記事No | : 1502 |
タイトル | : 彼の地、此の地の人の一生 |
投稿日 | : 2012/05/09(Wed) 17:16:01 |
投稿者 | : 桃青 |
徳川家康は「人の一生は重き荷物を負うて
遠き道をゆくがごとし」と言ったらしい。
私の見たチベットの修行僧の論戦では、「人の一生とは?」と、問い掛けられた若い修行僧が、「重い荷を背負って長い道を行くがごとし。」と徳川家康のように答えたのに対して、
問い掛けた兄弟子は手を打ち鳴らして
「短いぞ、短いぞ。長くはないぞ短いぞ。さあ!さあ!」と、返答を迫っていた。
物心ついたころから、少し前までは「人生とは重い荷物を背負って・・・」という言葉を当たり前のように、見聞きしたものであったが、ふと気がつくと、最近はまったく目にしなくなった。
最近の日本人はアメリカナイズされている。という声も聞くが、
アメリカ生まれの基督教、某M教の最高指導者者は、
「人生とはレースである。レースに参加するからには勝たねばならぬ。」
と、説教する。
さすがに、「自由競争、自己責任」の国の宗教らしい人生の捉え方だと首振り頷くが、日本人の中にも人生をこの最高指導者のように捉えているひとも珍しくはなさそうだ。
前にも書いたが、自由競争と言い自己責任と言うが、本当の意味で公平公正な競争が行われていないのに、あたかも公平公正な競争の結果のように自己責任を言いたてるのは、どうなのかと思う。
公平、公正な自由競争とはなっていない理由として、個人に関してすぐ気が付くのは、人間生まれた時からスタートラインが既に違う。ということだ。
そんなことは当のアメリカ人でも気付くのだろう。
某M教はそれに対して答えを用意している。それは「前世のそのひとの行いによって」生まれる姿と場所が違うというものである。
つまり前世からレースは始まっていると言うのだ。
そういうモノの見方では、「自分たちは公平公正な自由競争をしている。」という幻想から、覚めることは難しそうだ。
私は「人の一生は重い荷物を背負って遠くへ行くようなものだ。」とも「人生はレースだ。」とも思っていない。
ひとは、「人の一生は重い荷物を背負って遠くへ行くようなものだ」と思えば、そのように見えて来るのだろうし、「人生はレースだ。」と思えば、そのように見えて来るのだろう。
「人生とは」の答えも、また愛アラヤなのだ。