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恋月夜

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第3章

「なにするだ!!」
 自分の体に回された男の腕を取ってねじ上げると、チチは流れるような一連の技を繰り出し、狼藉者ろうぜきものを鮮やかに投げ飛ばして地面に叩きつけた。
「おらは人妻だぞ。近頃の家庭教師はセクハラまで教えるだか!!」
「ひ、人妻……?」
 男は軽い脳震盪のうしんとうを起こした頭を振って片手で押さえると、もう片方の肘で体を支えて上半身を起こし、そのままよろよろと立ち上がった。
「人妻……人妻って……。それじゃ、こいつらは……」と、唖然としてこちらを見ている悟空と悟飯を震える手で指差す。チチは不機嫌そうに言った。
「おらのダンナと息子だ。あったりめえだべ」
 その瞬間、なんとも形容しがたい絶叫が男の口から漏れた。男は両手で頭を抱えたまま、困惑に身をゆだね、そこらじゅうをよろけながら歩き回っている。
「そんな……そんな……チチが……おらのチチが……牛魔王の師匠は……そんなことひとことも……」
「お父が!?」チチが聞きとがめて言った。「おめえ、なんでおらのお父を知ってるだ。……家庭教師じゃねえのけ?」
 男は振り向き、うるんだ大きな黒い瞳をこちらへ向けた。その哀れっぽいまなざしがチチの古い記憶を揺り起こす。
「おめえ……」

(誰だ?)
 出かかった問いが口の中で固まる。男の薄汚れた赤い服の胸の、擦り切れて薄くなった模様が目に留まった。
 丸の中に黒い角。黒い――水牛の角――。
(お父の紋だ)
 武道家である牛魔王は、かつて胸に水牛の角の図柄を入れた道着を着ていたことがあった。そう、それはチチがまだ小さな子どもの頃のこと。
 なだれを打つように、チチの脳裏に遠い風景が浮かんできた。

 泣いている男の子――はやしたてながら逃げてゆくいじめっ子たち――膝小僧のすり傷――。
(――は、おらよりチビで、だからおらはいつも少しかがんで涙を拭いてやってた)
 蘇る思い出と共に、風景が鮮明になってゆく。
 沈んでゆく夕日が真横から涙で汚れた顔を照らしている。一文字眉の下の黒目がちの大きな瞳からは、チチが拭いても拭いてもこれでもかというくらいに大粒の涙がこぼれ落ちてくる。
『きたねえ顔だべ。おめえはすぐめそめそするだな。だから、あいつらもおもしろがっていじめるんだべ』
『おら……おら……づよぐだりでえ。づよぐだっで、あんだやづだやっづげでやる』
『なに言ってるかぜんぜんわかんねえだよ。でも、おめえのきもちはわかっただ。おら、お父に話してやるだよ』
『チチの、お父に?』
『んだ。おらのお父はつええんだべ。“かめせんりゅう”っていうのの“ぶどうか”なんだぞ。おら、お父におめえを強くしてやってけれってたのんでやるだよ』
『……痛くしないかな』
『ちょっとくらい痛くたってなんだべ。弱虫だな、クルトは』
『おら……弱虫じゃ……ねえ』
『また泣く。……大丈夫だべ。おめえ、強そうなまゆげしてるだもん、きっと強くなる。おら、信じてるだ』

 信じてるだ……。


「クル……ト?」
 半信半疑でチチが問いかけると、男は怒ったような顔で唇を噛み、しっかりと彼女を見つめ返した。
「おめえ、クルトか? ちっちぇえとき、フライパン山の麓の村に住んでた。……そうだべ、確か、料理屋の息子だったべ。おめえのお父が店をたたんで、一家でどこかへ引っ越してっただよな」
 チチは思い出し思い出し、言葉を継いだ。
「久しぶりだべ。いやあ、何年ぶりだべか」
「19年ぶりだ。おらが七つでチチが八つの時だったべ」クルトという男は感情を抑えた声で答えた。「おめえのことは片時も忘れたことはなかっただ」
「懐かしいだべな〜」と、チチははしゃいで男の手を取り、少し離れて突っ立っている夫に向って言った。
「悟空さ、クルトはおらの幼なじみなんだべ。おらのお父に拳法を習ってただよ」
「そっか〜、牛魔王のおっちゃんになあ」
 悟空は自分に投げられたクルトの敵意のこもった目を気にもとめず、笑って言った。
「クルト、こっちはおらのダンナだべ。孫悟空っていうだ。それからこっちにいるのが――」
 悟飯を紹介しようとするチチを、クルトは強い声でさえぎった。
「チチ、おめえ、おらとの約束をなんもかも忘れちまってるみてえだな」
「約束?」
「んだ」
 クルトは拳を握り締め、苦渋に顔を歪めて言った。
「おら、おめえとの約束を果たすために、ずっと世界を旅しながら修行してただ。やっと……やっとおめえを迎えにいける自信がついたから来ただぞ。それを……それを、おめえは……」
「待ってけれ、クルト。約束って……おら、おめえと何の約束しただ?」
「あの時、おめえはおらに言っただ」クルトはチチをまっすぐ見つめて一語一語はっきりと告げた。
「強くなったらおらをお嫁にもらってけろって」

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