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一言で説明すると…大陸内で勢力を拡大したフランスは次は打倒イギリスを目指し、ナポレオンはエジプトに進出します。しかし、そこでもイギリスに敗れ、退路を絶たれたナポレオンは滞在を余儀なくされます。また、これにより、大陸における反仏が復活し、イギリスを中心に「第2次対仏同盟」が結成されます。 |
1797年10月18日、カンポ・フォルミオ条約が批准された同じ日、総裁政府はナポレオンを「イギリス遠征軍」の総司令官に任命しました。最後に残った敵手イギリスへの侵攻を彼に託したのです。
ナポレオンなどの力により、大陸での勢力はほぼ思い通りになりましたが、海上や植民地においてはイギリスに歯が立ちませんでした。そればかりか、イギリスは産業革命の成果である織物や金属製品を大量にヨーロッパに輸出しており、このことは、ヨーロッパの産業を圧迫し、フランスの威信を低下させるものでもありました。
1798年2月、「イギリス遠征軍」の総司令官に、なったナポレオンはドーバー海峡に面する港を視察し、またフランス艦隊の実情を検討した結果、イギリス海軍の守りを突破することは不可能だと判断しました。
1798年2月、ナポレオンは突然エジプト遠征の計画を立てました。真意はわかりませんが、次の3つのことが考えられる理由と言われています。
いずれにせよ、総裁政府は野心的で国民に人気のあるこの将軍を遠ざけることに異存はありませんでした。
準備は大急ぎで行われ、2ヵ月後の5月には3万8000人の軍隊を含む5万4000人がツーロンとマルセイユからエジプトに向かって出港しました。軍人以外のメンバー(1万6000人)の大半は幕僚でしたが、200名の学者、作家、芸術家も含まれていました。(メンバーの詳細はこちら→)
船団がアレクサンドリア港に入るに先だって、7月、ナポレオンは布告を出しました。ここでも、イギリスへの執念が感じられます。
諸君。諸君が企てようとしている征服が、世界の文明と商業に与える結果は、計り知れないものがある。諸君はイギリスに対して、一番確実で一番手痛い打撃を与えるだろう。そして、諸君はイギリスに死の一撃を与えることになるだろう。
ネルソン提督率いるイギリス艦隊は、スペインのカディスを閉鎖していましたが、フランスの動静を偵察するために地中海に派遣されました。
当時のエジプトは、トルコのサルタンが宗主権を持ち、国内では封建勢力であるマムリュック(エジプトの騎兵)が土地と軍事力を独占していました。ナポレオンは、「マムリュックからエジプトを解放する」と主張して転戦しました。
7月1日には、アレクサンドリアを奪取し、軍隊はマムリュックを追い散らしてカイロに向かって進軍し、7月23日にはカイロに入城しました。
しかし、アブキール湾に集結したフランス海軍は、ネルソンの攻撃を受け、8月1日のわずか一日の戦闘で全滅させられました。このニュースをカイロで聞いたナポレオンはさすがに動転しました。大陸から完全に切り離されたからです。当分、熱気たちこめるエジプトに留まるほかはありません。
そのおかげでエジプト学が誕生しました。(詳しくはこちら→)
勝利に気をよくしたイギリスは、ピットを中心に積極的に反仏勢力の結集に動き出し、「第2次対仏同盟(1798年4月-12月)」を結成しました。各国の事情を具体的に見てみましょう。
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