ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。

 人物スケッチ た行


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フランス語のアクセント記号は、文字化けするので省略してます。正しくは書籍などを参考にしてください。



ダヴィッド(ジャック・ルイ・ダヴィッド)1748-1825 (H11.8.14.UP)
Jacques Louis David

フランス革命の証言となる名作を数多く残した画家兼革命家(?)。
ダヴィッド

パリの生まれ。J・ビアンに指示し、1774年ローマ賞を得て、1775年から5年間イタリアに留学。ロココ様式から次第に簡潔で厳格な新古典主義へと移行していった。

イタリア留学中、そこで古代芸術に感銘を受け、『ホラティウスの近い』や『ソクラテスの死』を描いた。

革命期にはジャコパン派としても活動し、『マラーの死』などを描いた。中でも『処刑場に向かうマリー・アントワネット』のスケッチは絶品。短い間に書き上げたデッサンだが、王妃の威厳と深い悲しみが込められていて見る者を感動させる。

ナポレオン台頭後は、ナポレオンの主席宮廷画家となり『ナポレオンの戴冠式』や馬に乗るナポレオン(画題を忘れてしまった)など数多くの絵を描いて画壇に君臨、アングル、グロなどの弟子を育成した。

ナポレオン失墜後は、ルイ16世の死刑に賛成票を投じたことにより、当局より追及され、国外追放となり、ブリュセルに亡命。若干の肖像画を制作し、同地で没した。

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ダランベール (ジャン・ル・ロン・ダランベール)1717〜1783 (H18.5.15.UP)
ダランベール

Jean Le Rond d'Alembert

ディドロに協力して「百科全書」を編集した数学者・哲学者

貴族の私生児として生まれたが、教会の階段の脇に捨てられ、ガラス職人の妻アランベールに育てられた。勉学に勤しみ、動力学の基本原理である慣性力を導入し、動力学を静力学として扱う道を拓きましたガラス職人の妻アランベールに拾われて養育された。

その後、勉学に勤しみ、動力学の基本原理である慣性力を導入し、動力学を静力学として扱う道を拓く。著書『動力学概論(1743)』で剛体の運動の理論を整えて解析力学の基礎を築くなど、多くの科学上の業績がある。

また、ディドロに協力して『百科全書』を編集、その序論と数学の項目を執筆したが、政府の弾圧により途中で断念した。

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タリアン1767.1.23.-1820 (H11.3.2.UP)
Tallient

テルミドールの反動の首謀者

パリの旅館の息子として生まれる。革命初期からの熱心なジャコバンクラブの一員で、八月十日の革命でパリ・コミューンの書記となり、「九月の虐殺」に加わる。国民公会議員に選出され、山岳派の一員として保安委員会に入り、国王の処刑賛成。ジロンド派への激しい攻撃を行い、マラーを弁護した。

政敵から恐れられていた彼は、ボルドーに派遣され、そこでジロンド派分子に対する容赦ない粛清を行った。この時、ボルドーのル・アー要塞につながれていた元フォントネ侯爵夫人すなわち、運命の女性テレーズ・カバリュスに会う。彼は、美貌で放恣なテレーズにすっかり骨抜きにされ、職権乱用で彼女の知り合いの政治犯を次々と釈放し、同時に私腹を肥やした

そのことがロベスピエールに知られ、パリに戻された。後を追ったテレジアは投獄される。処刑されるかもしれないと思ったテレジアは、タリアンを脅し、とうとうタリアンはバラスと共にテルミドールの反動ロベスピエールらを倒す決意をする。本人もこれが成功するとは思っていず、テレジア愛しさの自殺行為に近かったが、偶然に偶然が重なり、思いもかけず成功した。議会で担当を振りかざしながらロベスピエールを告発するなどの決定的な役割を果たした彼は一躍、時の人となる。

タリアンとテレザは結婚するが、テルミドールの反動後、一年も経たずにタリアンの権力は弱まった。その一方で、軽佻浮薄のテレジアはタリアンの同士だったバラスの愛人になったり、次々と派手な男性遍歴を繰り広げ、とうとう1802年、テレジアに捨てられる形で二人は離婚した。その後、大したこともせず、忘れられた人となった。

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タレーラン=ペリゴール1753-1838
Talleyrand (H11.4.12.UP)

一筋縄ではいかないしたたかな政治家。

伯爵家に生まれたが、幼い頃の事故で片足が不自由になり、聖職者になるように教育された。1788年、サン=ドニ司祭を経て、オータンの司教となる。翌年の三部会には聖職者代表として選出された。

立憲議会で教会財産の国有化を提案。地方分権のため新行政区画案を支持するなど、地方革命派僧侶として活躍した。 1790年の連盟祭ではシャン・ド・マルスでミサを捧げた。僧侶基本法による宣誓とオータンの司教領放棄により教皇の非難を受け、1791年聖職を離れる。

親英派の彼はイギリスに渡って国交調整に当たったが、1793年の断交によりイギリスに留まる。1796年、帰国して総裁政府外務大臣となり、外相を辞職してからは、シエイエスバラスらと共にナポレオン擁立の陰謀を画策し、ブリュメール以後、外務大臣に再任。多くの条約の締結にあたるが、やがてナポレオンの侵略的対外政策と対立。1807年に辞任してからは、ナポレオン帝国の没落が近いと見て、皇帝の敵と密かに通牒し、その失脚を図った。

1814年以降の王政復古では、ルイ16世の弟ルイ18世を王位に就け、自身は外相に就任。ウィーン会議で正統主義を主張し、巧妙に列国を牽制した。のち、ルイ・フィリップの元では駐英大使となり、四国同盟締結に成功した。引退後はパリで病死。

華麗な女性遍歴を持ち、「民衆を導く自由の女神」を描いたウジェーヌ・ドラクロワの父親でもあることは確かなようだ。

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ダントン1759-1794
George Jacques Danton (H11.8.11.UP)
おすましダントン

ジャコバン派。豪放磊落な人気者。

シャンパーニュ地方の農家生まれる。二歳で父を失い、母は再婚。腕白小僧で、パリに出て法律事務所の見習いとなり、ディドロなど百科全書派の影響を受ける。

1787年、国王顧問会議付弁護士となり、革命に共感。国民軍に参加し、1789年9月、コルドリエ地区の議長に選ばれ、1790年、コルドリエ・クラブを作り、シャン・ド・マルスの共和制請願に参加。容貌魁偉で雄弁な彼はたちまち民衆の人気者になる。

ルイ16世の退位を求める請願文の作成の責任を問われ、一時イギリスに逃れるが、1791年末に帰国し、パリ・コミューンの第二助役となる。

ブリッソーに接近したが、のち山岳派になり、八月十日の革命を扇動し、その後、ジロンド派内閣の元で法務大臣となる。

「勇気が、さらに勇気が、常に勇気が必要なのだ」という有名な演説は、1792年9月、敵軍の侵入に動揺する議会と政府の指揮を鼓舞し、ダントンを救国の英雄にしたが、直後の「九月の虐殺」では、阻止できる立場にいたにもかかわらず、何もしなかった。

その後、国民公会議員に選ばれ、国王の処刑にも賛成票を投じ、山岳派の指導者の地位を確立していく。

しかし、買収されやすく私有財産も突然増えたと言う評判が立ち、ジロンド派議員によって汚職を追求されはじめる。

一方で、国内諸勢力を団結させようと積極的に活動し、また、革命裁判所公安委員会創設にも貢献した。ベルギーに派遣され、デュムーリエと接触。これがのちにダントン告発の遠因ともなる。次第に盟友ロベスピエールらとの対立を深め、ついに公安委員会からも締め出される

恐怖政治が始まると、政治への熱意が薄れたようで、ひたすら若い新妻と共に過ごし、同僚達はこれを倫理観の欠如であると考えた。彼自身も、几帳面なロベスピエールが支配する道徳的雰囲気の中では、長生きできないと悟っていたようでもあるらしい。

結局、彼は収賄の疑いを持たれ、「寛容派」として1794年4月、カミーユ・デムーランらと共に処刑された。

彼が国民の英雄なのか、それとも単なる日和見主義者なのか、歴史家達の間でも意見の分かれるところである。

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