服部四郎氏の音韻論によれば、 /tju/ も /ti/ と同じように使うことができるはずだが、 この語では「ティ」は使いながら、「テュ」は使わず、「チュ」としている。
元となった英単語 prostitute のその部分の発音は [-t(j)u:-] である。 fortune は「フォーチュン」と -tu- が「チュ」の音になるが、 この語はそうではない。
(/dju/ は使われる。「デューティー」を広辞苑第六版は載せている。)
2010-02-27 (6) 23:18:06 +0900
前項に関連。 もしも呼ばれるとすると、 等比級数が収束するための必要十分条件を 「公比の絶対値が 1 未満であること」とするのは間違いで、 「または初項が 0 であること」を付け加えなければならなくなる。
2010-02-27 (6) 23:12:03 +0900
本文ナシ
2010-03-01 (1) 00:02:18 +0900
上の追記部分におかしなことを書いていたことに気づき、訂正しているうち、 最初に書いた部分とほぼ同じ内容になってしまったので、削除した。
2010-03-01 (1) 22:12:35 +0900
一つの数(=公比)を決め、 おのおのの項にその数をかけたものを次の項としてできる数列を等比数列と呼ぶ、 と定義するならそうなるが、 隣り合った項の値の比が一定のものと定義すると、 0:0 は比とは言えないだろうから、言えないような気がする。
2010-02-27 (6) 23:09:02 +0900
2010-02-27 (6) 00:22:39 +0900
自殺しようとする人を励まそうと、 「生きたくても生きられない人がいるんだから、お前は生きろ」 と言うことがある。(逆効果らしいが。)
これの「生きる」を「死ぬ」で単純に置き換えると、 「死にたくても死ねない人がいるんだから、お前は死ね」となる。 だから、上の“励まし”が意味を持つなら、これも意味を持つかもしれない。
からだを動かす機能の大部分、または全部が働かなくなる病気の場合、 「死にたくても死ねない」状態になることがある。 そういう人と比べた場合、 自分の意思で死ぬことができるのは喜ばしいことなのか?
神は自殺しうるかと考えるのと似ているか。
2010-02-27 (6) 00:14:39 +0900
この季節特有の仕事の合間に、紙コップで紅茶を飲む機会があった。 白い紙コップにティーバッグを入れ、そこに電気ポットからお湯をそそぐのだが、 疲れていたせいかぼんやりして、 ティーバッグを入れたことを忘れていた。 コップは斜めから見ているので、中に入れたティーバッグは見えない。 (糸と、その先についている紙片は見えていたはずだが、 脳は見ていなかったようだ。)
そのときである。 そそがれたお湯が原因不明で茶色に染まったと思ったら、 学生時代に、クラス合宿のとき、 お茶が飲めるかと電気ポットをかついでいったのに、 蛇口から出る水が濁っていて飲めなかったことを、何十年ぶりかに思いだした。
2010-02-26 (5) 23:31:00 +0900
HTML で書いたものを、TeX に直す作業。 内容の書き換えも少し混じるが、ほぼ、機械的な作業だ。 よって、久しぶりに、CDで音楽をききながら、 「ながら作業」をしてみたら、 音楽が非常に早く流れ、あっという間に終わってしまった感じがした。 ちなみに、聞いたのはカラヤン指揮のベートーベン「ミサ・ソレムニス」。
2010-02-26 (5) 23:28:12 +0900
2009 年十二月 11 日金曜日放送分のNHKラジオ「実践ビジネス英語」
で、講師の杉田敏先生が
『off-the-rack は、衣服などが「既成の」
「レディーメードの」ということですが
』
と言われたが、テキストには
「レディメード (ready-made)
の」とあった。
2010-02-24 (3) 21:35:50 +0900
本文ナシ
2010-02-23 (2) 02:21:17 +0900
「お兄さんが〜」「弟さんが〜」と言えば、話している相手の兄、弟のことである。 「弟さん」は「弟」に「さん」がついたもの。 「お兄さん」の元は「兄さん」で、広辞苑第六版によると、 これは「あにさま」からきているそうだ。 「お姉さん」は「あねさま」から。「妹さん」とも呼べる。
それに対し、your husband の意味で「夫さん」「お夫さん」とは言えず、 「ご主人」となる。これでは妻が夫につかえているようだ、と言って嫌う人もいる。 「妻さん」「お妻さん」も言わない。
2010-02-23 (2) 02:14:37 +0900
飯間は姓。タミーは、「ちびまる子ちゃん」のたまちゃんが、 ときどき自分ひとりの世界にひたるときに成りきる人物。 民井という姓が実在すれば、「飯間・民井」でもよいのだが。
2010-02-23 (2) 02:11:12 +0900
本文ナシ
2010-02-23 (2) 02:09:40 +0900
リベカは旧約聖書「創世記」に現れる女性名。
おたけびは、「叫び」が連想されるからか、そういう意味に解釈されがちだが、
元の意味は
「雄雄しさを誇示すること
」(岩波古語辞典)。
ここでは、俗に聞かれる用法に従う。
2010-02-23 (2) 02:04:52 +0900
夏季五輪だと、暑すぎることがあるような。 でも、雪が積もっていると走れないか。
2010-02-23 (2) 02:03:07 +0900
本文ナシ
2010-02-23 (2) 02:02:47 +0900
本文ナシ
2010-02-23 (2) 02:02:11 +0900
ちょっと前、 NHKラジオ「実践ビジネス英語」を録音するため、 その前にやっている“チャロ”をついでに聞いていて、覚えた。
2010-02-23 (2) 01:55:20 +0900
漱石あたりの造語かと思ったが、もっと昔からあるようだ。
2010-02-23 (2) 01:53:00 +0900
どんな自殺も楽ではないし、遺体がきれいということはない、という人がいるが。
2010-02-23 (2) 01:51:37 +0900
どんな自殺も楽ではないし、遺体がきれいということはない、という人がいるが。
2010-02-23 (2) 01:50:04 +0900
「新日本」が誤解を呼ばないとも限らない。
2010-02-23 (2) 01:48:33 +0900
勤務先の大学の学生たちが書き込んでいる掲示板を見ると、 何のために大学に来ているのかわからないような奴も多い。 学問する気はないのか? と携帯電話の画面に向かってつぶやいてみたが、 彼らが卒業までいてくれるおかげで、クビにならずに済むのだと考えれば、 感謝しなければならないのかもしれない。
2010-02-23 (2) 01:45:20 +0900
本文ナシ
2010-02-23 (2) 01:44:23 +0900
マタイ 5,41 に「人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ」(文語訳) とある。 強制的にかりだされ、 荷物運びなどをさせられることを念頭に置いているのだと思うが、 一里行ったところで、強制した人が茶店で休もうとし、 「もういい、行け」と言ったとして、 「そんなこと言わないで、もう一里行きましょう」 と言ったら、今度は自分が相手に強いることにならないだろうか。
荷物が材木だとして、材木をかついだまま、 「いやだ、いやだ、もう一里行くんだ」と、 上半身をひねらせると、相手の頭を直撃するかもしれない。
2010-02-23 (2) 01:38:15 +0900
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「は」が小さくて見のがしやすいのがポイント。 実際には硫化水素は発生しておらず、危険はない。
付) よい子は絶対に実行してはいけません。
付) Wikipedia によると、屁に含まれているそうだから、 中に人がいる場合、絶対に発生しないとは言い切れない。
2010-02-23 (2) 01:24:58 +0900
電撃を出される前に倒す、というのが一つ。 そのあとでも、剣で電撃をふせぎつつ、フォースで建物の外に落としてしまう、 というやり方があるのでは。 あるいは、足を使って蹴落とす。
2010-02-20 (6) 02:33:23 +0900
……出してもいいのではなかろうか。 アナキン、ヨーダ、オビ=ワンのさらに後ろに現れるとか。
2010-02-20 (6) 02:31:58 +0900
あの作品だけ、二人が登場しない。 いまの技術なら、あとから追加出演させることも簡単だろう。
ただ、 初めて見る人は IV, V, VI; I, II, III の順に見るものだ、と考えるなら、 ヨーダを IV で出してしまうのはまずかろうが。
2010-02-20 (6) 02:29:17 +0900
ヨーダは旧三部作と I のかなりの部分で人形だった。 グリーバスはCGキャラクタで、III のみに登場し、 ライトセーバーをあやつったが、シスではない。
端役のジェダイにはいたかも。
2010-02-20 (6) 02:26:35 +0900
本文ナシ
2010-02-20 (6) 02:24:40 +0900
本文ナシ
2010-02-20 (6) 02:24:04 +0900
リベカは旧約聖書「創世記」に登場する人名だが、 それに由来した日本人名で、日本語としてローマ字でつづられている、 と考える。
2010-02-20 (6) 02:21:36 +0900
V のルークは、かなりの距離を落ちるが、死なない。 II のアナキンがザムを追って彼女のエアカーの上に落ちたときも。
あの世界では、現実の世界よりもはるかに長い距離を落下しても、 死なないのだ。 皇帝はあれで本当に死んだのだろうか。 新デス・スターから脱出していなければ、 新デス・スターと運命を共にしたとしか考えられないが。
2010-02-20 (6) 02:17:50 +0900
…残された左手でルークの捨てた剣を引きよせて切れば、 生命維持装置を破壊されずに、よって死なずに済んだのではなかろうか。
2010-02-20 (6) 02:16:10 +0900
本文ナシ
2010-02-20 (6) 02:14:30 +0900
羽田は姓。 「あで」は名詞では実在するが、「あでな」と言うかどうか、ちょっと不安。
2010-02-20 (6) 02:09:56 +0900
ローマ字入力のかな漢字変換でこの文章を書いているが、 この機能はどうせ間に合わせであり、 いつかまたTコードに戻りたいと考えているので、 カスタマイズのしかたをきちんと勉強したことはない。 そのくせ、いろいろなことを想像してみるのだが。
変換前のかなを、歴史的かなづかい、字音かなづかいにできれば、 同音意義語を減らすことができるだろう。 ユーザはそれらのかなづかいを学習せねばならないが、 一生使うのだからそれで変換効率があがるなら挑戦するに値する、 と考える人もいるだろう。
その場合でも、かな漢字変換機能は、 大企業が作って、お金をとって売っているものを使うほうがいいと思う。 Linux や emacs のかな漢字変換を使ってみると、 Microsoft Windows のそれとの差は歴然である。 いわゆる“辞書”を作る際には人海戦術が必要だと思うので、 そこにお金をかけられる大企業には、 ボランティアでは対抗できないと思う。
すると、旧かなづかいによる入力機能は、 Windows などの(いわゆる)日本語入力機能に、ユーザ、 あるいはユーザの集まりが何かを付け足すことで比較的簡単に実現できるように、 Windows などの(いわゆる)日本語入力機能を作ってもらえたら、 楽に実現できるだろう。
(いわゆる)“辞書”には、 たとえば「昭和」の読みとして「しょうわ」がのっているのだろうが、 『この「しょう」は漢字「昭」の普通の音読みだ』という情報を付加し、 ユーザが 『「昭」は現代かなづかいでは「しょう」だが字音かなづかいは「せう」』 という情報を付け加えることで、 簡単に「せうわ」から変換できるようにできるよう、 できないものだろうか?
中国語を学んだ人には、 ピンイン表記から四声の記号を取り除いたもので入力できると、 便利かもしれない。
2010-02-20 (6) 01:50:51 +0900
意味不明。
2010-02-20 (6) 01:44:06 +0900
日本で「聖火」と呼ばれるものは、 英語やフランス語では二通りに言われる。 一つは「聖なる火」という言い方。 もう一つは、オリンピックの聖火の場合で、それは「五輪の炎」と訳される。 《英仏語では五輪の「聖火」は「聖なる火」ではなく「五輪の炎」なのだが》 参照。
「聖火」には同音異義語が多い。その点からも、言い換えが望ましい。 (ただし、「聖火」の意味になる場合は限られるから、 聞き間違いは起こりにくいかも知れない。)
2010-02-20 (6) 01:41:59 +0900
かなによる回文では「こいけ・けいこ」が回文氏名だが、 ではローマ字で Keiko としたら、と考えてみた。
2010-02-20 (6) 01:39:20 +0900
かなによる回文では「こいけ・けいこ」が回文氏名だが、 ではローマ字で Koike としたら、と考えてみた。 S はちょうどまん中に位置するので、ほかの文字でもいいのだが、 これが一番ありそうなので。
2010-02-20 (6) 01:35:22 +0900
ローマ字回文を打ったりしているうち、 キーとアルファベットの対応にもだいぶ慣れてきた。 日本語をローマ字表記した場合に現れる組み合わせのみになって入力される 「ローマ字入力モード」って無理かな? 母音字 aeiou は別々のキーに割り振られている。でも、 子音は m と n が同じキーだったりするから、効率よくないか。
2010-02-20 (6) 01:31:40 +0900
自宅にはいってくる、無料情報誌と称する宣伝冊子。 食べ物屋さんは、「飲み放題」などをうたって、 一人でも多くの客に自分の店にきてもらおうとしている。
私が勤務している大学は、いまのところ、経営は大丈夫なようだが、 宣伝文句として、「入学金と授業料を払えば『勉強し放題』」 というようなのはどうかな、と思ったのだった。 履修すると別途お金がかかる授業科目は、たぶん、ない。 (借りた柔道着を、自分のお金でクリーニング屋に出してから返すように、 というような授業はあるが。)
2010-02-20 (6) 01:26:41 +0900
わかったようなわからないような。 「年に、この近年の**率だけ、増えています」というような回文に発展するかも、 という意味で書いておく。
2010-02-20 (6) 01:24:07 +0900
意味不明。
2010-02-20 (6) 01:22:58 +0900
エモは江本の愛称だが、 言うときは短くなるが、書くときは字数が減らないから、 エモ氏と書くことはまずないと思う。
2010-02-20 (6) 01:20:54 +0900
ほかに、 「数列」が「すーれつ」から「あたーれつ」、 「数論」が「すーろん」から「あたーろん」など。
2010-02-20 (6) 01:18:27 +0900
バイエルの次にやるピアノの教則本を書いた人の名前。 Burgmüller と書くのだと思う。
2010-02-20 (6) 01:16:44 +0900
半角カタカナはなるべく使わないようにと言われるが、 携帯電話の中専用ということで使う場合がある。
ほかに、「ツリ」が「州」のように見えることがあるが、 こちらはちょっと苦しい。
2010-02-20 (6) 01:11:54 +0900
誰が書いたかわからない遺産案が出てきた、と。
2010-02-20 (6) 01:10:09 +0900
ここから先はけさ0時台にアップロードした。
2010-02-27 (6) 22:24:18 +0900
意味不明。
2010-02-19 (5) 02:03:59 +0900
「日本書紀(一)」(岩波文庫、1994 年) の補注3−一八によれば、 辛酉革命の思想では 1260 年ごとの辛酉の年に革命が起きると考えるので、 推古天皇九年(西暦 601 年)の辛酉の年の 1260 年前、 すなわち紀元前 660 年を神武天皇即位の年とした、という説があるそうだ。
そうだとすると、601 年の 1260 年後、 1861 年にも革命がおきていた?
実際の日本は幕末であったわけだが、 明治時代になってから、 この年に何かがあったことにして、それを 「神武天皇の即位は紀元前 660 年」と合わせて利用しよう、 という考えはなかったのだろうか?
2010-02-19 (5) 01:35:49 +0900
最初につけたタイトルは 「辛酉革命の思想によれば、1861 年の日本でも革命がおきていた?」 だったが、これは私の誤読に基づくものだった。 辛酉革命の思想とは、 60 年ごとにやってくる辛酉の年には革命が起こるという説であって、 紀元前 660 年の辛酉の年を神武天皇即位の年としたのはそれに基づいているが、 それだけに基づいたのではない。 明治時代になってから、 それに 「1260 年ごとに革命が起こる」という考えと、 「901 年はそのような辛酉の年の一つである」 という考えとが加わってできたものらしい。 私は、 「901 年を含む 1260 年ごとの辛酉の年には革命が起こる」 が辛酉革命の思想と誤解していたのだ。
それと、本文に「辛酉思想」と書いていたのを「辛酉革命の思想」と改めた。
2010-02-27 (6) 22:40:31 +0900
Wikipedia などで調べたのだが、あまり楽な死に方ではなく、 中毒している人の息を吸い込んだ人にも害があるそうだ。 それでも青酸カリが“好まれる”のは、 非常に小さなもので、すばやく自殺できるから、ではあるまいか。 縊死は比較的楽に死ねるそうだが、 それには、ひも状のものと、それをかける場所が必要だ。 それに対し、青酸カリはカプセルに入れて持ち歩けば、非常に小さくて済む。 また、監視されている場合、 縊死は死ぬまで時間がかかるので未遂に終わる可能性が高いのに対し、 青酸カリはのんでしまえばそれまでだ。 (監視している人が救命法を知らなくて、かつ、 救命法を知っている人をすぐに呼べなければ、の話だが。)
2010-02-18 (4) 23:16:38 +0900
NHKラジオ「実践ビジネス英語」の Quote ... Unquote では、 人名が英語式に発音されるときと日本語式に発音されるときがある、 と前に書いたが、久しぶりに日本語式発音の回があった。 2009 年十二月 9 日水曜日の Eugène Delacroix である。 杉田敏先生は、明らかに日本語式に「ドラクロワ」と発音されていた。 (「ク」で母音が聞こえた。)
2010-02-18 (4) 22:58:15 +0900
以下の引用は「日本書紀(一)」(岩波文庫、1994 年)から。
240 ページ
「辛酉年の春正月の庚辰の朔に
」神武天皇が即位する。
これを西暦紀元前 660 年二月 11 日土曜日と仮定する。
(曜日は、
《神武天皇即位の日が皇紀 1 年二月 11 日だとすれば、それは土曜日である》
で計算した。)
すると、同じページの
「二年の春二月の甲辰の朔乙巳
」の「朔」は、いつになるか。
庚辰からみて甲辰は、mod 60 で 24 日後である。
太陰暦であるから、およそ、29.5 日の整数倍でもあるはずだ。
うるう月がはいらなければ 13 倍、はいれば 14 倍。
29.5 * 13 = 383.5 は mod 60 で 23.5,
29.5 * 14 = 413 は mod 60 で 53 となるので、前者だとわかる。
つまり、小数点以下を切り上げて、384 日後である。
紀元前 660 年はうるう年なので、紀元前 659 年二月 11 日は 366 日後。
384 - 366 = 18 なので、二月の 11+18 = 29 日、ということは、
紀元前 659 年三月 01 日だ。
また、384 は mod 7 で 6 なので、金曜日とわかる。
(これがわかれば、乙巳については、
その翌日ということからすぐわかるが、それにはあまり興味がない。)
242 ページ
「四年の春二月の壬戌の朔甲申
」。
甲辰からみて壬戌は mod 60 で 18 日後である。
ちょうど二年後なので、29.5 * 24 = 708 日か、
29.5 * 25 = 737.5 日後。
708 は mod 60 で 48, 737.5 は 17.5 なので、後者であり、
小数点以下は切り上げで、738 日後とわかる。
738 - 365 * 2 = 8 なので、紀元前 657 年三月 09 日、
738 は mod 7 で 3 なので、月曜日。
ここで、「うるう月はほぼ 19 年に七度はいる」ことを見ておこう。 「太陽暦の 19 年」は 365.25 * 19 = 6939.75 日、 「太陰暦の 19 年」に七度のうるう月を加えると 19*12 + 7 = 235 カ月、 235 * 29.5 = 6932.5 で、ほぼ一致する。
同じく 242 ページ
「三十有一年の夏四月の乙酉の朔
」。
壬戌からみて乙酉は mod 60 で 23 日後。
27 年後であり、27/19 * 7 = 9.9... であることから、
九回か十回、うるう月がはいったことになる。
九回とすれば (27*12 + 9 + 2) * 29.5 = 9882.5,
mod 60 で 42.5 日後。
十回とすれば (27*12 + 10 + 2) * 29.5 = 9912,
mod 60 で 12 日後。
どちらも合わない。これはとばそう。
(補:この二つの日付の中間で、mod 60 で 23 日後になることはない。 mod 60 で 23 日後になる、三十有一年の日付をグレゴリウス暦であげてみよう。 9912 + (23 - 12) = 9923 日後はそうである。 この年は西暦では紀元前 630 年だから、紀元前 657 年からここまで、 うるう年は 656, 652, 648, 644, 640, 636, 632 年の 7 回。 365*27 + 7 = 9862 日後が紀元前 630 年三月 09 日。 9923 - 9862 = 61 なので、9923 日後は三月 70 日 = 四月 39 日 = 五月 09 日となる。 月の満ち欠けを考えず、干支だけから計算すればこの日になる。 9923 は mod 7 で 4 なので、この日は金曜日である。)
244 ページ
「四十有二年の春正月壬子
」。
「四年の春二月の壬戌の朔甲申
」から計算する。
壬戌からみて壬子は mod 60 で 50 日後。
38 年が経過しているので、38/19 * 7 = 14 回ほどうるう月がはいったことになる。
(38*12 + 14 - 1) * 29.5 = 13835.5 で、mod 60 だと 35.5 日後である。
うるう月が一回多かったり少なかったりすると約 5 日後となり、
これも合わない。とばす。
(補:mod 60 で 50 日後となる紀元前 619 年の日付を、さがしてみよう。 うるう年は、前の計算に加えて 628, 624, 620 年の 3 回で、合わせて 10 回。 紀元前 657 年三月 09 日の (657-619)*365 + 10 = 13880 日後が紀元前 619 年三月 19 日だ。 13880 は mod 60 で 20 である。 求めたい日が正月のついたちであることを考えれば、この日から 30 日前、 すなわち、紀元前 619 年二月 17 日となる。 13880 が mod 7 で 6 なので、日曜日。)
244 ページ
「七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰
」。
崩御の日付である。
「四年の春二月の壬戌の朔甲申
」から計算する。
壬戌からみて甲午は mod 60 で 32 日後。
72 年が経過しているので、72/19 * 7 = 26.5... 回のうるう月。
26 回とすると (72*12 + 26 + 1) * 29.5 = 26284.5 で、mod 60 では 4.5 日後、
27 回とすると (72*12 + 27 + 1) * 29.5 = 26314 で、mod 60 では 34 日後。
後者はほぼ一致する。
しかし、この計算が合ったからといって、
これでいいのだろうか? 上の二つでだんだん大きくなった誤差が、
ここではひと月の差になって現れていることもあり得る。
しかし、計算を続けよう。
即位から 75 年後なので、紀元前 585 年である。
紀元前 657 年からここまで、うるう年は
紀元前 656, 652, 648, 644, 640, 636, 632, 628, 624, 620, 616, 612, 608, 604,
596, 592, 588 年の 17 回。
グレゴリウス暦なので、紀元前 600 年はうるう年ではないことに注意。
26312 - 72*365 - 17 = 15 となる。
三月 09 日の 15 日後は三月 24 日。
「甲午の朔甲辰
」は十一日だから、四月 03 日である。
Wikipedia は四月 09 日としている。
ユリウス日を用いて検算しようと思ったが、 理科年表(1999 年版)の表では、紀元前の計算のしかたがよくわからない。 そこで、紀元前 600 年を、同じく平年である、1900 年にもってくる。 すると、紀元前 660 年は 1840 年に、紀元前 585 年は 1915 年となる。
その差は 27444 で、mod 60 では 24. 即位の日は庚辰。崩御の日は甲辰なので 24 日あと。 干支からすると、これであっているようだ。 27444 は mod 7 で 4 なので、崩御の日は水曜日とわかる。
もしかして、 Wikipedia はユリウス暦を採用しているのだろうか? いや、 その場合は逆にずれるはず。
付)「補」で始めた二つの段落は、 本項をほぼ最後まで書き終えてから、書き加えたものである。
付) これを本気で続けるなら、 年を入力するとその年のカレンダーを干支で表示するプログラムを書いたほうが早そうだ。 たとえば、今月分なら
19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46と表示する。これは、普通のカレンダーで日曜日を左端に表示するものなら
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28と表示される日付を、干支で置き換えたものである。 ただし、甲子を 1 として番号化してある。
2010-02-18 (4) 20:52:40 +0900
たとえば「Tさん」と書いても、 一文字めは「たちつてと」のいずれか、ということしかわからない。
それに対し、「イニシャルはA」と書けば一文字めが「あ」と特定されてしまう。 なんだか、不公平。「W」は「わ」。
付) どういうローマ字つづりを採用するかに依存する。 ヘボン式だと、「C」は「ち」「ちゃ」「ちゅ」「ちょ」だから、 かなの一文字めが「ち」とわかってしまう。
2010-02-18 (4) 19:47:45 +0900
たとえば、「きのう(昨日)」の最後の「う」はその前の「の」 を長音にするという意味であって、「う」とは読まない。 こういう場合は「きのぅ」と書く、と決めるやり方もあるな、と考えたもの。
問題は /ei/ で、発音は /e:/ のことが多いからと 「せいせき(成績)」を「せぃせき」と書くことにすると、 「ていせい(訂正)」が「てぃせい」になり、 特殊音 /ti/ の表記と同じになってしまう。
小書きに二つの意味を持たせるからうまくゆかないのだな。 (一つは、現在そうしているように、 「きゃ」や「てぃ」のような、かな一文字で表せない音を表す機能。 もう一つはいま上で述べた機能。)
「きょう(今日)」はこの書き方だと「きょぅ」になる。
付)これは新しい案ではないと思う。 カタカナタイプライターではこうするのではなかったか。
2010-02-18 (4) 19:41:22 +0900
前項を書いていて、「なあに」では意味がわかりづらいのではないか、 「なぁに」のほうがいいのでは、とふと思って、考えたこと。
2010-02-18 (4) 19:38:41 +0900
よく考えずにしゃべっていて。 “音をのばすこと”を一つの音素と考え、例えば仮に「:」で書くと、 /na:ni/, すなわち /na/, /:/, /ni/ の並びを逆順にすれば /ni:na/ になるのだが。
2010-02-18 (4) 19:34:47 +0900
いつから読み始めたのか忘れた。 《日曜日から読み始めた福音書、読み終わる》 よりあとだと思う。 このときは口語訳を、2009 年 08 月 23 日の日曜日から一週間で読んだようだ。 それと比べると、だいぶかかった。
使徒行伝第一章前半の、 イエスの昇天も四福音書と合わせて通読することに決めていたのを思いだし、 いま読んだ。
2010-02-18 (4) 01:25:22 +0900
映画の途中で、lake country に隠れるといって、 パドメとアナキンが小舟できた場所だ。 小舟の乗り降りができないと来られないのではないか。 上陸した直後に階段もある。 R2-D2 はジェット噴射で飛べばいいかもしれないが、 C-3PO は歩いて小舟の乗り降りができたのか、あの階段をのぼれたのか。
2010-02-17 (3) 23:53:02 +0900
……どうやって受け取ったのだろう? 実際にはタトゥイーンにいて、 宇宙船内の R2-D2 がメッセージに気づく。
ナブーに戻ってから、パドメが lake country に隠れると提案し、 二人は最後は小舟で目的地に着く。 そこでは R2-D2 は一度も映らないし、 通信機を持ってきているようにも見えない。
R2-D2 がメッセージを受けた装置は、宇宙船に付属するもののようである。 ナブーの駐機場で、R2-D2 が船に残っていて、転送すればよいが。 (実際の映画の中では、R2-D2 は勝手に転送することはせず、 アナキンを呼びに出てきた。)
オビ=ワンにしてみれば、 あのときアナキンが言いつけを破って宇宙船で旅行にでていたからよかったものの、 そうでなければ、 アナキンはオビ=ワンからの通信を受ける手段がなかったのではあるまいか。 仮に通信機を持っていたとしても、常にそばに置いていたのではなさそうだ。 草原でのシーンなど。
I のタトゥイーンでクワイ=ガンが使っていたような小型のは持っていたかも知れないが、 それで他の星と通信できるとは思えない。 それができるなら、 クワイ=ガンはコルサントのジェダイ寺院と連絡をとったはずだし、 そういうものを II のオビ=ワンも持ってゆくはず。
2010-02-17 (3) 23:43:16 +0900
前々項に書いた 2009 年十二月 04 日金曜日のNHKラジオ「実践ビジネス英語」 で、ゲストの松下クリスさんが、 1分50秒以上に渡って英語で説明された部分があった。 全部で15分の番組で、そのうちのいくらかがビニエットの解説にあてられる。 そのうちの1分55秒だから、結構長い。 一つの文章の中に、二つの説明すべき点があったためでもある。 いままで聞いてきた中で、一番長いかも。 (前に、それぞれの課の第6回目も担当されていたとき、 冒頭で杉田敏先生とされていた、英語での自由な会話は除く。)
2010-02-17 (3) 23:06:32 +0900
前項で書いた 2009 年十二月 04 日金曜日のNHKラジオ「実践ビジネス英語」 のビニエットの続きに what on earth とあったので、 「もしもスター・ウォーズにこの句が出てきたらおかしいだろうな」 と思い、 IV には、 確か、 デス・スターの表面にある攻撃目標の大きさが2メートルと言うシーンがあったが、 新三部作にはなかったよな、 と考えているうち、II の「パーセク」が気になって、調べてみたら、 これは地球の公転軌道の直径を元にして決めた単位ではないか。
II のタトゥイーンで、 パドメがアナキンに“ジオノーシスは1パーセク未満の距離にある” というところがある。(吹き替えや日本語字幕では「未満」がない。)
2010-02-17 (3) 22:58:42 +0900
2009 年十二月 04 日金曜日のNHKラジオ「実践ビジネス英語」 のビニエットに出てきた。 ダース・シディアス Darth Sidious と関係あるのかな。 insidious の in- は否定ではない? ラテン語起源の語のようだ。
2010-02-17 (3) 21:34:20 +0900
普通に読むと、その前からピラトと会話しているユダヤ人たち、と読める。 しかし、十字架刑を行なう権限はユダヤ人にはなく、 それを持つのはローマからきた支配者たちだけではなかったのか?
2010-02-17 (3) 21:11:39 +0900
2010-02-17 (3) 03:31:40 +0900
上野―金沢を走っている。一度も乗ったことがない。 乗ったとして、いま、生活リズムが夜にずれているから、 たとえ眠れなくてもそれほどつらくないだろうと考え、 乗ってみようかと思ったのだが、 この生活リズムは直さねばならない。そう考えて、やめた。
2010-02-17 (3) 03:28:33 +0900
ことしの旧暦の一月1日にしてバレンタインデーだった14日日曜日は、 暖かだった。 しかし、きのうの午後から、また雪が降り出した。 雪が降ると、車道の雪をとかすために道から水を出す。 その水が、道路の端で水はけが悪くなっているところ --- もう十年以上そのままだ --- にたまる。 そこを自動車が徐行しないで走ったときにわきの歩道を歩いていると、 頭から水をかぶってしまう。 そんなわけで、バス停からうちまで、道に沿って歩けず、遠回りして帰ってきた。
2010-02-17 (3) 03:24:29 +0900
…という演出はどうだろうか。 《ジークフリート>彼が血をなめると、なぜ観客も森の小鳥の言葉がわかるのか》 について考えていて、だったら、 ジークフリートが忘却の魔酒を飲むと観客もブリュンヒルデのことを忘れてもいいのでは、 と思っただけ。 第一幕第3場で舞台は彼女の岩山に戻るが、 序幕とはまったく違う舞台で、ブリュンヒルデもまったく別人のように見える、 ということでそれを表す。 彼女が序幕と同じ姿で現れるのは、ジークフリートが記憶を取り戻したあと、 すなわち、第三幕第3場、となる。
でも、これだけ見せられても、絶対に意味わからんよな。
2010-02-17 (3) 03:17:55 +0900
新しいブラウザなら、 「∅」とソースファイルに書けば「∅」、 すなわち空集合の記号が表示される。 「∅」を Google で検索すると、 それらの記号をまとめたページが見つかる。
実は、数学に関するちょっとした英文の文書を HTML で作ろうと考え、 やっているうちに上のことに気づき、 「∈」(「∈」と打つ)など、 かなりの数学記号が使えることがわかったとたん、 TeX で作成して pdf ファイルにしよう、と気が変わった。 変と言えば変。
2010-02-17 (3) 03:12:56 +0900
1月30日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の e6 面、
「今週の原作本」は「かいじゅうたちのいるところ」。
《1人で100回以上読み返す子どもも珍しくないと言われる
》
の「100」が、
一文字分のスペースに数字一文字をいれた「1」でも、
一文字分のスペースに数字二文字をいれた「10」でもない、
特別の組み方がしてある。
前者が全角、後者が半角に当たるわけだが、
朝日新聞の普通の組み方なら、
全角の「1」と半角の「00」を合わせて「100」とするところだろう。
2010-02-17 (3) 03:05:49 +0900
1月30日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の e7 面、 「土曜ナントカ学」の最後に、次のような訂正が載っていた。
23日付「ナントカ学」の各グラフで、 縦軸目盛りの基準の「0」は「1」の誤りでした。 対数グラフの基準は1です。訂正します。
「基準」ということばはちょっと変だけど、これで十分わかるし、 簡潔でわかりやすいと思う。
ちなみに、私は、23日づけのこの欄は見たけどあまり興味がなかったので、 グラフを見ていなかった。
2010-02-17 (3) 03:02:10 +0900
1月30日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の e7 面、
「土曜ナントカ学」は明石市立天文科学館。
《明石市は、
日本の標準時を決める東経135度の子午線が通る街として知られている
》
とあるが、いまは日本標準時を UTC を9時間進めたものと定義しているから、
東経135度の子午線上で何かを測定して日本の標準時を決めているわけではない。
《彼らの登場前は、地元でも子午線をきちんと読めず、
「こうしせん」などと間違える子がいた
》とあるが、
明石市以外でも、子午線は地球上のすべての点を通っているのだから、
みんな読めて、意味がわかることが望ましい。
《文・写真 東山正宜
》と署名あり。
明石市は、 かつてそこでの観測で日本の標準時を決めていたときのことを忘れたくないのだろう。
2010-02-17 (3) 02:52:13 +0900
1月30日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b10 面、 「be between 読者とつくる」が 『「できちゃった結婚」、抵抗感ある?』だったが、 定義がはっきりわからない。 事実婚していて、思いがけず妊娠し、 子どもができるならと役所に届けて法律上も結婚した、 という場合も指すのだろうか? 寄せられた意見を読むと、 どうもそうではなく、 一生のパートナーとなるかまだ決めていない段階で妊娠したので、 それをきっかけに一生のパートナーになろうと(そのときは)決めた、 というのを指すらしい。 婚約中に妊娠した場合も不明。
《大嶋辰男
》と署名あり。
2010-02-17 (3) 02:12:00 +0900
1月23日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b2 面、
「キミの名は」は「みすず書房」。
《最初は漢字で「美〓書房」とした。
しかし、時代錯誤の用字法だと読者からしかられた。
漢字の制限で作字も難しいので、まもなくひらがなに変えた
》
とある、「作字」とは何を指すのだろう? 広辞苑第六版によると、
活字の場合では、手元の活字の一部分を組み合わせて活字を作ることらしい。
会社名は、自分の会社で使うだけではないから、
自社内で活字を作っておいてもだめ、ということなのだろう。
多くの印刷所で簡単に作字できる漢字でなければ、使えない。
《伊藤千尋
》と署名あり。
注) 「〓」は、少し漢字をさがしたがみつからなかったのでこうしたもの。 語源は枕詞の「みすず刈る」らしいが、 岩波古語辞典はこれを 「三薦刈る」と表記してある。 この「薦」ではない。
2010-02-17 (3) 01:51:31 +0900
2日火曜日づけ朝日新聞大阪本社版「声」欄の投書、「給食で世界一周素晴らしい」。 お子さんの通っている小学校で、 世界のいろいろな国のメニューが出る週間があるとのこと。 おもしろいアイディアだ。
そこに、食べ物が足りなくて、 子どもたちがお腹をすかせている国の一食分を再現したメニューの日が、 あってもいいのではないか。 もちろん、それでは栄養が足りないから、 あとから追加して普通の分量にするとして、 まずは「これは、**という国の子どもが一回の食事で食べている量です」 と説明して配る。
付) 投書を引用していないし、投書の趣旨とは関係ないので、 投書者の氏名は記さないことにする。
2010-02-17 (3) 01:43:42 +0900
第四曲めの「サンクトゥス」。 冒頭ではティンパニは D-A に調律されている。ニ調である。 「Osanna ...」までその調律で演奏し、 スコアで二ページの PRAELUDIUM では完全に休むが、 そのあとの Benedictus では D-G, すなわちト調に調律されている。 PRAELUDIUM の間に A を G に下げることを要求したわけだ。
いままで、気がついていなかった。 ベートーベンの曲では、切れ目がない限り、調律は変わらないと思っていた。
PRAELUDIUM の最後の7小節はバスがずっと G だから、 それに合わせる? いまの楽器はペダル操作で簡単に調律が変わるから問題なし。
2010-02-17 (3) 01:34:09 +0900
アリーナのシーンで、最初、サイのような化け物がアナキンめがけて体当たりするが、 アナキンはジャンプしてかわす。 化け物は柱に体当たりするわけだが、柱は倒れない。 それなのに、オビ=ワンを狙ったカマキリとカニのあいの子のような怪物は、 簡単にあの柱を倒してしまう。 柱によって強度に差があったのか。
2010-02-16 (2) 23:30:38 +0900
アリーナで戦闘機の中に逃げ込むときには、銃を持っている。 戦闘機はミサイル切れでドゥークーを撃てなくなるが、 あんな銃では撃てないか、撃っても意味がないんだろうな。
2010-02-16 (2) 23:28:53 +0900
ヨーダについては、 変装してクローン兵をあざむいて逃げるところがシナリオにはあったようだが、 できあがった映画の中では、 木の枝で隠しておいた小型ロケットで脱出するだけである。
オビ=ワンの場合、ウータパウの地形を考えると、 あの穴の真上に、 ドロイド軍の通過をはばむため共和国軍の戦艦が数台いるのが普通だと思う。 そうしたら、その戦艦に必ず見つかるはずで、 見つからないとしたらクローン兵はどうかしている……。
I 冒頭でクワイ=ガンとオビ=ワンが通商連合の宇宙ステーションから脱出したように、 敵艦にまぎれ込んで搭乗しての脱出のほうが想像しやすいが、 それでは話が長くなるよな。
2010-02-16 (2) 20:42:22 +0900
2010-02-16 (2) 03:42:41 +0900
ゼロイチ思考で考えるな」
2009年10月10日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面掲載の、「勝間和代の人生を変えるコトバ」。 今回の「コトバ」はタイトル行に引用した。 以下の本文の引用で、 【 】にはいった段落番号は、私が引用の都合でつけたものである。 全部で十三の段落からなっている。
【第三段落】 最近感じた「ゼロイチ思考」の危険性は、 「〈勝間和代〉を目指さない」という主張が議論のテーマになり、 ある意味、共感を持って受け入れられていることです。
【第四段落】 ここで言う括弧付きの〈勝間和代〉とは、 どうやら、なにもかもを自分のとてつもない努力で補い、 自助努力による成功に勝るものはない、 と確信している生き方を意味しているようです。
【第五段落】 しかも、努力だけではどうにもならない問題が多いのだから、 身の丈以上の努力はやめたほうがいい、という文脈で使われています。
【第六段落】 この「目指すか目指さないか」を、 「ゼロかイチか」の選択のように受け止める必要はありません。
【第七段落】 私が自転車通勤がいいと言ったからといって、 やみくもに自転車に乗る必要はありませんし、 お酒をのむな、テレビを見るなと言ったからといって、 100%それを守らなくてもいいのです。
【第八段落】 しかし、それを無理にすべて行おうとすれば、結局、 くたびれてしまい、やめてしまうことになる――そんな意味が、 この「目指さない」という主張に込められているのではないかと感じます。
【第九段落】 これは私に限らず、さまざまな人のマネをしては、 うまくいかずに疲れてしまう人の行動と思考のパターンだと感じています。
第六段落の、
《この「目指すか目指さないか」を、
「ゼロかイチか」の選択のように受け止める必要はありません
》
には、なぜそうなのかの説明がない。
続けて第七、第八、第九段落を読み、
引用を省略した第十段落の二つの例を読み、
それらのあとの《これらはすべて、「ゼロイチ思考です
》を読むと、
「勝間和代の言うことをすべて実行するか、
まったく実行しないかのどちらかと考える“ゼロイチ思考”は間違いだ」、
と読めると思う。
そのあとの部分は、上に引用した部分と合わせて、
“世の中は、《コンピューターのようにゼロイチでは割り切れない
》”という、
ありふれた、しかし共感を呼ぶ人生訓を述べている。
しかし、第六段落の
《この「目指すか目指さないか」を、
「ゼロかイチか」の選択のように受け止める必要はありません
》
には、なんら説明がないまま、文章は終わっている。
「目指すか目指さないか」
と
「言うことをすべて実行するかまったく実行しないか」
とは、別の問題だからである。
「目指す人は言うことをすべて実行する人であり、 言うことをすべて実行する人は目指す人である」 はほぼ正しいと言っていいだろう。 しかし、 「目指さない人は言うことをまったく実行しない人であり、 言うことをまったく実行しない人は目指さない人である」 は明らかに誤りである。 目指さないが、「これはいいな、実行できそうだな」 と思うことだけを実行する、という人たちがきっといるからである。 そういう人たちは、仮に数値に対応させるなら、 「ゼロ」と「イチ」の間のさまざまな実数に対応することだろう。
だから、
今回の文章を読んで、
第六段落の
《この「目指すか目指さないか」を、
「ゼロかイチか」の選択のように受け止める必要はありません
》
が、第七段落以下で説明されていると理解してはいけないのである。
(私は、「目指すか目指さないか」の必ずどちらかである、
と主張しているわけではない。
この文章だけからそう納得してはいけない、という意味である。)
付) 「目指す」イコール「言うことをすべて実行する」でない例をあげておこう。 目指すけれども、 彼女の言っていることは、 あとから追いつこうとする者を蹴落とすためのウソだから絶対にやらない、 という人がいるかもしれない。 すべて言う通りにやってみているが、 ああいう人にはなりたくないから目指してはいない、という人もいるかもしれない。 彼女の言う通りにすれば、 自分の理想とする人間になれると思うから実行しているが、 その理想像は彼女とは違うタイプの人間だから、目指してはいない、 という人がいるかもしれない。 しかし、そういう人たちはそれほど多くないと思う。
2010-02-16 (2) 03:26:04 +0900
1月28日木曜日づけ大阪本社版社会面 『助け合い いっぱい』『兵庫・佐用町「出張居酒屋」』。
《昨夏の台風9号豪雨で被災した兵庫県佐用町で27日夜、
過疎集落を訪ねる一夜限りの「出張居酒屋」がオープンした
》というものだが、
《グラスやジョッキを傾け、刺し身や天ぷらをつつきながら酔いしれた
》
とある。
「酔いしれる」には二つの意味があり、
一つは「酔い痴れる」。これは酔いすぎて、通常の知性が働かなくなった状態だ。
もう一つは、美しい音楽などを観賞し、夢見心地になったような状態をいう。
ここでは、後者の意味ではありえないから、前者の意味になる。
それほど飲んだようには書かれていないから、
「酔いしれる」の用法を誤った、と言えるのではあるまいか。
その前の「刺し身や天ぷらをつつきながら
」も、
あまり上品でない食べ方を連想させる。
記事のほかの部分からは、そういう事態は起こっていなかったようだ。
《茂山憲史
》と署名あり。
2010-02-11 (4) 00:58:33 +0900
精神的に苦しんでいる人に対し、 「明けない夜はないのだから」と励ますことがあるが、 眠れない夜には、「私が寝つくまで明けてほしくない」と私は思う。
私の場合、夜明けまで眠れなかった場合は、起きてからの生活に影響が出るようだ。
2010-02-11 (4) 00:48:11 +0900
「しぬぶ」は、万葉がなの誤読から生まれた語。 現在では「しのぶ」と読まれる。
2010-02-11 (4) 00:46:15 +0900
説明しなくてもいいのだが、 実は分離主義者を操っていたのはジェダイたちだった、 というようなウソをつくこともできたような。
2010-02-11 (4) 00:43:44 +0900
本文ナシ
2010-02-11 (4) 00:32:44 +0900
おとといのことだっただろうか。 歩道の雪はほとんどとけていたので、いつものように、 サイゼリヤもよりのバス停で降りてから交差点まで、走った。 ところが、交差点の近くだけ、雪が残り、しかも凍っている。 それに気づいて止まろうとしたが、走っているのですぐには止まれず、 凍った雪の上まで行ってしまい、 すべってちょっとあぶなかった。 (交差点に出る前は必ず一度停止するようにしている。義務はないはずだが。)
《汚水を飛散させて服をだめにした運転手には、交通事故と届ける義務がある?》 に引用したように、 泥よけ器をつけていない自動車は、ぬかるみまたは水たまりにさしかかった際、 徐行するなどしなければならない。 ぬかるみ、水たまりが見えた時点で、 そこへさしかかるまでに徐行に当たる速度まで速度を落とせるような速度で走行しなければならないわけで、 それとちょっと似ているな、と思ったのだった。
2010-02-11 (4) 00:29:47 +0900
最初のほうにあがっているページは、本当に、そう書いている。
2010-02-11 (4) 00:25:25 +0900
飛び上がってドゥークーと高さを合わせるのではなく、 自分が小柄であることを利用し、相手の足もとを狙うと、 相手は剣をふだんの敵に対するときよりも低く下げて受けとめねばならず、 ヨーダに有利なのではあるまいか。
もちろん、飛び上がって上も狙う。 上下に敵を揺さぶるのである。
2010-02-11 (4) 00:13:27 +0900
宗教の話はあまりしないほうがよいと言われるが、 アメリカ合衆国の会社での雑談である。 “母は(キリスト)教会へ日曜日ごとにかよっていますが、 最近は教会に行く人が増えて、あるいは減って、……” ぐらいの話は出てもおかしくないように思うのだが。
注) タイトル行は、ちょっと文章がおかしいと思いつつ、そのままにした。 字数の関係。
2010-02-10 (3) 20:59:39 +0900
過去問は、いかにも受験界のジャーゴンという感じがする。 ほかに、何かいい言い方はないものか。
2010-02-10 (3) 02:22:36 +0900
1月25日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版教育面、
『「良問」保て 過去問解禁」「センター試験も今年から」。
《「果たして過去問題が出るかどうか」でも注目されていた
》、
《実際に過去問題は使われたのか
》
とあるほかはすべて「過去問」としているようだ。
スペースはかなりあるので、
「過去に実際の入試に出題された問題」というような説明をしたほうが親切だと思う。
「歴史の試験には、当然、過去のことが出るのだと思っていましたが、 最近はそうでないのですか?」というようなカン違い、ないかな。
《「入試過去問題活用宣言
》ともあるか。
全体をよく読めば、過去に出題された問題の再利用の意味であることはわかると思う。
《見市紀世子、石川智也
》と署名あり。
2010-02-10 (3) 02:13:18 +0900
『困った』と先生に言えればいい」ものか?
1月25日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版生活面、「もうすぐ1年生」。
《「要は『困った』と先生に言えればいいのです」
》。
小学1年生のある日、なぜかランドセルの留め具がはずせず、
先生に言ったら「幼稚園ではないのですから自分でやりなさい」
と言われて泣きたくなったのを思い出した。
付) この発言が問題ではなく、私の経験を書きたかっただけなので、 言った人が誰かは省略。
2010-02-10 (3) 02:09:27 +0900
1月25日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版の歌壇・俳壇面の、 「俳句時評」は俳人の五島高資さんの、「詩韻の飛翔」。 そこに、本筋とどれだけ関係あるのかわからないが、興味深い話が載っていた。
《産経新聞の塩原経央氏は、
「四たび国語断想」に次のように指摘する。
右から左へ改行しつつ進行する縦書きでは書かれた文が筆記具を持つ手に隠れるので、
思考を継続するには常にコトとして記憶され観念化されなくてはならず、
畢竟(ひっきょう)、
言葉をモノのように扱わない思考様式が日本文化を形成したのだと
》。
左手で文字を書く人の存在が忘れられているようだが、それはともかく、 このようなことが本当に起きているのかどうか、 脳波を測定するなどして実験してみたら面白い。 もしかして、縦書きでも左から右に書くようにすると何かが変わってくるのかも。 アラビア語、ヘブライ語のように右から左へと書く横書きの場合はどうなのだろう?
2010-02-10 (3) 02:00:41 +0900
1月25日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版「声」の、 京都市中京区の津幡利光さんの投書「魚の骨刺さり 食道がん発見」。 のどにささった魚の骨がなかなかとれず、 医者へ行ったら内視鏡検査を受けさせられ、そうしたら食道がんが見つかって、 その時点で見つかったことで助かった、という内容なのだが、 最初にささった魚の骨がどうなったのか、書いてないので少々気になる。
常識ある人が読めばとれたのだと思うだろうから、書かれなかったのだろう。 でも、その骨は“命の恩人”なのだ。 大事に保存しておられるのかも知れない。
2010-02-10 (3) 01:50:54 +0900
なお、 《この「いろいろ」で、一般人の投書を取り上げる場合にも投書者名を書く理由》 を参照されたい。
2010-02-17 (3) 02:50:02 +0900
1月25日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版の投書欄「声」で読んだのだが、 正月の松飾りなどは普通にごみとして出すわけにゆかず、 しかるべき宗教施設で処理してもらわなければならない、と考える人が多いようだ。 (実家は松飾りをしていたが、どう処理していたかは覚えていない。 小さく切って、わからないようにして捨てていたのかも知れない。 お祝いをもらったときの袋などは、そうやって捨てるようにと言われていた。)
キリスト教には、捨てるときに気を使うものはないから、気が楽だと思う。 (キリスト教に改宗するとき、仏壇や先祖の位牌を処分することがあるが、 その場合、無意味な摩擦を起こさないよう、注意して行なう必要がある、 とは読んだことがある。)
2010-02-10 (3) 01:40:54 +0900
1月25日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版スポーツ面によると、 大相撲で、昨年の年間勝利数上位十傑は6位までが外国人勢で、 日本人では7位の魁皇の48勝が最高である。
日本人力士の中で最高の成績をあげた力士に、 何らかの表彰があってもよいのではなかろうか。 誰と誰を戦わせるかなどは、 現状のまま、日本人であるかどうかに関係なく決めるとして、 その上で日本人力士の中で最高の成績をおさめた力士に、 何らかの表彰をするのである。 (だから、厳密に言えばすべての日本人力士に公平とは限らない。)
ただ、その魁皇は、6場所とも8勝7敗だったそうで、 学生が全科目で合格の中では最低ランクのCの成績をとったようなもの。 表彰されると恥ずかしいかもしれない。
2010-02-10 (3) 01:33:54 +0900