〈亜愛一郎シリーズ〉

泡坂妻夫
『亜愛一郎の狼狽』 『亜愛一郎の転倒』 『亜愛一郎の逃亡』 / 『亜智一郎の恐慌』 亜智一郎・その他短編



シリーズ紹介
 最後の一人の男は、背が高く、整った端麗な顔立ちであった。年は他の二人と同じく、三十五ぐらいだろうか。色が白く、貴族の秀才とでもいいたかった。目は学者のように知的で、身体には詩人のようにロマンチックな風情があり、しかも口元はスポーツマンのようにきりっとしまっていた。(後略)
(前略)彼は空を見上げるのに、大きく口を開いた。いきなり雨が降りかかっても、それを雨だと納得するまでには数秒かかっている。そして「雨だ、雨だ」と叫んで、両足を揃えてぴょんぴょん飛び跳ねた。その跳ねかたを見ると、運動神経の方がまるで駄目のようであった。
 (創元推理文庫『亜愛一郎の狼狽』13頁)

 雑誌「幻影城」による第一回幻影城新人賞。その小説部門佳作に入選した「DL2号機事件」に登場し、作家・泡坂妻夫とともにデビューを飾った名探偵・亜愛一郎は、泡坂妻夫の代表的なシリーズ探偵です。

 雲や虫、化石などを専門に撮影するカメラマンである亜愛一郎は、上にも引用したように端正な外見とは裏腹に間が抜けた振る舞いを見せるかと思えば、いかにも運動神経が悪そうな動作の割に腕っ節は強いといった具合に、そのちぐはぐなキャラクターが印象的です。また、唐突に口にするピントの外れたような言葉が、実は的確に真相を言い当てたものであったり(あるいはそうでなかったり/苦笑)と、探偵役としてもどこかちぐはぐなところが独特の魅力となっています。

 “亜 愛一郎”という風変わりな名前は、名探偵名鑑が編まれた時に(五十音順で)最初にくるようにと命名されたものですが、耳慣れない名前ゆえに、“〈ああ〉じゃありません。〈あ〉です。亜硫酸の亜という字を書きます。”*1や、“いえ、亜南ではありません。亜、なんです”*2などといった、趣向を凝らした(?)自己紹介がしばしば盛り込まれているのも愉快なところです。

 それぞれに愉快な登場人物たちやいい意味で現実離れした作品世界によって、たとえ殺伐とした事件が扱われた物語であってもどこかとぼけた雰囲気に包まれ、楽しく読める味わい深いユーモアに満ちたシリーズとなっています。

 ミステリとしてはまず、発端の奇妙な謎が目を引きます。早い段階で事件が起きる作品でもそれぞれに風変わりな状況設定がなされていますが、一見すると犯罪とは関係のない些細な謎*3から始まる作品が多くなっているのが特徴で、最後まで犯罪が登場しない作品こそほとんどないものの、後の“日常の謎”*4に通じるところがあるといえるでしょう。

 そのような奇妙な謎に対して意外な真相が用意されているのはもちろんですが、実はそれ以上に重視されているのが“亜がいかにして真相を見抜くに至ったか”という推理の過程です。シリーズの大半の作品において、“意外な真相”が唐突に明かされた後で亜が“謎解き”を行う、すなわち推理の結果が示された後に推理の過程が披露されるという構成が採用されている点をみれば、推理の過程に力が注がれていることは明らかといえるのではないでしょうか。

 そして、“日常の謎”――本質的にはホワイダニットである*5――に通じる発端が多いだけに、推理の過程で目立つのは“ある人物”(しばしば“犯人”)の心理や思考を探り、さらには“思想を、極端にまで押し進めて”*6真相に至る手法です。これは、いわば“探偵のロジック”――手がかりを組み合わせて“何が起きたか”を再構成する――に対する“犯人のロジック”であり、実際に“五のあとが六というように”*7“犯人が何をしようとしているか”を予測して犯行を未然に防ぐケースも見受けられます。

 ある“思想を、極端にまで押し進めて”いく推理の結論は、時に現実離れしたものになってしまう危険性をはらんでいますが、そこにそれなりの説得力を持たせるために、数多くの伏線が、しかも実にさりげなく配置されているのも見逃せないところで、亜が解決を披露すると同時にそれらの伏線が次から次へと浮かび上がってくるあたりは、まさに圧巻というべきでしょう。

* * *
 すらりとした長身で、引き締まった筋肉だった。年齢は三十前後、端麗な容貌だからこの男ほど長裃の似合う男はいない。式典の日などは末席に居並んでいてもすぐに目に付く。だから、正團も最初、年始御礼の席で見たときには、これは文武に優れた傑物に違いないと、すぐ勘違いした。勘違いと判ったのは、番頭が歩き出したときだった。この男は長裃を捌きかね、何度も転びそうになった。矢張り雲を見上げている役しかこなせそうにもない。
 (双葉社『亜智一郎の恐慌』20頁〜21頁)

 亜愛一郎のご先祖様である亜智一郎は、徳川十三代将軍家定に仕える雲見番の番頭で、江戸城内の雲見櫓で日がな一日空を眺めているという、これ以上ないほどの閑職についていました。が、シリーズ第1作「雲見番拝命」の事件でその異才を老中・鈴木阿波守正團に見出され、以降は将軍直属の隠密をつとめることになります。その配下には、甲賀忍者の末裔として忍びの術を継承する藻湖猛蔵、天下無双の怪力を誇る古山奈津之助、そして自ら左腕を斬り落として危地を脱した剛の者(ということになっている)緋熊重太郎という、同じ事件で功のあった三人が控えます。

 亜愛一郎ものに比べると、隠密という役割が与えられていることで総じてややシリアスな印象を受けますし、江戸期の中でも幕末に近い激動の時代であるために殺伐とした雰囲気が漂う部分もあります。とはいえ、主人公の亜智一郎はやはり(上にも引用したように)亜愛一郎に通じるとぼけたキャラクターですし、勘違いから雲見番衆に加えられてしまった緋熊重太郎の苦渋なども目を引くところで、亜愛一郎もののようなユーモラスな味わいが感じられる部分もないではありません。また、葉山響さんによる「亜智一郎の恐慌 御先祖様他対応リスト」にまとめられているように、随所にさりげなく見覚えのある名前(に似た名前)が登場してくるのも、昔ながらの作者のファンとしてはうれしいところです。

* * *

*1: 「DL2号機事件」(創元推理文庫『亜愛一郎の狼狽』27頁)より。
*2: 「亜愛一郎の逃亡」(創元推理文庫『亜愛一郎の逃亡』314頁)より。
*3: 「DL2号機事件」『亜愛一郎の狼狽』収録)の“なぜ階段でつまずいたふりをしたのか?”が典型的です。
*4: 一般に“日常の謎”の元祖とされるのは、1989年発表の北村薫『空飛ぶ馬』「日常の謎 - Wikipedeia」参照)。
*5: 別のところにも書きましたが、“日常の謎”とはある行為(もしくは現象)の“意味がわからない”というのがほとんどで、多くの場合は(“誰が?”などを含むものであっても)“なぜ?”という疑問に集約することができます。
*6: 「藁の猫」(創元推理文庫『亜愛一郎の転倒』46頁)より。
*7: 「DL2号機事件」(創元推理文庫『亜愛一郎の狼狽』40頁)より。




作品紹介

 このシリーズはすべて短編で、亜愛一郎の活躍する24篇は『亜愛一郎の狼狽』『亜愛一郎の転倒』『亜愛一郎の逃亡』の3冊にまとめられています。
 一方、亜智一郎ものは7篇が『亜智一郎の恐慌』1冊にまとめられているのみでしたが、単行本未収録だった7篇が2012年8月刊行の『泡坂妻夫引退公演』【第一幕 絡繰】に収録されました。


亜愛一郎の狼狽  泡坂妻夫
 1978年発表 (創元推理文庫402-14)ネタバレ感想

[紹介と感想]
 記念すべき第一短編集。個人的ベストは「G線上の鼬」、次いで「DL2号機事件」「黒い霧」
 なお、「ホロボの神」は「幻影城」に掲載後、単行本収録にあたって大幅に改稿されています。

「DL2号機事件」
 DL2号機を爆破するという予告電話を受けて、到着地の宮前空港には厳重な警備が敷かれていた。やがて上空に現れたDL2号機は、幸い爆発することもなく無事に着陸したのだが、そこから降りてくる乗客の一人が、階段でわざとつまずいたような素振りを見せたのに気づいた亜は……。
 序盤で提示される謎(なぜ階段でつまずいたふりをしたのか?)からは思いもよらない形で、しかもいつの間にか解決に至るというこのシリーズ独特のパターンが、第1作にしてすでに確立されています。解決場面で明かされる奇妙な論理と、それを支える伏線がやはり見事です。

「右腕山上空」
 宣伝のイベントで、単身熱気球に乗り込み、長期間を空中で過ごすことになったタレントのヒップ大石。気球は無事大空に浮かび上がったのだが、しばらくするとその様子がおかしくなり、ついには地上に降りてきてしまう。ヒップ大石は、他に誰もいない空中で殺害されていたのだ……。
 不可能犯罪が前面に出されている点をみると、(このシリーズにしては珍しく)オーソドックスなミステリといえるかもしれませんが、あまりにも奇抜な状況設定はやはりユニーク。トリックそのものというよりも、それを成立させている要素が秀逸です。

「曲った部屋」
 沼地を埋め立てて作られた美空が丘新団地。春には近くの火葬場の煙が漂い、夏にはマイソウムシが大発生するなど環境がよくない上に、建物自体が傾いて立っているという散々な状態で、周辺では〈お化け団地〉で通っていた。そして住人の一人が、死体となって発見されて……。
 一部の伏線の配置が親切にすぎて、かなりわかりやすくなっている感もありますが、決め手となる手がかりによって描き出される構図がよくできています。

「掌上の黄金仮面」
 羽並市の名物、奈良の大仏より巨大な弥勒菩薩像。その掌の上に現れた、不気味な黄金の仮面を被った男が、大量のお札をばら撒いている最中に射殺されてしまう。だが、地上はおろか、正面にあるホテルの窓からも、“黄金仮面”に銃弾を命中させることは不可能なはずだった……。
 “行灯の油を舐める女”と揶揄されるホテルと弥勒菩薩像の組み合わせ、そしてそこで大量のお札をばら撒く黄金仮面――何ともシュールな光景の中で繰り広げられる、不思議なフーダニットにしてハウダニット。と思いきや、“なぜ××××のか”(文字数は適当)というホワイダニットまで飛び出してくる、一筋縄ではいかない作品です。

「G線上の鼬」
 雪の降り積もった深夜、亜を乗せて市道G号線を進んでいたタクシーの前に現れたのは、このところ頻発しているタクシー強盗に遭遇し、命からがら逃げ出してきたという運転手だった。雪の上に残された足跡をたどって現場に戻ってみると、なぜか強盗は車内で殺害されており……。
 タクシー強盗の被害者が一転して殺人の容疑者になるという不可解な状況が興味を引きますが、さらにそこから解決へと向かう急転回が実に見事。そしてその解決の説得力を高めている、これでもかというほどの伏線の塊には圧倒されます。

「掘出された童話」
 大会社の社長が自費出版した童話の絵本「もりのさる おまつり の」。読んでみるといくつか誤字があるのだが、それは単なる誤植ではなく、頑固な社長が修正を受け付けずに原文のままで押し通したのだという。それを熱心に読んでいた亜は、そこに隠された秘密に気づいた様子で……。
 一日に書く分量を尋ねられた作者が“二行書くとふらふらになります”*と答えた逸話の残る労作にして、暗号ミステリの最高峰の一つ。シンプルで把握しやすく、それでいてなかなか思いつかない原理に基づく暗号は、非常によくできています。解読された暗号の内容が暗示する切迫した心理、そしてそれを強調する結末が何ともいえません。

「ホロボの神」
 戦友の遺骨収集のためにホロボ島へ向かう中神は、船で出会った奇妙な若い男に、戦時中に起きたある出来事を語る。それは、ホロボ島の原住民の酋長が、病で亡くなった妻の遺体と一晩過ごした後に、妻の後を追って自殺した事件だった。だが、中神の話を聞き終えた男は……。
 シリーズ中で唯一、最後まで亜の名前が出てこない異色の作品。過去の事件の話を聞くだけでその謎を解く、安楽椅子探偵形式となっているのも珍しいところです。特殊な状況下のトリックもさることながら、動機との組み合わせがまた絶妙です。

「黒い霧」
 早朝の商店街を突如襲った黒い霧――風に乗って飛び散るカーボンの粉。あたりは一面真っ黒になり、通りかかった亜も大騒動に巻き込まれる。以前に商店街で起きたカーボン騒ぎは事故だったのだが、今回はどうやら周到に仕掛けられた悪戯らしい。一体誰が、何のために……?
 C.ディクスン『魔女が笑う夜』を思わせる凄まじいドタバタ劇は笑えますが、“何のための悪戯なのか?”を追究していく推理は(廃棄される仮説も含めて)見ごたえがあります。また、読者への“見せ方”にも工夫が凝らされており、例を見ないユニークな構成となっています。

* * *
「ホロボの神」 (「幻影城」1977年5月号掲載)
 クルーザーで航海中に遭難し、ホロボ島に漂着した三人の若者。植物学者と調査に訪れていた亜と出会い、一緒に迎えの船が来るのを待つ間、原住民とも交流を持つようになっていた。だがある日、原住民の酋長が、病で亡くなった妻の後を追って自殺するという事件が起こり……。
 雑誌「幻影城」に掲載されたオリジナルのバージョン。単行本に収録されたものと骨格は同じですが、時代設定や登場人物の配置など、全体的にかなり違ったものになっています。これはこれで面白くはあるのですが、(一応伏せ字)亜が直接事件に立ち会うことで(ここまで)終盤の展開が今ひとつすっきりしないものになっており、やはり改稿後の方がよくできていると思います。

*: エッセイ集『ミステリーでも奇術でも』(文春文庫)197頁より。

2008.10.05再読了  [泡坂妻夫]

亜愛一郎の転倒  泡坂妻夫
 1982年発表 (創元推理文庫402-15)ネタバレ感想

[紹介と感想]
 オーソドックスなミステリに近い作品とシリーズ独特の作品という、二つの方向性がはっきり分かれてきた感のある第二短編集。個人的ベストは「砂蛾家の消失」、次いで「藁の猫」「病人に刃物」
 なお、本書の版によっては*1巻末の田中芳樹氏による解説に、シリーズ最終作「亜愛一郎の逃亡」で明かされる趣向のネタバレがある場合がありますので、ご注意下さい。

「藁の猫」
 自殺した妻の後を追って命を絶った画家・粥谷東巨の個展。展示された絵を眺めていた亜は、その中におかしなもの――六本目の指、針が間違った時計、あべこべのハサミなど――が描かれているのに気づく。完璧な写実性で知られていた東巨が、一体なぜそんなことを……?
 絵の中にこっそりと描かれた“おかしなもの”を手がかりに、東巨の秘められた心理を掘り起こしていくという、このシリーズの王道ともいえるパターンは見ごたえがあります。そして、解決の方向性が示された途端、一斉に存在感を主張し始める伏線が圧巻です。

「砂蛾家の消失」
 崖崩れで列車が止まり、徒歩で山を越えようとして道に迷った亜たち一行は、何度か家ごと消失したという奇怪な伝説の残る砂蛾家にたどり着き、一夜の宿を乞う。案内された部屋の窓からは合掌造りの家が見えていたが、それが朝になるとなぜか影も形もなくなっていたのだ……。
 個人的に大がかりなイリュージョンよりもクロースアップマジックの方が好みなせいか、館や町*2といった大きなものの消失にはさほど面白味を感じられないのですが、泡坂妻夫によるこのイリュージョンは、意表を突いた真相も含めて実に見事。思わず苦笑を余儀なくされるラストも印象的です。

「珠洲子の装い」
 飛行機事故で命を落としてから1年の間に、歌手・加茂珠洲子の人気は絶大なものになっていた。そして、その生涯を描いた映画の主役を演じる女優として、加茂珠洲子に似た女性を選び出すコンテストが催されたのだが、たまたま会場を訪れていた亜は奇妙なことに気づき……。
 いわゆる“日常の謎”さながらに、事件らしい事件が起こらない作品。ちょっとした違和感を“謎”として認識し得る亜の観察力と注意力、そしてそこから展開される逆説的なロジックが見どころです。

「意外な遺骸」
 馬本温泉で発見された死体の主は、通称“たぬきの岩さん”。死因は散弾銃による射殺だったが、死体はその後なぜか茹でられ、さらに焼かれた後に木の葉で隠されていた。その死体の様子は、亜が地元の女の子から聞き出した手毬歌の内容と奇妙な一致をみせていたのだ……。
 『喜劇悲奇劇』の副産物という回文がいくつか盛り込まれていますが、メインとなるのは見立て殺人です。見立ての理由そのものは一般的ともいえますが、その背景にある奇想が何ともいえません。

「ねじれた帽子」
 学者・大竹譲と同行する亜の目の前で、上品な感じの中年男がかぶっていた変にだぶだぶした帽子が強風に飛ばされた。亜が追いかけて拾ったものの、落とし主はなぜか帽子を受け取ることなく逃げるように立ち去ってしまう。大竹は亜とともに落とし主の行方を追い求めるが……。
 大竹の並外れた世話焼きぶりが愉快な作品ですが、少々無理があるように感じられる部分もありますし、解決もややアンフェアになっているなど、あまり出来がいいとはいえないのが残念なところです。

「争う四巨頭」
 定年退職した鬼刑事のもとを訪ねてきたのは、引退して地元に住む元県知事の孫娘。彼女は、このところ祖父の様子がおかしいと相談にきたのだ。話を詳しく聞いてみると、同じく地元の名士である三人の友達とともに、たびたび離れに閉じこもって何やら企んでいるらしい……。
 主役となっているのは「黒い霧」『亜愛一郎の狼狽』収録)に登場した元刑事ですが、引退後の意外な変貌ぶりにまず驚かされます。謎の中心となっているのはこれまた“日常の謎”的なもので、珍しく現象だけを追いかけた亜の最初の推理(ダミーの真相)には思わず苦笑。

「三郎町路上」
 タクシーの後部座席に突然出現した死体。首を切られて血まみれになったその死体の主は、ついさっきタクシーに乗り込み、目的地の三郎町に到着したところで車を降りていったばかりの客だったのだ。死体がタクシーを呼び止め、幽霊となって車を降りていったというのか……?
 「右腕山上空」『亜愛一郎の狼狽』収録)と同様、このシリーズにしては珍しいオーソドックスな不可能犯罪もの。奇術めいたトリックなどはよくできているのですが、オーソドックスなだけに少々物足りなく感じられてしまうのは、贅沢な悩みかもしれません。

「病人に刃物」
 入院した編集者・磯明を見舞いに来た亜だったが、二人で屋上へ出てみたところ、そこで一人の患者が刃物で刺されるのに出くわす。しかし、刃物を手にして患者に近づいた人物など見当たらず、誰にも犯行は不可能なはずだった。やがて患者は絶命し、磯明が逮捕されてしまう……。
 不可能犯罪ものが続きますが、こちらはいかにもこのシリーズらしいものになっています。真相は(見方によっては)ややわかりやすいものの、それ自体なかなか面白いと思いますし、亜による解決の“締め”が非常によくできています。

*1: 現在書店で流通している版では大丈夫らしいですが(未確認)、少なくとも手持ちの初版では、“それにしても、亜愛一郎は世界名探偵史上(後略)(340頁;最後の1行)以降がネタバレとなっています。
*2: 例えばJ.D.カー「亡者の家」『ヴァンパイアの塔』収録)など。

2008.10.08再読了  [泡坂妻夫]

亜愛一郎の逃亡  泡坂妻夫
 1984年発表 (創元推理文庫402-16)ネタバレ感想

[紹介と感想]
 〈亜愛一郎〉三部作の掉尾を飾る第三短編集。やや物足りない作品もないではないですが、全体としてはまずまず。個人的ベストは「火事酒屋」、次いで「歯痛の思い出」「飯鉢山山腹」

「赤島砂上」
 西日本裸体主義者クラブが借り入れた無人島・赤島では、会員たちが日常の生活を離れて自然に帰り、全員が生まれたままの姿で生活を送っていた。そこへ突然、モーターボートで乗り込んできたやくざ者らしき闖入者が、会員の一人を強引にさらって逃げようとしたのだが……。
 かなりの段階まで何ということもなく物語が進み、いざ事が起きても何が問題なのか今ひとつはっきりしない中、突然示される真相は実に鮮やかです。そしてそれを支える、複数の(一応伏せ字)古典ミステリ(ここまで)を組み合わせたようなトリックがよくできています。

「球形の楽園」
 蠍山一帯を所有する大地主・四谷乱筆は、いつ起きるとも知れない災害に備えて、山中に壮大なシェルターを建造中だった。ところが、その中心となる球形のカプセルの中に入り、内側からドアを閉鎖して閉じこもった乱筆は、他に誰もいない密室状況で殺害されていたのだ……。
 特異な状況の不可能犯罪が扱われた作品。トリックに前例があるのが残念なところですが、亜が真相に気づくきっかけ(手がかり/伏線)はなかなか面白いと思います。

「歯痛の思い出」
 事件の発生をよそに、嫌々ながら虫歯の治療をする羽目になった井伊刑事。病院内のあちこちへ行かされる合間の待ち時間に、亜や上岡菊彦という男とたびたび一緒になったのだが、退屈しのぎにぼんやり眺めていると、上岡は次から次へと何やら奇妙なしぐさを見せて……。
 冒頭の大騒ぎ(?)や繰り返されるギャグ、そしてどこかとぼけた結末など、終始愉快な作品です。謎解きの端緒は“日常の謎”としかいいようのないもので、そこから引き出される解釈は非常に秀逸です。真相が見えやすいのが難ではありますが、印象に残る作品といえるでしょう。

「双頭の蛸」
 北海道の少年から届いた葉書をもとに、森の奥深くの湖に棲むという双頭の大蛸を探しにやってきた雑誌記者。早速調査隊を引き連れて現地を訪れ、湖中の調査を始めたのだが、怪物が見つかるどころか、調査隊の一人が不可解な状況で殺害される事件が起きてしまい……。
 主役の雑誌記者が記事を書きながら事件を回想するという構成がユニークで、記事と現実とのギャップには苦笑を禁じ得ません。事件の真相や犯人が仕掛けたトリック、さらには亜による解決に至るまで、このシリーズらしからぬ――つまりは至極オーソドックスなミステリとなっていますが、よくできているのは確かです。

「飯鉢山山腹」
 山中の旧道へ化石の発掘に赴いた中学教師ら一行。〈ニウ島屋〉の車や校長の車が通り過ぎるが、作業は順調に進み、旧道をさらに奥へ進むことに。ところが崖崩れが起きて道はふさがれ、そこで車が崖下に転落していたのだ。しかも捜査の結果、運転手は殺害されていた……。
 少々無理があるようにも思えるものの、トリックは非常にユニーク。また、理詰めで亜を説得しようとする警察官に対して、亜が逆方向のロジックを持ち出して解決に至る展開が秀逸。そして、すべてを“台無し”にしてしまうようなラストが何ともいえません。

「赤の讃歌」
 “赤”を基調とする画風で画壇の頂点に登りつめた画家・鏑鬼正一郎。だが、明るい赤への讃歌に満ちたその作品は、初期の作品の暗い畏怖に圧倒された美術評論家・阿佐冷子には無価値なものだった。画風の変化の理由を探るため、鏑鬼の故郷へ向かった冷子だったが……。
 全編を覆う“赤”のイメージの変遷が印象的。真相そのものはかなり早い段階で読めてしまいますが、一部の手がかりの扱いには興味深いところがあります。

「火事酒屋」
 酒屋の主・銀蔵は無類の火事好き。身長が足りず消防士になれなかったものの、火事が起これば直ちに駆けつけて火事場の手伝いに精を出す始末で、出産を間近に控えた妻の美毬も気が気でない。今回の火事でも大活躍した銀蔵だったが、放火殺人の疑いをかけられて……。
 G.K.チェスタトン的なものをベースに工夫を凝らした大胆なトリックが実によくできています。そしてその裏返しともいえる解決の決め手、さらにはその示し方が、なかなか面白いと思います。

「亜愛一郎の逃亡」
 大雪に続いて地震に見舞われた宮後市。雪まみれでホテルニューグランド宮後にたどり着いたのは、亜と連れの東野だった。二人はホテルの離れに宿泊するが、亜を追ってくる女性が現れてもとぼけるよう主人に頼み込む。やがてホテルの裏庭に人魂が出現し、亜は忽然と姿を消す……。
 小粒な謎解きが物足りなく感じられるのは否めませんが、シリーズの閉幕にふさわしい見事なグランドフィナーレは圧巻です。そして亜は最後まで……。

2008.10.10再読了  [泡坂妻夫]

亜智一郎の恐慌  泡坂妻夫
 1997年発表 (双葉社)ネタバレ感想

[紹介と感想]
 亜愛一郎のご先祖様・亜智一郎が活躍する時代ミステリ。個人的ベストは「補陀落往生」
 なお、手持ちの単行本初版では、「目次」及び巻末の【初出誌】「補陀往生」「補陀往生」となっています。また、【初出誌】の内容そのものにも誤りがあります*

「雲見番拝命」
 江戸の町を襲った安政の大地震。いち早く気配を察した雲見番・亜智一郎の機転により、将軍家定は江戸城内の〈地震の間〉に難を逃れた。そして、この機に乗じて乱を起こさんとする賊の企みを、緋熊重太郎、藻湖猛蔵、古山奈津之助らが思わぬ活躍で未然に防ぎ……。
 安政の大地震という史実に絡めて雲見番ならではの亜の活躍を描きつつ、小粒ながらいかにも作者らしい謎を盛り込み、隠密としての“雲見番衆”結成という結末につなげた、シリーズ第1作としてよくできている作品です。

「補陀落往生」
 亜と藻湖の二人は野州白杉藩の内情を探るため、町人に扮して旅立った。藩主が不義を理由に三十数名の藩士を惨殺し、その亡骸を密かに城外の桂安寺に埋めたらしい。その白杉藩では、病人に坊主が付き添って桂安寺へ向かう補陀落往生なる行列が目につくが……。
 隠密としての初仕事が亜と藻湖の二人だけというのはシリーズ的にいかがなものかと思いますが、一見すると関係がなさそうにも思える出来事が最後につながってくる解決は実に見事で、時代ミステリとして本書の中でベストといえるでしょう。

「地震時計」
 地震を予知して報らせるという〈地震時計〉が、匠戸藩藩主から将軍家定に献上されるが、その極秘の機巧は亜をもってしても見当がつかない。その頃、緋熊に惚れていたはずの本所の遊女・珠川が、朋輩の雛路とともにそれぞれの客と心中するという事件が起こり……。
 雲見番本来の役目にも絡んだ〈地震時計〉という題材が目を引きます。前作に続いて二つの出来事がつながってくるところがよくできていますが、推理の扱いにひねりが加えられているのも見逃せません。

「女方の胸」
 病に伏した将軍家定は世継ぎに恵まれず、江戸城内は後継者争いで真っ二つに割れていた。そんな中、雲見番衆に密命が下される。十八年前に大奥を暇になったおみのという女中が、密かに家定の男児を産んでいたらしいのだ。立派な世継ぎとなり得る男児の行方は……?
 亜愛一郎ものの1篇を思い起こさせる真相は――“いかにして実現したか”という“ファンタジー”を除いて――すぐに見当がつきますが、最後に披露される逆説的なロジックはなかなか面白いものになっています。

「ばら印籠」
 十四代将軍家茂に引き続き仕えることになった雲見番衆。その最初の仕事は、家茂の姿を写真に撮ることだった。苦労の末に写真術を学び、何とか役目を果たすことができた雲見番衆だったが、亜はその写真に写った家茂の印籠におかしなところがあるのに気づいて……。
 謎が提示されるまでがかなり長いためにバランスが悪くなっている感はあるものの、“亜が写真術を学ぶ”という顛末には亜愛一郎のファンとしてニヤリとさせられます。謎そのものもさほどではありませんが、作者らしいからくりが興味深いところです。

「薩摩の尼僧」
 通商条約を調印した大老井伊直弼を狙う尊皇攘夷急進派の浪人たちが跋扈し、手が回らなくなった奉行所の援助を命じられた雲見番衆は、失踪した旗本の娘の行方を探すことに。娘は町で人混みに紛れて姿を消す前に、怪しげな尼僧に話しかけられていたという……。
 謎解きよりも、史実の裏側に奇怪な事件を巧みに紛れ込ませることに重点が置かれた作品、といったところでしょうか。亜愛一郎ものとは一線を画したシリアスで凄惨な雰囲気は、好みの分かれるところかと思います。

「大奥の曝頭{しゃれこうべ}
 十六歳になった将軍家茂に、京の天皇家から姫君を妻に迎えるという話が持ち上がる。ところが姫君を受け入れるべき江戸城大奥では、幽霊が出没するなどという怪しの話が蔓延していた。かくして、女装した亜と緋熊が男子禁制の大奥へ潜入することになったのだが……。
 女装して大奥に潜入するという、なかなかスリリング(苦笑)な状況が愉快な作品。さりげなく配置された手がかり/伏線が巧妙です。

*: 「雲見番拝命」“「野性時代」'92年12月号「補陀落往生」“「野性時代」'93年1月号とされていますが、正しくはそれぞれ“「野性時代」'86年2月号”・“「野性時代」'87年3月号”のようです。
 一旦シリーズが中断された後、新作「地震時計」が「小説推理」'93年2月号に掲載されるのに先立って、「雲見番拝命」「補陀落往生」がそれぞれ「小説推理」の'92年12月号・'93年1月号に再掲されたと記憶しています。

2008.10.13再読了  [泡坂妻夫]

亜智一郎・その他短編  泡坂妻夫
 2012年刊 『泡坂妻夫引退公演』【第一幕 絡繰】(東京創元社)収録ネタバレ感想

[紹介と感想]
 『亜智一郎の恐慌』が刊行された後で発表された7篇が、『泡坂妻夫引退公演』【第一幕 絡繰】にまとめられています。
 全体的にミステリ色はやや薄めですが、背景として言及される殺伐とした時代の空気とは無縁のような、亜をはじめとする雲見番衆の相変わらずとぼけた雰囲気が、特にシリーズ読者には大きな魅力でしょう。また、冒頭の亜と雲見番衆の言葉遊びなど、シリーズならではの様式美も味わい深いものがあります。

「大奥の七不思議」
 江戸の街を騒がす盗賊隼小僧が、何と江戸城内、紅葉山にある宝蔵を狙っているらしい。実際に城内で小僧の姿を見た者もいるのだが、一方で人に化けた狸だと言う者もあり、さらにお女中が庭の奥で怪しの者に出会う始末。その正体を、雲見番衆が確かめることになり……。
 “盗賊なのか狸なのか”というあたりがこの時代ならではのもので、全体的に非常に愉快な作品になっています。ある意味ものすごい真相には唖然とさせられますが、この結末はまた……(笑)

「文銭の大蛇」
 深川は浄心寺のご開帳に奉納された銭細工。新たに鋳造されたばかりの文久銭、ざっと二万枚をつなげて作られた金色に輝く大蛇は、大いに評判を取っていたのだが、押し入った強盗に奪い去られてしまったという。ちょうどそこに立ち寄った亜は、あることに気がついて……。
 「ばら印籠」『亜智一郎の恐慌』収録)でも扱われた写真術を発端に、大胆な盗難事件へと展開。亜の推理そのものはちょっとしたものにすぎませんが、その名探偵らしからぬ作中での扱われ方が、このシリーズらしいユーモアになっています。

「妖刀時代」
 将軍上洛に伴って京都、二条城へと入った雲見番衆。尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる中、手持ちの刀が今ひとつ心許ない亜は、名刀を探しにいくことに。その途中、無法者が落としていった刀を拾ってみると、何とそれが名のある妖刀だという。それを買い取っていったのは……。
 妖刀に関する蘊蓄が楽しい作品。ミステリの要素はほとんどなく、しいていえば“その人物は何のために妖刀を買っていったのか”が謎といえる程度ですが、その真相――というか結末が作者らしいというか。

「吉備津の釜」
 長州へ送り込まれた二人の御庭番が、その後に薩摩を経て備中岡山に潜入したところで消息を絶ってしまい、亜と古山がその行方を探すよう命じられる。かくして、町人に変装して岡山を訪れた亜と古山だったが、そこで吉備津神社の釜鳴神事の話を聞き込んだ亜は……。
 これは題材が題材だけに、ヨギ ガンジーもののようなところがありますが、何よりもまずそんなにのんきでいいのかと(苦笑)。しかしラストは……。

「逆鉾の金兵衛」
 毛利家の屋敷に押し入った盗賊が、再びやってくるかもしれないということで、雲見番衆が警備を手伝うことに。はたして、屋敷に忍び込んできた賊はすんでのところで逃げおおせてしまい、あとに残されたのは変わった鼻緒の草履だけ。一同はそれを手がかりに賊を探すが……。
 草履についての推理はあるものの、その持ち主を探す愉快な捜査活動の方に重きが置かれた作品で、「ねじれた帽子」『亜愛一郎の転倒』収録)を思い起こさせるところがあります。
 ちなみに、作中で言及される岡本屋の白蘭という花魁(94頁)は、〈宝引の辰捕者帳〉の一篇、「鬼女の鱗」『鬼女の鱗』収録)の登場人物だと思われます。

「喧嘩飛脚」
 江戸を騒がす薩摩浪士の様子を探るべく、薩摩屋敷のある品川を訪れた亜と藻湖は、遊郭で出くわした薩摩侍の様子をうかがううちに、成り行きで大坂からの飛脚が運んでいた一通の書状を目にすることに。そこには、何だかわけのわからない文が記されていたのだが……。
 物語の展開が何だか唐突ですが、最後は暗号ミステリに。さすがに「掘出された童話」『亜愛一郎の狼狽』収録)とは比べるべくもありませんし、直観的にわかりにくいところもありますが、時代ものならではの暗号ともいえるでしょう。

「敷島の道」
 このところ、江戸城大奥ご金蔵の近くで不審火が相次いでいるという。ご金蔵番の手伝いを命じられた雲見番衆だったが、明け方に現れて火をつけた怪しい者は、そのまま鮮やかに消え失せてしまった。一同が首をひねっていると、ご金蔵番が“敷島の道”の話を切り出して……。
 「逆鉾の金兵衛」の登場人物と双子のような人物に苦笑させられます。これもミステリとしてはさほどでもないかな……と油断していると、最後の解決に思わずニヤリ。

2012.08.30読了  [泡坂妻夫]

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