 更に有権者は、その体制を、選挙で自民党に投票することで支え、新聞を定期購読することで支えている。自らにダメージを与える負の構造を、自ら支えていることに気付いていない。暗たんたる気持ちになる。

 
上層部の「悪」が、多数の「本音と建前を使い分ける『大人』たち」を支配し、無知な民衆がそれを支える。残念ながら、新聞社であろうが国会であろうが、それがこの国の構造なのである。今の『体制』が推奨する「大人」にならず、健全な「子供」のままでいることが、いかに大切か。私はいつまでも、「王様は裸だ」とはっきり言える健全な子供でいたい。今日の国会が象徴するような、息苦しい腐敗した大人社会を、信任する訳にはいかない。公の場である裁判に訴える意義は、そこにある。


「日経新聞は『報道』機関なのか?」     2001.2.26

蒙昧な日経信者に贈る「日本経済新聞」研究
 −それでもアナタは日経を信じますか?    
   日経の倒産危機を知っていますか?
   日経グループデータコラム集
   日経記者はジャーナリストにあらず
   それでも人は日経を読み続ける 
 以上が、サイゾー3月号の見出しである。朝日がマスコミ権力の象徴として批判の対象となり易いのに対し、日経は経済中心のデータ集のようなものだと思われており、スキャンダルが雑誌等で問題にされることも少ない。しかし、それは情報が外に流れないような完全な情報統制が為されているからだ。情報統制は、2つの手段によって担保されている。

 1つは、『洗脳』である。新卒一括採用の終身雇用制度を未だに維持している(勿論、規制に守られているからだが)うえに、政治・経済・思想的に相対的に洗練度の低い文学部卒が多く、更に1年目から奴隷のような生活で同じカルチャーの中での生活を強いられるため、相当に強い信念と『自分を持っている』人間でもない限り、普通は神経が麻痺して、洗脳されてしまう。

 2つめは、『徹底的な言論弾圧』である。入社したが最後、何ひとつ言論の自由はない。普通の人は、これだけおかしな体質を持った会社や不合理な仕組み、記者クラブなどを通した権力との癒着体質を目の当たりにすれば、良心に従って少なくとも言うべきことを言いたくなる。報道機関に所属する者なら、なおさらだ。それは、記者本来の使命を考えれば、当然保証されるべき権利であり、義務でさえある。しかし、それは金儲け第一主義の株式会社のなかでは、排除の対象にしかならない。

 「報道機関」などという立派な称号は全く日経の実態を表していない。「報道機関」という言葉は、「ジャーナリズム」を連想してしまうからだ。日経は、報道機関という地位を利用し、権力と癒着して権力サイドの情報を垂れ流すという、ジャーナリズムとは正反対の目的を追求することで悪銭を貪る恥ずべき企業である。むしろ、日刊情報紙を発行する情報産業、規制に守られた悪質な『宗教組織』に近い。

 ゼネコンや銀行、流通業界でさえ規制緩和で淘汰が始まっているのに、新聞社だけが権力と癒着して異常な高収益を維持している。そして、新聞を定期購読する無知な民衆が、それを支えている。なんと愚かな国だろうか!         

http://www.ultracyzo.com/cyzo/index.html


「『良心の宣誓』が法制化されている国」     2001.2.16

 最近、浅野健一教授のHPを見て新しい発見があった。

>>フランスでは編集方針に合わない記者は、次の勤務先を探すための
>>資金をもらえる「良心の宣誓」が法律で認められている。一種の良
>>心的兵役拒否だ。「ル・モンド」では投票で社長を選ぶ。「女房・
>>子供が病気でも、夜討ち朝駆けなんのその、男新聞記者は今日も行
>>く」(黒田清氏)などという古い感覚を捨てるべきだ。サツ記者は女
>>性にはできないというオジサンがいるが、今の非人間的な仕事は、
>>「人間」にはできないのだ。

 http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2001/takamatsu2.html

 フランスは、人権という点ではホントに先進的な国だとつくづく思う。
新聞社に税金が投入されているという話もどこかで読んだ。公の役割を担う企業(=市場原理に馴染まない)なんだから、公的資金が使われるのは当然だという論理は説得力がある。カネは出すが、口は出さない。それでいい。私は、フランスに生まれるべきだった。

 日本では、まともな良心を持っていたら、とてもやっていけない。なかには、妥協に妥協を重ねて、自分に言い聞かせて頑張っている人もいるが、外部から客観的な眼で見たら、それは多くの場合、同じ穴のムジナだ。抵抗している分よりも、妥協した分の方が圧倒的に大きいからだ。結局、同じ権力の内部で甘い汁を吸っている仲間なのである。いくら社内で「このくらいなら言ってもいいかな」と社内の空気を伺いながら頑張って主張しても、それは焼け石に水でしかない。問題の本質を論じた瞬間、私のように処分の対象になるのだ。自分は魂を売り払わなくて、本当に良かったと思う。(勿論、社内で頑張っている人は、他の社畜社員よりはるかに偉いし、個人的には尊敬するが)

 フランスのような「良心的兵役拒否」など、日本の新聞社にはあり得ない。新聞社の旧日本軍的体質に関してはあまり知られていないが、記者を「兵隊」と呼び「全舷」(海軍用語で「一斉引揚げ」を意味する)と呼ぶ社員旅行(全員強制参加)を戦前から続けているカルチャー、上官の命令は絶対という年次主義の徹底などを考えても、絶望的である。そもそも、現存する大手新聞社は全て、戦前から存続し、大本営発表を垂れ流して来た前科がある訳だが、こうした軍隊用語を半世紀過ぎた今でもわざわざ使い続けている事実や、森田前社長自らリクルート株収賄で8000万円をかすめた事実などからも、権力との癒着を反省していないことは疑いがない。新聞を読む時は、良心の自由がない、そして多くは洗脳されている「軍人」が書いているのだ、ということを常に念頭に置くべきである。

 結局、悪魔と契約を結ぶか、そもそも良心など捨てる(=割り切る、妥協する)ことが、日本において新聞記者として順調に出世する不可欠な要素となる。人事権を盾に口頭でひとこと命令すれば、平気で個人のHPを全面閉鎖させることができる、と考えているのが日本の新聞社だ。表現の自由といった人権など、考えたこともない人間が、平気で新聞社の管理者になってしまう。

 そもそも、良心などより「世間」「権力」「体制」に従うことこそ正義、という空気が支配的なこの国においては、フランスのような「良心の宣誓」を法制化しよう、などという話は、議論の対象にもならないのだろう。お先、真っ暗だ。英国の「インディペンデント」、韓国の「ハンギョレ」、米国の「USA TODAY」と、戦後、各国で創刊され影響力を保っている例は沢山ある。新しい新聞が、日本ほど必要な国はない。


「政治的に正しくない視点」     2001.2.02

 JALのニアミス事故は、降下の指示を、便名を間違えて行ったことが問題であることがわかってきた。指示を出したのは経験3年目の訓練生である男性管制官(26)で、指導していたのは経験10年目の女性管制官(32)。訓練生に責任を負わせるのは無理があるので、やはり最大の問題は、女性管制官ということになる。彼女は、訓練生のミスを見過ごしただけでなく、機名を間違えたり降下の高度位置を省略するなど、単純なミスを連発し、あわや大惨事、の状況へ導いた。

 新聞によると、907便の渡辺機長は「私たちは、間一髪で乗客を助けた。管制の指示に従っていたら、海のもくずと消えていたと思う」と話している。自己弁護分を除いても、やはり管制ミスの批判は免れない。

 「話を聞かない男、地図を読めない女」という本が昨年、ベストセラーになった。その中に興味深いデータが載っている。「オーストラリア、ニュージーランド、イギリスのデータを集計すると、パイロットの99%超が男で、航空管制官の94%(1360人中1274人)が男」。これは、男が空間能力に優れているためで、「男の脳を調べると、空間能力をつかさどる部分が右脳に少なくとも4箇所ある」のに対し女は明確な部分がない。逆に女は左右の脳をつなぐ「脳梁」と呼ばれる神経線維の束が太いため、関連のない作業を同時にいくつもこなせ直感が鋭く、教職、上演技術、人材育成、文学などで優れた能力を発揮する。管制官の94%という数字は、おそらく日本でも大差ないだろうが、残り6%でしかない女性が当事者だったのは、確率論から言っても偶然とは思えない。

 もう6年前になるが、「政治的に正しいおとぎ話」を楽しく読んだ。コメディアンが書いたものだが、米国でベストセラーになった。例えば「赤ずきん」の最後。「赤ずきんは叫びました。『この性差別者!種差別者!男の手助けがなければ、女やオオカミは自分たちの問題を解決できないとでも思っているのですか!』赤ずきんの熱烈な演説を聞きつけたおばあさんは、感動してオオカミの口の中から飛び出し、木を切り倒す人のオノを取り上げ、彼の首を切り落としました。この試練を経て、赤ずきんとオオカミは、たがいのあいだに共通する、ひとつの確かな目標を見出しました。彼らは、相互の尊敬と協力に基づいたもうひとつの生活体(altanative household)の設立を決め、それからずっと、森の中でいっしょに幸せに暮らしました。」

 そんな時代だからこそ、すぐに問題にされそうだが、空間能力がない女性が管制官をやるのはどうしたものか、という論調があっても良いのではないか。それは、医学的に解明されなかった時代ではどうにもならないが、今となっては、喫緊の対応が必要なのではないか。これは差別ではない。誰かが言い出しても良さそうなものだ。

 昔、航空機事故を取材したことがあるが、新聞社というのは本当にどうでもいいことしか報じようとしない。いつも決まりきった単一の視点である。当局の発表垂れ流しと、被害者や遺族の声。読む前から検討がつく。遺族は悲しいに決まっているのだ。新しい視点や批判を受けそうな論調は全て自粛。無難にまとめ、戦うことをしない。しかしそれは、ジャーナリズムの放棄だ。 だから新聞はつまらない。

 命に関わる問題である以上、リスクは計り知れなく大きい。医学的な証拠が見つかってきた現状では、「管制官は女性不適切」もありだろう。ジャーナリズムは聖域を作らず、真面目に問題提起すべきだ。そんなことを考えているのは、私だけかも知れないが、、、。


「『自動車絶望工場』で作られた車に乗りたいか」  2001.1.10

 車を買う時、悩んだ。製造過程の労力や部品の材質に至るまで、納得のいくものを買いたかった。企業のホームページで見ても企業側の言い分はなく、情報公開は為されていなかった。 製造されている工場の国や場所はセールスマンが知っていたが、彼等はデザイナーがフェラーリと同じだということは聞かなくても答えたが、環境にどう配慮された車なのかや、人体に有害とされる物質についてや、工場での労働実体については、知っているはずもなかった。日本というチープな消費者ばかりのマーケットではそれで十分なのだろう。

 鎌田慧氏が工場の期間工になりすまして潜入取材した「自動車絶望工場」は、『体験する』取材によって、コンベア労働のシジフォス的単調さをスクープした。今でも、世界のどこか、特にいわゆる発展途上国では、絶望的な労働者によって車が生産されているはずである。その車が日本に輸出され、我々はその車を買うかも知れない。消費者は購入することによって、人を絶望させる活動に事実上、加担している訳で、普通の人間の感情としては、あまり気持ちの良いものではない。

 問題は、こうした生活者や消費者の立場から知りたい情報については、調べようがないことだ。情報がない。どこにアクセスしたら分かるのかも分からない。手段がない。車の雑誌は自動車メーカーの広告まみれで、商業主義に汚染されている。

 仕方がないから、「プジョー」を選んだ。私の知る限り、フランスは環境問題に対する意識が高い。特に生活環境に関しては、人体に影響のある有害物に対する規制が迅速で厳しく、明らかに企業の利益を優先している日本とは天と地ほどの違いがある。また、個が確立されていて、人権に対する意識も高い。ミッテラン大統領に隠し子が見つかっても、プライバシーの問題だから、日本や米国のマスコミのような騒ぎ方はしなかったそうだ。18世紀、民主革命の先進地でもある。そういったブランドイメージがあるから、私は燃費が悪くてもプジョーにした。あまり機能的な基準では選んでいない。生活者的な基準、思想的な基準からである。

 私の場合、少なくとも日本企業よりはましなはずだと思った訳だが、正確な情報があれば欲しいし、情報があれば他の車を買ったかもしれない。とにかく情報環境に不足感がある。

 現在、圧倒的な支持を得ているユニクロにしても、中国で、「女工哀史」のような人権無視の世界で作られたものだということがわかったとしたら、どれだけの人が支持するだろうか。買わない人も出てくるはずだ。単に、そういう情報がないだけである。

 最近、味の素のインドネシア現地法人が調味料の製造過程で、イスラム教徒が摂取を禁じられている豚の成分を使用し、日本人の技術部長が消費者保護法違反容疑で逮捕された。日本人は消費者・生活者に対する意識が低いからこういう事件を起こす。

 英国BBCだったと思うが、「汚れたトマト」というTV番組があった。イタリア料理で使用するソースの原料として大量のトマトが使われるが、その収穫時に、違法な移民を使った低賃金の奴隷のような労働実体があることを報じた番組だった。日本ではこの類の番組は御法度である。見たことがない。しかし、築地の魚市場にでも行けば、一見、日本人と見間違える中国人などの違法な労働者がエビの皮剥きなどの単調労働に勤しんでいる実体は一目でわかる。要するに、日本に消費者意識が育たず、「不買運動」も起きないのは、商業主義のマスコミが「伝えない」という情報操作をしているからだ。

 消費者サイドの情報を伝える役割を担うのは、本来、企業と直接の利害関係がない純粋な民間セクターである。例えばNGOの「グローバル・ビレッジ」は、フェア・トレードのチョコレートを薦めている。チョコレートは、主原料となるカカオと砂糖がプランテーションなど大規模農園で主に生産しているが、労働者は低賃金で働かされ、農薬汚染に悩まされているという。そんな情報は日本では取得できない。それをあざ笑うかのように、TVのCMでは必要以上に華美に包装された「完成物」を、アイドルが満面の笑みでかじるのである。

 本多勝一氏は、「コクドがどういったことをしているのか、西武ファンは考えて欲しい」と訴えたことがある。長野で巧妙な環境破壊を行うコクドを、間接的に支援していることになるからだ。しかし、日本にそこまで理解できる賢い消費者は少ない。しかし、企業をチェックするためには消費者の購買行動が最も重要であり、それを左右するのはやはり情報環境なのである。

 かつて、スーパーモデルのナオミ・キャンベルが、「裸の方がまし」と毛皮反対を訴えていていたことがあった。 動物愛護家が激しい反対運動を繰り広げ、売り上げも低迷していた。欧州では、動物愛護団体が「すべての動物は解放されなければならない」として、水族館や動物園、大学、ファストフード店などに対する脅迫行動を行うまで過激化している。しかし、日本ではこの種の活動はほとんどなく、あっても知られていない。新聞が企業の広告にまみれ、一方でNPOも育っていないために、行動に移すための情報がないのである。

 あるNPOのホームページでは、何匹かの可愛い動物の赤ちゃんの写真とともに「これは毒ガスをかがせ、棍棒で叩き、電気ショックで殺す前の毛皮の姿です」という文章が掲げられていた。果たして、消費者は、それでも毛皮を買うのだろうか。単に、情報がないだけだろう。

 しつこいようだが、日本には完成品の情報は溢れているが、プロセスの情報、背景の情報がない。これまでチープだった消費者も、情報を欲している。隠された現実を知りたいという意識が芽生えている。少なくとも、食品や化粧品の安全性については、「買ってはいけない」を購入した190万以上の人間が、それを証明したのである。


「制度は人を変えるのか-1」 2001.1.4

 日韓連合対世界選抜の、「アクセンチュア・ドリームサッカー」。そこそこの顔ぶれの割に、空席が目立っていた。 どんなに「本気でやります」と選手本人が主張しようが、結局、試合全体がアクセンチュアのコマーシャルに見えてしまうし、国を背負った戦いでもないことも明白で、観客もそれら背景を良く知っているから熱狂しないのである。客は本気のプレーにカネを払うのだ。

 同様に、既存の新聞社がどんなにジャーナリズムを主張しても、記者個人がどんなにジャーナリスティックな人間だとしても、「どうせ広告収入が半分なんだから、批判的なことを書ける訳ないだろ」と思われるのはやむを得ないし、実際、それを裏付けるかのように企業批判を積極的に紙面で展開することはできていない。できない構造になっているのである。記者個人がどう頑張ろうが、どうにもならない構造の問題、背景の問題、基盤の問題なのだ。構造的に、広告収入で生計を立てているテレビは、それを証明するかのように、もっと質が低く、どこまでがCMなのか区別が付かない番組ばかりである。

 これらから間違いなく言えることは、個人個人の意識や理念の問題ではどうにもならない問題がある、ということだ。問題は、システムであり、フィールドであり、インフラにあるのである。

 制度は人を変えられるか。私は変えられると思う。サッカーがここ五年程度の間に、視聴率のトップを争うような人気スポーツになったのは、Jリーグという「制度」が出来たからである。それまでは、サッカーには夢がなかった。成功しても野球のような高額な年俸も貰えないし、世界と比べレベルが低かった。サッカーに対し情熱を燃やす人は、日本にいてもダメだと考え、例えばカズはブラジルへ渡った。しかし、プロリーグという制度が発足したために、サッカー人口は増え、国民全体のサッカーに対する意識を変化させた。サッカーは夢のあるスポーツになった。

 ここで、私が対比しているものを明確にしよう。「サッカー」は「新聞」である。どちらも、国民にとって根源的な魅力を持っている。それでは「Jリーグ」にあたるものは何か?「企業からの広告収入が半分を占めない、別の収入構造を持つ新聞社」が1つの答えであろう。新聞ジャーナリズムは、本来、民主主義に不可欠であり、エキサイティングで面白く夢のある世界であるはずだ。それを開花させる基盤、インフラ、システムを構築しなければならない。国民全体の新聞ジャーナリズムに対する意識を変化させ、夢のある世界にするために。


「賢明な消費者を育てる方法」 2001.1.2

 『新春大売り出し』とかで、家電量販店がけたたましくCMを流している。なんと、ビデオデッキが5千円だそうだ。こういうのを見ていると、全くもどかしくなる。5千円で買えてしまったものなど、すぐに捨てられるだろう。新しく安いものが発売されれば、鉄のゴミとなる。そのうちのいくつかは不法投棄されるだろう。

 4月から施行される家電リサイクル法では、冷蔵庫、テレビ、洗濯機、エアコンの四品目に限ってメーカーに自社製品の回収・再商品化を義務づけられたが、ビデオデッキは対象外という訳である。4品目が選ばれた理由は、「利用可能な資源を多く含み、小売店による配達が行われているため回収も行いやすい」のだそうだ。それなら、AV機器だって似たようなもの。この後手後手の行政は、何とかならないか。

 こうした家電量販店や家電メーカーは、新聞社やテレビ局にとって、重要なお客であって、広告収入を無視できないから、新聞もテレビも、言い訳程度にしか批判報道をしない。できない構造にある。こうして地球環境の悪化に歯止めがかからないのである。ここで欠けているものは明らかで、要するに、生活者の視点、環境問題の視点からジャーナリスティックに報道する媒体が必要なのである。メーカーでも量販店でも、環境に負荷をかけている企業を格付けして消費者に知らしめてやればいい。売上にひびくとなれば、少しは改善を考え始めるだろう。市民団体、環境団体がいくら地道に活動しても、残念ながら情報伝達環境の貧弱さが、努力に実を結ばせないのは残念である。

 広告は企業として必要だし、それは規制のなかで最大限、消費者にアピールするものでなければならない。そうなると、消費者側の見る姿勢が重要ということになる。

 「『では、どんな広告を望むのか?』大気汚染が進み交通事故が増えるなかで流される優雅な自動車のCMか。肺がん患者の苦しみの間にも続けられる美しいたばこの広告か。または…。トスカーニ氏は言う。『もうたくさんだ、そんな甘ったるいバカげた現代広告は』」(AERA)

 それでも「甘ったるいバカげた現代広告」が氾濫してしまうのは、やはり消費者がそれを受け入れているからだろう。しかし、消費者はそれを完全に容認している訳ではない。何かおかしいぞ、と薄々思っている。「買ってはいけない」が190万部超のベストセラーとなったのも、まさにそこにあるのではないか。企業は何かを隠しているのでは、実は儲けるために消費者を犠牲にしているのでは、危ない何かが潜んでいるのではないか、、、。生活者として、消費者として、防衛本能が情報を求めているのである。単に、それを満たす媒体がないだけだ。

 企業側が、それに気付き、ベネトンのCMを担当するトスカーニ氏のような人材を起用するのも良いだろう。しかし、根本的に重要なことは、消費者が求めている情報を満たす媒体を作り、賢明な消費者を育てることではないだろうか。


「ダメ演歌を聞かされる都市部の住民たちへ」 2000.12.31

 TVを見ていたら、浜崎あゆみの「SEASONS」がレコード大賞の作詞賞を受賞していた。選考過程の不透明さが賞の価値を下げていることが未だに理解できていないようだが、サザンの「TUNAMI」が大賞という結果だけ見れば結構、マトモになったものだ。浜崎あゆみのヒットの理由として「彼女自身による共感を呼ぶ作詞」を挙げる声がマスコミで騒がれていたが、確かに、SEASONSは琴線に触れるものがあり、年に数枚しかCDを買わない私で購入に走らせたのだから、自身の今年最大のヒット(136万枚)というのも頷ける。彼女の曲目を見てみると、「トラウマ」など、従来のスターにはあり得ないタイトルの曲があるのも驚きだ。私が高校生の頃、バブル期では、あり得ないことだった。尾崎豊のような伝統的な反骨のスタイルとは全く異なっている。まさに時代の申し子が生んだスターということだろう。

 しかし、こうした時代の変化などとはおかまいなしに、大晦日の歌番組は、演歌を実体の市場ニーズ以上に流しているように見える。特に、紅白を見ればわかるが、NHKは異常である。どうしてだろう、と考えてみれば、これは結構、日本の本質に関わる問題に突き当たる。つまり、「都市」対「農村」で一票の格差(衆院で3倍未満までOK、参院で6倍未満までOK)があり、農村が嫌に強い権力を握っている問題だ。多数を占める都市の住人は平均年令が若く、ヒット曲でもない演歌など聞きたくもない訳だが、少数派の農村住人のために、嫌でも流され聞かされるのだからたまらない。これが、「日本固有の文化を守るため」などという使命感からやっているのならわかるが、どうもそうとは思えない別の理由があると思う。

 要するにNHKは、受信料をちゃんと払ってくれる農村部の高齢者たちのために、全く売れていない演歌を流すのではないか。農村の人間はNHKの受信料を、疑いを持ってか持たずか、平気で払う。体制順応的だ。対して、都市の人間は私に代表されるように、批判的で、全く払う気さえない人も多い。理由がよくわからないし不公平な古いシステムだからだ。しかし、都市部の人間は政治力が弱い。2001年の参議院選挙では、最大で、東京の1票は鳥取の4.92分の1票しか影響力がないことが分かっている。ちなみに、米国下院では1.007倍でも違憲とされた判決がある。

 根幹にあるのは、「歪んだ旧システム」の問題ということである。それは「NHKの受信料システム」であり、「一票の格差を3倍や6倍まで平気で合憲としている最高裁判所というシステム」である。その裏には、既存の体制を少しでも改革したくない、役割を終えたにもかかわらず残して甘い汁を吸い続けたい、という権力が見え隠れする。いずれも、損をしているのは都市部の住民たちだ。我々は、損失を回避するために断固として受信料を支払わず、断固として一票の格差是正を求め選挙に行き、既存の利権構造を守ろうとしている農村政党、自民党の政治を破壊しなければならない。