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一言で説明すると…数々のクーデターで疲弊していた政府は、新しく総裁になったシエイエスを中心に、最後の手段に訴える決意をしました。つまり、最も人気のある軍人ナポレオンと同盟して、ブルジョワ共和国を維持しようとしたのです。 |
第二次対仏大同盟や戦局の悪化などにより、フランス国内では政局の動揺が始まりました。
プレリアル三十日のクーデター |
1799年4月の選挙では多数の新ジャコバン派議員が当選しました。総裁政府最大のピンチです。もはや合法的に不法を行うことはできません。
政府は6人の議員を例外として他の新人議員を全て認めざるを得ませんでした。その結果、新しい議員315人中、政府を支持する議員は約70人、残りの多くは反政府に立つジャコバン派です。
フロレアル二十二日のクーデターで不当な追放に遭い、今返り咲いたジャコバン派の当選者達は、積年の恨みを込めて総裁政府を攻撃し始めました。
まず、ルーベルの後任としてシエイエスを総裁に指名しました。議会はさらに、他の三人の総裁(トレーヤール、メルラン、ラ・ルヴェリエール)を引き摺り下ろし、大して有能でない三人(ゴイエ、ロジェ・デュコ、ムーラン)と交替させました。これにより、シエイエスとバラスが主導権を握ったことになります。これまで無視されつづけてきた議会が政府に対して行った報復のようなこのクーデターをプレリアル三十日のクーデターと呼びます。(1799年6月18日)
プレリアル三十日のクーデターの結果、ジャコバン・クラブは1799年6月18日に再開されました。愛国的で平等主義的な風潮に押されて、議会は三つの政策を決定しました。
当然の事ながら、以上の政策には強い反対が起こり、ジャコバン反対が叫びが各地から上がりました。ジャコバン派にはそれに対抗するだけの力がなく、孤立しました。
8月13日、警察長官に任命されたばかりのフーシェが、簡単にジャコバン・クラブを解散してしまいました。
今までエジプトに閉じ込められていたナポレオンは、残務処理をクレーベル将軍に託して、8月28日密かにエジプトを脱出し、10月9日、南仏のフレジュスに到着しました。彼は沿道の歓迎を受けながら、その5日後にパリに到着しました。
ナポレオンを迎えて、フランス革命の最後のクーデターが密かに画策されました。舞台の表面ではバラスとシエイエス、影ではフーシェとタレーランが動きました。それぞれの立場、思惑を見てみましょう。(ナポレオンの思惑はこちら→)
共和国第八年ブリュメール十八日(1799年11月9日)の朝、臨時に召集された元老会議はジャコバン派の陰謀があることを理由に、立法政府らパリからサン・クルーに移動すると言う布告を出しました。
陰謀が事実ならば、これは憲法に基づいた妥当な処置でした。しかし、実際は架空の陰謀を口実に、恐るべき本当の陰謀が企てられていたのです。
ナポレオンは両院の移動を監督し、その安全を保障する任務が課されました。彼は元老会議に赴いて宣誓しテュイルリー宮殿で閲兵した後、兵士を前に総裁政府に対する非難を込めて演説しました。
かねてからの打ち合わせ通り、シエイエスとデュコは引責辞任しました。他の三人の総裁は辞任を強要されました。
ここまでは筋書き通りです。しかし、この先は簡単ではありませんでした。
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