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一言で説明すると…総裁政府が発足しました。彼らは下落しきったアッシニアの発行を止め、土地証券を発行することによって経済の建直しを図りましたが、うまく行かず、経済はますます混乱しました。 |
ヴァンデミエールの反乱の3週間後の1795年10月26日に国民公会は解散し、新しい憲法に基づいて新しい政府が発足しました。それがディレクトワールと呼ばれる「総裁政府」です。
この「総裁政府」は、最初から不安定で、テルミドール派の国民公会から引き継いだ破壊状態の国庫と経済をどうするのかが最大の課題でした。
ナポレオンが支配するまでの四年間、この総裁政府がフランスを掌握しました。この政府の弱体振りをみれば、四年間もよく維持できたと感心するくらいです。新政府の政治思想は、「白い帽子をつけず(王党派に傾かず)、赤い帽子もかぶらない(民主主義にも傾かない)」という中道政治でした。
この政治理念を貫こうとした総裁政府は、右(王党派)と左(民主派)から迫る脅威を取り除くために、絶えずクーデターに頼らざるを得ませんでした。最後のクーデターが「ブリュメール十八日のクーデター」で、権力をナポレオンに手渡すことになります。
三分の二法に基づいて選挙が行われたので、新しい立法府である五百人会議でも元老会議でも、国民公会の前議員が多数派を形成しました。
新しく総裁に選ばれた五人のメンバーは、バラスを除けば、いずれもブルジョワ出身で熱烈な愛国者でまじめな共和主義者でした。しかも、全員が国王裁判で有罪に投票した弑逆者でした。
金で刺繍をしたオレンジ色と赤色の外套。ぴったりと身体にあった上着。白い絹のズボン。十字に佩びた剣、三色の羽毛の付いた帽子。
目がちかちかしてしまいそうですが、ブルジョワ的虚栄心や過去の貴族を模倣したわけではないのです。当初から弱体であった政府を少しでも立派に見せようと、彼らなりに工夫したのでした。 衣装についてもう少し詳しく知りたい方はこちら→
ちなみにこの頃の風俗は乱れていたと言われていますが、実際には社会の上層部のみが腐敗しているだけで、誠実な共和主義者たちはこのような紊乱は旧体制を思い出させるものと嫌悪していたようです。政府内で放恣な社交界の仲間入りをしていたのは、元子爵のバラスと元司教のタレーランの二人だけでした。
財政は崩壊状態でした。アッシニアの減価はもはや救いようがありません。総裁政府が成立した1795年10月27日、アッシニア紙幣2000フランに値したルイ金貨は、11日後には3000フランになり、四ヶ月後には7000フランに上昇するという狂乱振りでした。
1795年12月23日、アッシニアは発効禁止になりました。
1796年3月、財務大臣ラメルはアッシニアの回収を図り、マンダー・テリトリアルという土地証券を発行することにしました。アッシニアは1対30の割合でマンダーと交換されることになったのです。
この割合でいけば、今流通しているアッシニアはマンダーで8億になるはずでした。 しかし、マンダーに対する信用は初めからありませんでした。発効の日である4月11日でさえ、既に額面価格の82%しか信用されていませんでした。9月までに発行額は当初の予定8億を大きく上回り24億に達し、その信用度は5%に下落してしまいました。
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