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 12.革命は終わった  

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12.革命は終わった
  1. フロレアル22日のクーデターフリュクチドールのクーデターで王党派ら右翼勢力を一掃した総裁政府は、その反動として力をつけてきた左翼の弾圧を図ります。フロレアルのクーデターで議会から左翼も追い出した政府には奇妙な安定が生まれ、その間に経済や産業の建直しに取りかかります。
  2. エジプト遠征と第2次対仏同盟大陸内で勢力を拡大したフランスは打倒イギリスを目指し、ナポレオンはエジプトに進出します。しかし、そこでもイギリスに敗れ、退路を絶たれたナポレオンは滞在を余儀なくされます。これにより、大陸における反仏が復活し、イギリスを中心に「第2次対仏同盟」が結成されます。
  3. プレリアル30日のクーデター数々のクーデターで疲弊していた政府は、新しく総裁になったシエイエスを中心に、最後の手段に訴える決意をしました。つまり、最も人気のある軍人ナポレオンと同盟して、ブルジョワ共和国を維持しようとしたのです。
  4. ブリュメール18日のクーデターナポレオンはかねてからの計画どおり、五百人会議元老会議とを説得しようとしましたが、両院は荒れて反対にナポレオンが告発されかねない状況でした。弟リュシアンの冷静で機敏な行動が彼を救います。リュシアンは軍隊を動かして両院をあっさり制しました。
  5. 共和国8年の憲法1789年から続いた「フランス革命」共和国8年の憲法で幕を閉じます。待っていたのはナポレオンの軍事独裁。独裁者を倒した革命は、新たな独裁者を作りました。革命は終わりました。

iii. プレリアル30日のクーデター

一言で説明すると数々のクーデターで疲弊していた政府は、新しく総裁になったシエイエスを中心に、最後の手段に訴える決意をしました。つまり、最も人気のある軍人ナポレオンと同盟して、ブルジョワ共和国を維持しようとしたのです。

プレリアル三十日のクーデター Cout d'Etat du 30 Prairial

第二次対仏大同盟や戦局の悪化などにより、フランス国内では政局の動揺が始まりました。

プレリアル三十日のクーデター

1799年4月の選挙では多数の新ジャコバン派議員が当選しました。総裁政府最大のピンチです。もはや合法的に不法を行うことはできません。

政府は6人の議員を例外として他の新人議員を全て認めざるを得ませんでした。その結果、新しい議員315人中、政府を支持する議員は約70人、残りの多くは反政府に立つジャコバン派です。

フロレアル二十二日のクーデターで不当な追放に遭い、今返り咲いたジャコバン派の当選者達は、積年の恨みを込めて総裁政府を攻撃し始めました。

まず、ルーベルの後任としてシエイエスを総裁に指名しました。議会はさらに、他の三人の総裁(トレーヤール、メルラン、ラ・ルヴェリエール)を引き摺り下ろし、大して有能でない三人(ゴイエ、ロジェ・デュコ、ムーラン)と交替させました。これにより、シエイエスバラスが主導権を握ったことになります。これまで無視されつづけてきた議会が政府に対して行った報復のようなこのクーデターをプレリアル三十日のクーデターと呼びます。(1799年6月18日)


ジャコバンクラブ閉鎖

プレリアル三十日のクーデターの結果、ジャコバン・クラブは1799年6月18日に再開されました。愛国的で平等主義的な風潮に押されて、議会は三つの政策を決定しました。

  1. 全面的な徴兵制の実施…今まで除外されていた階級も徴兵の対象となった。
  2. 強制借款法…徴兵の経費をまかなうために一億フランを裕福な市民から強制的に借り上げる。
  3. 人質法…南部や西部でまだ横行していた反革命のテロリズムに対応するため、亡命者や貴族の家族を人質に取り、官吏や軍人などが一人暗殺されるごとに4人の人質を流刑にするか賠償金を取りたてる。

当然の事ながら、以上の政策には強い反対が起こり、ジャコバン反対が叫びが各地から上がりました。ジャコバン派にはそれに対抗するだけの力がなく、孤立しました。

8月13日、警察長官に任命されたばかりのフーシェが、簡単にジャコバン・クラブを解散してしまいました。


ナポレオン帰還

今までエジプトに閉じ込められていたナポレオンは、残務処理をクレーベル将軍に託して、8月28日密かにエジプトを脱出し、10月9日、南仏のフレジュスに到着しました。彼は沿道の歓迎を受けながら、その5日後にパリに到着しました。

ナポレオンを迎えて、フランス革命の最後のクーデターが密かに画策されました。舞台の表面ではバラスシエイエス、影ではフーシェタレーランが動きました。それぞれの立場、思惑を見てみましょう。(ナポレオンの思惑はこちら→)

  • バラスナポレオンを熟知している。
  • シエイエス…強力な政治指導を求めて憲法の改正を考えており、そのためにはクーデターしかないことを認めた。彼は言った。
    「私は偉大なナポレオンとともに進もうと思う。なぜなら、あらゆる軍人の中で彼はまだしも最も市民的であるからだ。」(シエイエスの思惑はこちら→)
  • フーシェ…かつてのテロリストである彼は、テルミドール以後低い地位に甘んじてきたが、機を見るのに優れており、ナポレオンに賭けた
  • タレーラン…フーシェと同様、自分の地位や財産を確保するためナポレオン擁立に動く。


ブリュメール18日のクーデター Coup d'Etat du 18 Brumaire

共和国第八年ブリュメール十八日(1799年11月9日)の朝、臨時に召集された元老会議ジャコバン派の陰謀があることを理由に、立法政府らパリからサン・クルーに移動すると言う布告を出しました。

陰謀が事実ならば、これは憲法に基づいた妥当な処置でした。しかし、実際は架空の陰謀を口実に、恐るべき本当の陰謀が企てられていたのです。

ナポレオンは両院の移動を監督し、その安全を保障する任務が課されました。彼は元老会議に赴いて宣誓しテュイルリー宮殿で閲兵した後、兵士を前に総裁政府に対する非難を込めて演説しました。

かねてからの打ち合わせ通り、シエイエスとデュコは引責辞任しました。他の三人の総裁は辞任を強要されました。

ここまでは筋書き通りです。しかし、この先は簡単ではありませんでした。


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ii.エジプト遠征と第2次対仏同盟へ v.共和国8年の憲法へ→
iii.プレリアル30日のクーデターへ

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