「恐怖人事による統制」 2001.4.19
日経の恐怖人事が珍しくメディアに載った。もちろん私の例に及ばず、明るみに出ているのは氷山の一角に過ぎないが、情報統制が厳しいあの会社でも、さすがに紙面に名前が出ている編集委員となると隠し通せなかったのだろう。編集委員でさえこの有り様だから末端の記者やいかに、という1つの証である。(私もかつて取材を受けたことがあるが、「週刊朝日」は一応、ちゃんと取材はする媒体である)
この機会に、八千万円の賄賂を受け取って辞めた森田の時代から社内体質は変わっていないことや、それが業界全体の流れであること、その根本的な原因は、新聞を定期購読して経営を支えている愚かな読者達であることを、非新聞社系の雑誌がやるべきだと思う。
裸の王様(鶴田)とその部下たちは約4000人(社員数)いる。月極4000円以上でかつ、同額程度の広告収入が入るため、日経を定期購読している読者は、毎月、一社員に対して二円以上を支払い、この愚かな言論機関を支えているのである。
かつて内定者が、形だけ社長に面会したことがあった。まず「○○大学○○学部○年、○○○○です」と言うように指導される。「君は他にどこに受かっていたんだね」。鶴田は、内定した学生たちに対して、ただそれだけを聞く。大企業の名前が挙がると、嬉しそうに「ほー、そうかね」。折角の機会なんだから、もっとましなこと聞けないのかね、と思ったものだ。学歴とか、蹴った大企業とか、そんなものしか興味がないのだ。学生としても、1つくらいまともな新聞社でもあればそこに集まるのだろうが、1つもないのが問題である。
以下、行動に移して欲しい。
一般読者:週刊朝日を一応買い、「興味深いので第二弾をやってくれ」と投書し、新聞の定期購読をやめる。
新聞社の社員:積極的に週刊誌に恐怖人事などの情報提供をする。
週刊誌の記者:新聞社の情報統制と既得権の問題について取材に入る。「週刊朝日」4/27
日本に、あの『若者が若者らしく行動するのが当たり前』だった時代が再来することは考えられない。自分が経験したからわかるが、大学生の政治や権力に対するシラケぶりは救いようがない。しかし日本でも市民運動・NPO活動は着実に盛り上がりつつあり、こうした市民セクターの成長こそ、日本の民主主義の成熟であり、不可逆的な歴史の流れだ。しかも、日本には不幸なことに、『大本営発表紙』だった戦前から存続している権力の広報新聞しかない。OhmyNewsよりも落ち着いた形で、ネット新聞は確実に市民の側に立った媒体として成立するだけのニーズは間違いなくある。
http://ohmynews.com/を是非見て欲しい。そして、ハングルが分かる方、ニュースの「分け方」(政治、経済、社会、、、)だけでも訳して貰えないだろうか。また、同サイトについての関連情報を知っている方、情報提供を頼みます。
要するに、会社は憲法違反を平気でやってのけたことになる。それにしても、民主主義国において憲法が及ばない無法地帯が存在することは、考えてみれば恐ろしいことだ。こうなってしまった原因の1つは、従業員が戦ってこなかったために、司法が機能していないためだろう。戦わないから、会社は従業員をみくびり、どうせ憲法違反をしたって司法に訴えないだろう、とタカをくくっている。
しかし、それでは法治国家は機能しないのだ。憲法の条文の個別具体的な定義は、裁判の結果である判例が積み重なることでしか明確化しない。誰かが争い、線を引いて行かないならば、法を守らぬ会社の思う壷なのである。
公共の福祉とは何か、表現の自由とは何か。憲法にまた1つの細かい定義を加える裁判が、5月8日の午前10時30分(第1回期日)、東京地裁の7階710号法廷で始まる。
以下を、ファクスにて一部メディアに流した。大多数派を形成する新聞社系列には流さないので、反応は少ないだろう。
2001年3月21日
21日(水)午後、日本経済新聞社を相手取った民事訴訟の提訴を行いますのでお知らせ致します。日本の新聞業界は記者クラブ等を通して仲間意識が強く相互批判をしないため、本プレスリリースは、非新聞社系列の各誌を中心に流しています。
本件は、日経新聞に3年半ほど在籍した記者が、在籍中に、記者クラブ問題や企業との癒着の問題等について個人のインターネットホームページ上で論じたがために、それを権力で封じ込めようとする会社側と対立し出勤停止処分となった件について、処分の無効と取消し等を求めるものです。
本件の意義は、日本の新聞業界が旧態依然としている原因の一端を明らかにできる点にあると考えます。なぜ日本には戦前から存続する新聞社しか存在せず新規参入がないのか。なぜ旧態依然とした『大本営発表モノ』の記事ばかりで、権力を監視する役目を果たせないのか。社内に言論の自由がなく、人事権などで情報が完全に統制され、問題点が社外の監視の眼にさらされないからです。これが言論の自由を守るべき「言論・報道機関」として不健全であることは言うまでもありません。
問題の性質上、週刊誌などは面白おかしく取り上げる可能性がありますが、これは単なる醜聞ではなく、日本の新聞業界がいかにジャーナリズムと正反対の存在なのかを明らかにする、重い課題を背負っています。是非、真面目に報じ、論じて広く議論の対象となるよう協力していただきたいと存じます。(勿論、司法記者クラブといった壊されねばならないシステムを通して発表するつもりはありません)
訴状や争点、経緯等は以下URLに掲載しておりますので、ご確認下さい。
内閣不信任案は、あっけなく否決された。あれだけ「辞めろ」と公言している与党議員達が、しゃあしゃあと信任票を入れる。酒場で会社や上司の裏口はさんざん叩くが、いざとなると行動に移せないサラリーマン記者たちにソックリだ。本音と建前を見事に使い分ける。彼等にプライドはないのだろうか。
新人記者時代、よく「大人になれ」などと言われたものだが、その意味は、「長いものには巻かれてろ」とか「正義を捨てて実をとれ」とか、要するに「プライドを捨てて生きよ」ということにしか、聞こえなかった。今聞かれても、同じように聞こえるだろう。おかしいものはおかしい、と言えないような新聞記者にどんな存在価値があると言うのか。公の場で行動に移せず、何も改革できない国会議員に、どんな価値があるのか。
新聞社でも、社内から改革を訴える人はいる。しかし、それは森を信任する石原伸晃であり、小泉純一郎なのである。彼等がいくら「解党的出直し」などと党内から訴えようが、何も変わりようがないし、実際に変わっていない。それは、本音と建前を使い分ける「大人」らしい、程度をわきまえた戦いに過ぎず、本当の意味では戦っていないからだ。現実が変わっていない、という事実こそ正しい。それは、客観的な外部の眼からは「ガス抜き」にしか映らない。
それでも、多くの「大人」の議員は、まだ本音では国民の「森辞めろコール」のほうが正しいと思っているだけ、ましである。私は、背筋が凍る思いを何度もした。それは、新聞社の上司が 平気で権力との癒着や利権を正当化するのを聞いている時であり、それを批判する記者の言論の自由を平気で奪う時であった。最低限の善悪の区別が付かないほどに、洗脳されているのだ。森は、自分がいかに国益に反する人間かを理解できないくらい麻痺しているが、今の大新聞の幹部も、同じ状態ということだ。どうやら、「信任されたと考えている」と平気で発言する森と同じくらい、「本音でも」自らが悪いことをしていると気付かないのである。こういった本当の「悪」が、残念ながら今の体制、今の権力構造の上層部を占めている。
更に有権者は、その体制を、選挙で自民党に投票することで支え、新聞を定期購読することで支えている。自らにダメージを与える負の構造を、自ら支えていることに気付いていない。暗たんたる気持ちになる。
上層部の「悪」が、多数の「本音と建前を使い分ける『大人』たち」を支配し、無知な民衆がそれを支える。残念ながら、新聞社であろうが国会であろうが、それがこの国の構造なのである。今の『体制』が推奨する「大人」にならず、健全な「子供」のままでいることが、いかに大切か。私はいつまでも、「王様は裸だ」とはっきり言える健全な子供でいたい。今日の国会が象徴するような、息苦しい腐敗した大人社会を、信任する訳にはいかない。公の場である裁判に訴える意義は、そこにある。
蒙昧な日経信者に贈る「日本経済新聞」研究 -それでもアナタは日経を信じますか? 日経の倒産危機を知っていますか? 日経グループデータコラム集 日経記者はジャーナリストにあらず それでも人は日経を読み続ける以上が、サイゾー3月号の見出しである。朝日がマスコミ権力の象徴として批判の対象となり易いのに対し、日経は経済中心のデータ集のようなものだと思われており、スキャンダルが雑誌等で問題にされることも少ない。しかし、それは情報が外に流れないような完全な情報統制が為されているからだ。情報統制は、2つの手段によって担保されている。
1つは、『洗脳』である。新卒一括採用の終身雇用制度を未だに維持している(勿論、規制に守られているからだが)うえに、政治・経済・思想的に相対的に洗練度の低い文学部卒が多く、更に1年目から奴隷のような生活で同じカルチャーの中での生活を強いられるため、相当に強い信念と『自分を持っている』人間でもない限り、普通は神経が麻痺して、洗脳されてしまう。
2つめは、『徹底的な言論弾圧』である。入社したが最後、何ひとつ言論の自由はない。普通の人は、これだけおかしな体質を持った会社や不合理な仕組み、記者クラブなどを通した権力との癒着体質を目の当たりにすれば、良心に従って少なくとも言うべきことを言いたくなる。報道機関に所属する者なら、なおさらだ。それは、記者本来の使命を考えれば、当然保証されるべき権利であり、義務でさえある。しかし、それは金儲け第一主義の株式会社のなかでは、排除の対象にしかならない。
「報道機関」などという立派な称号は全く日経の実態を表していない。「報道機関」という言葉は、「ジャーナリズム」を連想してしまうからだ。日経は、報道機関という地位を利用し、権力と癒着して権力サイドの情報を垂れ流すという、ジャーナリズムとは正反対の目的を追求することで悪銭を貪る恥ずべき企業である。むしろ、日刊情報紙を発行する情報産業、規制に守られた悪質な『宗教組織』に近い。
ゼネコンや銀行、流通業界でさえ規制緩和で淘汰が始まっているのに、新聞社だけが権力と癒着して異常な高収益を維持している。そして、新聞を定期購読する無知な民衆が、それを支えている。なんと愚かな国だろうか!
http://www.ultracyzo.com/cyzo/index.html
最近、浅野健一教授のHPを見て新しい発見があった。
>>フランスでは編集方針に合わない記者は、次の勤務先を探すための
>>資金をもらえる「良心の宣誓」が法律で認められている。一種の良
>>心的兵役拒否だ。「ル・モンド」では投票で社長を選ぶ。「女房・
>>子供が病気でも、夜討ち朝駆けなんのその、男新聞記者は今日も行
>>く」(黒田清氏)などという古い感覚を捨てるべきだ。サツ記者は女
>>性にはできないというオジサンがいるが、今の非人間的な仕事は、
>>「人間」にはできないのだ。
http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2001/takamatsu2.html
フランスは、人権という点ではホントに先進的な国だとつくづく思う。
新聞社に税金が投入されているという話もどこかで読んだ。公の役割を担う企業(=市場原理に馴染まない)なんだから、公的資金が使われるのは当然だという論理は説得力がある。カネは出すが、口は出さない。それでいい。私は、フランスに生まれるべきだった。
日本では、まともな良心を持っていたら、とてもやっていけない。なかには、妥協に妥協を重ねて、自分に言い聞かせて頑張っている人もいるが、外部から客観的な眼で見たら、それは多くの場合、同じ穴のムジナだ。抵抗している分よりも、妥協した分の方が圧倒的に大きいからだ。結局、同じ権力の内部で甘い汁を吸っている仲間なのである。いくら社内で「このくらいなら言ってもいいかな」と社内の空気を伺いながら頑張って主張しても、それは焼け石に水でしかない。問題の本質を論じた瞬間、私のように処分の対象になるのだ。自分は魂を売り払わなくて、本当に良かったと思う。(勿論、社内で頑張っている人は、他の社畜社員よりはるかに偉いし、個人的には尊敬するが)
フランスのような「良心的兵役拒否」など、日本の新聞社にはあり得ない。新聞社の旧日本軍的体質に関してはあまり知られていないが、記者を「兵隊」と呼び「全舷」(海軍用語で「一斉引揚げ」を意味する)と呼ぶ社員旅行(全員強制参加)を戦前から続けているカルチャー、上官の命令は絶対という年次主義の徹底などを考えても、絶望的である。そもそも、現存する大手新聞社は全て、戦前から存続し、大本営発表を垂れ流して来た前科がある訳だが、こうした軍隊用語を半世紀過ぎた今でもわざわざ使い続けている事実や、森田前社長自らリクルート株収賄で8000万円をかすめた事実などからも、権力との癒着を反省していないことは疑いがない。新聞を読む時は、良心の自由がない、そして多くは洗脳されている「軍人」が書いているのだ、ということを常に念頭に置くべきである。
結局、悪魔と契約を結ぶか、そもそも良心など捨てる(=割り切る、妥協する)ことが、日本において新聞記者として順調に出世する不可欠な要素となる。人事権を盾に口頭でひとこと命令すれば、平気で個人のHPを全面閉鎖させることができる、と考えているのが日本の新聞社だ。表現の自由といった人権など、考えたこともない人間が、平気で新聞社の管理者になってしまう。
そもそも、良心などより「世間」「権力」「体制」に従うことこそ正義、という空気が支配的なこの国においては、フランスのような「良心の宣誓」を法制化しよう、などという話は、議論の対象にもならないのだろう。お先、真っ暗だ。英国の「インディペンデント」、韓国の「ハンギョレ」、米国の「USA TODAY」と、戦後、各国で創刊され影響力を保っている例は沢山ある。新しい新聞が、日本ほど必要な国はない。
JALのニアミス事故は、降下の指示を、便名を間違えて行ったことが問題であることがわかってきた。指示を出したのは経験3年目の訓練生である男性管制官(26)で、指導していたのは経験10年目の女性管制官(32)。訓練生に責任を負わせるのは無理があるので、やはり最大の問題は、女性管制官ということになる。彼女は、訓練生のミスを見過ごしただけでなく、機名を間違えたり降下の高度位置を省略するなど、単純なミスを連発し、あわや大惨事、の状況へ導いた。
新聞によると、907便の渡辺機長は「私たちは、間一髪で乗客を助けた。管制の指示に従っていたら、海のもくずと消えていたと思う」と話している。自己弁護分を除いても、やはり管制ミスの批判は免れない。
「話を聞かない男、地図を読めない女」という本が昨年、ベストセラーになった。その中に興味深いデータが載っている。「オーストラリア、ニュージーランド、イギリスのデータを集計すると、パイロットの99%超が男で、航空管制官の94%(1360人中1274人)が男」。これは、男が空間能力に優れているためで、「男の脳を調べると、空間能力をつかさどる部分が右脳に少なくとも4箇所ある」のに対し女は明確な部分がない。逆に女は左右の脳をつなぐ「脳梁」と呼ばれる神経線維の束が太いため、関連のない作業を同時にいくつもこなせ直感が鋭く、教職、上演技術、人材育成、文学などで優れた能力を発揮する。管制官の94%という数字は、おそらく日本でも大差ないだろうが、残り6%でしかない女性が当事者だったのは、確率論から言っても偶然とは思えない。
もう6年前になるが、「政治的に正しいおとぎ話」を楽しく読んだ。コメディアンが書いたものだが、米国でベストセラーになった。例えば「赤ずきん」の最後。「赤ずきんは叫びました。『この性差別者!種差別者!男の手助けがなければ、女やオオカミは自分たちの問題を解決できないとでも思っているのですか!』赤ずきんの熱烈な演説を聞きつけたおばあさんは、感動してオオカミの口の中から飛び出し、木を切り倒す人のオノを取り上げ、彼の首を切り落としました。この試練を経て、赤ずきんとオオカミは、たがいのあいだに共通する、ひとつの確かな目標を見出しました。彼らは、相互の尊敬と協力に基づいたもうひとつの生活体(altanative household)の設立を決め、それからずっと、森の中でいっしょに幸せに暮らしました。」
そんな時代だからこそ、すぐに問題にされそうだが、空間能力がない女性が管制官をやるのはどうしたものか、という論調があっても良いのではないか。それは、医学的に解明されなかった時代ではどうにもならないが、今となっては、喫緊の対応が必要なのではないか。これは差別ではない。誰かが言い出しても良さそうなものだ。
昔、航空機事故を取材したことがあるが、新聞社というのは本当にどうでもいいことしか報じようとしない。いつも決まりきった単一の視点である。当局の発表垂れ流しと、被害者や遺族の声。読む前から検討がつく。遺族は悲しいに決まっているのだ。新しい視点や批判を受けそうな論調は全て自粛。無難にまとめ、戦うことをしない。しかしそれは、ジャーナリズムの放棄だ。 だから新聞はつまらない。
命に関わる問題である以上、リスクは計り知れなく大きい。医学的な証拠が見つかってきた現状では、「管制官は女性不適切」もありだろう。ジャーナリズムは聖域を作らず、真面目に問題提起すべきだ。そんなことを考えているのは、私だけかも知れないが、、、。
車を買う時、悩んだ。製造過程の労力や部品の材質に至るまで、納得のいくものを買いたかった。企業のホームページで見ても企業側の言い分はなく、情報公開は為されていなかった。 製造されている工場の国や場所はセールスマンが知っていたが、彼等はデザイナーがフェラーリと同じだということは聞かなくても答えたが、環境にどう配慮された車なのかや、人体に有害とされる物質についてや、工場での労働実体については、知っているはずもなかった。日本というチープな消費者ばかりのマーケットではそれで十分なのだろう。
鎌田慧氏が工場の期間工になりすまして潜入取材した「自動車絶望工場」は、『体験する』取材によって、コンベア労働のシジフォス的単調さをスクープした。今でも、世界のどこか、特にいわゆる発展途上国では、絶望的な労働者によって車が生産されているはずである。その車が日本に輸出され、我々はその車を買うかも知れない。消費者は購入することによって、人を絶望させる活動に事実上、加担している訳で、普通の人間の感情としては、あまり気持ちの良いものではない。
問題は、こうした生活者や消費者の立場から知りたい情報については、調べようがないことだ。情報がない。どこにアクセスしたら分かるのかも分からない。手段がない。車の雑誌は自動車メーカーの広告まみれで、商業主義に汚染されている。
仕方がないから、「プジョー」を選んだ。私の知る限り、フランスは環境問題に対する意識が高い。特に生活環境に関しては、人体に影響のある有害物に対する規制が迅速で厳しく、明らかに企業の利益を優先している日本とは天と地ほどの違いがある。また、個が確立されていて、人権に対する意識も高い。ミッテラン大統領に隠し子が見つかっても、プライバシーの問題だから、日本や米国のマスコミのような騒ぎ方はしなかったそうだ。18世紀、民主革命の先進地でもある。そういったブランドイメージがあるから、私は燃費が悪くてもプジョーにした。あまり機能的な基準では選んでいない。生活者的な基準、思想的な基準からである。
私の場合、少なくとも日本企業よりはましなはずだと思った訳だが、正確な情報があれば欲しいし、情報があれば他の車を買ったかもしれない。とにかく情報環境に不足感がある。
現在、圧倒的な支持を得ているユニクロにしても、中国で、「女工哀史」のような人権無視の世界で作られたものだということがわかったとしたら、どれだけの人が支持するだろうか。買わない人も出てくるはずだ。単に、そういう情報がないだけである。
最近、味の素のインドネシア現地法人が調味料の製造過程で、イスラム教徒が摂取を禁じられている豚の成分を使用し、日本人の技術部長が消費者保護法違反容疑で逮捕された。日本人は消費者・生活者に対する意識が低いからこういう事件を起こす。
英国BBCだったと思うが、「汚れたトマト」というTV番組があった。イタリア料理で使用するソースの原料として大量のトマトが使われるが、その収穫時に、違法な移民を使った低賃金の奴隷のような労働実体があることを報じた番組だった。日本ではこの類の番組は御法度である。見たことがない。しかし、築地の魚市場にでも行けば、一見、日本人と見間違える中国人などの違法な労働者がエビの皮剥きなどの単調労働に勤しんでいる実体は一目でわかる。要するに、日本に消費者意識が育たず、「不買運動」も起きないのは、商業主義のマスコミが「伝えない」という情報操作をしているからだ。
消費者サイドの情報を伝える役割を担うのは、本来、企業と直接の利害関係がない純粋な民間セクターである。例えばNGOの「グローバル・ビレッジ」は、フェア・トレードのチョコレートを薦めている。チョコレートは、主原料となるカカオと砂糖がプランテーションなど大規模農園で主に生産しているが、労働者は低賃金で働かされ、農薬汚染に悩まされているという。そんな情報は日本では取得できない。それをあざ笑うかのように、TVのCMでは必要以上に華美に包装された「完成物」を、アイドルが満面の笑みでかじるのである。
本多勝一氏は、「コクドがどういったことをしているのか、西武ファンは考えて欲しい」と訴えたことがある。長野で巧妙な環境破壊を行うコクドを、間接的に支援していることになるからだ。しかし、日本にそこまで理解できる賢い消費者は少ない。しかし、企業をチェックするためには消費者の購買行動が最も重要であり、それを左右するのはやはり情報環境なのである。
かつて、スーパーモデルのナオミ・キャンベルが、「裸の方がまし」と毛皮反対を訴えていていたことがあった。 動物愛護家が激しい反対運動を繰り広げ、売り上げも低迷していた。欧州では、動物愛護団体が「すべての動物は解放されなければならない」として、水族館や動物園、大学、ファストフード店などに対する脅迫行動を行うまで過激化している。しかし、日本ではこの種の活動はほとんどなく、あっても知られていない。新聞が企業の広告にまみれ、一方でNPOも育っていないために、行動に移すための情報がないのである。
あるNPOのホームページでは、何匹かの可愛い動物の赤ちゃんの写真とともに「これは毒ガスをかがせ、棍棒で叩き、電気ショックで殺す前の毛皮の姿です」という文章が掲げられていた。果たして、消費者は、それでも毛皮を買うのだろうか。単に、情報がないだけだろう。
しつこいようだが、日本には完成品の情報は溢れているが、プロセスの情報、背景の情報がない。これまでチープだった消費者も、情報を欲している。隠された現実を知りたいという意識が芽生えている。少なくとも、食品や化粧品の安全性については、「買ってはいけない」を購入した190万以上の人間が、それを証明したのである。
日韓連合対世界選抜の、「アクセンチュア・ドリームサッカー」。そこそこの顔ぶれの割に、空席が目立っていた。 どんなに「本気でやります」と選手本人が主張しようが、結局、試合全体がアクセンチュアのコマーシャルに見えてしまうし、国を背負った戦いでもないことも明白で、観客もそれら背景を良く知っているから熱狂しないのである。客は本気のプレーにカネを払うのだ。
同様に、既存の新聞社がどんなにジャーナリズムを主張しても、記者個人がどんなにジャーナリスティックな人間だとしても、「どうせ広告収入が半分なんだから、批判的なことを書ける訳ないだろ」と思われるのはやむを得ないし、実際、それを裏付けるかのように企業批判を積極的に紙面で展開することはできていない。できない構造になっているのである。記者個人がどう頑張ろうが、どうにもならない構造の問題、背景の問題、基盤の問題なのだ。構造的に、広告収入で生計を立てているテレビは、それを証明するかのように、もっと質が低く、どこまでがCMなのか区別が付かない番組ばかりである。
これらから間違いなく言えることは、個人個人の意識や理念の問題ではどうにもならない問題がある、ということだ。問題は、システムであり、フィールドであり、インフラにあるのである。
制度は人を変えられるか。私は変えられると思う。サッカーがここ五年程度の間に、視聴率のトップを争うような人気スポーツになったのは、Jリーグという「制度」が出来たからである。それまでは、サッカーには夢がなかった。成功しても野球のような高額な年俸も貰えないし、世界と比べレベルが低かった。サッカーに対し情熱を燃やす人は、日本にいてもダメだと考え、例えばカズはブラジルへ渡った。しかし、プロリーグという制度が発足したために、サッカー人口は増え、国民全体のサッカーに対する意識を変化させた。サッカーは夢のあるスポーツになった。
ここで、私が対比しているものを明確にしよう。「サッカー」は「新聞」である。どちらも、国民にとって根源的な魅力を持っている。それでは「Jリーグ」にあたるものは何か?「企業からの広告収入が半分を占めない、別の収入構造を持つ新聞社」が1つの答えであろう。新聞ジャーナリズムは、本来、民主主義に不可欠であり、エキサイティングで面白く夢のある世界であるはずだ。それを開花させる基盤、インフラ、システムを構築しなければならない。国民全体の新聞ジャーナリズムに対する意識を変化させ、夢のある世界にするために。
『新春大売り出し』とかで、家電量販店がけたたましくCMを流している。なんと、ビデオデッキが5千円だそうだ。こういうのを見ていると、全くもどかしくなる。5千円で買えてしまったものなど、すぐに捨てられるだろう。新しく安いものが発売されれば、鉄のゴミとなる。そのうちのいくつかは不法投棄されるだろう。
4月から施行される家電リサイクル法では、冷蔵庫、テレビ、洗濯機、エアコンの四品目に限ってメーカーに自社製品の回収・再商品化を義務づけられたが、ビデオデッキは対象外という訳である。4品目が選ばれた理由は、「利用可能な資源を多く含み、小売店による配達が行われているため回収も行いやすい」のだそうだ。それなら、AV機器だって似たようなもの。この後手後手の行政は、何とかならないか。
こうした家電量販店や家電メーカーは、新聞社やテレビ局にとって、重要なお客であって、広告収入を無視できないから、新聞もテレビも、言い訳程度にしか批判報道をしない。できない構造にある。こうして地球環境の悪化に歯止めがかからないのである。ここで欠けているものは明らかで、要するに、生活者の視点、環境問題の視点からジャーナリスティックに報道する媒体が必要なのである。メーカーでも量販店でも、環境に負荷をかけている企業を格付けして消費者に知らしめてやればいい。売上にひびくとなれば、少しは改善を考え始めるだろう。市民団体、環境団体がいくら地道に活動しても、残念ながら情報伝達環境の貧弱さが、努力に実を結ばせないのは残念である。
広告は企業として必要だし、それは規制のなかで最大限、消費者にアピールするものでなければならない。そうなると、消費者側の見る姿勢が重要ということになる。
「『では、どんな広告を望むのか?』大気汚染が進み交通事故が増えるなかで流される優雅な自動車のCMか。肺がん患者の苦しみの間にも続けられる美しいたばこの広告か。または…。トスカーニ氏は言う。『もうたくさんだ、そんな甘ったるいバカげた現代広告は』」(AERA)
それでも「甘ったるいバカげた現代広告」が氾濫してしまうのは、やはり消費者がそれを受け入れているからだろう。しかし、消費者はそれを完全に容認している訳ではない。何かおかしいぞ、と薄々思っている。「買ってはいけない」が190万部超のベストセラーとなったのも、まさにそこにあるのではないか。企業は何かを隠しているのでは、実は儲けるために消費者を犠牲にしているのでは、危ない何かが潜んでいるのではないか、、、。生活者として、消費者として、防衛本能が情報を求めているのである。単に、それを満たす媒体がないだけだ。
企業側が、それに気付き、ベネトンのCMを担当するトスカーニ氏のような人材を起用するのも良いだろう。しかし、根本的に重要なことは、消費者が求めている情報を満たす媒体を作り、賢明な消費者を育てることではないだろうか。
TVを見ていたら、浜崎あゆみの「SEASONS」がレコード大賞の作詞賞を受賞していた。選考過程の不透明さが賞の価値を下げていることが未だに理解できていないようだが、サザンの「TUNAMI」が大賞という結果だけ見れば結構、マトモになったものだ。浜崎あゆみのヒットの理由として「彼女自身による共感を呼ぶ作詞」を挙げる声がマスコミで騒がれていたが、確かに、SEASONSは琴線に触れるものがあり、年に数枚しかCDを買わない私で購入に走らせたのだから、自身の今年最大のヒット(136万枚)というのも頷ける。彼女の曲目を見てみると、「トラウマ」など、従来のスターにはあり得ないタイトルの曲があるのも驚きだ。私が高校生の頃、バブル期では、あり得ないことだった。尾崎豊のような伝統的な反骨のスタイルとは全く異なっている。まさに時代の申し子が生んだスターということだろう。
しかし、こうした時代の変化などとはおかまいなしに、大晦日の歌番組は、演歌を実体の市場ニーズ以上に流しているように見える。特に、紅白を見ればわかるが、NHKは異常である。どうしてだろう、と考えてみれば、これは結構、日本の本質に関わる問題に突き当たる。つまり、「都市」対「農村」で一票の格差(衆院で3倍未満までOK、参院で6倍未満までOK)があり、農村が嫌に強い権力を握っている問題だ。多数を占める都市の住人は平均年令が若く、ヒット曲でもない演歌など聞きたくもない訳だが、少数派の農村住人のために、嫌でも流され聞かされるのだからたまらない。これが、「日本固有の文化を守るため」などという使命感からやっているのならわかるが、どうもそうとは思えない別の理由があると思う。
要するにNHKは、受信料をちゃんと払ってくれる農村部の高齢者たちのために、全く売れていない演歌を流すのではないか。農村の人間はNHKの受信料を、疑いを持ってか持たずか、平気で払う。体制順応的だ。対して、都市の人間は私に代表されるように、批判的で、全く払う気さえない人も多い。理由がよくわからないし不公平な古いシステムだからだ。しかし、都市部の人間は政治力が弱い。2001年の参議院選挙では、最大で、東京の1票は鳥取の4.92分の1票しか影響力がないことが分かっている。ちなみに、米国下院では1.007倍でも違憲とされた判決がある。
根幹にあるのは、「歪んだ旧システム」の問題ということである。それは「NHKの受信料システム」であり、「一票の格差を3倍や6倍まで平気で合憲としている最高裁判所というシステム」である。その裏には、既存の体制を少しでも改革したくない、役割を終えたにもかかわらず残して甘い汁を吸い続けたい、という権力が見え隠れする。いずれも、損をしているのは都市部の住民たちだ。我々は、損失を回避するために断固として受信料を支払わず、断固として一票の格差是正を求め選挙に行き、既存の利権構造を守ろうとしている農村政党、自民党の政治を破壊しなければならない。