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一言で説明すると…ナポレオンがイタリアに遠征している間、国内では王党派のまき返しが始まろうとしていました。右翼の力を抑えるため、総裁のバラスはまたしても軍事力を使って、フリュクチドールのクーデターを成功させました。 |
1797年、ナポレオンがイタリアに遠征しているも間も、フランスの社会は相変わらず揺れていました。
インフレがますます進行しました。「土地手形(マンダー・テリトリアル)」は額面価格の2%まで下落し、これでは通貨とはとても言えません。1797年2月、政府は紙幣を廃止し、硬貨への復帰を宣言しましたが、硬貨も不足していました。1795年〜96年に鋳造された硬貨はわずかに3200万フランでした。一方、ナポレオンがイタリア戦線で勝ち取った莫大な戦利品や賠償金は、総裁政府の財政再建に多いに貢献し、ナポレオンの独断を快く思っていなかった政府の不満を緩和しました。
一方、革命の進行が鈍るにつれ、貴族や僧侶らの亡命者が次々に帰国し始めました。もちろん正々堂々と帰国できるわけではなく、偽の居住証明書が必要でした。彼らは自分達の身の保全のため、王党派に加担しました。
バブーフ派の裁判がようやく終わり、その動揺が収まっていない1797年3月から4月にかけて、両院の三分の一を改選する最初の選挙が行われました。この選挙では予想通り反ジャコバン派が勝利し、右翼の躍進ぶりは目を見張るものがありました。
右翼台頭の原因として考えられるのは、通貨の安定と社会困窮の解消を期待されながら、これに応えることのできない総裁政府への不満が投票に現れたと言うことでしょう。216名の改選議員の内、再選されたのはわずかに13名で、新人議員は大部分が立憲王制の賛成者か王党派でした。
王党派の将軍ビシュグリュが五百人会議の議長になり、総裁ルトゥルヌールに代わって、名高い王党派のバルテルミーが総裁に加わりました。
反動が勢いを増してきました。
総裁間の確執が日増しに強くなりました。王党派のバルテルミーがカルノーと結び、共和主義者のルーベル、ラ・レヴェリエール・レポと対立しました。五人の総裁のうち、去就が決まらないのは、日和見主義のバラスだけです。
バラスの決断が全てを決定しました。彼は反右翼の立場を取り、武力で右翼を弾圧することにしたのです。
しかしながら、ヴァンデミエールのクーデター(1795年10月5日)を成功させたナポレオンはイタリア遠征中です。そこで、ナポレオンが派遣したオジュローの軍隊の支援を得て、総裁政府は反対派を一掃することにしました。
フリュクチドール(実月)十八日(1797年9月4日)、パリは軍隊の制圧下に置かれました。これを「フリュクチドールのクーデター」と言います。
総裁カルノーとバルテルミー、そしてビシュグリュを含む13名の議員の逮捕が命じられま した。9月5日には198名の議員の当選を無効にし、カルノーら33名をギアナに流刑しました。(ここの数字には諸説あります。)
欠員になった二人の総裁には、左翼の大臣、メルラン・ド・ドゥエ(司法)とフランソワ・ド・ヌーシャトー(内務)が選ばれました。
クーデターは成功し、再起しようとする王党派に決定的打撃を与えました。しかし、総裁政府も取り返しのつかない傷を負いました。軍隊の力を頼りに憲法を否定する暴挙を敢えてしたからです。
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