ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしたものを多少加工しました。

出来事・用語 あ行



アッシニア(2) (H11.11.30.UP)
Assignat
1789年から1797年の間に流通した不換紙幣
500リーヴルの
アッシニア紙幣

1789年12月に初めて発行された国庫債券。アッシニアとは「支払いに当てる」と言う意味。当初は紙幣として流通させるつもりはなく、没収した教会財産を国有化し、その国有財産の引換券として、引き換えが済めば廃棄される予定だった。最初の発行は4億リーヴル、翌年から大増発した。

アッシニアは議会が予想したほど信頼されなかったが、政府はアッシニア以外の負債返済方法がなかったので、しかたなく強制通用力を持つ紙幣として増発を続け、無利子・強制通用により紙幣化を図った。このためインフレとなり、亡命貴族や国王の財産を国有化する際に保証を求めたが間に合わず、発行総額455億リーヴル、減価率97%にまで達した。

1797年2月、廃止に踏み切り、3.33%で土地為替と交換した。 アッシニア紙幣をクリックすると大きな画像になります→

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アンシャン・レジーム(2) (H11.11.28.UP)
Ancien Regime
革命後の新制度に対する「旧制度」

この言葉は、1790年、ルイ16世に宛てたミラボーの手紙の中で、「以前の制度」もしくは「古風な制度」と言う意味で初めて使用された。それ以来、革命後の新制度に対して使われるようになった。

その示す範囲は、一般的に16〜18世紀の絶対王政を中心とする政治・経済・社会的な体制を言う。これに対し、革命後の近代市民社会をヌーボー・レジーム(新制度)、レジーム・モデルヌ(近代制度)と呼ぶ。

政治的には王権神授説に支えられた絶対君主制であるが、一方国家理性(レゾン・デタ)は発達、官僚機構も整っていく。貴族とブルジョワ、土地と貨幣の間に不安定ながら均衡ができ、王権はこれを利用して支配力を強めるが、末期には均衡が破れ危機の時代となる。

社会的には、慣習に支配された身分階層的社会で、固有の私法を持つ団体、共同体、組合が無数にあり、個人は無力であった。

精神的には、国家と王冠の宗教であるカトリックに支配され、生活の隅々までその思想が浸透している。

この体制に批判を加えたのが啓蒙主義であり、自然法に基づく人権思想であった。末期には、政治的にも社会的にも矛盾が生じ、フランス革命によって「旧制度」は倒された。

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ヴァレンヌ逃亡(4)
Evenement de Varennes

1791年6月チュイルリー宮殿に住んでいた国王一家(国王、王妃、王妹、王子、王女、子供達の養育係の6人)が巻き返しを狙い、国外脱出を図った。
しかし、二日後、もう少しでオーストリア国境というパリの東方200キロにあるヴァレンヌまで着いたとき、宿の主人に見つかる。
それまで市民達は国王一家に寛大だったが、この事件の後、国王不要論が出てくるようになる。

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ヴァンデの反乱(1) (H12.1.12.UP)
Guerres de Vendee
ヴァンデ地方に起こった王党派による反革命の反乱。

人権宣言はこの地に受け入れられたが、聖職者基本法は不信を生み、とりわけ1793年2月に国民公会の発した「30万人募兵」は農民の憤激を引き起こし、3月11日、メーヌ・エ・ロワーヌ県ショレの人々が決起、わずか10日余りの間にフランス西部の3分の2の地域で騒乱状態となった。

反乱の理由については、都市への反感、貧農の反税闘争といった伝統的な動機と並んで、国有財産売却の際に利益を得たブルジョワに対する自営農民層の反発、反キリスト教化政策への敵意など、革命の進展と密接に関連する要因が数えられる。

女性、子供をも含め10余万人に登った蜂起の軍勢は6月末、ナント攻撃の失敗により英仏海峡を目指して転進した。しかし、グランヴィルの前面で退けられ、共和国軍に一掃され12月末に壊滅した。

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ヴァントーズ法(風月法) (H11.2.26.UP)
Decrets de Ventose
サン・ジュストが提案した法案。

1794年2月26日(革命暦ヴァントーズ<風月>8日)、サン・ジュストによって国民公会に提出され、満場一致で可決された法案。

内容は、反革命容疑者(革命に協力的でない貴族、上級ブルジョワジー、金融業者、大地主など)の財産を没収して、無料で貧しい愛国者に分配する、というもの。それにより、土地のない人々を小土地所有者にし、ルソーが望んだ「金持ちも貧乏もない」平等社会を実現しようとした。

この法案に対する議員達の反応は複雑である。確かに結果は満場一致ではあったが、 大多数の議員は内心反対していた。積極的に勧めようとしているのはロベスピエール派の約10人の議員であり、残りの550名の議員は反対だった。

理由は簡単明瞭。議員自身の多くが大土地所有者だったので、自分達の財産を意味もなく貧民に差し出すことなど、そもそもできない相談だった。この中には150名の山岳派議員もいた。彼らのほとんどは中級ブルジョワジーを代表しており、自身もかなりの資産家だったので、このような法案には賛成しかねる。

また、平原派400名の議員のほとんどは大ブルジョワジーの利害を代表していたから、さらに反対である。

このようにほとんど全員が反対だったにもかかわらず、満場一致で採決されたのは、ロベスピエールを恐れていたからばかりではない。この法案が提案された当時、国民公会全体がダントン派とエベール派に攻撃されており、特にエベール派は貧民の暴動を煽動し、国民公会の転覆を図っていたので、そのようなときにヴァントーズ法を公布すれば、貧民の支持を得ることができると見たからである。

実際、そのような効果もあり、貧民達が国民公会に目を向けた間を縫って、エベール派と続いてダントン派を処刑した。問題はその後である。大多数の議員はこれでヴァントーズ法の役目は終わったと思っていた。しかし、ロベスピエール派は本気でこれを実行しようとしていたのだから、多数派議員は押しとどめようと躍起になった。

そして、ロベスピエール派と反対派の慢性的な対立が続き、国民公会だけでなく、公安委員会の内部においても激論が交わされ、ロベスピエール派は次第に孤立し、これが「テルミドールの反動」を招く一因となった。

この法案は本当に貧民が待ち望んでいたものかどうかは、歴史家によって意見が違う。土地よりも日々のパンを望んでいた貧民はこれを冷ややかに見ていた、という説と、もっと具体的に推し進めてもらいたがっていた、という説がある。しかしながら、仮にテルミドールの反動がなかったにせよとしても、理想主義に走りすぎたこの法案はおそらく実現不可能だったと思われる。

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ヴェルサイユ宮殿(3) (H19.6.13.UP)
du Palais de Versailles

ルイ14世がパリの近くに建てた華麗なる宮殿。

ルイ14世が贅の限りを尽くして、パリの近くのヴェルサイユに建てた宮殿。

絶対王政時代を象徴する豪華絢爛な宮殿で、1664年から1789年にかけて、ルイ14世15世16世が数千人の貴族と共に住んでいた。日夜貴族達が華やかで浅薄な享楽に生活し、ほしいままの権勢がここに集約されていた。

初めはルイ13世が狩猟用の別荘としていたが、ルイ14世の命令で1668年ル・ボーが翼屋を拡張し、マンサールが改造増築した。

マンサールは長大な翼屋を南北に延長させるなど、大宮殿の形式を整え、またアカデミー総裁の画家ル・ブランと協力して絢爛豪華な「鏡の間」を設計した。

壮大な幾何学的な庭園はル・ノートルが設計した。この巨大な庭園の中にマンサールが設計した大トリアノン、またルイ15世の命令によってガブリエル設計のプチ・トリアノンが配置されている。

1789年10月のヴェルサイユ行進までは、議会(全国三部会、国民議会、立憲議会)が置かれていた。

1919年、第一次世界大戦の後、処理のための「ヴェルサイユ条約」の締結を「鏡の間」で行うなど、フランスの数々の歴史の舞台となっている。 現在、宮殿は博物館になり、観光地として有名。

多くの君主がこの宮殿を真似したが、その中でも、バヴァリアの狂王ルトヴィヒ二世が造ったノイシュヴァンシュタイン城は特に有名。

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ヴェルサイユ行進(3)

1789年10月、数千人の女性を中心としたパリ市民が、国王と王妃に「人権宣言」を認めさせようとしてヴェルサイユに押しかけた事件。女性達の後にラファイエット将軍の率いる市民軍も続いた。
この日、ルイ16世マリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿を離れた後、この宮殿には二度とフランス国王が住むことはなかった。
パリ市民達はルイ16世に「人権宣言」を認めさせた後、国王一家をパリのチュイルリー宮殿に住まわせた。

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エジプト学
ナポレオンのエジプト遠征により発達した学問。 (H11.5.12.UP)

ナポレオンの遠征そのものは失敗に終わったが、これによりエジプトが世界に知られるようになった。 ナポレオンがエジプトにかける夢は並ではなかった。そのことが端的にわかる資料として、随員の構成を示すと次のようになる。

参謀本部(総司令官はナポレオン) 143人 軽歩兵隊 5403人
砲兵参謀 67人 戦列歩兵部 19,669人
工兵参謀 66人 偵察部隊 480人
主計官 26人 騎兵 2810人
衛生士官 168人 砲兵・工兵 3155人
財務官 41人 軍団将校 2270人
食糧経理部 445人 学者・芸術家 167人

この学者・芸術家の内訳は、数学者、医学者、天文学者、民間技師、博物学者、鉱山技師、地理学者、火薬学者、建築技師、デッサン画家、機械技師、彫刻家、通訳、文学者、ラテン語・ギリシャ語・アラブ語の活字を携えた印刷工、測量技師、鉱山学者、医者、考古学者、化学者、東洋学者、版画家、詩人、画家、ピアニストなどなど。このように幅広い人材を連れてきたナポレオンの熱意にはすごいものがある。

当然の事ながら、これによりエジプト学の研究は大幅に進み、やがて24巻からなる<「エジプト誌」という、古代エジプトの遺跡に関する信頼できる最初の書物で、19世紀のエジプト学発展への刺激剤となった。

また、ロゼッタ・ストーンなどの重要な発見もなされたり、版画家ヴィヴィアン・ドノンのてこ入れで出版された「エジプトの描写」基本的な資料として今日でも位置付けられている。

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