日 記

(2011年4月)


<Welcome from Fukushima - Konno>

◇ 日記を書くのは久し振りです。28日午後から今日の朝まで、塩竃の孫たちのマンションに行ってきました。大震災の時に、マンションに住めなくなり、高台の婚家(実家)に移り、お世話になっていました。その間に、第三番目の孫(男の子)が誕生しました。大震災の復旧が困難な中での誕生です。マンションも、ようやく復旧し、1週間前ほどに戻ってきました。何か手伝うことがあるかとも考えましたが、家族一人が増えたこと以外は、まったく従前通りです。
 昨日・29日には、弘前からも車で合流。一家総揃いと相成りました。昨夜は、思いがけず、私の誕生祝い。3日早いお祝いですが、二人の孫娘が主役です。年はとりたくないが、誕生祝は嬉しいというか、気恥ずかしい。
 孫たち3人兄弟姉妹の関係も面白い。真ん中は、独立心が旺盛だと云われるが、最初からそうなのではないだろう。上と下に挟まれてと、独立心が旺盛にならざるを得ない環境が形成されることと思う。下はまだ赤ちゃんで、主体性はないが、3人の主体が確立すると、社会が形成されてくる。3人は社会的にも組織の基礎単位なのだろう。
 今日は、早めの帰還。ショートスティへのお迎え。何事も無く、一安心。午後、学外での所用を済ませ大学へ。驚いたことにフランスの大学で外地研究している他大学の先生からの国際電話。日本の被災地の大学院生を3週間、フランスでの研究を支援すると言う。災害の状況等を報告してもらうのが義務。このゴールデンウィークの最中、かつ始業日の延期の中で、余裕は1週間。担当者が動いているが、難しいかな。
 30年前の大学での同僚からのメール・電話。研究会で、福島での見学研究会への協力依頼。正直言って、現状は、独自調査は構わないが、お世話できるほどの現状には無いので、少し待ってくれと返答。国際的にも、全国的にも、大きな関心を寄せていただいて有り難いが、特に福島は、原発事故が収束しておらず、再出発すべくボトムにあるとはいえない。
 がたがたと4月も最終日。3月の大震災の後処理が終了することは無かったが、震災のみならず、原発事故・放射能問題が、思いがけず<Fukushima>を国際的・全国的関心の的としてしまった。イジケルことなく、福島の復興に、力を注ぐことにしましょう。明日は、同僚らと女川へ。復興のための第一歩。被災地のなかで逞しくも生産活動が始まっている。塩竃の蜂屋の餃子、女川の高政の蒲鉾を食べて、その復興の味を噛み締めることができた。さあ、反転攻勢へ。(4/30)<4327>


◇ 所用により、今日から3泊のショートスティ。いままではディサービスが殆んどだったので、試験的。いつも、その世話が大きな業務なので、泊まりでいないとなると、何か抜けているような気になる。慣性の法則か。介護保険は、介護する人を助ける者とは納得。介護も、育児も、気が抜けないというのが精神的疲労の素。震災復興で、社会保障の予算の削減も。心配。
 研究室は、新年度赴任の先生が、研究室の整理。震災・原発のせいで、入学式もほぼ1ヶ月の延期。やはり、福島に赴任するには、周りは放射能の心配をしていたようだ。新任の緊張と、原発事故の緊張。スタートは大変だが、焦らないで進んで欲しい。明日は、孫たちに逢える。久し振りの対面。(4/27)<4267>


◇ 午前中は、県の定例委員会。いつもの部屋には、震災で使用できなくなった他の部局が利用しているため、会議は、臨時的に他の部屋。古くなりつつあるので、新築も必要かもしれませんが財政難。役所も、すべて一箇所の高層ビルに集中するのは果たして合理的なのか考えてもみたくなります。ドイツのハイデルベルク大学では、大学の施設が一箇所に集中していなくて、町の商店街のなかに埋もれています。大学内に街が出来たのかもしれません。要は、インターネットの発達した時代、もっと、空いている施設の有効利用の方法もありうるのではなかろうか。避難施設としても空き家等の利用(借家)もありと思うが。それにしても、震災対応で、多くの職員が駆り出されている。既存の業務の停滞が心配。
 会津若松から震災後初めて福島入りの委員と歓談。若松から福島に出るのは、かなり緊張感。来てみて意外性。県内でもそうである。県外から見る福島は、怖れの土地なのかも。
 大学研究室に寄り、語学留学のための休学手続に印鑑。早めの帰宅。(4/26)<4234>


◇ 月曜日、天気は不安定で、雷、雨、晴れと慌しい。新幹線の福島ー仙台が開通して、東京ー仙台が繋がりました。しかし、一時停電で、5時間ほどの停車があった。なかなか上手くいきません。29日からは仙台ー一関が開通し、東京ー新青森が繋がります。人の移動が、かなり新幹線に依存しているので、開通・停車で一喜一憂です。安定した走行が望まれます。
 午前中は研究室、午後は自宅待機の一日でしたが、「女川に元気を送る会」の事務、女川町からの5月1日の会議の連絡等がありました。そろそろ復興の歩みです。相馬市長の立谷さんは、仙台一高の同窓ですが、いつもメルマガを送ってもらっています。先頭に立って指揮を振っているので、被害のお見舞いとご自愛のほどと返信しました。
 (すぐ個人が読むものとは思っていなかったので、そのうちに眼を通すかなと思っていたら)夕方、ご本人から携帯の電話。元気一杯、怪気炎です。地方自治は、第一に基礎自治体として、直接、中央官庁や納入業者と交渉していたようです。原発の風評が大変ですので、相馬の活きのいい魚を県内で消費しよう、まさに地産地消。観光も含めて、他県のお客さんをいかに誘致するかだけでなく、県内の人々が県内の食物・観光(温泉等)を楽しむこともあるなあと談笑。県内の高校生は福島大学にどうぞ。これも地産地消?(笑)
 宮城県・岩手県は、復興計画を立てたが、福島県は未だ。原発事故の影響が進行形で、復興計画が立てられないのだろう。しかし、県内も一様ではなく、南相馬のような原発問題の解決が求められるが、相馬などは津波の被害からの復興が課題。原発に対応しながら、必要な復興計画を立てる(例えば、相馬や小名浜での漁業の建て直し)のような、複眼的な進み方も必要ではなかろうか。
 大津波前の美しい女川の写真が欲しいとつぶやいたら、次から次へと教えてくれる。年代格差はあるが、何かこうした優しさに慰められている。有り難い。(4/25)<4209>


◇ 日曜日。大学の研究室に行って、災害復旧や原子力災害関係の法律の勉強を少しして、後は、「女川に元気を送る会」の問合せなどに答えているうちに、時間が過ぎてしまった。4人から、すぐに積極的な反応。
 帰宅後、日本ハムと東北楽天の試合のテレビ観戦。惜しくもなのか、敗れて、1勝2敗で終わる。
 「女川に元気を送る会」の村井さんから、ホームページに出すことの了解のメールをいただいて、早速貼り付ける。出来栄えは、なかなか。まあ、今後、改善していこう。
 12時になってしまったので、もう休むことにする。(4/24)<4172>


◇ 雨の土曜日です。自宅に訪問看護の方も来るので、午前中は、大学へ。
 瓦礫の山の郷里・女川については、各週刊誌なども写真特集を組んでいるので、以前の女川の写真を欲しくなりました。朝日新聞の大きな写真は、何とか手に入りそうなので、後は、可能であれば同じアングルからの震災・津波前の女川の写真。当然、役場は持っているはずですが、役場の書類の多くは流されたらしいし、そんなことをする余裕が無いだろうと思います。
 ツイッターでつぶやいたら、同僚などWeb情報を教えてくれましたが、継続的に女川を撮影してきたフリーライターの方を紹介しますかと、連絡がありました。ツイッターのフィールドではよく知っていたGさんが、東京の出張の途中、電話をくれました。そうした記録は、復興が進めば、必要になるとは思いますが、落ち着いたときに、町に寄贈できるように準備をしようという意図です。写真資料は、流されなかった学校などに残っていると思いますが、少しづつ蓄積して行きたいと思っています。
 研究棟の工事停電のため、午後から帰宅。東京の村井さんから「女川を元気を送る会」の結集よびかけが来ました。「今、女川の人達は皆復興を目指し、歯を食いしばって頑張っています。そんな女川の人にもっと頑張れとなどとはとても言えません。せめて女川の人達に元気を送りたい、との思いからこの会を立ち上げました。」とあります。団体代表は、村井善郎さん(都立多摩医療センター副院長)ですが、呼びかけ人代表として、村井さんと俳優の中村雅俊さん、そして私の3人。ちょっと、電話連絡では ONE OF THEMと思っていたものですから、少々びっくり。女川への貢献度からすると恥ずかしい。何もしてこなかったら、その罪滅ぼしと理解することにしましょう。インターネットなどを通じて、多くの人に協力を呼びかけることにしましょう。具体的には、復興資金の呼びかけが中心です。
 その文書をみて、千葉に住む女川出身の同級生T君が、久し振りに電話をくれました。女川一中、石巻高校の繋がりがあるようですが、私は少しアウトサイド。しかし、女川出身者ですので、限定する必要もないし、出身者を広くしていくために、こうした変り種も意味があるかと思います。
 行政政策学類の教員有志で作っているブログ<ガンバロウ福大!行政の「結」>の「ひろやすの部屋♪」に、「故郷女川の復興に向けて・・今野順夫さんに聞く」の3回の連載。いろいろ補筆をしてくれて、格好はついたが、少々恥ずかしい。
 東北楽天の試合のテレビ放映がないと嘆いていたら、日本ハムとの3連戦はBS1で放映。昨日はマー君先発で最後に逆転負け。今日は試合をフル観戦。9回裏、DHのルイーズのサヨナラホームランで勝利。ベガルタ仙台も勝つし、今夜は気分がいい。明日も楽しみである。(4/23)<4140>


◇ 今日は、午前中、自宅待機。午後、研究室へ。
 気分転換に、ツイッターの写真を、生まれたばかりの孫の寝顔に替えました。替えるに際してのつぶやき。「震災から1か月10日過ぎました。復興に頑張って行こうと思います。写真を替えて気分一新。震災の2週間後に3番目の孫が生まれました。初めての男の孫です。大変な時期ですが、生命のリレーが続いています。なんと手枕して眠っているではありませんか。私の真似をしなくても。」と。
 早速、お祝いのツイートが、5通。「お孫さんご誕生おめでとうございます!大変な時ですが元気にスクスク育って欲しいですね。赤ちゃんの顔は人々を癒しますね(^-^)」、「おどなっこだごど〜」、「かわいいですね〜。ミルクの香りがここまで届きそうです」、「無事に産まれてよかったですね!おめでとうございます!」、「手枕の血筋もリレーされたのですね、な?んてかわいい?!」。朝から、目尻が下がっています。
 真面目なツイートもしました。「福島県弁護士会は、原発事故の賠償指針を策定する「原子力損害賠償紛争審査会」の審議に、県民の意見を反映を求める会長声明を発表。審査会について「指針の策定や損害の評価に、省庁のデータだけでなく地元住民の意見を反映する」等を要望。「被害の実情や県民の声を知る人間が議論に加わるべき」と。」
 昨日は菅首相、今日は東京電力社長、相次いで福島県にお詫びに来ていますが、郷里に帰りたいという要望の実現の見通しがはっきりしません。他方では、県外の避難先で、福島ナンバーの車にガソリンを入れない、編入した学校で差別されるなど、悲しいことも伝えられています。大多数は、福島を応援してくれていますが、一部でも、心に傷つきます。郷里に帰りたい要望が強くなります。誰のせいなのか、避難している人々の心情、察するに余りあります。(4/22)<4114>


◇ 今日は、研究室修復作業は、進みました。長年、使用してきた作業机の一つを、倉庫にいれてもらいました。
 大分広くなりました。決断がつかなかったのですが、見晴らしがよくなりました。
 行方不明の姪の知人(岩手・雫石在住)が、姪の写真を送ってきてくれました。仲間に囲まれて、楽しそうです。写真もすべて流されましたので、きっと、姉妹たちは喜ぶでしょう。悲しみは、増すかもしれませんが。
 同僚のSさんが、私のインタビューを、学類のブログの記事にしてくれました。少々、不正確なところはありますが、加筆もあり、様になったようです。3回にわけ、2回分まで掲載しています。仕事が早いのに驚きます。子どもの頃の話をすると、何か、女川で始まり、女川で終わるということでしょうか。もう一度、女川を取り戻したい。
 先日、女川行きに同行してくれた愛媛大学の教員と学生等でつくる、「愛媛大学震災ボランティアのブログ」の紹介がありました。女川だけでなく、福島の市町村、さらに学生諸君の石巻での実践など、多彩です。歴史のある松山市にある大学、有り難いとともに、その行動力に頭が下がります。見習わないといけないな。(4/21)<4094>


◇ 朝の家での仕事を済ませ、大学へと思ったのですが、昨夜から今朝にかけて、「緊急アピール」のリツイートの携帯へのメールが50通ほど来て、その記録に時間がかかりました。かなりの重複ですが、26000人ほどに届いていることになります。事務局に、その旨を通知しました。そのなかで、地元の研究者によるすばやい対応が、住民との関係でも必要だと思いました。
 大学に着いたのは昼前。研究室の整理の難物、地震で傾いた2段重ねの書棚を、同僚の手を借りて下ろしました。今後は、作業机・情報機器・もう読むのが困難な書籍などを減らして、コンパクトな研究室にする必要があります。5月12日から始まる授業の準備をする体制を早く作りたい。最後ですから、気合を入れた授業(講義・ゼミ)にしたいのですが。
 3時間半ほどいて、急いで帰宅しましたが、女川からの電話。復興に、手伝いをする必要がありそうです。朝日新聞(3月14日付朝刊)の最終面全面の女川の惨状、この写真を記念として持つことができそうですが、それに対応する、美しい女川の街、その写真を求めていますが、なかなかしっくりいきません。役場にはあった筈ですが、津波に流されてしまったと思います。記憶だけでなく、具体的な写真として残しておきたい。孫たちに自慢するためにも、また復興の足取りを確認するためにも。(4/20)<4065>


◇ 氷雨の日。午前中は、近くの病院までの送迎。
 午後遅く、大学の研究室へ。女川に同行したS先生の、女川についてのヒアリングを受ける。話が弾んで、というよりも私の話が論理的でなく、いろいろなことを思い出したので、1時間の予定が2時間になってしまいました。
 女川のこと、断片的な思い出が多いので、帰宅してからホームページの随想・講演欄のリンク先を探して、メールを送った。論文でもないので、恥ずかしいが。「十五年戦争と私たち」への寄稿、大手塾の雑誌での「私の勉学時代」、そして女川での子どもたち(小5〜中3)向けの講演:「夢を持ちつづける人生を」(2006.11.24)、他人事のようであるが懐かしい。話を聞いてくれた子どもたちは、3つの年を重ねているが、この震災でどうなっているだろうか。「夢」を持ち続けて生きていて欲しいが。
 昨日の「福島原発事故に関する緊急アピール」を、ツイートしたら、8人の方がリツイートしてくれた。重複しているが、彼らをフォローしている人数は7000人ほど。まさに、鼠算方式で広がる方式であることが理解できる。まあ、10人に一人は読んでくれるとして、700人は読んでくれているかな。地元紙に取り上げられていないとぼやいていたら、地元紙2紙とも、小さいが取り上げていた。見落とし。個々人への伝播の方法の変化に驚く。女川関係の取組みの拡大も含め。こうした波に乗り切れてはいないが、財力が無い者でも伝播する手段を持ちうる可能性かも。後は、内容が問題。(4/19)<4028>


◇ 月曜日だが、夜中の何度かの余震で眼が覚まされる。余震が無くても、寝ていても背中が動くような気がしてならない。慢性的な睡眠不足から、早く脱却したい。
 先日、女川に一緒に行った同僚Sさんは、何枚もの花見山の写真を見せてくれた。いつも撮っていたわけではないのに。彼のブログで理解。彼は、こう書く。「昨日、津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町に行き、現実とは思えない光景を目の当たりにしました。このままでは自分の精神のバランスが崩れてしまいそうな気がして、花見山に足を延ばしてきたのです。そこには、原発事故がまるでなかったかのように、写真家の故・秋山正太郎氏が「福島に桃源郷あり」と形容した美しい光景が今年も拡がっていました。地震・津波も桃源郷もどちらも自然のちからです。・・・自然のちからに対する畏怖・畏敬の念が底流にあることは確かであるように思います。これから、私たちは自然のちからに寄り添いながら生きていくことができるのでしょうか?」と。
 妻が仕事に出る前に、1時間ほどの花見山への小遠足。ご無沙汰していた、ウォーキングの復活でもある。Facebookの知り合いからも情報を得ていた。まさに百花繚乱。これを見ない人は損をする。孫たちにこれを見せたら、大感動だろうが、放射能のため実現不能。悔しい。同僚Sさんのように、女川の壊滅的様相との対比ではみていなかった。すぐに、女川の子どもたちの心が心配。あんなに美しく、遊び相手だった海が、友達や肉親をも奪うほどの恐ろしい海に変身しようとは。文房具もいいが、避難所に花壇をつくるとか、美しい花を身近にさせるとか、家庭内暴力が多いという話を聞くと、大人の心も。全国の花屋さんが、一鉢づつでも支援してくれて、花壇を作れないものか。瓦礫の町ではあるが、美しい花に埋もれていたなんて・・。
 東京在住の女川の諸先輩から、「女川に元気を送る会」の結成呼びかけの文書が送られてきた。俳優の中村雅俊氏などと並んで、呼びかけ人の代表にされるのは恥ずかしい。しかし、分不相応だが、女川を何とか救い、再興したい気持ちは変わりは無い。テレビニュースでの、蒲鉾屋「高政」の救援活動・営業再開。そしてサッカーチーム「コバルトーレ女川」。殆んど県外出身の選手たちの「女川が好きだから」という言葉に涙が出る。外国からの支援の動きも報じられている。福島の「ユナイテッド福島」と好敵手。複雑だが、今年は休止、しかし必ず復活するだろう。女川は私の誇りだね。
 先日、私も呼びかけ人の一人として名を連ねた、「福島原発事故に関する緊急アピール」。174名の賛同者(福島県及び宮城県の大学研究者・弁護士・医師等)を得て、15日に記者会見(発表)。しかし、マスメディアは、殆んど無視か、軽視の取り扱い。余りにも酷いと思って、世話役からファイルを送信してもらい、私のページにアップ。TwitterやFacebook等で、拡散するしかない。何か、チュニジアに似てきたなあ。
 なかなか思うとおり行かないが、9月卒業式の送辞で話した、「ハチドリのひとしずく」を思い出した。とにかく、自分ができることをやるだけ。悲しいことが多いが、同じ女川出身で行方不明の肉親を探している民事訴訟法研究者でネットで知り合い、中央紙の元支局長さんに女川の惨状の写真をお願いする等、善意の新しい絆の拡大に明るい光を見つめている。(4/18)<3996>


◇ 好天の日曜日です。午前中は、妻が町内会総会のため、私が自宅待機。
 午後から、大学・研究室に出て、瓦礫ならぬ落下本や書類の整理。
 外は、桜が満開。しかし、華やいだ気分や雰囲気ではありません。女川の崎山公園の桜が美しいとの書き込みがあったので、崎山公園にあるグレー大尉の慰霊碑を付け足しました。すぐに、「父親が工事に参加しました 」との反応がありました。
 第二次世界大戦末期、女川に停泊していた日本の軍艦は、連合軍の爆撃で多くの被害が出しました。その爆撃機のパイロットは、カナダ人のグレー大尉。彼も女川湾に墜落。戦後、カナダの捜索に、女川町民が協力。慰霊碑をつくるが、敵も味方も無い、ということで、カナダの町と女川の交流が始まった。地元中学生もカナダを訪ねるようになったと。何か、この慰霊碑には、平和の思想が凝縮しているようにも思える。
 卒業生たちが、石巻、大槌町と、支援に入っている。連帯の力、「絆」で、苦難を脱却したい。(4/17)<3962>


◇ 土曜日ですが、訪問看護もあり大学へ。愛媛・会津若松から女川に同行していただいた研究者らと、福大体育館の避難所へ。丁度、群馬大学の美術の先生が、指導している学生らとともに、児童書をもってきていただきました。あづま体育館の方では、子どもたちに、お絵描きの指導をするとのこと。本当に有り難い。
 大学会館での食事の際に、附属中学校の音楽部の演奏がありました。避難されている方に対する慰労です。中学生も、京都への修学旅行中に地震があり、帰ってくるのに随分苦労したようです。3月中は、部員が集まれなかったが、4月に入って、練習を再開し、立派な演奏になりました。中学生の代表が、「東北に一日も早く、笑顔が戻ることを願っています」と挨拶しましたが、何か目頭が熱くなりました。
 杉本竜一作詞の「Believe」を、参加者とともに合唱。「♪♪ たとえば君が傷ついて くじけそうになったときも 必ずぼくが そばにいて 支えてあげるよその肩を 世界中の希望のせて この地球はまわっている 今、未来の扉を開けるとき 悲しみや苦しさが いつの日にか喜びに変わるだろう I believe in future 信じている」。一人で歌うほど知っている歌ではないが、みんなで歌うとあわせられる。中学生の優しい心に感謝。お世話する役割の私も、避難者の悲しみと、ほぼ同列の感情。眼が潤む。
 女川同行の二人と昼食をともにして、昨日、訪問したという飯舘村及び南相馬市の家庭の話を聞いた。開けてきた家も物騒なので、自警団的なものを作って、助け合っていることなど、行政を通じてだけではない、有意義なヒアリングが出来たようである。実態調査の基本である。もっと住民の目線で、研究者らしい視点からの努力が必要なのだろう。
 テレビで、1か月の間、涙も出なかったが、ようやく涙を出せるようになってきたとの話があったが、女川の避難所でも誰も泣いていない。まだ、現在進行形で、苦闘している段階なのだろう。全く同じ感覚に襲われる。一つ一つの思い出を大切にしたい。(4/16)<3939>


◇ 昨日の福島⇔女川の300キロの運転で疲れたのか、ボーッとしています。一緒に行ったSさんは、朝からフル稼働で、このバイタリティには及びません。朝から、全力疾走です。
 午後、コープふくしまの4月の理事会。あの大震災は、3月の理事会の途中に発生。何か、同じところでの会議、大丈夫かなとつい考えてしまいます。コープも、建物被害、そして営業停止の時期を経て、以前の活動状況に復帰に向かいつつあります。経営的には大変ですが、職員及び組合員の奮闘で、経営的にも盛り返しつつあります。一般企業でも、大変ですので、コープはそれ以上と思いますが、こういう時こそコープの出番と思います。組合員の連帯活動を前提に、全住民を全生活の点で支えることの役割は大きいのではないかと思います。
 姪を探している中高時代以来の友人・知人から、メールや電話が寄せられました。流されてしまった思い出の写真等、貸していただくことになりました。いい人たちに囲まれてたと思います。震災は、人、家、そして思い出すら奪ってしまうものと、あらためて悔しさがこみ上げます。(4/15)<3909>


◇ 五月晴れのような好天気。福島駅前に集合し、11時半過ぎに女川に向け出発。途中、地震警報がけたたましく鳴りましたが、なんとか無事、帰りました。
 女川では、私が育った実家の石垣を確認しましたが、その上は、流れ着いた瓦礫の山。オール5(嘘!)の私の通信簿は見つけられなかった。福島大学関係者を中心に7人で参りましたが、初めての皆さんは、余りにも悲惨な状況に、びっくりしていました。彼らが先週訪ねた、南相馬・相馬とも異なり、津波の恐ろしさを感じたようです。
 1時間ほど、町長さんはじめ町の担当者の方々の話を聞くことが出来ましたが、ここまで破壊されると、町民が納得する復興計画を立てるのは、至難の業のような気もします。今日は、都市計画、行政法、法社会学、社会保障法、福祉の専門家とともに参りましたが、それほど容易に計画が出来るとは思えません。町民が、ここで生活しようとの意欲を持てる構想の早期の提示が必要とともに、何度かの試行錯誤が必要でしょう。既定モデルの当て嵌めでは難しいでしょう。
 今日は、民間の商工会関係者など、女川町復興協議会を旗揚げして、女川出身の俳優の中村雅俊氏も参加したようですが、60歳未満という、将来を担う方々の動きと期待をもって見ています。地元、さらに外部の助けを借りて、小規模化は止むを得ないとは思いますが、夢の持てる町づくりをしたいものです。
 帰途、親戚のいる避難所に立ち寄り、夕食までご馳走になってしまいました。粕漬けのキンメダイも美味しかった。調理のオバちゃんの元気に励まされて帰ってきました。(4/14)<3883>


◇ 午前中は、病院行に付き合って、大学へは午後から。丁度、玄関前で、新年度初めての教員会議(教授会)で、赴任の挨拶に来たHさんと遭遇。きちんとマスクをしていたので、首都圏から福島に来るのは、「恐くなかった?」と聞いたら、「そんなことはない」と。頑張って、福島大学の伝統を受け、発展させて欲しい。
 明日、女川に行くので、原稿用紙やルーズリーフの使用できるものを梱包しました。5箱になってしまいました。テレビで見ると、随分集まっているので、ダブルかもしれないが、支援の熱が低くなることも考えて、息長く使って欲しい。女川行きは、結局7人ほどになりました。変な案内役になってしまいましたが、ひとりでも多くの人に見てもらって、支援の手がかりになるならと期待しています。東京から来ている人も合流したいと連絡を取ってきました。また行方不明の姪の友人たちも、明日、女川に入ると云ってきました。一目見ないと、心が落ち着かないようです。お世話してくれた岩手の方が、連絡してくれました。
 福島大学も、組織的に、震災・復興の研究活動を大々的に展開しようとしています。理想ではあるが、実現の困難な大学の目標、文理融合の力が、生かされるそうかの正念場です。理系だけ、文系だけでは、解決は出来ません。
 ロシア研究者から、「がんばろう!女川・・・・」に寄稿がありました。ロシア(旧ソ連)の原発事故の経験を生かすことでしょう。世界との連携、共同行動が、平和を確実なものとすることと思います。(4/12)<3849>


◇ 早めの登校。斜めになっている書棚、中から全部の本を出しましたが、戻りません。下の部分が、ずれてしまったのでしょう。これは一人ではできません。後で、手伝ってもらいましょう。
 今から使うかもしれない本を置いて、また使わない本はごみへ。また図書館から借り出している物は図書館に返却。図書館は、震災以来閉館していますので、玄関前の返却箱にどんどんと入れました、初めての経験。原稿用紙・ルーズリーフなど、消耗品として購入した学用品が、箱詰めにしたら何と5箱。十分に使えると思うのですが、被災地の女川も有り難迷惑かなと思いつつも、明後日の女川行きにもって行くことにしました。手が痛くなった。研究室は、まだまだすっきりとはいきません。
 この前の余震で延びていた、母校の女川一小や女川一中の入学式。今日実行したようです。東京に住む女川出身の写真屋の娘さんが、入学式の写真を撮ってプレゼントするという話題を、ツイッターで知っていました。行方不明の父親が毎年続けてきた撮影、娘さんが受け継ぎました。無償で。テレビのニュースを見てよというつぶやきがあったのですが、見ることが出来ませんでした。
 事情は知らない娘からは、ニュースを見て、入学式での校長先生の話がすてきだったとのメール。『生きているということは涙が流せる問うことです』と、一年生相手に真剣に話していたらしい。
 それにしても、女川復興のメッセージは高くなっています。14日には、女川復興連絡会議が発足するらしい。女川出身の俳優・中村雅俊さんも出席するという。我々が到着するのは、午後3時過ぎ。すれ違いだね。その中には、頑張っている蒲鉾やさんが入っているというので、心強い。結局、女川行は、2人だけでと思っていたが、7人になった。これも復興の一つの力。女川二小からの一中入学者は、46人の予定が6人になった。家族の移動がもたらした数だが、いつか必ず帰ってきたくなる街づくりをしないとね。大きくなった孫に、ここは爺さんの生まれた町と云いたいね。「昔あったが、今は無い」とは云いたくないね。
 今日も地震が多かった。少し慣れてきてしまったが、早く落ち着いて欲しいね。地震くん!!(4/12)<3813>

 


◇ 4月も11日、いつもであれば新年度の授業で忙しい時期。大学に行っても、春休みが続いているような感じです。早いところでは、桜もチラホラ。変な新年度です。
 今日は、大震災から1か月。避難所になっている体育館に行き、避難者とともに2時46分に黙祷。一般的でなく、私個人にとっても重たい黙祷です。沈みがちな避難者を励まそうと、テレビにも度々出場している地元のグループ「みちのくボンガーズ」が来てくれました。みんなを笑いの渦に巻き込みながら、楽しいお笑いを披露。避難者の顔にも、ちょっと笑顔。
 先日訪ねた、飯舘村。今日の官房長官の発表で、「計画的避難地域」に指定されました。1ヶ月の間に、計画的に避難するということです。村長さんの努力を知っているので、こうした事態になってしまったことに、大変悔しい思い。乳幼児を飯坂温泉、小中学生を隣町の川俣町にと進めていたが故に、村民の苦渋を痛いほど感じます。福島原発爆発事故による放射能汚染が続いています。NHK特集にもゲストで出ていた、地元の病院の斎藤紀医師の講演「正確に学ぶ放射線・人体への影響」を読みました。リアルに、現実的な対応が必要なのでしょう。
 テレビでも、女川の若い養殖業者が、外で生活費を稼ぎながら、いつかは養殖を復活させたいという苦渋を報道してました。14日には、また女川に行きますが、どのように復興させるか、そのためにどのように産業を復興させるか、故郷消滅か否かの、正念場になっている感がします。自然と共生しながらも、人間の生活・地域社会を復興させる、故郷を復興させることが、痛ましい犠牲者への償いと思っています。町民が、やむを得ず、女川を次々去っていく。急がなければならないと思っています。
 午前3時前の強い地震で起こされて、中途覚醒になってしまいましたが、また帰宅の途中、大きな地震(いわきは震度6弱)。車が煽られました。今に至るまで、5分毎くらいの頻度の余震。夜だから、何とかおとなしくなって欲しいとの神頼み。停電がないだけでも、助かります。早めに休むことにしましょう。(4/11)<3780>


◇ 日曜日、統一地方選挙前半戦の投票日。震災のため、福島を含む被災地の地方選挙は延期になったので、投票には行っていない。8時に投票が終了して、開票。まだ開票率0%の時点で、東京始め当選確実を出す。出口調査での結果に基いて国民にやる気を喪失させる手法。投票するまえに結果が分るのでは、棄権を誘発するだけ。ハラハラしながら、開票速報を見た時代が懐かしい。
 午前中は、自宅に待機。昼過ぎ、研究室へ。震災+明け渡し(1年後)のための研究室整理。未使用の原稿用紙やリーズリーフがあるので、今度、女川にもって行こう。
 ツイッターを通じて、女川の蒲鉾やさん(高政)は、無償で避難所に蒲鉾を寄付しているだけでなく、雇用を維持し拡大している企業。コバルトーレ女川というサッカーチームも持っている。女川の再建のためには、産業・雇用の再建が必要だが、一つのモデルケース。是非、話を聞きたいと連絡をとったら、それほどでもないけど「どうぞ」とのメール。近いうちに訪問してみよう。
 女川の特養の支援に入る京都の福祉法人では、女川の特養の職員は疲れ果てているというので、今度、同行する人たちに行ってみてもらおうと、女川の特養の事情を教えてもらうように連絡。ツイッターを手がかりに、輪が広がる感じ。あくまでも、初期の手がかりを掴むだけだが。私的な個別事情への悲嘆だけでは、いたたまれない。何とか、女川の再建のために尽力することによってのみ、悲嘆から脱却したい。明日は4月11日、震災から1か月。(4/10)<3740>


◇ 土曜日、家でやることもあり、一日中、家のナカ。雨も降って、外に出る意気が出てきません。夜中の地震で起きたり、疲労が蓄積している感じで、何とか元気を取り戻さなければならないと、ゆったりしていました。
 ツイッターで、女川病院に熊本県から週間単位で支援に来ている天草市の小児科医にメッセージ。夫の小児科医が帰り、今度は妻の小児科医が来てくれるとのこと。女川病院には小児科が無いらしいのですが、こうした支援は本当にうれしい。
 変な話ですが、女川病院の小児科の実情を聞くと、「女川町立病院はもともとは小児科なかったらしいです。今は地域医療振興協会のDrがローテーションで支援に入っています。小児科の先生も中にはおられるようです。私や主人もそうですが(o^∇^o)ノ」と。二男二女の子どもさんを抱えながら、交替で遠路、被災地に来てくれる。有り難い話です。「疲れた」なんて、云ってられないね。いつか、直接お会いして、お話を聞きたいものです。
 NHK総合テレビは、7時半から東日本大震災の特集。原発問題、地元わたり病院の斎藤先生が出演しています。危険な放射能ですが、恐れるでだけでなく、人間の肉体の力をも信じて、緻密な対策を取っていくことへの示唆を受けました。
 後半の生業。農業・漁業の展望は、かなりの困難が予想されますが、国の支援をバックに、住民がこの土地を離れないで働いていくための労使双方の努力が肝要なのでしょう。解雇にしないで、休業して、従業員とともに再建に向かう社長さんの話に感銘。
 女川にも、蒲鉾やさんが、雇用を維持拡大しつつ、無償で蒲鉾を何千個と避難所に配布しているとの美談を聞きます。サッカーチームも持っているところですが、再建のためには、産業・雇用の確立が中心。可能であれば、今度、訪ねる時には直接、お話を聞きたい。(4/9)<3710>


◇ 金曜日、義母の2ヶ月ぶりの通院の送迎。入院から我が家での同居も、もう少しで1年になりますが、続けてきました。その後、ディサービス、そして訪問看護と、医療と介護のサービスを受けています。
 風評被害というか、地域差別というか、原発事故による放射能の問題で、福島県及び福島県産が避けられていることに、いたたまれない気持ちで、FacebookやTwitterに書きました。
 <「いわき」ナンバーの車で来ないでといわれ、わざわざ埼玉で、別のナンバープレートの車に積みなおしていることを、NHKテレビは報じていました。こうした風評被害が出てくるのは、消費者よりも仲介業者で。雰囲気で押されないで、リアルに安全を確認して消費してくれることも、大きな支援ですね。>と。早速、ゼミ卒業生がコメントしてくれました。
 <妹のお友達が広野町から湘南に非難した際、罵られて石を投げられたと聞き、胸が痛みました。また、魚の風評被害がひどく、たくさん廃棄されたことも聞きました。でも、この都会でも、福島の野菜を積極的に買おう、東北のお酒を飲もう!と言ってくれてる人、原発の問題に福島の状況に心を痛めている人はたくさんいます。私も積極的に大丈夫です!!と発信します。回りにもお願いしていきます。>。ありがとう、うれしい。
 また、他のゼミ卒業生も、<私も福島県産の牛乳飲みましたよ!第二の故郷の福島が早く元気になってほしい。>
 面識の無い方からも、<はじめまして。昨夜の余震で女川、心配でしたね。。先生のお話、いつも多くの人にも見てほしいとRTさせていただいてます。いわきのトラックの話は驚きました。埼玉県の業者さんが協力してくださるお陰で物資が流れてると考えました。いろんな偏見を打ち破っていきましょう。>
 私も返信。<本学への支援物資を届けたいという全国の仲間の善意も、運送業者に福島には届けられないといわれて、こちらの運送業者に新潟まで取りに行ってもらったらしい。県内にいる者にとっては、県外の反応にびっくりしています。今後ともよろしくお願いします>と。自己満足かもしれませんが、うれしいですね。頑張らねば。
 昨夜(23時32分)も大きな地震。震度5弱ですが、宮城は震度6強。ベッドから飛び起きましたが、停電にもならず、福島はラッキー。宮城以北の東北は、今日一日停電。また一月前の震災に逆戻り。再開したばかりのJRも不通です。恐る恐る研究室を覗きましたが、机の引き出しが大きく出ていただけで、ホッとしました。
 前日、相談した原発事故関連の緊急アピールの賛同を求めるお願いの文書を300部近く印刷し、折って封筒に入れ、3箇所に分かれている各教員ボックスに一人一人入れてきました。同僚が手伝いを申し出てくれましたが、こういう機械的な仕事は、学生時代を思い出し、嫌な仕事ではありません。賛同してくれる人がどれほどいるか、心配ながら期待しています。
 14日午後には、親友である都市計画の研究者を伴って女川に参ります。そんな情報が掴まれて、松山市と会津若松市の社会保障法研究者が女川について行きたい、さらに社会福祉研究等の同僚も一緒に同行してくれるということになりました。その日は、行政責任者との懇談・今後の協力について話し合おうと思ってアポイントをとっているので、同行者には被災の状況、避難所の様子などを見ていただくことになるのでしょうが、少し恥ずかしい気持ちもあります。少なくとも津波災禍の前は「風光明媚な天然の良港」と誇りにできましたが、この悲惨な故郷を始めての方々に見せるのは、恥ずかしくもあり、残念。しかし、現実を見つめて、支援をしてくれる友人たちの気持ちはうれしい。マイナスからの出発だが、頑張らねば。
 女川の小中学校の入学式の日、新たな出発の証として期待していたが、昨夜の大地震のため延期。どうして?と、悔しいが、負けないぞ。(4/8)<3671>


◇ 今朝は、山形県の実家にいるゼミ生の相談事で、研究室に早期出勤。とはいっても午前10時。少しは、座れるように整理。大地震の時に実家にいたので、それほどのものではなかったらしいのですが、福島のアパートの整理もあり、ほぼ1か月ぶり(?)の帰福。アパートも、それほどの被害は無かったようで幸いです。
 午後、弁護士さん2人が訪ねてきた。原発の現地で、科学者・研究者・有識者などのアピールの件。当面の避難問題に追われて、科学者・研究者としての役割に気がつきませんでした。長い時間を覚悟しなければならなそうですが、情報公開と専門家による国民むけ位置づけの明確化、この難しい問題を世界の叡知を集めて、打開していくことでしょうか。何とか、うちうちに解決するレベルは過ぎてしまいました。避難者含め住民の歯軋りが聞こえます。
 帰りしな、大学の避難所の夕食ボランティアへの協力を求められたので、行きました。自宅では、殆んど家事労働はしませんが、女川の避難所でお世話になっている親戚のことを思い浮かべ、ここで、僅かでもお返しすることが大事と思いました。いなり寿司、4種類の野菜の天ぷら、味噌和え物、味噌汁、みかんと、私もご馳走になりましたが、大変美味しく感じました。みんなと一緒に、大家族のように食べる美味しさでしょうか。より快適な避難所への移動が開始するようですが、元気に過ごして欲しいと思います。体育館には、子どもたちが集まって勉強する勉強部屋もありました。高知から支援に来た皆さんが、作ってくれたようです。有り難い。(4/7)<3633>


◇ この1か月足らずのうちに、大災難が襲来したとは、信じがたいような好天気。空は晴れていますが、心は晴々とはしません。南からは、桜の便りも来ています。
 大学の研究室に入ろうとすると電話のベルが鳴っています。事務連絡かなとも思いつつ、電気もつけず、電話機に突進。何か、会社名を名乗っているので、また勧誘かと思いましたが、どうも様子が違う。面識はありませんが、実家が近い、東京に住む女川出身者の方。6〜7年、母校の小学校・中学校の先輩です。実家が檀家にもなっているお寺の息子さんです。住職だったお父さん(故人)は、小学校の先生。実姉の担任でした。よく我が家でも話題になった先生です。こちらの実情を話すとびっくりしていました。
 話の内容は、東京の女川出身者で集め始めている「女川に元気を送る会」の呼びかけ人の打診。呼びかけ人として相応しいかは、疑問が無いわけではありませんが、趣旨には賛成ですので、快諾しました。女川出身の人気俳優も、協力してくれると言っていました。女川を出てから、半世紀も経っていますが、みんな故郷喪失の危機感と、なんとか復興して欲しいとの願いが、みんなを結び付けているようです。大きく広がるいいなあと思います。
 昨日、お見舞いを郵送でいただいた静岡の同級生にお礼の電話。ご主人とお話できましたが、女川出身ではなく、面識もありませんが、女川の行く末を心配しており、心が癒されました。
 大学の同窓生から、小田原の特養のメンバーが石巻に支援に入るが、連絡を取りたいとの伝言。石巻で保健婦をやっている実妹と連絡、繋ぐ。コーディネートの必要性を実感。
 てなわけで、研究室滞在時間は長かったが、研究室整理は遅々としている。ゼミ学生が、明日山形から出てくるというので、少なくとも座れる場所を確保しないと。いくつかの小学校も変則的ではあるが、入学式。桜の便りとともに、春が急接近してきている。明日の最高気温は20度。さあ、がんばろう!!(4/6)<3595>


◇ 今日は飯舘村デー。昼前に、飯舘村研究グループによる、飯舘村にいかなる支援が可能かということで、懇談会。大学らしい取組みによって支援をしようということで、まずは現地調査。
 マスメディアを通じ、原発爆発事故による放射性物質の降下で、一躍有名になったが、「までいライフ」を機軸に、特徴ある地域づくりを進めてきた村である。事故以来、はじめての入村ということで、やや緊張したが、役場で教育長・町長や担当者と懇談が出来た。予断を許さないが、最善を尽くしている。緊張感を持ちながらも、役場職員の顔は明るい。
 私の任期の最後に、飯舘村&飯舘村議会と大学の友好協定を結び、大学用のスペースまで準備してくれた。多くの学生・大学院生が、先進的な村づくりを研究対象として、足を運んできた。困難を克服して、さらにユニークな地域づくりを進むことを確信している。飯舘村は、地震・津波の被害は殆んど無いが、見えない放射能と闘っている。しかし、自然豊かな山紫水明、風光明媚の美しい村でありつづけている。
 福島大学に設置している避難所の方から、雇用問題の相談が来ているという。やはり、行政の方がいいだろうと思い、地元の労働局に相談。急遽、相談コーナーを開設していただいた。本省からの応援者を含め、5人が来学してくれた。相談して、直後に具体化していただいたので、相談必要な方々を上手く繋げなかったが、私が飯舘村に向かう前に、6組ほどの相談者がいた。調整不十分でもったいなかったなと反省。それでも、避難所は生活・雇用の問題が深刻になりつつある。粘り強い取組みが必要でしょう。
 こんなことで、一日が終わる。研究室の整理は進まなかったが、充実した感覚。(4/5)<3555>


◇ 月曜日。いつも入れているガソリンスタンドに寄って、ハイオクを入れました。お客さんも少ない。ガソリンで右往左往することはなくなったと云えるのでしょう。
 仙台からの電話で、家族の安否の心配をいただきました。不確定な段階なので、研究会のメーリングリストでも報告しないできましたが、研究会メンバーに現状を報告しました。早速、数人からお見舞いのメールをいただきました。気を使わせてしまい申し訳けない。
 研究室の震災整理を少しづつ進めています。研究費で買った消耗品(原稿用紙やルーズリーフ)が余っています。生徒が使うというよりも、先生たちに使ってもらえるのでは、と思います。いい教育のためには、先生も研究・授業準備が必要でしょう。生徒ばかりに眼が行っていましたが、トータルに学校を支えていかなかければならないと思います。今度、行く時には持って行きましょう。NHKテレビで、女川の小学校での青空教室等の積極的な取り組みが紹介されていました。しかし、教師の努力はあるものの、親と一緒に女川を離れる子どもたちが多くなってきているようです。学校の存亡は、地域社会の存亡に直結します。離れた子どもたちも、いつでも戻ってて来れる受け皿として、小中学校が存続しうるよう、何とか充実した学校生活を送らせたいものです。
 それにしても、女川の悲惨さは、昨日もらってきた、手作りの「広報女川4月号」を見て、実感しているところです。ボロボロと、ザルに入れた水のごとく、女川を離れる親・子どもが増えていますが、何とか地域社会、そして地域社会の小中学校を残せたらと思います。女川に鉛筆等送る団体の呼びかけもありました。絆を強めてがんばりましょう。(4/4)<3522>


◇ 日曜日。7時半頃、車に文房具などを積んで、郷里・女川へ。前回とは異なり、仙台東部道路は開通していたので、石巻・河南ICまで行けました。しかし、利府塩竃附近から、渋滞。ノロノロ運転でしたので、約3時間かかりました。まあ、その他は順調な走行です。いろいろ外の品物も含めて6箱届けました。その後、義弟のいる町の対策本部へ。
 教育長さんに、教育現場の話を伺いました。街なかにある2つの小学校と1つの中学校は、授業は可能ですが、避難所として利用している小学校は、一箇所でやることになるようです。明日、全教員出校の予定ですが、家を流されるなど大変な先生もおり、心配していました。生活の優先の支援の中では、教育は後回しになりそうですが、子どもは地域の宝ですから、「米百表」の視点で重視して欲しいものです。被災地の教育現場での学生ボランティアに、大きな期待が寄せられていました。
 避難所回りから帰ってきた町長さんと、長めの立ち話。復興計画への研究者の協力への期待。近々、都市計画の研究者らとヒアリングに行きたいと思います。単に、元の町への復旧はできず、新たな地域計画が必要でしょう。高台に住居、海岸周辺に工場等の誘致、菅首相も同じことを言っていたようですが、現地のアイデアでもあるようです。町民が、町を捨てて出て行くことではなく、この地に留まることの展望を早急に示す必要がありそうです。そうでないと、町の自然消滅の危惧。何とか、協力したい。
 帰路、高台の女川病院(この1階にも水が来たようですが)から、灯台がもぎ取られた女川湾を眺めました、親戚のいる避難所に寄りました。姪らの二家族が一室でいましたが、みんな元気のようで安心しました。しかし、震災後3週間。今後の生活の建て直しに関心が移りつつあります。雇用の存続している人は、保障してもらいながら、すぐに仕事が無い人は、様々な復旧活動の雇用を生み出す必要があるのではないかと思います。遣り甲斐ある仕事を生み出す、それによって生活を支える、こうした財源は公的財源にもならず、市民や企業の支援でつくれないものかと考えながら、帰ってきました。
 帰路は、猛烈な睡魔、しかしPAがない。ようやく菅生PA。しばし休養、スッキリして無事、自宅に辿り着きました。あまり睡眠を取れない故か、年かな?(4/3)<3486>


◇ 今日午前は、病院の定期診察。この4週間の間のストレスか、検査値が少し悪化。先生は、ストレスのせいだねと慰めてくれましたが。異常時にこそ、摂生に努めないと。
 大学研究室の震災の後始末。少しづつは進んでいるのですが、まだまだです。避難所を覗いて、土曜日のせいか、ゆったりしています。途中、相馬に帰る、と担当者に挨拶して出て行く人に遭遇しました。100人程の所帯ですが、大学は、県からの直接の委託です。新たに避難してくる人、また移る人。多分、先ほどの方は、南相馬から来て、相馬に移動するのは、自分の生活の基盤とのかかわりで、より近くということなのかもしれません。
 明日は、女川に行きます。不明者の捜索はあまり進んでいませんが、通うことが必要です。直接的には、小中学生の新学期に向けた文房具の運送。自分の資力だけでは、少ないのですが、いろいろ工面して、少しはガサになりました。娘のサジェスチョンで、100円ショップで、折り紙や風船、画用紙、シャボン玉など買いました。小さな子をもつ母親の眼でしょうか。Twitterにありましたが、救援物資は、100円ショップで買うのがいいのだそうです。安いし、品数が多い。
 女川の教育長さんに、いかなる教育の支援が必要なのか、町長さんには、復興計画に協力を申し出てくれる研究者との接点をつくることの話し合いが出来ればと思います。「東日本大震災復旧笹興対箆基本法案(素案)」も出され、復興の一歩です。但し、福島は、原発事故がまだ収まらず、まだ、かなりの期間、静止状態が続きそうです。(4/2)<3472>


◇ 3月が過ぎ、4月を迎えた。長い、暗い3月であった。もちろん3月のすべてでなく、何も予想もしなかった上旬は、月末に産まれる3番目の孫の誕生を、心待ちにしていた。珍しく、大津波で未だ行方不明の実姉の誕生日(5日)に電話をかけた。50年の金婚を喜び、近々、夫婦で町長からお祝いされると、声は弾んでいた。初めての男の子の孫、いつだろうと、他愛もない予想をしあった。今を予想だにしなかった。
 中旬に入る11日、大地震に動てん。会議中だったが、直ちに止めて、戸外に出て、地べたに座った。生協販売店内での会議だったので、大勢のお客さんが店外に出て、恐れ、地べたにしがみついた。体育館のような生協の建物は、いつ崩壊するかとも思えるほどの長く、強い揺れ。生まれて始めてである。頭に浮かんだのは、自宅で一人留守番をしている94歳の義母のこと。フルスピードで帰宅。家が崩れても、焼けてもいなく、まずはホッとしつつ、玄関で呼ぶ。明確な返事で、大安心。福島の無事は確認したが、津波注意報も、それほどではと思いつつ、思いは郷里・女川に及ばなかった。
 停電にもなり、テレビもラジオも聞けず、僅かカーラジオで情報を得、テレビが見れても南三陸町の悲惨な姿。女川は報道無し、いい便りと思っていた。次第に明らかになる女川の惨状、実姉・義姉らの親族の安否が掴めないことを、知ったのは14日であろうか。直ちに駆けつける条件もガソリンもなく、パソコンにしがみつき、電話・メールでの情報の収集。女川に入ったのは25日。対策本部と避難所を回ったが、眼を覆うばかりの惨状を現実に見て、心が固まってしまう。
 翌日、このトンネルからの曙光のように、3番目の孫の誕生。大変な時代の誕生だが、大きな期待と喜びで迎えた。今日、名前が届いた。「晴希」(はるき)。いい名前だ。太陽を見つめて、希望を持って、歩めと励ましてくれる。難題を解決し、再び、自然豊かな東北を再生させる、長い闘いへの勇気を与えてくれる。
 大地震・大津波とともに、福島は原発爆発事故の受難が、現在進行形。焦点の一つは、飯舘村。よく知っている菅野村長の苦渋に満ちた顔がテレビを埋める。国際機関からの住民避難の勧告に近い調査報告。日本政府の認識とも異なり、難しい判断。友好協定を締結している福島大学としては、飯舘村に支援ができないか、当地の調査研究者たちとの懇談。判断決定の受け皿を提供すべきも思うが、私はその立場にはない。友人たちは、自主的に動き始めてくれている。
 就職支援室に寄り、被災地企業の内定取消への対応等を話し、研究室の整理を少しだけ進めて帰宅。気になる親族の捜索もあるが、母校・女川の小中学校で、新学期を予定通り開始する予定だが、ノートや鉛筆がなく、先生たちが集めるのに苦労しているとの新聞記事に、私も何かやらなければと思う。女川の教育長の夫人は、中学校の同期生。生き延びた子どもたちの健やかな成長のために、何か手伝うことがあればとも思う。崩壊の危機に晒されている郷里・女川の復興に、微力でも尽くすことが、私を育ててくれた郷里への恩返しであろうか。
 4月は、攻勢的に生きていきたい。(4/1)<3451>


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