愛のあかし


第2章

「どこへ行くつもり?」
 とがめるような声にいきなり後から心臓をわしづかみにされ、トランクスは飛び上がった。とたんに窓枠にかけていた右足を踏みはずし、したたかにすねを打ちつけた。
「いっ……てぇ〜っ」
 前かがみになって、すねをさすりながらあわてて振り返ると、彼の部屋の入り口で両手を腰に当てたブルマが、厳しい目をこちらに向けている。

「か、母さん。い、いや、オレは……その……ちょっと、どうしても外せない用があって……」
「ふぅーん」腕を組み、ブルマはゆっくりとうなずいた。
「経営学の勉強をすっぽかして逃げるほど、大切な用ってわけね。どんな用なのかしら。まさか悟天くんと新しいゲームソフトを買いに行くとか言うんじゃないわよねえ?」
「うっ」と言葉に詰まり、さあーっとトランクスの顔から血の気が引いた。図星だったようだ。

 ブルマは鼻から大きく息を抜いてやれやれというように首を振り、13歳になった息子の顔を見た。日を追うごとにだんだんと面差しが父親に似てくるようだ。彼女の目がふっと緩んだ。
「いいわ。ここんとこよく頑張って予定より進んでるようだから、今回のところは見逃してあげる」
「ほんと? やったぁ」

 勢いよく窓から飛び出し、行ってきますを言おうとして振り向いたトランクスは、空中に浮かんだまま母親の顔をまじまじと見つめている。
「何よ」
「母さん、顔色があまりよくないよ。働きすぎで疲れてるんじゃない?」
「出来の悪い息子を持つとね、おちおちしてられないのよ。いいわ。この借りは明日倍にして返してもらうから」

 不肖の息子は「は、ははは……」と、引きつった笑い声をたて、「ヤブヘビだ」と自分につぶやくと、
「母さんは手ごわいよな。さすが父さんの奥さんだよ。い、行ってきます」
 そのまま母親の気の変わらないうちにと、大急ぎですっ飛んでいった。



 ベジータはスポーツドリンクの缶を片手に、リビングのソファにもたれていた。休憩が済めばまた夕食までトレーニングに汗を流すつもりだった。魔人ブウとの闘いが終わって5年。世界に平和が訪れたとはいえ、いつ何どきまた新たな敵が現れるかもしれず、牙は常に研いでいる必要があった。

 それに、たとえ新しい脅威がこのまま二度と目の前に立ちはだからないとわかっていたとしても、毎日のこのルーティンワークを彼の心と体は必要としていた。
 真面目なサラリーマンが朝、ネクタイを締めて鞄を持ち、会社へ行ってその日の仕事をこなして帰宅するように、彼は毎日目標を立ててきっちりとそれを消化していった。ブルマがいくら「ちっとも働かない」サイヤ人の夫に呆れていたとしても、そういう意味で彼ほど勤勉な男はいなかった。

 これからやるトレーニングの内容を、頭の中で組み立て直していたベジータは、視線を感じて目を上げた。いつのまにか向かいのソファにブルマが座り、こちらをじっと見つめている。
 目が合うやいなや待ちかねたように彼女は口を開いた。
「ベジータ、今日から1週間はあたしの部屋で一緒に寝てちょうだい。いいわね」
「突然なにを言い出しやがる」
 そんなことをわざわざ言われるのは初めてだ。彼らはいつもお互いに気の向いた時に気の向いた方が相手の部屋を訪れていたのだった。

「来週は出張なのよ。そのあともパーティーだの何だのといろいろ予定が入ってて遅くなるし……。作るなら今週しかないわ」
「作る? 何をだ」
「子どもに決まってるでしょ」
 スポーツドリンクにむせて咳き込んでいる夫にかまわず、ブルマは片手を顎に当てて考え込みながら言った。

「ここんところ忙しくて基礎体温を測るの忘れてたけど、たぶん今が受胎可能な時期だと思うのよね」
「じゅ、受胎……って。おい……」
「あたし予感がするのよ。次はきっと女の子。それもあたしの血を濃く引いた優秀な科学者になる娘よ。りっぱにカプセルコーポレーションの後継ぎになってくれるわ」
「後継ぎならトランクスがいるだろう。あいつにいろいろ詰め込んでるんじゃないのか」
 気管に入り込んだ最後の一滴を、大きな咳で追い出しながら彼は答えた。

「経営の方はね。今日なんか逃げ出したけど、まあ、いやいやながらも何とかやってるわ。でも、科学者としての素質がねえ……」
 ブルマは大きく肩を落としてため息をついた。
「あたしに似て頭脳は優秀だし、機械にも強いし、何でも器用にこなすけど、科学的な発想力がまるでないのよ。がっかりだわ。やっぱりあの子はどこまで行ってもサイヤ人なのよね」
「科学は生み出すものじゃなく利用するもの――それがサイヤ人だ。そんなことより、オレにはトランクスがトレーニングをさぼることの方がずっと重大だ。あのやろう、昨日も今日も寝坊して早朝トレーニングをさぼりやがった」
「そんなことって何よ。人の苦労も知らないで。あたしの肩にはカプセルコーポレーションの社員とその家族数百万人の生活がかかってるんですからね。優秀な科学者の後継ぎがいるといないのとでは会社の行く末だって違うのよ!」

 興奮を鎮めるように、ブルマは息を整えてから続けた。
「サイヤ人はどうだか知らないけど、あたしたち地球人の女は、出産適齢期っていうのがあるの。いくらあたしがいつまでも年より若くてきれいだっていったって、実際の年齢は確実に適齢期からはずれて行ってるのよ。言いたかないけど……。こればかりは科学ではどうしようもないんだから」
 今を逃したらもう後はないわ。これが最後のチャンスなのよ。そう力説する妻に、ベジータはうんざりした目を向けた。

「出来なきゃ出来ないまでだ。ガキなんて無理に作るもんじゃない」
「あんたは欲しくなくても、あたしは欲しいのよ!」
「オレは別にガキがいらんと言ってるわけじゃない」
「じゃあいいじゃない。あたしの部屋へ来てよ」
「……オレは行かんぞ」
「いいわ。あたしがあんたの部屋へ行くから」
「来なくていい!」

 あわてて叫んだベジータの声は、いやに大きくリビング中に響いた。ブルマは唇を引き結んでベジータの顔を凝視している。
「……そう」
 固い声で言うと彼女は立ち上がった。顔がこわばっている。
「あんたが欲しくないのは子どもじゃないのよ。あんたが欲しくないのはこのあたし――そうなんでしょ。そうよね。自分はいつまでたっても若いままなのに、おばさんになっちゃったあたしなんて相手にしたくないわよね」
 とがった声で言い募る妻に、ベジータは苦々しく舌打ちして立ち上がった。

「論理の飛躍だ。話にならん」
 ブルマは重力室へ向かおうとするベジータの前に回り込むと、両手で彼の頬をつかみ、思いきりひねり上げた。
「なによ。つやつやしちゃって。あったまくるわね!」
「ええい、うっとうしい! やめろ」
 払いのけられた両手を胸の前で握りしめ、ブルマは恨めしそうにベジータをにらみつけた。目のふちがかすかに赤くなっている。ベジータはハッとして彼女の顔を見つめた。

「わかったわ。もうあんたには頼まない」
 力をこめてまばたきし、涙の粒を振り払うと、両手を腰に当て、頭をそびやかせて彼女は宣言した。
「いいわよ。こうなったらヤムチャか孫くんに頼むから!」
 あまりのことに声が出なかった。ドアを荒々しく閉める音に続いて、廊下を駆けてゆくブルマの足音がだんだん小さくなっていき、やがて消えた。
「く……くそっ。勝手にしろ!!」
 スポーツドリンクの缶を握りつぶすと、ベジータはそれを床にめり込むほど叩きつけた。

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