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聽蜀僧濬彈琴 | |
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唐・李白 |
蜀僧抱綠綺,
西下峨眉峰。
爲我一揮手,
如聽萬壑松。
客心洗流水,
餘響入霜鐘。
不覺碧山暮,
秋雲暗幾重。
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蜀僧・濬 の琴 を彈ずるを聽く
蜀僧綠綺 を抱 き,
西のかた峨眉 の峰を下 る。
我が爲 に一 たび手を揮 へば,
萬壑 の松を聽 くが如 し。
客心 流水 に洗 はれ,
餘響 霜鐘 に入る。
覺 えず碧山 暮 れ,
秋雲 暗きこと幾重 なるかを。
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◎ 私感註釈
※李白:盛唐の詩人。字は太白。自ら青蓮居士と号する。世に詩仙と称される。701年(嗣聖十八年)~762年(寶應元年)。西域・隴西の成紀の人で、四川で育つ。若くして諸国を漫遊し、後に出仕して翰林供奉となるが、高力士の讒言に遭い、退けられる。安史の乱では、永王の幕僚となったが、後にが謀亂とされたのに伴い、夜郎にながされたが、やがて赦された。
※聴蜀僧濬弾琴:蜀(しょく)(=現・四川省成都附近)からやってきた僧侶の濬(しゅん)が琴を弾(ひ)くのを(聴き耳を立ててしっかりと)聴いて(の詩)。 ・聴:聴き耳を立てて聴く。耳をすまして聴く。主体的に聴くことを謂う。蛇足になるが、「聞」は:きこえる、耳に入ってくる意。 ・蜀僧:現・四川省成都附近からやってきた僧侶。 ・蜀:現・四川省成都附近。『中国歴史地図集』第二冊 秦・西漢・東漢時期(中国地図出版社)29-30ページ「西漢 益州刺史部北部」、53-54ページ「東漢 益州刺史部北部」、『中国歴史地図集』第三冊 三国・西晋時期(中国地図出版社)47-48ページ「西晋 梁州 益州」にある。 ・濬:〔しゅん;Xun4(Jun4)●〕僧侶の名。 ・弾琴:琴を弾(ひ)く。琴は文人や貴族が尊んだ楽器。蛇足になるが、現代語で“弾鋼琴”と言えば、「ピアノをひく」意。盛唐・王維の『竹里館』に「獨坐幽篁裏,彈琴復長嘯。深林人不知,明月來相照。」とある。
※蜀僧抱緑綺:蜀の僧侶(の濬(しゅん))は、緑綺(りょくき)(=美事な琴)を抱(いだ)いて。 ・抱:いだく。盛唐・李白の『山中與幽人對酌』に「兩人對酌山花開,一杯一杯復一杯。我醉欲眠卿且去,明朝有意抱琴來。」とある。 ・緑綺:四大名琴の一で漢・司馬相如の持っていた古琴の名。転じて、りっぱな琴を謂う。
※西下峨眉峰:西の方の峨眉山を下ってくる。 ・西下:西の方の(峨眉山を)下ってくる。ただし、北宋・晏殊の『浣溪沙』で「一曲新詞酒一杯,去年天氣舊亭臺。夕陽西下幾時回? 無可奈何花落去,似曾相識燕歸來。小園香徑獨徘徊。」とは、その意味が異なる。 ・峨眉峰:現・四川省西南部(成都の南南西160キロメートル)にある山。仏教の霊場として名高く、古寺が多い。『中国歴史地図集』第五冊 隋・唐・五代十国時期(中国地図出版社)65-66ページ「唐 剣南道北部」にある。「峨眉山」を「峨眉峰」としたのは、「□□□□□□峰」の部分が韻脚のため、こうした。 ・下:くだる。また、(低い感じのところ(地方、いなか)へ)行く。ここは、前者の意。
※為我一揮手:(濬(しゅん)は)わたしのために、手を振るって琴を弾き。 ・揮手:琴を弾く意。本来は、琴を弾く所作。また、手を振る。ここは、前者の意。嵇叔夜(嵇康)の『琴賦并序』(『昭明文選』第十八巻 春風文芸出版社 上 417ページ)に「爰有龍鳳之象,古人之形。伯牙揮手,鐘期聽聲。華容灼爚,發采揚明。」とある。
※如聴万壑松:多くの谷間の松(の梢(こずえ)に吹く風)(=松風・松濤・松籟。詞牌風では風入松)を聴くかようだ。 ・如:ようだ。ごとし。 ・万壑:〔ばんがく;wan4huo4●●〕多くの谷間。盛唐・杜甫の『詠懷古跡』に「羣山萬壑赴荊門,生長明妃尚有邨。一去紫臺連朔漠,獨留青冢向黄昏。畫圖省識春風面,環珮空歸月夜魂。千載琵琶作胡語,分明怨恨曲中論。」とある。
※客心洗流水:旅人の心(=李白の心)は、(新の音楽の理解者の鍾子期のように)川の流れ(のような琴の音色)で洗い清められ。 ・流水:「高山流水」のことで、高い山と流れる川の水。絶妙な演奏の譬え。自分を理解してくれる真の友人として、伯牙の演奏を理解した鍾子期との関係を暗示することば。 ・客心:旅をしたときの思い。旅先での心細い気持ち。旅情。客思。ここでの「客」は、李白自身を指す。梁・何遜の『相送』に「客心已百念,孤遊重千里。江暗雨欲來,浪白風初起。」とあり、盛唐・張説の『蜀道後期』に「客心爭日月,來往預期程。秋風不相待,先至洛陽城。」
とあり、晩唐・杜牧は『南陵道中』で「南陵水面漫悠悠,風緊雲輕欲變秋。正是客心孤迥處, 誰家紅袖凭江樓。」
と使う。 ・洗:琴の音色で心が洗い清められることを謂う。 ・流水:「高山流水」のことで、高い山と流れる川の水。絶妙な演奏の譬え。自分を理解してくれる真の友人として、伯牙の演奏を理解した鍾子期との関係を暗示することば。また、清らかな自然の意に用いられる。『列子・湯問』第五に「伯牙は琴を奏(かな)でることが上手(じょうず)で、鍾子期は聴くことに長(た)けていた。伯牙が琴を奏(かな)でる時、高い山に登っていることを想像していたところ、鍾子期は『すばらしい! 高々と聳える泰山のようだ。』と評し、川の流れを想像したところ、鍾子期は『すばらしい! 滔々と流れる大河のようだ。」と評し、伯牙が心に思っていることを、鍾子期は分かっていた。」(「伯牙善鼓琴,鍾子期善聽。伯牙鼓琴,志在登高山,鍾子期曰:『善哉!峨峨兮,若泰山。』志在流水,鍾子期曰:『善哉!洋洋兮,若江河。』伯牙所念,鍾子期必得之。」)とある。盛唐・劉長卿の『細聽彈琴』に「泠泠七弦上,靜聽松風寒。古調雖自愛,今人多不彈。」
とあり、後世、日本の江戸時代・宮原節庵は『題彈琴圖』で「髙山流水七條絲,不恨世無鍾子期。自鼓自聽吾自樂,此心難使伯牙知。」
と使う。
※餘響入霜鐘:(琴の演奏の)余韻は、霜が降りると鳴る鐘に入っていった。=(琴の演奏の)余韻は、寺の鐘の音と混ざり合った。 ・餘響:余韻。「遺響」ともする。 ・霜鐘:〔さうしょう;shuang1zhong1○○〕冬の夜明けの鐘の音。また、音楽の演奏が終わった後の、余韻が嫋嫋としている時に寺の鐘が鳴り、両者が融合するさまを謂う。ここは、後者の意で使われる。『山海經・中山經』第五(中華書局写真版三十四頁)に「東南三百里曰豐山…見則其國爲敗有九鍾(「鐘」ではない)焉是知霜鳴」((寒さによる伸縮のためか?)霜が降りると鐘が鳴る現象)とあり、『列子・湯問第五』に「既去而餘音繞梁欐,三日不絶。」とある。
※不覚碧山暮:(琴の演奏のあまりのすばらしさのため、)樹木の青々と茂った山が暮れて(秋の雲が何重(なんじゅう)にもなって、暗くなって)いくのに気付かなかった。 ・不覚:感じなかった。分からなかった。自覚できなかった。 ・碧山:樹木の青々と茂った山。深山。 ・暮:くれる。動詞。
※秋雲暗幾重:(樹木の青々と茂った山が暮れて)秋の雲が何重(なんじゅう)にもなって、暗くなっているのに(気付かなかった)。
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◎ 構成について
韻式は、「AAA」。韻脚は「峰松鐘重」で、平水韻上平二冬。この作品の平仄は、次の通り。
●○●●●,
○●○○○。(韻)
●●●○●,
○○●●○。(韻)
●○●○●,
○●●○○。(韻)
●●●○●,
○○●●○。(韻)
2013.7.4 7.5 |
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