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一言で説明すると…ナポレオンはかねてからの計画どおり、五百人会議と元老会議とを説得しようとしましたが、両院は荒れて反対にナポレオンが告発されかねない状況でした。弟リュシアンの冷静で機敏な行動が彼を救います。リュシアンは軍隊を動かして両院をあっさり制しました。 |
1799年11月10日(ブリュメール19日)、両議会は新しい総裁を選出するためにサン・クルー宮に召集されました。元老会議は大多数が憲法改正を支持していたので問題はありませんが、ジャコバン派や共和主義者の多い五百人会議では憲法擁護派が過半数を占めており、クーデターの成功はナポレオンがどのように五百人会議を牛耳るかにかかっていました。
彼らの大部分はこの陰謀について何も知りませんでしたから、ナポレオンが6000人の軍隊と共にサン・クルーに現れたとき、五百人会議は騒然としました。
そもそも彼らは、両院の警護をナポレオンに任せる、という前日の元老会議の決定が気に入りませんでしたし、兵隊が会議場の周囲に配置されていることも我慢がなりませんでした。議場は騒然としていました。
ナポレオンは議場に入って五百人会議の議員を説得しようとしました。しかし、罵声にさえぎられて声が通らず、騒ぎは大きくなるばかりでした。
この陰謀はもともとナポレオンの人気に頼っていました。ナポレオンの指揮のもとに憲法改正の票決をすんなり行う予定でした。内心では、自分の絶大な人気があれば、陰謀は計画通りいくものだと考えていたナポレオンには、意外な成り行きでした。彼は、五百人会議の抵抗にあってあえなく議場を退出せざるを得ませんでした。
元老会議へ向かったナポレオンが、「自由と平等を救う」ための処置を求めたとき、議員の一人が「それから憲法も」と叫びました。
ナポレオンはすかさず答えました。
「フリュクチドール18日(1797年9月4日)、フロレアル22日(1798年5月11日)、そしてプレリアル30日(1799年6月18日)に、諸君は憲法を犯したではないか。もはや憲法を尊敬するものはひとりもいない」(注:この言葉は元老会議ではなく、五百人会議での言葉という説もあります。)
ナポレオンは、再び五百人会議に赴きます。しかし、今度は一言も発することができませんでした。そればかりか、五百人会議は、彼を両院移動の監督に任命した元老会議の決定を違憲とし、こともあろうに、彼から法律上の保護を剥奪しようとするにいたりました。
五百人会議の議長はナポレオンの弟のリュシアン・ボナパルトでしたが、彼でさえもこの処分が議決されるのを妨げることはできませんでした。
議員達の怒りは最高潮に達し、手がつけられなくなりました。
「独裁者を倒せ!!」「憲法万歳!!」「共和国万歳!!」の怒声が乱れ飛ぶ中、ナポレオンは死人のように蒼白になりました。これは、かつてロベスピエールに投げかけられた言葉でもあったのです。彼は数人の兵隊に守られて退出しました。
ナポレオンの絶体絶命のピンチを救ったのは弟のリュシアンです。彼は議場を出ると、待機中の軍隊に、共和国の自由を破壊しつつあるピットの手先を議場から一掃するように、と言葉巧みに唆しました。
軍隊が議場に入りました。たちまち議場は空になりました。五百人会議の騒ぎが伝わる元老会議も同じように退散してしまいました。
軍隊がひとたび動き出せば、両院の反対などひとたまりもありませんでした。
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