このページの背景画像は「BEAUTIFUL」さんからお借りしました。
順番に読んでいってもかまいませんし、興味のあるところから読んでも大丈夫です。
お好きなところからどうぞ。下線の部分をクリックすると飛びます。
一言で説明すると…フリュクチドールのクーデターで王党派ら右翼勢力を一掃した総裁政府は、その反動として力をつけてきた左翼の弾圧を図ります。フロレアルのクーデターで議会から左翼も追い出した政府には奇妙な安定が生まれ、その間に経済や産業の建直しに取りかかります。 |
フリュクチドールのクーデターの後から1799年までを「第二次総裁政府」の時期と呼びますが、この間、政府はますます権威主義的になりました。1795年の自由主義的な憲法は維持されましたが、政府は常に「例外措置」を取ることて生き延びました。
例えば、出版物に対する検閲は行われませんでしたが、多くの新聞が発行禁止となりましたので、出版の自由はありませんでした。
断頭台による処刑はありませんでしたが、「乾いたギロチン」としてのギアナ流刑は頻繁に行われました。むき出しのテロリズムに代わって、警察的、行政的な取締りが強化されたのです。
政府がフリュクチドールのクーデターで王党派を弾圧した後、左翼の「新ジャコバン派」の活動が活発になりました。
1798年4月の選挙では保守派の人達が投票を差し控えたため、ジャコバン派が大幅に票を伸ばしました。その勢力が非常に大きかったので、驚いた総裁政府はフロレアル二十二日(1798年5月11日)、当選した437名中106名の議員の当選を「過激派」という口実で無効にしました。これを「フロレアル二十二日のクーデター」と言います。
このクーデターは今までのクーデターのように軍隊に依存はしませんでした。認定議員数を決める特別法によって、合法的に行われたクーデターです。政府が選挙の結果を無効にする、という暴挙を取ったのは、フリュクチドールのクーデター以来二度目のことでした。
フリュクチドールのクーデターでは右翼を、フロレアルのクーデターでは左翼を粛清した政府には反対者がいなくなり、ある種の安定を見出すことができました。
このような均衡の中で、財務大臣のラメルと内務大臣のフランソワ・ド・ヌーシャトーの二人は、フランスの経済の再編成と産業の振興に手をつけました。
←←概略の目次へ | ←i.フロレアル22日のクーデターへ | ii.エジプト遠征と第2次対仏同盟へ→ |
iii.プレリアル30日のクーデターへ→ | ||
iv.ブリュメール18日のクーデターへ→ | ||
v.共和国8年の憲法へ→ |