日々是好日
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2024.04.24 富雄丸山古墳

富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)は、4世紀中頃から5世紀初めにかけて大型前方後円墳が乱立した佐紀古墳群にあって、その西外れに築造された造り出しを備えた大円墳である。墳頂にある主埋葬部は明治期に盗掘され、伝出土品は戦後国立京都博物館で買取られ、国重要文化財として所管されている。最近の奈良市教育委員会による発掘調査では、令和4年に造出し付近に別の粘土槨の埋葬部が見つかり、類を見ない盾形(たてがた)青銅鏡と曲がりくねった蛇行剣(だこうけん)が出土した。国内で初出土の盾形鏡は64cm×31cmの大きさを測り、背面中心上下に円形の”鼉龍(だりゅう)文”が施されている。蛇行剣は長さ237cm(国内最長)の鉄剣である。両者ともに国産と見られている。

坂靖によれば#1、この時期のヤマトの政治情勢は、磐余・磯城を中心とする”おおやまと古墳集団”、葛城から馬見丘陵の南北に連なる”かつらぎ古墳集団”、奈良盆地の北端・木津川以南を本拠とする”佐紀古墳集団”が、生駒・葛城・金剛山系の西側の”古市古墳集団”と連携して、ヤマト王権の成立に向かっていた時代である。
同時に、南郷遺跡群#2,#3に見られるように、葛城氏の活躍が目立つ。そこでは、王宮の建設、水の祭祀、帰化人による鍛冶を含む工業生産が進み、5世紀初めには天皇家との外戚関係を独占する。朝鮮半島からの文物輸入・外交を一手に引受ける様子は、朝鮮半島の”百済記”またはそれを引用した”日本書記”または”古事記”が伝える。
富雄丸山古墳は、馬見古墳群の北端から更に北に佐紀古墳群との接点に位置し、”かつらぎ”と”佐紀”の接点にある葛城関連の部外実力者(軍人?の埋葬)を連想させる。造出し部の埋葬施設は、主埋葬部と同じく粘土郭に割竹型木棺であり、赤色漆塗布された区画割りがある。副葬品には立櫛が見られ、被埋葬者は高貴な女人かとも言われている。骨片も採集されDNA解析も期待される。

発掘現場は3月28日、29日に公開され、蛇行剣は一面をクリーニング処置された状態で3月30日~4月7日に橿原考古学研究所付属博物館で公開された。健康上の理由で参加出来なくて残念だが、種々の報告を頼りに4世紀の”ヤマト王権のナニワへの転出”の実際を再考する機会を得た。

盾形青銅鏡(右;背面)
 蛇行剣
報道写真による
図.富雄丸山古墳 周辺の古墳群(3-5世紀) Google Map
*2.p.73(図17 弥生時代の拠点集落)と(図65 佐紀古墳集団と「わに」「ふる」地域)を参考にして、富雄丸山古墳の位置を、3~5世紀のヤマトを描いた

奈良盆地東端を南北に結ぶ”山野辺の道”に沿って、おおやまと・ふる(布留)・わに(和邇)・佐紀と呼ばれる古代集落跡または古墳群がある。
おおやまと”は崇神陵など天皇陵に比定される古墳、103面の銅鏡を持つ桜井茶臼山古墳、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳など日本の原点とされることも多い。坂靖は、邪馬台国九州説で、纏向遺跡の大住居跡は、弥生後期に他の地域でも見られるオウの居館と見る。
”ふる(布留)”と””わに(和邇)”は、最も古い古代豪族で、その地に西山古墳、後漢の紀年銘鉄剣(東大寺山古墳)などの古墳群を持つ集落遺跡がある。佐紀古墳群は現在の平城京跡の北側から西大寺北、住居遺跡としては更に東側の地域を含んでいる。佐紀古墳群には、四世紀末から五世紀の天皇妃の陵墓が多いが、不確かなものもある。今回問題とする富雄丸山古墳は薬師寺の西2.5kmに位置する。

奈良盆地東端には南から金剛山・葛城山・二上山・生駒山が連なる。二上山と葛城山の鞍部を古代からの街道(竹内峠)が通る。金剛山・葛城山の麓に、葛城氏の本拠があった。金剛山の麓は鴨氏が先住していたらしい。葛城氏は更に北側の馬見丘陵に広がる古墳群も支配下にあったとの説もあり、紀ノ川を利用して和歌山方面、木津川・淀川を利用して瀬戸内海へと進出した可能性がある。
とくに、佐紀地域は、五世紀の天皇妃の故郷として知られ、南郷遺跡群の広大さ、王宮、水の祭祀跡、帰化人集団の鍛冶遺跡などを見ると、富雄丸山古墳の盾形青銅鏡や蛇行剣と葛城氏の接点を連想する。

*1.坂 靖「ヤマト王権の古代学」新泉社、2020
*2.坂 靖・青柳泰介「南郷遺跡群 葛城の王都」新泉社、2011
*3.千賀 久「渡来系移住民がもたらした産業技術」:「渡来系移住民」岩波書店、2021
*4。今尾文昭「佐紀古墳群 ヤマト政権の一大勢力」新泉社、2014






2024.03.27 コロナ後の日々 b.(行動制限)

2020.05 (令和2年)緊急事態宣言 コロナ禍の始まり
令和3年6・7月 第1回・第2回コロナ/ワクチン接種
令和4年・オミクロン株(6・7・8次感染) この期間で行動制限厳しく、体力・脚力低下
2023.05 (令和5年5月) 5類感染症に格下げ(コロナ禍終息へ)
2024(令和6年) コロナ禍によるワクチン後遺症・体力低下の影響が・・・  


2024.03.24 コロナ後の日々 a.(新型コロナ・パンデミックを振り返る)

*1 コロナ終息前後の日本  
 まるで鎌倉幕府滅亡後・後醍醐帝の建武中興期の混乱二条河原落書を連想させる乱れた世が到来した
(二条河原) 「この頃都にはやるもの、夜討 強盗 にせ綸旨、召人 早馬 そら騒動、生頸 還俗 自由出家、・・・」
(令和の日本) 「首相暗殺、銀座目抜きでの貴金属強盗、海外拠点とした犯罪集団、怪しげな宗教団体に支配される議員、裏金騒動に揺れる国家、更に相次ぐ大地震・津波災害・・・」
*2 遅れていた日本の現代化    在宅ワーク、テレワーク、,リモートワーク、など就業形態の多様化
 惨事便乗型資本主義: (日本のデジタル化が問題となる)マイナンバーの早期実現を図る 
*3世界は二つ                    
西洋      東洋
ヨーロッパ・アメリカ     アジア社会(中国 と 日本)
 当初より大量のPCR検査・ワクチン開発   ゼロコロナ対策・PCR検査と管理社会  
大航海時代を背景とする欧米諸国    進まない検査・三密からワクチン    
 西洋医学 科学先進国(ギリシャ・ローマ)    東洋医学  明治以降の科学近代化
 (終息時期の適切、今回はこちらに分)    (終息時期の遅れとその弊害)
 *4 戦争の勃発  「ロシアのウクライナ侵攻」と引き続き「イスラエルのガザ侵攻」 
 

       

2023.05.08 コロナの終焉   

新型コロナ(COVIT)は当初より2類感染症として扱われたが、
令和5年5月8日より5類扱いと格下げされ
。感染時の対処・振舞い・処置費用などが変わった。
日本での第8回目の流行が終わりに近づいたときには、パンデミックはもはや終息したと見做され、、
令和5年3月に、日本・米国で催されたWRC(ワールド・ベースボール・クラッシクでは、
ダルビッシュ、大谷翔平の参加した栗山ジャパンが見事に優勝しコロナ禍で逼塞した世間が蘇った。
無料で実施されていたワクチン接種は、7回目となる令和5年(2023)10月4日をもって最終となる。事実上のコロナ騒動の終息である。

2023年(令和5年)5月8日 中日新聞 朝刊



石刃は36,800年前のもの(列島へのヒト到達は
38,000年前頃から) (中日新聞)

2022.11.17 「旧石器時代」の話題
(人類の起源 列島へのヒトの移動 ホモサピエンスとネアンデルタール人の混血)

Ⅰ.列島へのヒト移動(後期旧石器時代)とネアンデルタール人(中期)
我国では明治維新に、西欧から新しい学問として“人類学と考古学”が輸入された。第二次世界大戦後には、国体を重視して秘仏・秘宝とされていた文化財が解禁された。敗戦時の救援・布教活動に訪れた一部のキリスト教宣教師は、西欧流の進化論による人類学と即物的な考古学に直接接する機会を与えた。自由な風潮により民間好事家の活動も活発化し、戦後復興に伴う国家的な事業として、多くの事前発掘調査も進んだ。
昨年、日本列島の縄文文化(その一部の“北の縄文”をメインテーマとして)が世界遺産に登録された。縄文文化とは、約15,000年前(15KBP)からBC1,000~BC400(水田稲作の開始年、地域により差がある)の期間の文化である。15KBPを境として、地質年代は更新世から完新世へと移り、氷河期から脱出する。日本列島の縄文時代には、列島独自の文化の発展が見られるが、その独自性の起源が列島で自生した「旧石器文化」で育まれたものか、それ以後の外来文化によるものか、判然としないところもある。
縄文時代と旧石器時代の時代区分は、「土器のあるなし」或いは「世界規模の気候変動とそれに伴う急激な海面上昇」で区画される。列島の旧石器時代は、世界で使用される概念(呼称)と一致して、ユーラシアの「後期旧石器時代」、アフリカの「後期石器時代」に相当する。「ホモ・サピエンスの列島到来」より始まり、AT(姶良丹沢)降灰期を中間期として、後半には列島独自の旧石器技術が進展した。旧石器時代の終末には、大きな気候変動(海面上昇)が起こり、住民の生活は一変して、御子柴(長野)や大平山元遺跡(青森)などを遺して縄文時代に遷る。
旧石器時代を理解するには、人類の起源と列島への移住時期など、人類学・考古学からの正しい認識を必要とする。20世紀末に“ヒトの個性(設計図)”をDNA(物資)として科学的に認識し、ミクロな議論を可能にした。最近、中部旧石器時代に絶滅した旧石器人ーネアンデルタール人(更にはデニソア人など)ーの姿が明らかになった。ネアンデルタール人の全ゲノムは、スヴァンテ・ペーボ(マックス・プランク進化人類学研究所)により解読され、今年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。現時点では、ホモ・サピエンス以外の旧人・原人が日本列島に到達した証拠はない。

Ⅱ. DNAによる日本人の起源
現代日本人のミトコンドリアDNAおよび核DNAについては、篠田謙一(東京国立博物館)、斎藤成也(国立遺伝学研究所)などにより明かにされている。我国の古代DNAの調査は、酸性土がDNA保存に妨げとなることから成果は限られているが、2018年、白保竿根田原遺跡(沖縄・石垣島)で日本最古の全身人骨(2万7千年前)の発掘調査が行われた。最近では、縄文早期の居家以遺跡(群馬県)で良好な古人骨が発掘されるなど、古人骨調査報告は増している。石灰質の洞窟などでは、本邦でも良質な人骨が得られる。
本邦の考古学分野、特に土器研究では、きめ細かな編年作業が確立している。土器研究者は、5年以内の確度で編年可能と言う。物理的な年代測定は、放射性炭素(14C)を数えるAMS(加速器質量分析)法の採用により測定制度が向上した。14Cの半減期は約5700年である。この場合、炭素14の大気中での存在比率が、太陽黒点爆発の影響などで必ずしも一定でないことなどから、年毎の補正を必要とする。補正は樹木年輪、年縞堆積物、サンゴなどの年代で較正される。現在、世界的な補正の標準化がなされ較正値にはcalと記される。また、往年のビキニ環礁での核実験で大気圏の放射線量が大きく変化した以前の1950年を起点として、BP(BeforePresentあるいはBeforePhysics)とした年代とする。すなわち「較正された炭素年代」はOOOO cal BPの様に記され、「暦年代」と呼ばれることもある。上の較正法の限界は55,000年前とされる。較正年代を「暦年代」として”弥生時代の開始”などの検討に用いる際には”海洋リザーバ効果”などの考慮を必要とする。較正年代は進行中の研究課題ででもある。
第2次世界大戦後の我国の旧石器時代研究は、相沢忠洋など民間の好事家を含めて、広範な研究者により進められたが、2000年に「旧石器捏造事件」が発覚した。そのために、過去25年余の発掘結果の見直しを必要として、10年余りの遅れをとった。現在、発掘現場地層の地質年代の確認、石器の局在する場所近傍の炭素年代および複数人での確認作業などにより、発掘作業の公正さが保証されている。
とは言え、過去の整理作業で明らかにされた各地の“正常な石器群”には、縄文土器研究と同様に、本邦らしい繊細さが見られる。列島の旧石器遺跡の現状は、
1.全国・山間の辺境地などを含む広範囲に広がる。
2.野尻湖畔の遺跡群[長野]、野辺山高原[長野]、武蔵野の遺跡群(野川、立川)[東京]、砂川遺跡[東京]、二上山の遺跡群[大阪]矢出川遺跡[長野]、荒屋遺跡[新潟]、つきみ野遺跡[神奈川]、田名向原遺跡[神奈川]、白滝遺跡群[北海道]など代表的な大規模遺跡がある。
3.国武定克(奈文研)・須藤隆司(明大黒曜石研)・堤隆(明大黒曜石研);「日本列島最古の石刃石器群の構成とその起源」,旧石器研究17, 2021.4,pp1255-146, および下記U-Tubeは興味深い。通常、楕円状石器が発掘される最下層の深部・石器含有層から、大型石刃・小石刃・尖頭型形剥片石器が出土した。ユーラシア大陸中央部を経由しての石器の伝播が議論された。

Ⅲ. 化石とDNA
人類進化の700万年は、人類化石の発見とミトコンドリアDNAの祖先探しを通して、”人類のアフリカ単一起源説”を生み出した。かつては、化石や人骨を解剖学的に調査することにより古代人の身体的特徴を知ることができたが、最近では、古代ゲノムの解明により、人類のルーツなど多彩な情報が得られるようになった。
ヒトの起源に纏わる化石は、アフリカの中央大地溝帯で得られ、700万年の人類進化が始まる。我々の直接の祖先であるホモ・サピエンスは、凡そ100万年前にホモ・エレクトスから進化した。アフリカ単一起源説に対して、多地域進化説がある。多地域進化説は、約170万~70万年前に出アフリカしたホモ・エレクトスが世界各地で北京原人・ジャワ原人などとなり進化したとする説である。北京原人として保管されていた骨体は第2次世界大戦中に行方不明となった。

Ⅳ. 旧石器時代(人類の進化)
アフリカ大陸(オルドヴァイ渓谷など)で、ホモ・エレクトスが進化してネアンデルタールとサピエンスに分岐(50万年前)してアフリカを出る。ネアンデルタール人が先に西欧へ、あるいは東欧へと行動範囲を拡げる。サピエンスは、やや遅れて2度に亘って出アフリカし、2度目の出アフリカ時(最近では4万年前頃と考えられる)に、西欧帰りのネアンデルタール人とレヴァントあるいは東欧付近で再会し、混血する機会を持ったとされる。
1.石器の展示 
南山大学人類学博物館の石器展示 マリンガーコレクション :前期旧石器時代(オルドヴァイ;ホモ・ハイデルベルグ、ホモ・エレクトス)、中期旧石器時代(ネアンデルタール人)など
名古屋大学博物館の石器展示 :オルドヴァイ遺跡の石器(レプリカ)、後期ムステリアン時代(レヴァント)、ネアンデルタール人が居た頃の石器
  ユーラシア大陸西南海岸に沿っての石器の伝播(名大博物館:門脇誠二) 
2.ネアンデルタール人のゲノム解読 (スヴァンテ・ペーボ)  :非アフリカ人のゲノムの中には、ネアンデルタール人のゲノムから受け継いだと思われる多型が1~4%存在する。 両者が分岐し出アフリカ後に再会し、混血した可能性がある。
  核DNA解析より 混血を加味した系統樹 (太田博樹 p.127 図19)  :デニソワ人(デニソワ洞窟・シベリア南部で指骨から)とネアンデルタール人(ロシア・メツマイスカヤ洞窟1、クロアチア・ヴァンディジャ洞窟3)と現生人類(サン族、漢民族、パプアニューギニア人、フランス人、ヨルバ人)との系統樹に、現代のパプアニューギニア人のゲノムの6%ほどにデニソワ人由来の多型を発見 (南シベリアのデニソア人と南海のパプアニューギニア人が混血したのではなく、過去のある時期にホモ・サピエンスがデニソア人と混血したと解釈できる)
3.「旧人」として理解されていたネアンデルタール人は、広い意味でのホモ・サピエンスとして捉えるべきで、その一部が我々の祖先としての「ホモ・サピエンス」となった(太田)
4.ホモ・サピエンスが日本列島に到達した年代は、AT(姶良丹沢降灰)より以前、約4万年前(較正年代では38,000年前頃)とされる

Ⅴ. 参考  

 

*人類の起源と拡散
1.スヴァンテ・ペーボ(野中香方子訳):「ネアンデルタール人は私たちと交配した」、文芸春秋、2015.5 
   研究体制の立上げと経過を、冗長ともとられ兼ねない丁寧さで述べている。博物館のミイラのDNAから、ペーポの人脈、優秀な人材の集結、競合と協力、バイオロジカルクリーンルーム(現代DNAの混入阻止、成功の鍵)、PCRから次世代シーケンサー(資金力と協力会社)、自動化とアルゴリズム確立(人ゲノムの全解析)、ネアンデルタール人の全ゲノム解析、学会・雑誌への発表などを、独自の戦略の下に進めた。
2.太田博樹:「遺伝人類学入門」、ちくま書房、2018.5 
*コロナ禍にあって、オンラインミュージアム、現地説明会が定着した
3.You Tube.オンライン・ミュージア  2012年10月12日~12月12日 明治大学博物館特別展“氷河時代のヒト・環境・文化”
4.You Tube 香坂山遺跡(八風山西南麓) オンライン・現地説明会  21.8.11~9.7 第4次現地説明会:最古の石刃製作所、第5次現地説明会:遺跡の範囲調査(狩場)、22.9.17 第6次現地説明会:石材(安山岩)採掘所調査 佐久市(長野)
5.You Tube  香坂山遺跡で発見された石器(日本列島最古の石刃石器群、37k cal BP)をカザフスタンの遺跡の石器と関連づけ

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