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2004 USA/Kanada 102 Min. 劇映画
出演者
Greg Kinnear
(Paul Duncan - 高校教師)
Rebecca Romijn-Stamos
(Jessie Duncan - 写真家、元リチャードの教え子)
Cameron Bright
(Adam Duncan - ポールとジェシーの息子)
Robert De Niro
(Richard Wells - 医師)
Devon Bostick
(Zachary Clark Wells - 少年殺人鬼)
見た時期:2004年6月
人間の子供は普通は2人の人間の共同作業で生まれます。これが3人だったらどうなるか・・・あっ、ばれちゃった。
この種の映画にはあまり大きな期待をしないことにしているのですが、監督があの穴を作った人だと聞いて、やや期待してしまいました。
この種の映画にはあまり大きな期待をしないことにしているのですが、グレッグ・キニア とロバート・デ・ニーロが出るというので、やや期待してしまいました。
こういうタイプの女優さんにはあまり大きな期待をしないことにしているのですが、レベッカ・ロメーン・スタモスだと聞いて、やや期待してしまいました。
期待は裏切られません。ドイツの有名映画雑誌はやや低めの評価をしていますが、私は合格点にします。
穴を見た方は覚えているかも知れませんが、この監督はブルーのやや寒そうな色を上手に使い、自然を画面に上手に取り入れる人です。この手法はGodsend でも踏襲されています。安っぽさの無いホラー映画に仕上がっています。
雰囲気的に引き合いに出されそうな作品は、ゴシカ、シックス・センス、サイン、ホワット・ライズ・ビニース、ヒッチコックの一連の作品など。しかしそのどれよりも気に入りました。ホラーらしく、ぎくっとするようなシーンも多く、皆が知っている手法をオーソドックスな出し方で使っています。観客は監督の希望通りの場所でちゃんとぎくっとします。いんちきはありません。
ストーリーはあまりややこしくありません。映画化するにはちょうど良いぐらいの材料が揃っていて、複雑過ぎず、雰囲気を盛り上げるのに十分時間を取っています。
複雑ではないとは言うものの、観客はこれが犯罪映画なのか、幽霊話なのか、超能力少年なのか、オカルト映画なのか終わりの方に来るまではっきり分かりません。全体の4分の3ぐらいまで隠しおおせるので、観客と監督の知恵比べは監督の勝ち。その上結末はアメリカ映画らしからぬ曖昧さを残し、欧州的な雰囲気を残します。カナダが入ると典型的なハリウッド映画とは趣きが変わるのかも知れません。
監督は穴で学校という舞台を上手に使っていましたが、Godsend でも学校が一部使われています。しかしストーリーは主人公の住む家を中心に進みます。
★ あらすじ
最初はニューヨークらしき大都会で、親子3人楽しく暮らしています。冒頭は息子の8歳誕生日。キャストはグレッグ・キニアがお父さんで学校の教師。お母さんはレベッカ・ロメーン・スタモスで写真家。息子アダムは小学生。すてきなアパートに住んでいます。
☆ 普通のおっさんデ・ニーロ vs 普通のお父さんキニア
しかし誕生日の直後、息子は路上で交通事故、母親の目の前であっけなく死んでしまいます。葬儀が終わったところで2人を待ち構えていたのが、ロバート・デ・ニーロ。ケープ・フィアーの雰囲気ではありません。タクシー・ドライバーの雰囲気でもありません。ファンの雰囲気でもありません。しごくまともな中年のおじさん。これまでより顔がやや丸く、トレーニングで体を鍛えたとか、無理に体重を増やしたとかいう感じではありません。デ・ニーロがこういう普通の市民風の男を演じたことがあったかなあ。結構色々見ましたが、記憶にありません。
以前どこかに書いたかも知れませんが、俳優が異常者、狂気、障害など、通常と違う事を演じるのは難しくないと考えています。他にあまり比較する対象がないので、自由に俳優なりの解釈で何でもできるからです。デ・ニーロが身の毛のよだつ恐ろしい殺人鬼を演じても、レオナルド・ディ・カプリオが障害のある少年を演じて高い評価を受けても、私は横目で見て《この評価は本物だろうか》と考えてしまうのです。例えばジョニー・デップの評価が急上昇したのは、ニック・オブ・タイムを見た後。彼は普通の小さな子供を抱えたやもめ男を演じたのです。これが自然で上手だった。彼は状況が異常な中で普通の若いお父さんという役を演じて見せたのです。
ロバート・デ・ニーロはこれまで異常な役のオン・パレードでした。執着し過ぎる役というのが多かったです。ストーカーなどいう言葉が日本で広まる前からさかんにストーキングをやっていました。悲劇の主人公というのも、悲劇の度合いが甚だしくておよそ尋常な世界ではあり得ない役でした。例えばフランケンシュタインの名も無いモンスター。皆が彼の運命に涙しました。グレッグ・キニアもこれまではちょっと変わった男の役が多かったです。それは彼の名前をクリックして見て下さい。その2人が Godsend ではエキセントリックなトーンを極力落として、普通のお父さん、普通の医者の雰囲気を出しているのです。
そりゃ、せっかくデ・ニーロを呼んで来たのですから、どこか異常でなければ行けません。異常ですよ、確かに。しかしこれまでの演技と違い、すっかり社会に溶け込んでいる科学者という雰囲気を違和感無く出しています。デ・ニーロにベテランの産婦人科の医者をやらせるなんてユニークなことを思いついた監督は偉い。デ・ニーロの目の前で子供を産む役がスタモスなのでちょっと気の毒に思いましたが、デ・ニーロはこういう珍しい役でも人を納得させる演技です。悲しみにくれている夫婦の前に現われたウェルズ博士がある提案をするのですが、極端な演技を極力避け、普通のレストランの中で、地味に話を持ちかけます。変な目つきをしたり、おやっと思わせる行動などは一切無し。手を抜いていません。
キニアも見事な変身ぶりで、子供を亡くして悲しんでいるお父さん。学校で仕事をしているシーンも、大都会の通りでチンピラに襲われるシーンも実に普通。この普通さを出すのが俳優としては難しいと思うのですが、上手です。彼に目をつけた監督は偉い。
演技では大物の2人がこうも普通の役をやってしまうと精彩を欠くので、スタモスの登場。X−メンに出た時のような異常な美しさでなく、フォーン・ブースのラダ・ミッチェル的な美しさです。これに加え、カメラが良くて、周囲の景色がきれい。すてきな雰囲気を出しています。
問題の少年が登場。本当は彼が主役です。顔はアバウト・ア・ボーイの少年にそっくり。この少年は今年のファンタにも出るようなので楽しみにしています。彼が最初に登場した時はキニアにもスタモスにも似ていないので《なんでこんな子を連れて来たのだろう》と訝りました。何しろこの作品は遺伝の映画なのです。納得するのは最初に少年が死に、後に再製されてから。そうなのです。デ・ニーロは死んだ少年を再製してしまうのです。かつて数人の死体から作られた人造人間だったデ・ニーロには因縁のある役。造られる側から造る側に回りました。
☆ あらすじに戻って・・・
デ・ニーロ演じるウェルズは事故で死んでまだ葬儀が終わったばかりのところへ現われ、《細胞がちょっとでも残っていたら、前の子とまったく同じ子を作れる》と言い出すのです。最初迷った夫婦は結局承知します。ニューヨークにとどまるとこれまでの知り合いにクローンしたことがばれてしまうので、田舎へ引っ越すように薦められます。ウェルズが自分のクリニックのある小さな町に家族用の家を用意します。クローンは成功し、無事出産。子供は元の子供にそっくりで、家庭は暫く明るさを取戻します。
デ・ニーロが医師を演じ、テーマが法律に引っかかりそうなクローンと来れば何か起きるのは仕方ありません(欧州ではこの種のクローンは禁止されている国がほとんどですが、アメリカはぎりぎりのセンで許されているという話を耳にしました。そうなるとプロットが崩れます)。8歳の誕生日を過ぎた頃から息子のアダムはおかしくなって来ます。この名前をこの子につけたのは絶対に偶然ではないでしょう。もう1人子供ができたらきっとイヴですからね。1000円の馬券賭けてもいいです。
ばらしてしまいますが・・・
元々の両親からクローンされた子供だったら、アダムは以前のアダムと同じ子供になったはずです。環境が子供の成長に大きな影響を与えますが、両親は以前より安全な田舎に引っ越して来ています。ですからアダムが不良になったり、他の子に悪さをするような理由は以前よりもずっと少ないのです。ところがアダムの変身ぶりは、悪魔が乗り移ったとは言わないまでもダンカン夫妻の環境からは考えられません。実はここにインチキがあり、アダム2世にはウェルズ博士の息子の細胞も混ざっていたのです。その子、ザカリーが凶悪な事をするわけで、温和に見えるウェルズ博士の中にも異常な部分があったという仕掛けです。デ・ニーロにはオーバーな演技を極力押さえ、普通の雰囲気を出させ、異常演技は子供にやらせています。凝った演出です。
「顔があまり似ていない子供を連れて来た」と言いましたが、子供が8才を過ぎ怖くなり始めてから納得。顔は全然似ていないのですが、目がキニアにそっくりなのです。きれいな目をしていますが、微笑むと怖いです。
当初は優しいリチャード伯父さん、すてきなパパとママ、不良やチンピラのいない静かな町で始まった第2の人生。それが3人の大人の間にも秘密が生まれ、両親2人は子供にアダム1世のことを隠し・・・と、以前のような罪の無い楽しい家庭ではなくなって来ます。その上誰かの亡霊が息子に乗り移ったかのようになって来ます。
与太話という点ではゴシカ、シックス・センス、サインに負けませんが、結局はそれをどういう風に料理するか、映画館にいる2時間の間どういう風に確信を持たせるかが勝負です。その点 Godsend は成功しています。子供の部屋にはサインに出て来たエイリアンを思わせるようなマスクがかかっていました。ご愛嬌。
★ 名前によるネタばれ
日本に住んでいるとアダムはともかく、ゼカリヤなどという名前を知っている人は熱心なキリスト教徒かユダヤ教徒ぐらい。ザカリーはゼカリヤのアメリカ風な言い方。神様がちゃんと覚えてくれるという意味で、人からも神からも無視されることの無い存在。日本人は黒子になる、とか縁の下の力持ちになるなどと自覚していて、普段人から無視されたり、見過ごされてもいちいち怒らない人が多いです。ドイツに来てからは無視がこちらの人に取って日本人の何倍も気になる嫌な出来事なのだと知りました。凶暴性をかき立てられる人までいます。アメリカもキリスト教やユダヤ教の圏内の人が多いので、聖書に親しんでいる人は日本よりずっと多く、ザカリーと聞いて映画を見ているうちにピンと来る人も多いでしょう。
★ 気合の入った冗談
アメリカでは宣伝用のギャグとしてウェルズ博士率いるクローン・クリニック Godsend のWebサイトを起こして、電話番号やメイル・アドレスを入れておいたそうです。本物らしくするために《子供が死んでふさぎ込んでいた妻に希望をもたらした》などと、経験者のコメントも入っていたそうです。するとこれを信じたマジな人たちから何度も真剣な問い合わせがあったそうで、宣伝部は急遽取り止めたそうです。宣伝担当者は、あのブレア・ウイッチ・プロジェクトを担当した人・・・という話信じるべきだろうか。
★ 分かんねぇ
私が今も良く理解できないのは、人がなぜクローンという可能性に夢中になるかです。以前欧州の王朝では貴族や王族が自分たちの血を守ろうとして身内の間の結婚を繰り返したため遺伝的な問題が起き、最近はできるだけよその人と結婚しようということになっています。エジプトのツタンカーメンの身内もそれをやり過ぎて王朝の滅亡に至っています。これと同じように私はクローンをやり、いつの日かやり過ぎると人類を滅ぼすことになるのではないかと危惧するのです。
クローンをやるからにはその家族はクローンされる人間が何かしら他より価値があると信じて実行に移すのでしょう。天才の細胞を保存して・・・などという考え方です。しかしこれを極端にやると、社会は天才ばかりになってしまいます。クリムゾン・リバーですでに考え込んでしまいますものね。そして天才には時として問題点もある・・・。雑種の普通の人間が主流であるからこそ天才が天才として目立つのであって、多数派が天才だとやがて凡人が天才として扱われてしまうという矛盾も起きかねませんし。子供が生めない人に福音をもたらすという面もありますが、世の中にこれほど孤児があふれているのに、養子では行けないのかとも思ってしまいます。以前ですと、1家族で子供は4人、5人と生まれており、中の1人が何かの理由で死亡という話は当たり前でした。仮に1番最初の子供が死んでも、それでしょげず、次の子供を作りました。何かのはずみで妊娠が不可能になってしまうと、伯父さんの家から子供が1人貰われて来るなどという話も珍しくありませんでした。なぜこういう方法では行けないのでしょう。
Godsend はそういうことを考えさせてくれる作品。メッセージはしっかり入っています。後半ダンカンとウェルズが教会の中で激しく争う場面があります。この部分では数分間どのシーンも必ず十字架が見えるようになっています。プロデューサーにバチカンが入っているのかと、つい穿った見方をしてしまいました。最先端の技術に人が熱狂する前に警告を発する機能はあった方がいいかと思います。そういう意味では《ちょっと待て、科学者は急には止まれない》と言う人たちと、《人間の創造に携わるのは神だけだ》と信じている人たちの対立を描いた作品と言えます。日本人の目から見て、欧州にいて、アメリカ映画を見て驚くのは、キリスト教の影響が科学の発達、時代の発展にも関わらず非常に強いことです。映画を作る側では神をお墨付き として使おうとする傾向がまだ強いです。人間は神という存在を作らないとモラルを守って行けない愚か者なのかと考えさせられることが増えました。
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