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恋月夜

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第1章

 耳の奥でこだまするようなセミの大合唱がパオズ山を包んでいる。あの凍りつくような星空を眺めた日からおよそ8ヶ月――。盛夏であった。
 ひとり静かに勉強していたはずの悟飯が戦闘服を着込み、血相を変えて飛び出していったと思ったら、出て行ったと同じ唐突さで放蕩
(ほうとう)息子ならぬ父親を連れて戻って来た。
「お母さん、お父さんが帰って来たよ」
 勢いよく玄関のドアから飛び込んできた息子の言葉に、繕い物をしていたチチは半信半疑で顔を上げた。続いて入ってきた懐かしい顔に目が吸い寄せられる。
「あ……」
「よう、チチ。久しぶり」
 すぐそこまで買い物に出て帰ってきたかのような口調であっけらかんと笑うと、悟空は着ていた奇妙な服をさっさと脱いで、体に馴染んだ道着に着替えている。
(久しぶり、じゃねえだよ……)
 体中の力が一気に抜けて、チチは言葉もなくその場に立ちつくした。懐かしさと悔しさと恋しさと……あふれる想いは胸を一杯に満たし、さらに涙腺に向って怒涛どとうのように押し寄せてゆく。
「悟空さ……」
 しかし、その次にチチを待っていたのは、1年8ヶ月ぶりの夫との熱い抱擁ではなかった。


「…………という訳だからよ、オラ、ピッコロと一緒に3年間修行することにしたんだ」
(なんだって?)
 チチは耳を疑った。一瞬にして潮が引くように乾いた目を悟空に向けたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「修行? 今修行って聞こえただが、もちろんおらの聞き間違いだな? 今まで散々おらたちをほったらかしにして宇宙の果てで好き勝手なことしてた悟空さが、やっと帰って来たんだべ。それなのにこの上まだ修行するなんて、そんな無茶苦茶言わねえだよな。これからは今までの分も取り返すくれえ働いてくれるんだべな? な? な!?」
「いや、そのう……。だから今も言ったけど、3年後に人造人間ってのが現れて……だからオラ、修行を……ピッコロと……その、悟飯も一緒に」
「ぬぁんだってっ!!!???」
 チチは口から火を噴いた。いや、火を噴いたかに見えて悟空は飛びすさった。その隣で悟飯も冷や汗をかいて身を縮こまらせたまま、嵐の過ぎ去るのを待っている。
「もっと強くしてやりてえんだよ、悟飯を」
「余計なお世話だべ! ――――悟空さはピッコロと勝手に修行でも何でもやってりゃいいだ。どうせ何を言っても聞かねえんだからな。だけんど、悟飯ちゃんの勉強だけは邪魔させねえだぞ!!」
「だけどよ、チチ」
「ぜってえぜってえぜってえダメだったらダメだったらダメだーーーーーーーーーーっ!!」


 夜にはチチの機嫌は直っていた。悟飯の修行については最終的にチチが折れることになったとはいえ、期限の3年間が過ぎたら拳法をやめさせるということで、悟空と話がついたのだ。これでやっと悟飯を勉強に集中させられる。
 面倒な問題は片付いた。寝室で夫と二人きりになり、チチの胸はときめいた。この1年8ヶ月がどんなに長かったか、どんなに話したいことがいっぱいあったか、どんなに悟空がいなくて寂しかったか――ひとつも余さず聞いてほしかった。
 それに、尋ねたいこともあった。
(悟空さ、おめえ、おらたちと……おらと離れて……寂しくなかったんけ?)
 悟空の瞳に映る自分の顔を見つめながら訊いてみたい。
 それなのに、だ。
 チチはイライラと何度も溜息をついて寝返りを打った。隣のベッドから悟空の脳天気な声が続いている。
「……でよ、そのヤードラット星人てのは、見た目はおっかねえんだけど親切なやつらでさ、オラの道着がボロボロなのを見て新しい服をくれたんだけどよ、いや〜その時の――」
「悟空さ、みやげ話はもういいだ。それより他に話すことがあるだべ?」
「え、そうか。これからが面白いんだけどな。まあいいか。――そういや悟飯のやつは大きくなったな。ちょっと見ねえうちによ」
「そりゃ伸び盛りだもん。悟空さ、おめえどんだけ家を開けてたと思ってるだ」
「いや〜オラも新しい技を会得するのについ夢中になっちまってよ。そうだ、チチにはまだ見せてやってなかったな。見てみるか、オラの新しい技」
「見たくねえだ」
「え、そっか? ……えーと」チチの言葉に含まれるトゲに気づき、悟空はおそるおそる言った。「じゃ、そろそろ寝るか。おやすみ、チチ」
 触らぬ神にたたりなしとでも思ったのか、それきり悟空の声は途絶えた。
(おやすみ!? おやすみだって〜〜!? 1年と8ヶ月ぶりだぞ。あっさり寝ちまうつもりなんけ。悟空さのバカ。鈍感!)
 だからといって、自分から悟空のもとへ行くのは意地でもいやだった。イライラした心を持て余しながら、昼間の疲れが出てチチはうとうととまどろみ始めた。

「チチ……」
 耳もとで温かな声がする。そっと伸びてきたたくましい腕が強く体を包み込む。
「やだ……」チチはかすかにあらがった。「こんなことでごまかさねえでけれ」
 駄々をこねる子どもをあやすように、悟空の唇が首筋に触れ、両腕に力がこもる。きつく抱きしめられて、甘いうずきが体の芯に落ちてくる。
「悟空さ……」
 チチは夢中で悟空の背中に腕を回した。

 この場にそぐわない無粋ないびきが聞こえてきて、チチはハッと我に返った。声の主を振り返れば、悟空が天下泰平の寝顔で隣のベッドに大の字になっている。
(な……!? 今の……)
 夢だったと気づき、チチは愕然とした。ついでムカムカと腹の底から怒りが込み上げてきた。
 枕を手に、リズミカルないびきを響かせている悟空のかたわらに立つ。
「ノンキに寝てるんじゃねえだーーーーーっ!!」
 チチは悟空の顔の上に力いっぱい枕を投げ降ろした。

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