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恋月夜

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第2章

 朝からチチは機嫌が悪い。食卓に料理を並べる手つきは待遇の悪いウェイトレスのようだし、悟空が何か話しかけてもつっけんどんな短い答えが返ってくるだけだ。へたに刺激しないよう、悟空も悟飯も無駄口をたたかずおとなしく席についた。
 悟空にはわからないことだらけだ。ゆうべ、ベッドに横になるまでは確かにチチの機嫌は直っていた。怒らせるようなことを言ったりしたりした覚えもない。いったい自分の何が彼女を怒らせたのだろう。
 結婚して8年。子どもまでもうけていてもなお、悟空には女というものがわからなかった。
(ま、いっか)
 物事にこだわらないこの男の常で、おいしそうに湯気を立てる料理を前にしたとたん、悟空の頭からは何もかも吹き飛んでしまった。
「お父さん、ピッコロさんが」
 迎えに来た師匠の気を外に感じ、悟飯は隣に座った父親の腕をそっとつついた。悟空はいっぱいに頬張った口で生返事を返しながら、愛妻の手料理に夢中でがっついている。息子に再び促され、ようやく「ごちそうさま」を言って腰を上げる。その背中にチチは声をかけた。
「ちょっと待つだ、悟空さ。話があんだ」

「家庭教師?」悟空が目を丸くした。
「んだ。悟飯ちゃんに修行させる代わり、勉強がおろそかになんねえように、いい先生に付いてもらってしっかり見てもらうだよ。通信教育だけじゃ心配だからな。そのスケジュールに邪魔にならねえ程度に修行をやるって約束してけれ」
 自分が勉強するわけではないから、悟空に異存のあるはずはない。もともと武道より学問の好きな悟飯にしてもそれは同じことだ。とりあえずはお互いの利害が一致し、チチはようやく微笑みを浮かべた。
「実は善は急げと思ってもう家庭教師協会に頼んであるだ。いっぱい注文つけただから人選に手間取ってるみたいだけんど、そろそろ派遣されてくる頃だべ」
 チチの機嫌もいつの間にか直ったようだし、あとは修行に打ち込むだけだ。悟空は勇んで家を後にした。
「んじゃ、行ってくっぞ、チチ。昼には戻っからな」
「うんと腹すかせて帰ってくるだぞ。昼はおめえの好きなもん一杯作っといてやるだからな」
 チチは夫と息子を見送りに外まで出て行って、にこにこと手を振った。
(せっかく悟空さが帰ってきたんだべ。いつまでも仏頂面してたらブスになっちまうだ)
見上げると上空に修行相手を待ちわびたピッコロが浮かんでいる。
「お母さん行ってきます!」悟飯は師匠のもとへ一気に飛んで行こうと身構えた。
「待つだ! 悟飯ちゃん」
「え?」
 空中で悟飯が静止した。悟空が「どうしたんだ?」という顔で妻を振り向く。
「あれは……」片手をひさしのように目の上に掲げて伸び上がり、チチははるか前方を凝視した。大きなリュックを背負った一人の男がこちらに向けて山道を歩いてくる。
「家庭教師の先生だべ!」
「ええっ、もう?」
 驚く悟飯にチチは得意げに言った。「迅速・満点・満足がモットーの会社だべ。さ、勉強するだよ」
「だってボク……」
「お、おい、チチ。何も初日から」
「約束したべ! 最初が肝心なんだ。――――さ、悟飯ちゃん、先生に挨拶するだぞ」
 チチは彼方に見える男に向って両手を大きく振り回しながら、「せんせーーーい、ここだべーーーーっ」と、大声で叫んだ。
 声が届いたとたん、男はハッとしたように顔を上げた。いっときこちらを見つめたままその場に立ちつくす。
 と、次の瞬間、かついでいたリュックを放り出し、ものすごい勢いでこっちへ向って駆けて来る。
「見たか悟飯ちゃん! 教育に情熱を燃やしてる先生だべ〜!!」
 あっという間に近くまで来ると、男は呆然とした表情でこちらに目を据えたまま、二十歩ほど離れたところで足を止めた。がっしりした短躯たんく、ざんばらの黒髪に意志の強そうな一文字眉。その下に光る黒目がちの大きな瞳は、見開かれたままさっきから瞬きひとつしない。丸の中に二本の角のようなマークが胸のところに入った赤い上着に白っぽいズボン。それらはあちこち擦り切れて薄汚れていたが、どこか武道の道着のようにも見える。家庭教師というよりは、うらぶれた冒険家という感じだ。
(ちょ……っと想像してたのとは違うだが、ま、この際仕方ねえべ)
 チチは悟飯の後ろに立ってその肩に両手を置き、こちらを食い入るように見つめたまま突っ立っている男に挨拶しようと、愛想笑いを浮かべながら息子ともども向き直った。
 と、その時――――
「チチ〜!! 会いたかっただ〜!!」
 悟飯をはね飛ばし、いきなり男はチチに抱きついてきた。

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