良い子は信じちゃいけません
超偏向極私的 各話解説
(ウド編)

 

アストラギウス銀河をまっぷたつに分けた、バララントとギルガメスのふたつの星系が、砲火を交えて百年。
両陣営の疲弊は極みに達し、ようやく終戦の燭光が見え始めた大戦の末期。辺境の小惑星、リドの漆黒の闇の中で、物語は始まった…


[1話 終戦][2話 ウド][3話 出会い][4話 バトリング]
[5話 罠][6話 素体][7話 襲撃][8話 取引][9話 救出]
[10話 レッド・ショルダー][11話 逆襲][12話 絆][13話 脱出]

 ……と、いうわけで、このコーナーも漆黒の闇から始まります。
 勿論、1話を除いてウド編のメイン舞台となるのは、その名の通りウドの街ですが、ここも、「常夏」ならぬ 「常夜(とこよ)の不夜城」(形容矛盾?)、もっとわかりやすく言うと、「朝と昼のない新宿歌舞伎町状態」という印象がありますね。
 爆撃でできた(?)クレーターの底にできた街だから、下層部には日光が届かなかったりするのでしょうか。クレーターの上層部や、ヘリの視点から時折見える「青空」に、「おっ!」と思っても、カメラが下層に映ると、いつに変わらぬ ネオンの街並みだったりして……「この街の人間は、もしかしてお天道様を拝むことが、ほとんどないんじゃない?」なんて要らぬ 心配をしてしまいます(^^;;)。
 キリコ達が動き回る背景にも、常に、ネオンやサーチライトがあったか、でなければ、下水道とか地下道とかばかりだったような……

 ともあれ、『ボトムズ』TVシリーズにおける4つのメイン舞台の内、視聴者にもっとも強烈な「世界観」を印象づけたのは、このウドだったと言っても過言ではないでしょう。

破壊の後に住み着いた欲望と暴力。百年戦争が生み出したソドムの街。悪徳と野心、頽廃と混沌とをコンクリートミキサーにブチまけた、ここは惑星メルキアのゴモラ。(第2話予告より)

牙を持たぬ者は生きてゆけぬ暴力の街。あらゆる悪徳が武装するウドの街。ここは百年戦争が産み落とした惑星メルキアのソドムの市。(第3話予告より)

 ……等々の形容は、ウドの街だけに留まらず、『ボトムズ』世界全体のイメージとして一般 に定着している感があります。
 試みに、『ボトムズ』でイメージするものは?という問題を出したら、かなりの確率で「ゴミゴミしたガラの悪い街、抜け目のないヤツら、バトリング……」なんて答えが返ってくるのではないでしょうか。後に出た「外伝」や、「ボトムズ風」作品群でも、「ウドっぽい」舞台は、繰り返し採用されていますし。
 が、しかし、そういった作品群が果たして「ボトムズっぽい」かと言うと……少なくとも、わたしにとっては、「NO」です(笑)。「ボトムズと言えばウド」というのが「一般 的な認識」であるとしても、「ウドっぽくさえあれば、『ボトムズ』だ」とは限らないのではないかと……
 さらに言えば、「ボトムズと言えばウド」が昂じて、「ウドっぽくなければ、『ボトムズ』じゃない」といった類の発想の硬直が視聴者(だけでなく制作者にも?)に見られるのは、マイナスなんじゃないかなぁ……なんてことも、個人的には考えていたりもします(^^;;)。
 とある本放送当時からのfanの方とお話ししたときのことですが、その方、『赫奕』で新たに登場した「マーティアル」に対して「ああいうのは『ボトムズ』世界にそぐわない」とおっしゃるんですよ。「真剣に戦争やったり、信仰持ったりしているような人間は『ボトムズ』らしくない」……って。
 思えば、別に「マーティアル」に限らず、「××なのは『ボトムズ』らしくない」という意見は、実は結構昔から、あちこちで見かけるような気がします。
  『ボトムズ』という作品の「マイナー志向」というか、「狭く深い」fan層に愛されるという性質*1上、そういう「保守的」ないし「排他的」な意見が出るのは、ある程度仕方がないことかもしれませんが……しかし、本編を注意深く見れば、「ボトムズ世界」が、その種のありがちな意見よりは、かなりバリエーションに富んだ「懐の広い」世界であるようにわたしには感じられるのです。
 前述の「戦争に対するスタンス」一つとっても、確かに、「ウド」に限れば、どいつもこいつも「真剣」からは程遠いでしょうが、TVシリーズ全編、すなわち「ボトムズ世界」──アストラギウス銀河──全体を見れば、実に様々な人間が登場しています。

・戦後の混乱を抜け目無く逞しく生き抜く人々の「ウド」
・王様から庶民まで、己の理想のためにマジメに戦争している「クメン」
 #その裏では正規軍と傭兵部隊のボスの思惑や野心の錯綜した政治的カケヒキがあったり……
・土地にも人の心にも戦禍の爪痕がまだ生々しい「サンサ」
・文明を捨てて浮き世離れしちゃった人々の住む「クエント」
 #この裏でも、ギ・バ両軍のエライさん達がカケヒキしていたり(^^;;)

 ……と「様々な社会があり、様々な人々がいて、様々な生き方がある(現実のわたし達の世界と同じように)」というのが、わたしの「ボトムズ世界」観です。なので、「マーティアル」のように、TV本編では姿を見せなかった「強大な勢力・権力をもった宗教組織」なんてシロモノが(昔からあの世界にあった、という設定で)突然現れ、イントロでいきなりロザリオ握り締めて祈っている兵士が描かれても、さほど抵抗無く受けとめちゃいました(^^;;)。
 確かに、キリコを初めとするメインキャラは、およそ神頼みなんてしないヤツらだし、そこが視聴者には魅力だったりするわけですが、だからと言って、「あの世界の人間がすべて無神論者でなくてはならない」とは言い切れないと思うのですよ。むしろ、キリコのような「神も仏も知ったことか」って人間*2がヒーローとして輝くには、背景として「信心深い人間の方が多数派を占める世界」がある方が、演出上、有効なような気もしますし……
 というわけで、あの世界の戦乱の原因が、マーティアルの教義によるものであるかどうかはともかく(この辺りって、「オフィシャルな設定」でしたっけ?)、あの荒んだ世界の中で、一般 の兵士や市民の中になんらかの「信仰」を支えにする人々がいても、わたしとしては特に不自然さや違和感は感じていません。
 また、当のマーティアルについては、『赫奕』作中におけるマーティアルの中枢の面 々を見る限りでは、揃いも揃って「信仰」とは無縁のタイプ。そこで繰り広げられた陰謀と権力闘争も、極めて世俗的なものでしたし……。
 #むしろ、あの辺りのニオイは「クメンっぽい」と思う。
 自然、そこから受ける「マーティアル」という組織自体の印象も、(わたしの中では)「宗教団体」というよりは、国家やその連合と同様の「政治組織」といったものになります。
 慢性的な戦争状態によって個々の国家の機能が麻痺していても、なんとか社会全体の秩序が保たれている(惑星間を移動する定期便が出ていたりとか)のは、「国家」の壁を越えた組織が、それをサポートしているから……なんてのも、「リアルっぽい」感じがしませんか?*3

 おっと、だいぶ話が逸れましたね(^^ゞ。ここはウドの話をするところでした。
 まぁ、そんな風に、視聴者の多数に「思い込み」という弊害(言い過ぎかな?)をもたらしてしまったのも、つまりはそれだけ「ウド」が他に比べて群を抜いて印象的だった……ということになるのでしょう。

 では、一体それはなぜか?を考えてみますと……別に小難しい理屈や、膨大な裏設定があるわけではなく、単に作中での「ウド」の描写量・情報量が、他の舞台のそれよりも多かっただけ、という、身もフタもない結論になってしまいました(^^;;)。

 まず第一に、キャラクター。ウド編では、キリコを囲む3人組をはじめ、敵方も、その他大勢のエキストラも含めて、キリコに接するキャラクターはすべて「ウドの住人」なんですよ。
厳密に言えば、1話から密かにキリコを追跡するロッチナや、「謎の組織」の面 々は、「生粋のウドの住人」とは言いがたいのですが、治安警察署長のイスクイ以下、皆ほどよく小者で、ロッチナ以下情報部も表立った行動は取らずに、あくまでも「ウドの街内部の争い」という形でキリコに向かってきてますしね。
 その後のクメン〜クエントへと至るキリコの旅の中でも、彼の目を通じて、視聴者もそれぞれの土地に生きる人々と出会うわけですが、でも、キリコ(視聴者)の最も身近にいるのは、どこにも属さないフィアナや、ウド以来の馴染みであるゴウト達や、ロッチナや、アヤシゲな組織の面 々なわけで。そちらとの関わりに描写が割かれる分、キリコの「地元の人間」との関わりは薄くなる。まぁ、クメン編の終盤のように、キリコを放ったらかしで「地元の人間」だけでドラマを展開しちゃったりという例もありましたが(笑)。

 また、舞台となったウド自体、「街」という単位が「作品世界」を体感するに手ごろな大きさだったという気がします。
 ハードボイルド等では、しばしば、「街」という限定された舞台の中で、主人公の活躍が描かれているものがありますよね。で、「名作」と呼ばれるものになると、「街」は、「背景」や「舞台」を越え、「もう一つの主人公」と言えるほどの存在感を持つとか。生憎わたしはそっち系の小説には詳しくないので、具体例としては、『BANANA FISH』のニューヨーク(ここはやっぱり「NY」と表記したい!)くらいしか思いつかないのですが……(^^;;)。『ボトムズ』における「ウド」には、確かにその種の存在感があったと言えるでしょう。
 クレーターの底の瓦礫だらけの町。酸の雨。バトリングのスタジアム。キリコが紛れこんだ雑踏。ゴウトやバニラが暗躍する地下。
 彼らの視点を通して、いつの間にか自分も作品世界に連れ込まれ、ウドの住人になったかのような、生々しい感覚が、過去の数多のフィクションに登場した「街」に匹敵するものであったとするならば、あるいは、ウド編の主役は、この街自体だと言えるのかもしれません。

 よく「世界観」なんて言葉が使われますが、フィクションにおけるそれは、結局は、キャラクターの視点や感覚を通 した「皮膚感覚に訴える何か」ではないかと、わたしは考えます。勿論、画面や文章の中で「皮膚感覚に訴える」すなわち「ソレらしく見せる」描写 のためには、キチンとした「地図」なり「設定資料」なり「デザイン画」なりがあった方が、より矛盾が少なくなるでしょうが。
 『ボトムズ』の「世界観」を構成する重要な要素の一つでありながら、わたしには守備範囲外(^^;)なので、極力触れないようにしていた「AT」にしても、車やバイクのような機械いじりが好きな人なら、その延長線上にATの「手触り」や「におい」をイメージできる(=実在感を感じる)ことができるくらい、「皮膚感覚に訴えるもの」があるということになるのでしょう。
 「そこら中にスクラップが転がっている」「ちょっとした設備があれば、ほんの数人で、部品をかき集めて自作できる」「ロボット同士でプロレスやコンバットゲームやってる」という(ギャグではない)ロボットアニメとしてはかなり大胆な特徴を、ごく初期(3話・4話)に丸々一話(^^;)かけて描写 したのみならず、その後も繰り返し見せてくれたのも、ウド編でしたし。

 そんなことを考えると、視聴者にとって「ウドの街」とは、『ボトムズ』世界の単なる「入口」を越え、「すべての基本」と言っても過言ではないような存在。言ってみれば、「デフォルト」だったんだな……なんてことを、改めて思います。
 #もちろん「それだけ」で『ボトムズ』の「すべて」だとは言えないにせよ。

 なお、このコーナーは、「既に最低一度は本編を観ている方」を対象にしているため、「各話解説」といいながら、「ストーリーダイジェスト」らしきものは、ほとんど載せません。場合によっては「数話分をまとめて」とか、「キチンと順序を追わずにいきなりジャンプする」なんて可能性もあります(一応、順序だけは守るつもりで、別 に雑文コーナーを設けてはありますが)。
 「ストーリー忘れちゃった」とか、「この回は見逃した〜」という方は、ムービックから発売されている(99年10月発売だから、まだ在庫があるかどうかは不明ですが)CD-ROM『装甲騎兵ボトムズ デジタルメモリアルズ』、または、こちらの「Armored Homepage」さんの「各話解説」をどうぞ。現在(2001年3月)33話までUPされています。一部、フィアナfanとしては眉間に縦ジワ寄せちゃうような部分もありますが(^^;;;)、概ねバランスのとれた視点からなる正統派の解説です(と、一応言っておこう)。

追記:「ヂヂリウム」の表記について、高橋監督以下制作側では「ジジリウム」を正式表記としている……との情報を、先頃(1999年10月下旬)入手いたしました。
#上記「デジタルメモリアルズ」でも、「ジジリウム」表記になっています。
これを受けて、当ページでは1999.10.30以降UPの文章はすべて「ジジリウム」表記とし、またそれ以前に発表した文章も、「ジジリウム」に修整しました。
……が、その後一向に「ジジリウム」表記が「正式発表」される様子もないので、このままガセネタとして闇に葬られてしまう可能性もあるんじゃないかという恐れもありますが、ま、そうなったらなったで、元に戻せばいいことだし〜。
 まぁ、未だに「墓荒らし」めいた(わたしにはそうとしか見えん)設定いじりを続けている(らしい)制作側に対する、ささやかな「意地」みたいなものです(苦笑)。
「そんなにいじりたければ、好きなだけおやりなさい。わたしにはそれを止める権利はない。すべて見届けましょう。そのかわり、いざ都合が悪くなった時に『なかったフリ』をしようとしても、少なくともココに一人、あなた達のしたことを忘れていない人間がいますよ」
……なんて。

*1:日ごろ『ボトムズ』関連サイトを覗いていると、「支持の深さ」というか、長く熱烈に愛し続けるfanばかりが目につくので、「支持層の狭さ」をつい見落としそうになりますが(って、わたしだけじゃないよね?)、アニメfan一般 (或いは最近では世間一般と言ってもいいかも)から見れば、『ボトムズ』って、けっして、『ガンダム』『ヤマト』『ルパン』のような「主流派」に位 置する作品ではないと思うのです。「主流派」と言って悪ければ、「誰もが一度は見ていて、キャラクターの名前がすぐに挙げられる」作品と申しましょうか。
 言ってみれば『ボトムズ』って「偉大なるマイナー」というやつかもしれません。小説「ザ・ファーストレッドショルダー」のあとがきでも、脚本・ノベライズの吉川惣司氏が鬼気迫る筆致(笑)で「マイナーへのこだわり」を語っていらっしゃいますし(^^;;)。「深い」fanが多い(というより、全体の中で「深い」fanの率が高いというべきか)のも、それこそが「マイナー」の証ということなのかも。
*2:厳密に言えば、キリコが本当にそういうタイプの人間かどうかは、また議論・検討の余地があるような気もしますが。
*3:塩野七生のルネサンスものや、エリス・ピータースの「修道士カドフェル」シリーズなんかを読むと、後の大国フランス・スペイン・イギリス(イングランドと言った方がいいかな?)の国王もただの田舎領主、イタリアは群小の都市国家だった時代のヨーロッパで、最も広い範囲をカバーして機能していた「政治組織」が、法王(マーティアルの「法皇」とは字が違う)を頂点とする「教会」であったというイメージがあります。
「病院」や「ホテル」等の公共施設も、聖地巡礼の信徒の為に教会が設置したものが起源らしいし……

では本編へ……
2001-03-20  旧メニュー文章を大幅に加筆訂正


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