人生の終わり方 ま行 




マリア・テレジア Marie Theresia (H11.6.3.UP)
1717.5.13-1780.11.29 享年63歳。 急性肺炎で死亡。 オーストリアの女帝。マリー・アントワネットの母

1780年11月8日、シェーンブルンの雉狩りを見物に出かけて大雨に遭い、それが元で急性肺炎にかかった。11月26日の夜、トスカーナにいる次男レオポルト夫妻に別離の手紙を書き、28日の早朝、臨終の秘蹟を受け、子供達ひとりひとりに別れを告げた。最後に「フランス王妃マリー・アントワネット」の名を口にした時、思わず嗚咽に咽喉を詰まらせてしまったという。そして、翌29日の夕刻、崩御した。

マリー・アントワネットにとっても母の死の衝撃は大きかった。知らせを受けたとき、すぐ兄に手紙を書こうとしたが、涙が止まらず、「書いている字がもう見えません」と訴えた。

王位継承者を生まないマリー・アントワネットを最後まで心配していたが、王妃が待ちに待った王子を出産したのは、マリア・テレジアが逝去してから一年後のことである。ハプスブルク家の血を受け継ぐ未来のフランス国王の姿を見ることができなかったのは、残念だったが、愛する娘が革命で命を落とすのを見なかったのは、何よりも幸運なことだったに違いない。

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マリー・アントワネット Marie-Antoinette (H11.6.4.UP)
処刑場に向かうマリー・アントワネット
刑場へ
ダヴッドによるスケッチ
1755-1793.10.16 享年37歳。 処刑。 フランス王妃。

10月16日朝5時からパリでは太鼓が叩かれた。かつてのフランス王妃マリー・アントワネットの処刑の日である。

死刑判決が出たのは1時間前の午前4時。判決は裁判が始まる前に決まっていた。裁判長から異議申立てがあるかどうか聞かれても、マリー・アントワネットはただ首を振るだけだった。

コンシェルジュリー牢獄に戻ると、いつも支えてくれた義妹エリザベートに最後の手紙を書いた。尤もこの手紙は検察官フーキエ・タンヴィルが握りつぶして義妹のところには届かなかった。

マリー・アントワネットは疲労とずっと悩まされつづけてきた下血のため憔悴しきっていた。コンシェルジュリーにいる間いつも優しく使えてくれた女中のロザリーが差し出すスープを一口二口飲んだ後、着替えをしようとしたが、見張りの憲兵がそばを離れようとしない。見かねたロザリーが王妃の前に立ちはだかって、憲兵の視線から王妃を守った。そして、王妃は汚れた下着を破れた壁の穴に隠した。

8時に裁判所から遣わされた宣誓司祭が「聖職のつとめ」をしようとしたが、宣誓僧侶の申し出を受け入れるはずがない。10時死刑執行人サンソンが現れ、髪の毛を切る。

11時、刑場に向かう。ルイ16世処刑されたときは、幌付きの場所に乗せられたが、マリー・アントワネットは通常の罪人と同じ扱いの荷車に乗せられ、その姿を大衆にさらされながら処刑場に向かった。背筋をピンと伸ばして人々の罵詈雑言に耐えているマリー・アントワネットの姿をダヴィッドがスケッチしている。

12時を少し回った頃、馬車は革命広場に到着した。王妃は誰の手も借りずに馬車を降り、断頭台の木の階段を黙々と登った。壇上でサンソンの足を過って踏んでしまうと、ごく自然に優雅な言葉が出てきた。

「ごめんあそばせ。わざとやったのではありませんの」

それから数分後に処刑が終わった。最後の言葉はただ一言、「急いでください」だったと言う。

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王の隠し戸棚から
ミラボーの骸骨が現れた!!
ミラボー comte de Mirabeau

1749-1791 享年42歳。 病死。 貴族の出身だったが、シエイエスと同じように第三身分から議員に選ばれた。王党派。

1971年の春に生前の浪費と過労がたたり、突然病死した。その葬儀は盛大で、革命の偉人を埋葬するパンテオンの第一号となった。しかし、死後、王室との癒着が発覚したため、名誉は剥奪され、遺体はパンテオンから引きずり出された。


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