日 記

(2011年5月)


<Welcome from Fukushima - Konno>

◇ 5月も今日が最終日。早いものなのか、時間的感覚が薄れています。今日は、午後からの専門演習。報告者が5人、少し多かったのですが、約束していた3年次ゼミ生(新任H先生・同じ社会法のゼミ)との交流も。来年度、私のゼミは終了なので、3年次生は取りませんでしたので、3年次生はいません。新任のH先生には4年次生はいません。それで自己紹介的な交流の場の設定。
 同じ出身高校の学生同士もいて、終始和やか。4年次生には、各自の卒業研究のテーマについて紹介してもらいました。今後も、交流が積み重ねられればいいと思います。
 ゼミでの各自の個別テーマと、共通のテーマが上手く絡めばいいのですが、なかなか難しい。新しい労働法関係の雑誌が、震災と労働法・労働問題を取り上げ、また10月中旬を締め切りとしたそのテーマについての原稿の依頼を受けたので、問題点を共通認識にするためにも、関連論文の紹介という時間をとることにした。その後、来月の研究会で、我が恩師がそのテーマで講演するというので、タイミングはいいが、執筆の受諾は早まったかなと、反省少々。
 女川の離島・江島(えのしま)の今後の計画をどうしたらいいのか、釣り好きの同僚と江島での生活を話していたら、偶然、ツイッターで江島の話題。100人程の住民の島で、子どもがおらず小中学校も廃校になったが、中高齢者などでも、外から呼び寄せられないものだろうか。魅力を奥に秘めているような気がする。復興計画も、ハードな土木的な計画だけではなく、住民の幸せな生活が期待できる、医療体制、福祉体制、教育体制等も、重要と思える。ゼミ卒業生の研究者から、医療福祉の計画に期待といわれて、その足りなさに気がつく。復興も、異常事態ではあるが、街づくりの一つといえるのだろう。そのためには、今までの状況、そして現状を踏まえて、住民に内部に入って、そのニーズを把握することが必要と思います。まだまだ、努力不足。(5/31)<4989>


◇ 月曜日の朝は、大変です。7時20分に出発したので、8時過ぎには大学到着の予定。雨のせいか、車の進みが良くありません。月曜日、雨、出勤時間と渋滞の原因の集合。8時25分に着いたでしょうか。講義ノートのプリントアウト、簡単なレジメのプリントアウトと大量印刷。印刷機の調子が悪くなり、イライラ。マイクの会議を借りて、10分ほどの遅れでしょうか。皆がプリント等4枚、取りに来ている間に、さてと講義の準備。あれ、講義ノートがない、研究室に忘れたと思い、講義室からの長い廊下を辿り、8階の研究室へ。あれ?、ない。講義ノートがなくてもいいかと、また教室に。先程のプリント等の中に混じっていました。準備不足、慌てふためきで、失敗の講義。ケアレスミスもあって、赤面の至り。
 2コマの講義は、長いので、立て直すことも出来るのですが、まあ、何とかという感じ。内容が整理されず、深められなかったようで、朝から駆けつけた聴講生に済まない。失敗は成功の素。準備の時間をきちんととりましょう。
 昼過ぎに帰宅。自宅待機です。震災からの復帰、余り進んでいませんが、女川に支援してくれた全国の市町村職員からのメッセージ、群馬県の嬬恋村の久保さんからメールが来ました。徳島県三好市の武川さん、群馬県草津町の中沢さんとともに、「女川からのメッセージ」に掲載させてもらいました。粘り強く進めましょう。鶴瓶の家族に乾杯、再会ー石巻編、さだまさしとのペアですが、涙が出てきてとまりません。強張った心が少し柔らかく戻ってきたのでしょうか。(5/30)<4961>


◇ 3日ほど留守にしました。27日朝、女川町の復興計画策定委員会の公聴会に出席するため、Sさん(委員会の会長)を乗せて、出発。公聴会は、午後1時から2時間、午後4時から2時間の予定です。先日(22日)に離半島部2箇所で行われた公聴会では、住民から異論が強かったとの新聞報道などもあり、新潟の先生(委員)も、予定外でしたが、新潟から夜行バスを乗り継いで参加してくれました。
 午後1時からは女川二小、午後4時からは女川高校で行われました。避難所住まいの方も多く、当面の具体的な要望(仕事を可能とする土地利用や支援策)が多かったようです。今後の基本構想実現は、8年ほどの計画なので、それを待っているというわけに行かないということです。仮設にしろ当面の就業を可能とする暫定的な計画と長期計画、その有機的連結が必要なのでしょう。また、ハードのみではなく、ソフトの計画、事業や医療、教育、福祉を含めた当面の策が求められています。
 私も最後に、感想的な話をさせられましたが、皆で協力して、故郷・女川の再生への期待を述べてだけですが、参加者には、中学校時代の同期生もおり、また昔、家族でお世話になった方々もおり、その無事を確認しつつ、一緒に頑張りたいと握手をしました。無事であることの有難さを、痛感しました。
 28日の午前も事業者中心の公聴会にも出席するので、万石浦の傍のホテルに宿泊。静かな湖畔(入り江)ですが、この周辺は、津波の難から免れました。この浦宿を中心に、事業が起こり始めており、今後の街づくりでも一つの基点になりそうです。しかし、ホテルの2階から下をみると、満潮時には、冠水しています。1メートルほどの陥没のせいです。そうした後遺症はありますが、万石浦は懐かしい。子ども時代に、海水浴によく行った場所です。きゅうり1本持たせられて。河童に足を引っ張られて溺れるというので、泳ぐ前に、河童にきゅうりの提供して、勘弁してもらうのです。
 昨日(28日)午前の公聴会は、事業者ですから、早急に事業を開始するための要望が次から次と出されました。この意気込みを、是非、大切にして、女川復興の牽引力になってほしいものです。
 昼に女川を出発。仙台に向かうSさんを本塩釜の駅で降ろし、私は塩竃の孫宅へ。3人の孫なので、配偶者が夜勤だとパニック状態。たいした役に立ちませんが、孫たちと遊ぶのが仕事。何とか、無事でした。大変ですが、段々、大きくなっているなあと思います。誕生祝にもらった「オムツでできたお祝いケーキ」、珍しいのでパチリ。サイズがあえば、そのうちに利活用するのだそうです。
 今日は、昼前に、福島に帰宅。昼食後、大学研究室へ。明日一コマ・二コマ目の講義の準備・印刷が終わっていません。どうも前日にならないとすすまない悪い癖が抜けません。そうすると月曜日は、厳しい。これからまた、準備を継続しましょう。
 少々疲れましたが、遣り甲斐のある仕事の爽快感です。(5/29)<4934>


◇ 今日は、県の委員会があり、その前に移動する事務局職員の送別の昼食会に参加した。いつも4月1日付けであるが、今年は震災の影響で6月1日の発令に延期されていた。事務局職員なくしては、委員会の機能は困難であり、不可欠の体制。私など、新任で、分らないことばかりで、懇切丁寧な説明とサポートで、なんとか不十分ながら仕事ができている。入庁以来10回目の配転の方もあり、異なる仕事を果たしていくことの大変さを感ずる。スペシャリストか、ジェネラリストか、常に問題になるが、いずれも欠かせないのであろう。
 早めの帰宅、明日から女川へとでかけなければならないので、月曜日の講義の準備を行うが、走りながら考えることになる。女川は、復興計画に関する公聴会。町民の声を尊重しながら、計画のブラッシュアップが必要。女川も、自活する動きが見えてきた。これを大きくし、長期的展望の中で位置づけていくことが必要なのだろう。(5/26)<4888>


◇ 予定したものは、夜の行政政策学類の教員の歓送迎会だけですが、朝から、昨夜メールで連絡があり、被災地での事業展開に対するファンドの提案に対する対応で電話のやり取り。被災地の事業興しに対し、ファンドの募集をするということ。1口10500円(寄付5000円、投資5000円、手数料500円)で募集をかける。気仙沼、石巻では、すでに開始しているが、女川でもという話。
 中継ぎになってくれる方との電話連絡、そして女川の事業者団体等への連絡。検討してもらうことにしました。鉛筆プロジェクトの方が、女川に入ったときに、先生から女川の事業展開への指導をお願いしたのがきっかけ。いろいろな取組みがあるもんだと感心。昨日の朝日に出ていると妻に聞く。新聞も、じっくり読んでいないな。
 福島在住の女川出身の方が、父母を亡くし、女川に行くと言う話を教えていただいて、電話連絡する。10年ほど後輩だが、県の農業総合研究センターの研究所の所長さん。こんな身近に女川出身者がいるとは。震災・津波は、新たな人間関係を作ってくれる。そのうちに逢いたいと思う。
 夜の歓送迎会。午後7時半からの懇親会。遅い夕飯という感じ。私も紹介の挨拶をさせられたが、みんなの気分が読めず、不発。退職者は仕方がない。新しい伝統を形成すべきこと。老体は、いつまでも、過去にしがみついていないことかな。ツイッターの写真を成長して2ヶ月になる新孫の写真に変える。すぐ反応してくれる人もある。(5/25)<4867>


◇ 火曜日の午後は、2コマ連続の専門演習。卒業生がいなくなり、新ゼミ生がいないので、4年生単独のゼミ。12名の構成。ゼミ生の数としては少なくないが、新人が入ってこないゼミは、緊張関係が少ない。どんな組織でも、新人が組織を変える。年代構成といわれるが、新人は、新しい血。
 各自の卒業研修テーマにかする関連判例などの、詳しい紹介。来年1月提出の卒研、就活とともに頑張って欲しい。
 大学の除染についての勉強会をやりたいというので、T先生に電話。いろいろ引っ張りだこで大変だというが、なんとか都合をつけてくれそうだ。ひとつひとつ、解決しながら進みたい。(5/24)<4844>


◇ 月曜日の朝は、2コマ連続の講義(「社会保障法」)
 先週の失敗を受けて、教室を大きな場所に変更してもらいました(80人から160人へ)。講義の休憩中に、携帯電話の不在通知に対して電話。「震災と労働法」についての原稿依頼の話。被災地在住だが、落ち着いて研究ができるかという点では、懸念。被災地だから訴えなければならないと言う意識と、疲労感で下手な引き受けで、結果的に迷惑をかけるのではという心配。心が揺れます。
 教育実習で休む学生、放射線の危険で東京に2週間ほど滞在すると言う中国人留学生。表面は、静かだが、明るい顔の学生にも不安が漲っているといえる。
 女川では、復興計画ついての公聴会が始まり、特に浜の住民からの強い批判的意見。私も、27−28日と公聴会に陪席。何とか、町民の意向が反映した計画の練り上げが必要。
 女川の海岸に立っている高村光太郎の文学碑の記事が河北新聞に掲載されている。1991年に建立されたものだが、津波で1枚岩(重さ約50トン)の碑は倒されたものの、目立った損傷がない。再生への希望を託す。ただ、建立の中心人物・画家佐々木(旧姓貝)広さんは津波の犠牲。悲しみと希望と、文学碑は女川を励ますものとなると確信している。(5/23)<4830>


◇ 昨日は、塩竃の孫宅に泊まりました。
 昨日(土曜日)の朝、車で塩竃へ。上の孫娘たちを妻にみてもらって、娘夫婦と震災後2週間で誕生した新孫と女川へ。道路は順調で、親の眠るお墓へ。墓地は、倒れた墓石も多いが、まだ補修の手は入っていない。まだそこまでの余裕はできていないのだろう。女川の津波でやられた町並みを見て、対策本部に勤める義弟と会って、その後の生活を聞く。
 この2ヶ月余りの家族バラバラの生活は大変だったが、いまは、隣町の借家で家族が集合とのこと、安心。明るさを取り戻してきたようだ。
 塩竃への帰途、石巻で姪たちと会う。2ヶ月、妹の家族宅でお世話になったが、仮説住宅等に移る話が具体的になってきて、もうすぐる双方の家族の生活を取り戻せるだろう。津波の当日の話を聞けば聞くほど、想像を絶する。直前まで、日常の延長。誰も信じがたい。高台の病院の一階で、首にまで来た水の中、泳いで助かった。家族がバラバラで、2日間、家族が会えない。生き延びた者も、行方不明の者も、紙一重。偶然の重なり。悲しさを抑えながら、前向きに生活の再建に向かっている。爪先立った生活から、静かな安定した生活に戻れた時に、涙が出るのだろう。私も、涙腺が堅く閉じている。機械的に、スケジュールを進めている。立ち止まると悲しいから。
 孫3人となった娘宅は、我々も含めて、7人がひしめきあって休みました。大変ですが、子どもが多いのは嬉しい。毎回、会うたびに、新たな成長している。しばらくは、福島の放射線の状態から、幼児3人を遊びに来いとはいえないので、足繁く、遊びに行くしかない。初夏の自然の美しい福島で、元気一杯、遊ばせることができないのは、まことに悔しい。
 昼前に帰宅し、昼食後、大学研究室へ。明日の1・2コマ目は、講義。前回、受講生数の関係で不十分だったので、その挽回もある。教材の印刷もして、とりあえず帰宅。来週も忙しいが、頑張りましょう。(5/22)<4812>


◇ 今日も暑い日が続きます。30度かな?
 午前中は、老人保健施設に、ショートステイで行ってきました。午後、コープふくしまの理事会に参加。3.11の地震は、この理事会で、珍しく質問して、回答をもらっている時の大きな揺れだったので、発言には気を使いました。終了後の放射能関係の勉強会のときに、大きな揺れ(震度4)が来て、世の中の平安のためには、発言しない方がいいのかなと、少々いじけます。
 コープの業績も、震災の影響で3月度は大きな赤字。それまでは、順調な経営状態だったので、期待していたのですが残念です。それでも、年度単位で見れば、前年度よりも改善。大きな努力のかいですが、震災は厳しかった。
 私は、この時期だからこそ、生協の原点に立って、避難など生活の困難さを克服する活動の前面に立つべきと思います。自治体の一体性の崩壊の危険があるときだからこそ、住民の生活を守りと自治を支援する点で、コープふくしまが、一回り大きな活動の質を高める必要があると思います。言うことを忘れましたが、農協、漁協、森林組合、医療生協などの協同組合とのネットワークを強化することが必要でしょう。
 女川に支援に訪れた他市町村職員の皆さんに、ご意見をいただきたいと思って依頼してたのですが、群馬県草津町の職員の方から、素晴らしいメッセージをいただきました。ご本人の了解を得て、「女川へのメッセージ」に掲載させていただきました。現実の住民との接点、ご本人の職務の専門性から、鋭くも、具体的な夢を与えてくれます。こうした依頼をして良かったと思います。それを是非、反映させていきたいと思います。
 昨日の飯舘村長泥地区の除染作業の中心者のT先生から電話をいただきました。不在通知があっての折り返し電話です。福島出身者として、今まで中央で研究してきた蓄積と郷土愛が、彼を動かしています。全く同世代の人間として、仕事が単に経済的目的ではなく、社会的に意味のある仕事だったということを、郷里の困難さに直面して、何か郷里のためと、つき動かしているのでしょうか。私の女川行きも、そうなのかもしれません。静岡県に住む女川の同級生から電話あり。刺激の多い一日でした。(5/20)<4778>


◇ 5月だというのに、最高気温30.3度。夏日です。研究室にいる限り、乾燥しているし、それほどの暑さを感じませんでした。外に出ると、真夏の太陽です。
 私も自治体との関係を仲介して上手くいかなかったNPO法人「放射線安全フォーラム」による除染作業、飯舘村の長泥地区で行われているとの報道がNHKテレビでなされていました。かなり有効性あるとの感触をみせていました。是非、最善の方法を探究して、一日も早い住民の復帰の条件を作ってほしいと思います。有効性あるものを、何でも利用してみるといった積極性で、自治体も対応してほしいと思います。
 女川の復興を巡る様々な動きが報道されています。サッカー、元「コルバレート女川」の選手・滝沢陽介さんの記事(読売・埼玉版)、再起を目指す小学生バスケットボールチーム「女川フィーバーエンジェルス」がスラムダンク色紙に奮起している記事(毎日)、女川の復興計画を巡る女川の半島漁村の活発な意見の報道(河北)、何か、瓦礫から胎動し始めていることを強く感じています。非力ですが、女川町と町民の生活の発展・維持向上のために、微力を尽くしたいと思っています。来週・金土の公聴会にも、会長の鞄持ちで参加することにしました。何とか、住民の意向を反映させた計画と、その実施を願っています。
 珍しく、昨日・今日と、被災した妹や姪とメールで連絡をとりました。悲しみに打ちひしがれないで、前向きに歩み始めています。自分の心の整理ができず、彼女たちの生活にまで配慮できなくてきましたが、歩み始めた生活を、ささやかでも支援していきたい。(5/19)<4759>


◇ プロ野球の交流戦、東北楽天は巨人との対戦ですが、延長10回、昨日に続いて敗れました。たまたま、9時過ぎにテレビで中継していることを気がついたのですが、最後、負けるところだけ観戦。なかなか、難しいね。
 今朝は、留年生と話。頑張れば、9月には卒業できる段階。私の担当科目は、単位を既に取っているので、単位にはなりませんが、卒業研究の指導の一環として、毎週月曜日・午前中、自主的に出席させることとしました。毎週、朝に来る、夜のアルバイト中心の生活から転換するためには、出席は鍵でしょう。大丈夫でしょう、きっと。
 女川に元気を送る会の案内が、まだ500人ほどで、まだまだ一部ですので、思い出して、女川出身のある市の幹部に電話しました。自らの仕事も大変ですが、故郷を思う気持ちは同じ。協力を約束してくれました。彼の親戚は無事で、避難所生活を行っているようです。生活は大変ですが、無事は何よりです。
 大学では、放射線の除染の話題で盛り上がっています。線量の高い場所の水洗い、その必要性は大きいのですが、それは結局、他に汚染を集めることになり、排水等の問題の解決が必要です。恐れて、身を堅くしている段階から、とにかく除染を具体的に行おうとする意欲が出てきています。前向きなので、ストレスは随分、軽減することになるでしょう。
 自治体との連携で動きましたが、身を堅くしている感じです。何でも利用して、改善していこうという姿勢が、こういう時こそ必要なのですが。四国から女川支援に入っている自治体で、派遣された職員の話し合いのなかで厳しい意見も出ているというので、是非、教えてほしいとお願いしましたが、外部から見えて、内部では気がつかないことは、組織も人間も同じ。外部からの意見は、大切にして、発展の土台にする必要があるでしょう。(5/18)<4742>


◇ 今年度、はじめての専門演習。7月から語学留学に行くゼミ生も含め全員が出席。
 学類の方針に沿って、地震対応のマニュアル、放射線対応マニュアルなどを読んで、話し合い。家族との葛藤もあって、この演習に出てきたのだと思います。みんな明るい笑顔のなかにも、張り詰めた緊張感を感ずる。
 各自が昨年度末にまとめた、卒業研究準備報告に基き報告し、来週からの報告の分担。最終年度の4年次生のみなので、卒研とともに、就職活動が大きな気がかり。何か、ゆったりと勉強できるような環境を取り戻すには、しばらくかかりそう。
 学生の安全を確保する趣旨から、緊急連絡網の整備。ほとんど指導しておらず、前任者も引き継いでいかなかった留年生の自宅にも電話。母親が出てきて、息子の卒業を大変心配している声に、反省させられた。そして大学を恨むではなく、大学から連絡が来たことを喜んでくれた。
 復帰したばかりの自分がどうして、それを行わなければならないのか(分担)との疑問から、受動的な対応だったのだろう。しかし、責任の所在の確認ではなく、一人の若者と家族の気持ちに、もっと寄り添って行かなければならなかったのではなかろうか。留年は、本人の自覚の不足・努力不足ではあるかもしれないが、教育機関としては、そのことでいいはずはない。責任の押し付け合いからは、何も生まれない。もう、時は遅いかもしれないが、可能性を追求してみよう。
 今日は、長女の誕生日。最近は、孫たちの誕生祝の陰に隠れてしまったが、数十年前(?)の出産を思い出す。結婚後7年の後の誕生。感激でした。子どもはみんな祝福されて生まれてくる。大学生になっても、親は子どもに期待していることを、昼の留年生宅への電話でも。子どもの幸せを実現する環境をつくっていかなければ。(5/17)<4723>


◇ 月曜日、早朝講義の始まり(8:40〜11:50)。7時20分には自宅を出て、8時過ぎには大学に到着。順調。
 講義は、S棟の37番教室。88人の定員です。40人か50人か分らないので、資料などは80部(また、残部を捨てなくては・・)。とにかく、第1回目の講義での受講生数が確定しておりません。普段も1ヶ月くらい後に確定。講義の3分の1は、受講生数が分らないまま過ごします。確定した頃には、減っている数ですが、気持ちが少々、萎えてしまいます。何人来るか競馬の予想みたい。
 今日は、ガイダンス的に1コマ+αで終えようとは思っていたのですが、教室の前には人が多い。他の授業の学生と思って教室に入ると、殆んど満杯。立ち見はいないので、淡々と進めたのですが、後の感想見たら、教室の外で聞こえなかったとの枚数が多い。
 教室が前後に長いものですから、教卓のところから、教室外で聞いている学生は見えません。後ろのドアは開いてはいたのですが、暑いのかなと思い気にならなかった。静かだったので、そのまま続けたのですが、先程の教室前の学生は、自分の授業の教室に入ったのとばかり思っていました。見えませんから分りませんが、30名ほどだと学生の感想文で教えてくれました。
 すぐに教室変更は難しいでしょうが、そうすればよかったかなと反省しています。来週は、まずは謝って、よく聞こえなかった今日の講義のダイジェストをしないと駄目ですね。2コマ目早めの終了後、教務課によって、唯一残っていた160人ほどの教室(M-24)に変更してもらいました。朝から詰め掛けてくれた学生諸君、ゴメンネ。気がつかなくて。
 感想文などは、100枚ほど。これをワープロでタイピングするのは、結構疲れました。でも、社会保障法の講義に対する期待が多いので嬉しい。しかし、数が多かったのは、大きい教室に替えてとの声。そうだよな。8時40分に間に合うような列車等で来たのに。こちらの気づきの遅さ(年かな?)。その分、来週からは内容も、張り切ってやるから勘弁を!
 震災・原発事故の後遺症を心配していたが、普段の学生で一安心。そんな一日で終わりました。(5/16)<4702>


◇ 金曜日・土曜日と大学に行けなかったので、今日・日曜日は、大学研究室へ。明日から私の講義、月曜日の1−2コマ目(8:40-11:50)です。研究室は、見かけはきれいになりましたが、以前に、授業準備をしていた配列とは異なっており、準備の仕方も忘れてしまったようです。
 午後、学外での所用があり、夕方、また研究室に戻りました。帰宅は、午後8時半頃となりました。不満足ですが、仕方がありません。震災後の初めての講義で、なかなか落ち着かないのは震災の後遺症でしょうか。恥をかきながら、走りながら軌道を変えていくことにしましょう。
 久し振りに、ガソリンの給油に併せて洗車をしてもらいました。放射線に敏感な人は、いつも綺麗にしているのですが。また、僅かですが冠水の道路を走り、塩水を流さないと・・。
 帰宅後、女川に元気を送る会宛てのメールが来ました。お金の送金もしていただいたようです。「ようやく辿り着きました。」というメールですが、まだまだ協力したい人々の手に届いていません。まだまだ、息の長い取組みが必要です。お金の額が問題ではなく、女川を支援するネットワークの形成です。伝えるためのことも、やるべきことをまだやっていないのでしょう。(5/15)<4684>


◇ 震災以来、新幹線に乗ることはなかったが、昨日は仙台、今日は東京へと、新幹線に乗る。
 「女川に元気を送る会」の世話人会があるので、もし可能であれば、という誘いを受けました。電話で快諾しましたが、呼びかけ人の代表などという恐れ多いことは、聞き取れなかったようです。何か結果的に、責任を感じてしまいました。何人かから、問合せがあって、これは頑張らないとと自覚を、事後的に強めました。
 神奈川のWさん、千葉のT君も出席というので、急に逢いたくなったのも事実です。午前の病院定期検査、そして妻の仕事の間の自宅待機という、綱渡り的な時間でしたが、新幹線に飛び乗りました。行きも帰りも、睡眠。役職上の仕事で、何度も新幹線で通いましたが、あまり眠ることはありませんでした。今日は、疲れが溜まったのか、緊張感が薄らいだのか、意識不明の眠りです(いつもは意識しながら眠っていたのかな?)。
 八丁堀の会場には、10人ほどが集まり、Wさん、T君以外は初対面(メールはしていますが)。80歳代から60歳前後まで、やはり高齢者中心といえるでしょう。ただ、それだけ女川に対する思いは強く、それゆえ震災の惨状に対する心痛は人一倍。同期生相互間だけでなく、兄弟姉妹の同期生、私の父と一緒に仕事をした人など、その関わりの強さに驚きます。そうですよね。あんな小さなところに、お互いの家族・兄弟姉妹が錯綜して生活しているのですから。女川を復興させたいという気持ちは、何か個人的な建前ではなく、綿々と続く家族の叫びを感じます。「女川人」、何かそう呼んでみたい衝動に駆られます。
 これからは、「女川で仕事をしようかな」という話もありましたが、定年後だからいえるのかもしれませんが、故郷に帰って、悠々自適の生活をしようかなとは少し異なる、「女川人」の何かしないではいられない、共通の心情でしょうか。生きているうちに、女川再興の一つの石でも置きたいという。
 会議の後の夕食を取りながらの歓談。それぞれ、この首都圏で闘ってきた満足感も感じます。帰宅は午後11時。
 女川再興の困難さを見て、行政的に、石巻への編入という選択肢が迫られるかなと思いつつも、それに対する感情的な抵抗のみならず、女川を市街地地域だけで捉えるのではなく、北部漁港地域(尾浦、出島等7地域)、そして南部漁港地域(塚浜、横浦等8地域)を含め全体として捉えると、市街地のみの帰趨で考えてはならないとも思える。北部と南部は、女川の特色であるし、強みではないのか。そうした観点で、もう一度、見てみたい。離島問題をゼミの対象にしたいという教員がいたので、何か接点を見つけてみたい。いずれにしろ、女川の強みに、いまだ気付いていない自分がある。(5/14)<4665>


◇ 13日の金曜日。仙台の大学時代の恩師のお宅へ。米寿のお祝いの話だが、昼食のご馳走をいただく。
 久し振りの新幹線乗車。仙台駅で本屋と構内の東北フェアを見学して、バスで八木山へ。
 早めの到着となったので、郷里・女川の被災で、先生との話。いろいろ心配していただいて、申し訳ない。後で到着した2人と一緒に懇談。昼食もご馳走になるも、話題は震災当時の話。それぞれの場で、大変な経験をなさったようだ。
 帰宅後、夜は、東北楽天とロッテの試合のテレビ観戦。結局、1対1、延長12回で引き分け。田中が頑張って投げていたので、勝たせたかったが、相手の投手も成瀬。投手戦。山崎の9回同点ホームランだけがすっきり。まあ、仕方が無いか。
 明日は、午前の定期診察、午後は東京へ。沖縄では、社会保障法学会と労働法学会が行われるはず。震災がなければ、行く予定でいたのだが。残念。(5/13)<4648>


◇ 研究室で、事務的な処理とメールなどで、なかなか講義の準備にならない。
 放射線汚染された表土の除染について、同僚と電話で話し合う。夕方、NPOの「放射線安全フォーラム」のT先生とそのチームの方々の話を聞くことができた。電話とメールでの会話はあったが、お会いしたのは始めて。特に、校庭の表土の除染について、天地換をするか、汚染土を除去して特定場所に閉じ込めるか。天地換には、汚染土がかなりの長い期間(百年単位)で残るので、心配が多い。
 問題は、汚染土を密閉して廃棄する場所をつくらなければならないが、その周辺の住民の理解が前提。とにかく、一定範囲に降り注いだ放射線を除去することが、復旧の前提。このままにするか、汚染土を地下に押し込めるか、除去して廃棄するか、学校だけでなく、決断せざるをえないのだろう。
 人類が作り出した危険を取り除くのも、人類の知恵であろう。
 明後日の土曜日、「女川に元気を送る会」の世話人会に出るため、東京に行くことにした。同期生二人も参加してくれそうだ。福島県内で「女川フェア」をやりたいと夢を描いて、蒲鉾以外の新たな女川産品と、福島県内の「女川人」(出身者・避難者)をツイッターで呼びかけたが、いずれも反応皆無。まあ、難しいか。でも、郡山の自由参加のコンサートに、女川の人が参加。「フレフレ、女川」と参加者が合唱しているテレビに目頭が熱くなる。企画(夢)実現3割の高打率でなくても、水面下の足掻きでも、足掻きが無ければ何もなし。無駄かもしれないが、1%の可能性でも復興のために足掻き続けよう。(5/12)<4632>


◇ 大震災から今日で2ヶ月。時間が止まったような気もしますが、何も変わらないまま時間が過ぎている感じもします。
 午前中、久し振りに教員懇談会に出席。いつもは教員会議=教授会には出ていないが、明日から授業が開始するので、ゼミ学生などの連絡網や、緊急避難のためのことで、説明を受ける。地震だけでなく、放射線汚染対応は、初めてで難しいことが多い。また、学生のメンタルヘルスの問題が絡む。学生に向いて、教員としての役割を感ずる。
 女川町を支援のために訪れている全国の自治体職員は27人、救護支援で20人になっているが、女川に入って気がついてこと、意見などを聞きたいが、時間が取れないので、役場に頼んで、各職員からメールをいただくことにした。役場では、一人一人、既に帰って職員も含めて手渡してくれると言うので、期待している。地元では気付かない女川の良さ、外の眼から教えてくれるのではないかと期待している。単なる復旧ではなく、新たな課題で復興を追求しないと、原状回復の復旧すらできない。
 それにしても、Facebookで交流ある「希望のえんぴつP」の主宰者が、5月5日から7日まで女川に入ってくれました。在日外国人にも、「女川に行った自分の経験を、外国人にも広く伝えたいと思っています。」と。私の復興ニュースの紹介に、「「子どもは社会の宝」と、学校の再開を早い時期にされた女川教育長の熱意を感じました。子どもの笑顔が保護者の力になると仰っていました。私の姉は、女川のかまぼこを買う応援に力を入れています。外からの応援、考え続けたいと思いました。」。この震災が無ければ、女川のことを知らなかったはずの三重県在住の方。本当にありがたい。
 放射線汚染されている土壌の除染について、同僚に相談したいことがあったので、電話をかけたが繋がらない。住所を基に尋ねましたが、どなたも不在。また明日以降、努力しましょう。
 来週月曜日・早朝からの初講義。生活パターンを変えて、準備をしましょう。(5/11)<4608>


◇ 昨日「入学式」(「新入生を迎える会」)が開催され、大学には学生が戻ってきました。明日までガイダンスなど、新入生が多いのですが、明後日からは授業が開始します。
 特に、学校現場での、放射線対策が大きな話題になっています。校庭の表土を削るの有効ということですが、その削った土をどこにおくかで、様々な議論が展開されています。文科省は、削った土とその下の土を入れ替える方法。削った土の処理の点ではいいのですが、表土からその下に閉じ込めるのみというので、半減期が長いので、その危険さも指摘されます。削った土を校庭の近くに集めて埋める、あるいはどこかの土地にかなりの密閉性の装置をつくり閉じ込める。いろいろな方法が提起されますが、本当に困った代物です。どうしてこんなことになるのか、天災ではないので、怒りを禁じえません。
 大学も学生教育の場、教員有志や学生諸団体、そして保護者からも、その対応について要望が続きます。危険をいかに減殺し、付き合っていくか、その見定めと、そのための方法について、粘り強く合意の追求が必要なのでしょう。そこには、信頼関係が前提にされなければならないのでしょう。
 デイサービスの出迎えのため、3時半には大学を去りましたが、昨日の疲れか、睡魔に襲われ、帰宅後も継続。ボーっとして、家事労働をサボってしまいました。年かな。
 今日は、「女川に元気を送る会」の募金の手紙が届いたのか、長くご無沙汰していたWさんとMさん、どちらも昔の同期の女子中学生から電話。震災、特に女川の津波の惨状と安否情報。昔の状況を彷彿とさせますが、ともに見ていた町の風景の消滅に、声がありません。懐かしい声だが、悔しさを共有しました。復旧はなかなか難しく、私たちの生命のあるうちに見ることはできないでしょうが、一歩でも新しい町に再生する努力をしたいものです。
 全国の自治体から女川町支援のために派遣されている方々が多いのですが、あまりその経験と技術が生かされていないのではないかと懸念し、町の事務局に、派遣職員に対するビラの配布をお願いしました。可能かどうか分りませんが、直接ご意見を、メールでいただけるようお願いしました。そこから、課題や、女川が大切に発展すべきもの(外部から気がつくもの)を教えていただければ幸いです。(5/10)<4586>


◇ 月曜日。女川の第2回「復興計画策定委員会」出席のため、自家用車で参りました。S先生と、初めてのM先生と一緒。時間的に余裕があったので、お墓を見てきました。街の瓦礫は、少なくなりましたが、復興が進む石巻と比較しても、商店街が壊滅したせいか、灰色のままです。海は、青々としていましたが。
 中間答申は、復興の基本的な考え方として、「安心・安全な港町づくり」、「港町産業の再生と発展」、「住みよい港町づくり」の3つの柱を掲げています。今後、詰めなければならないことは多いので、住民代表からの意向も踏まえて、住民が確信持てる計画策定が必要でしょう。
 帰りの三陸道から、東部道路にいくJCTで、間違えてしまいました。相馬方面に行くべきところ、福島・盛岡<東北道>に行ってしまい、一般道をしばし迂回してしまいました。何度か目なのですが・・・。勘違いでした。
 避難所で、無事だった中学校の同期生に会いました。また、親戚を見舞い、帰って来ました。(5/9)<4566>

 


◇ 日曜日。「福島市の保育を考える会」等主催の原発事故に関する講演を聴きに参りました。
 講師は、安斎育郎氏(立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長)。テーマは、「福島原発事故による放射能災害と私たちの生活」。安斎先生は、脱原発の立場から、積極的な発信をなされてきた研究者である。120名収容の会場は、立見席に多数。280名と聞いています。関心の高さを裏付けています。
 安斎先生のレジメの柱は、@放射線は被曝しないにこしたことはない、A外部被曝から身を守るには?、B内部被曝から身を守るには?、Cどれくらい被曝する?、D能書きも大事だが、何よりも実効的な対策を。
 午後、さくら保育園の園庭で、安斎先生とともに、線量計率測定器(サーベイメーター)等を使用し、表土を取る以前と、とってからの値、半径50センチ、1メートルの表土をとっての実験的調査。かなり減少して、効果が眼に見えた。園舎内での場所(窓際・真中)による差異など、参加している園児の父母も、具体的な展望もみえたよう。抽象的な議論だけでなく、安全を具体的な現場で確保する具体的な動きが大切なんだと感じた。
 ツイッターに紹介したら、早速、「行ってみたかったな。こんな人がいるのか。安斎郁郎。」、「この人、自治体で呼べないですかね?・・・」などの反応。
 明日は、第2回目の復興計画策定委員会のために女川に向かうが、長女が、行方不明の実姉の写真を探し出してマスプリして送ってくれた。2008年5月11日の「杜の都のファッションショー〜きれいカラーで輝く私〜」(仙台)の参加。出て来いと誘われたが、ヤングにせよ、シニアにせよ、一寸ファッションショーは苦手。口実をつけて欠席したが、今は反省。出演者の一言に、「前向きにすべての事に挑戦していきたい。」と。娘は、メールで、「なーんと、おばちゃんから私たちにあてたメッセージのような形になった!!」と云っているが。明日、姉の娘たちに、写真を届けてくる。(5/8)<4536>


◇ 土曜日。訪問看護の日でもあり、私は大学・研究室へ。
 昨日、飯舘村に作業応援に行っていたC先生に頼んでいた、飯舘村の「本」とお酒を受け取る。
 本は、『までいの力』。<こんな美しい村をなくしていいのか! 怒り、途方に暮れる村人たち>。本の編集は、大震災前であが、出版目前に大震災。いまは、計画的避難の村。悲劇の村である。しかし、飯舘村は、長年、村づくりで全国的に有名。「までい」は、東北方言で、私の小さい頃、よく聞いた。乱雑にやると、「までーに、やりなさい」と云われた。辞書では「真手」(まて)。意味は、両手、左右揃った手。「丁寧に、心・愛をこめて、てまひまをおしまず、もったいない、節約する、思いやりを持って、大切に、・・・」。「クオリティライフ」から、「スローライフ」、そして「までい」。日本語は、実感がある。
 手間ひま掛けることがいい、たっぷりと時間をかけて、心を込めてつつましく。現代の早ければ早い方がいい、効率的にということに対するアンチテーゼ。この村の成果を期待していたのだが、中断させるのは、残念でしかたがない。
 東京で完売という飯舘の酒も入手。純米大吟醸「飯舘」と本醸造「おこし酒」(むらおこし)。飯舘村で生産された酒米を原料とする。酒好きの娘の婚家の父上にでも送ることにしよう。孫娘たちには、『までいの力』を送ることにしよう。本の方が高いが、この収益は飯舘村復興のために使われるという。
 来週の月曜日は、2回目の委員会で女川に行く。大学は入学式なので、役割の無い退職組の親友などを誘っている。私の故郷を見てください。そして復興に知恵を貸してくださいと。(5/7)<4512>


◇ 連休終了後の金曜日。また、明日からの土日。正直、連休気分は抜けないのかも。東北大や福島医大の月遅れの入学式の報道。今日は、次のスタートの日だったな?福島大は、来週月曜日の9日。安全との確執のなかで、授業の開始となります。
 午後、郡山で行われた弁護士グループの「原発・震災問題学習討論集会」に参加し、法律専門家の話を聞いてきました。中心は、福島原発事故の実態と法的処理の問題。今後生じてくる原子力損害の範囲の判定問題など、先行的事例が少ないが故に、悩むことが多い。原子力損害賠償法なんて、全く勉強したこと無いね。
 損害賠償は、結局は「お金」の問題。お金に換算できないものが多すぎる。故郷から出ざるを得ないなんて。
 熱心な質疑応答で、6時前まで。学生時代の友人達(弁護士)と逢うこともできた。みんな頑張っているんだね。結局、国道を行って遅刻したが、帰りは東北道。ラッシュ時割引か、650円。
 飯舘村の本と酒をお願いしたら、酒は、欲しかった人がいたらしく、少し後ろめたい。酒飲んで飯舘支援だが、来年はできないという、悲しい支援。なんとか一日も早い復興・帰農を。(5/6)<4486>


◇ 好天の子どもの日です。放射能のせいか、最近、甲高い子どもたちの声が聞こえません。うるさくても、野外で遊ぶ子どもの声は、幸福な地域社会の象徴。好天だが、心から晴れた気分になりませんね。
 研究室で事務処理後、一路、飯舘村へ。昨日、電話でうかがった放射線で汚染された土壌の除去の方法。情報提供ということで、休みだが、村の様子を見ることも兼ねてドライブ。既に進行していて、あまりタイミングがいい話ではなかったが、要は、原発事故の解決のときもできていないが、各省庁・各専門を超えて、総合的なを協力体制が欲しいところ。自らも例外ではないが、専門に閉じこもる・しがみつく、各組織にしがみつく、これを解決したら懸案の課題を即座に解決する力を、日本は持っていると考えるのだが。
 執行部には逢えなかったが、飯舘村から川俣、114号線を通って、黒岩の青少年会館へ。
 お医者さんによる放射線問題の講演を聴く。医師・向山新先生(立川相互ふれあいクリニック所長)の「放射線の正しい知識 人体への影響と対策」。多くの質疑があったが、広島・長崎の被爆と、今回の被曝。この共通性と相違を、一つ一つ明確にしながら安全の道を進む必要があるのでしょう。原爆に対する強度のアレルギーの世代にとって、心が重い。関心が高く、しかし高年年齢者が多かったかな。若い人がもっと、知的リーダーシップを担って欲しいが。明日も、郡山で講演会がある。(5/5)<4461>


◇ 今日はみどりの日。5月連休の中日。他ゼミの出身であるが、同窓会などでお世話になっている卒業生夫婦が、ドライブに誘ってくれた。
 10時前、我が家まで来てくれた。彼のお父様もご一緒。私より7歳も上だが、若々しくバイタリティがある。「こおりやま歩こう会」の副会長。一度、一緒に歩きたいような頼もしい人。喜多方に向かうというので、我が家から中野不動尊を経由して、栗子峠。米沢を経由して喜多方へ。好天のドライブ日和。
 彼らのご親戚の「佐原病院」の理事長宅を訪問。佐原病院は、マスコミでも話題になって、南相馬の病院から重症患者の多くを受入れている。避難先で、病状の悪化が云われる状況の中では、先進的・良心的取組みで、お家族からも大きな感謝をいただいている。また、明るい奥様ともお話が出来た。調停委員などでも頑張ってこられたようだ。私までもが、喜多方ラーメンをご馳走になった。訪問する前に、多くのラーメン屋前での長い列を見ていったので、まさか、「出前」で食べられるとは思っていなかった。大震災・大津波・放射能汚染等、深刻な話が多いが、現場で戦っている姿に感動する。
 喜多方の大和川酒造を見学し、旧山都町の蕎麦資料館へ。ラーメンの次は、日本蕎麦。やはり山都の蕎麦は本物(?)。ここも食堂は一杯。蕎麦打ちを見学し、そのお手並みに感嘆。
 帰り道、会津若松の満田屋で田楽をいただく。ここも盛況で、30分待ち。そして「会津葵」の菓子屋へ。まあ、若い人の行動力には驚きます。時間を最大限、有効に活用している感じ。本当に、お陰さまで、気持ちもスッキリしました。お父様との話も、よかった。私とは異なった道で、前向きに頑張って来られた話には興味は尽きない。
 ドライブの途中、今の放射能問題の除染問題で、携帯でやり取り。福島・仙台・関東と三元的なやり取り。もし、地域にとっても有意義なことであれば、仲立ちをすることに意義はあろう。明日、現地に、飛んでみよう。
 「女川に元気を送る会」の村井さんから、東京の世話人会で把握している状況についてメールをいただく。葉書に寄せられたメッセージを送っていただいたので、早速、「女川へのメッセージ」に貼り付けました。簡単なメッセージの中に、皆さんの女川への思い、悲しみ、そして決意を感じています。みんなと一緒に、女川を復興させたい。(5/4)<4443>

 


◇ 今日は憲法記念日、というかゴールデンウィークの中日くらい?法律を専攻している者としては、何か集会参加の予定も無く、異常な憲法記念日です。大震災のなかで、避難所生活の大変さなど、生存権問題が前面に出てきています。また、非常事態ということで、個人の権利の制限の憲法上の問題が出てきています。平常時は、憲法は空気みたいなものかもしれませんが、こうした異常時こそ、その理念を生かされるべきでしょう。
 人影の少ない大学の研究室で、震災関係、復興関係の文書に眼を通していながら、なかなか確信が沸いてきません。女川の現状が、復興の計画を立てるには、厳しい出発点であるからかもしれません。
 娘から、「まっすぐな虹」が出たとのメールと写真。ツイッターでも同じ話題らしく、専門家から、こんな書き込み。「11時30分頃。環水平アークの向こうに飛行機雲がクロスする。虹の中を進んでいるかのよう。環水平アークは、六角形の氷晶から成る淡雲によって高位置の太陽光が屈折することで生ずる。今日はその好条件が1時過ぎまで長く続いた。嬉しい。」、そして美しい写真。「ところで、太陽の周りに丸くできていたのは内暈(ハロ)で、環天頂アークとは別物です。ハロに接して逆向きの弧を描くのが環天頂アークです。出現条件が厳しいので、いつかこの目で見たいと夢想しています。」(@aiwendil1)
 「西方極楽浄土から阿弥陀如来が菩薩を随え、五色の瑞雲に載って震災犠牲者を弔いにやってきていると思いたい。感謝合掌。」(@shimoyoden)という呟きにも、同感。
 明日は、卒業生夫婦がドライブに行くのに付き合う。楽しみ。ゴールデンウィークらしい楽しみである。(5/3)<4414>


◇ 5月になりました。昨日は、女川での仕事のために、往復6時間の運転と会議4時間疲れたのと、前日夜からの花粉症の悪化(睡眠不足)一日中の継続(鼻水が止まらず、脱水症状になりそう)が重なって、帰宅(9時)後、日記を更新する力が残っていませんでした。そして今日、緊張の緩みか、どっと疲れが出たようです。朝から、グタグタしています。
 ところが(?)、私の誕生日。TwitterやFacebookで誕生祝が寄せられています。娘たちから連名の花のプレゼント。嬉しいですね。何度も、こうした幸せを経験したいものです。
 昨日は、午前9時に舟場町に集まり、3人で女川へ。石巻周辺が混雑との情報がありましたが、仙台南インター前で、思わぬ渋滞。事故により交通規制。年配の方の軽乗用車の事故でしょうか。あまり大きな事故ではなさそうで、不幸中の幸い。後は、スムーズに石巻へ。石巻で昼食(ラーメン)を食べて、女川に入りました。依頼されていた、「女川町復興計画策定委員会」への出席です。各専門家、また東北大学関係の方が多いのですが、都市計画で全国的に活躍している同僚・友人の鈴木浩氏の協力を得られ、この委員会の会長を担ってもらうことになりました。福島大学関係者が、故郷女川で力を発揮してもらうことは有り難いことです。その関係で、私もアドバイザーに委嘱されましたが、土木や都市計画研究者ではないので、教育や雇用、社会保障で協力できればと思っています。
 会議で被害状況の確認と復興方針について話し合われましたが、途中、被害状況を見るということで、20分ほど自衛隊のヘリコプターに乗って、女川の市街地、北部方面(雄勝方面)、南部方面(牡鹿半島方面)を見ることが出来ました。下で被害状況を見てはきましたが、空からの被害の全貌を見て、その被害の甚大さに改めて驚きます。
 この委員会は、毎月、開催され、8月には最終答申を出す予定で進んでいます。住民の意向に沿いながら、長期的展望と同時に、いますぐにでも生活を確立することが望まれています。会長の送迎で、私も、毎月、通うことになりますが。
 帰途、石巻で夕食を取って帰ってきましたが、食堂が大繁盛。多分、ゴールデンウィークに間に合わせた開店ではないか、お客さんも待ち遠しかったのではないかと、話し合っていました。何か、食べてる笑顔は、復興への力を感じます。鼻をかみながらのドライブはきついですが、復興への第一歩を歩み始めたとの実感があって嬉しい。
 朝、いつもツイッターで知っていた、首都圏に住む女川町出身の方からダイレクトメッセージ。生年を聞かれて、自分の母親と同級生ではないかとのメール。双子だというので、**さんではないですかと、返信したら、バッチリ。そう親しくしていたわけではありませんが、覚えていました。女川の家が流されたのか、娘宅に夫婦で移住したようです。振り返ってみたら、私の姉(行方不明)とお父様が同級生だということを思い出しました。狭いね、女川は。嬉しい誕生日プレゼントですと返信しました。
 彼女のブログに、こんなメッセージ。
 <<地震後、黙りこむことの多かった父が、本音をポツリポツリと漏らします。「人と人との繋がりがなくなってしまったもんな〜」。
 家や物よりも、人間関係が断たれることは何よりも辛いことだと思います。お金や努力ではどうにもならない物だから。若い人のように、ネットやメールで人間関係を復活させる年代でもないから。 *******
 「あんなにうまく行っていたのに……」そうだよね、これまで積み上げてきたもの、大事にしてきたものは奪われてしまったし 自分ができることに、限界があることを思い知らされることも増えたよね。
 それでも生きている限り、私たちは手と手を取り合って、生きていかなくちゃ。以前のように、全てが元に戻ることはないにしても、家族の絆とか、思いやりとか、まだまだ残っているものもたくさんあるから。
 今はできなくても……、無いものに目を向ける時期が過ぎたら、今度は今あるものに目を向けて。自分の命、歩ける、食べられる元気、息子、娘の家、孫たちの笑顔、元気あげたら、きりがないくらいあるから。ゆっくりゆっくり見つけられたらいいなと思う。>>
 疲れたなんていってられないよ。さあ、食欲ないと食べなかった、遅めの昼飯を食べて、元気をだそう。(5/2)<4369>


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