十月二十五日(日)〜二十七日(火)に道後温泉に行った。四国の道程は厳しかった。
この詩は(日露戦争時、騎兵第一旅団長だった)秋山好古が臨終の譫言(うわごと)に、「奉天へ」と言ったことを指す。ちょうど宗澤(=北宋末南宋初の東京(開封)留守(守備隊長))が死の間際まで抗金のため「過河!過河!過河!!」と北進を倡えたことに符合するか。南宋・陸游は『夜讀范至能攬轡録言中原父老見使者多揮涕感其事作絶句』で「公卿有黨排宗澤,帷幄無人用岳飛。遺老不應知此恨,亦逢漢節解沾衣。」と詠い、同・陸游の『村飮示鄰曲』に「七年收朝迹,名不到權門。耿耿一寸心,思與窮友論。憶昔西戍日,孱虜氣可呑。偶失萬戸侯,遂老三家村。朱顏捨我去,白髮日夜繁。夕陽坐溪邊,看兒牧鷄豚。雕胡幸可炊,亦有社酒渾。耳熱我欲歌,四座且勿喧。即今黄河上,事殊曹與袁。扶義孰可遣,一戰洗乾坤。西酹呉玠墓,南招宗澤魂。焚庭渉其血,豈獨C中原。吾儕雖益老,忠義傳子孫。征遼詔儻下,從我屬櫜鞬。」とある。『宋史・列傳・卷三百六十・列傳第一百一十九・宗澤』に「澤前後請上還京二十餘奏,毎爲潛善等所抑,憂憤成疾,疽發于背。諸將入問疾,澤矍然曰:「吾以二帝蒙塵,積憤至此。汝等能殲敵,則我死無恨。」皆流涕曰:「敢不盡力!」諸將出,澤歎曰:「『出師未捷身先死,長使英雄涙滿襟。』」翌日,風雨晝晦。澤無一語及家事,但連呼「過河」者三而薨。キ人號慟。遺表猶贊上還京。贈觀文殿學士、通議大夫,謚忠簡。」となっている。
(MEMO:)二十五日:新大阪9:18→岡山10:10・10:34→松山13:15→道後温泉(泊)
二十六日:子規記念博物館→道後温泉→松山・秋山兄弟旧居→松山城→道後温泉(泊)
二十七日:石手寺→松山駅14:23→岡山17:11・17:23→新大阪18:38
---------------
・下奉天: |
日露戦争時、騎兵第一旅団長だった秋山好古は、臨終の譫言(うわごと)に、「奉天へ」と言ったことを指す。
|
・雲上…: |
坂の上の雲の上にある…
|
|