海上 | ||
清・顧炎武 |
海上雪深時, 長空無一雁。 平生李少卿, 持酒來相勸。 |
海上 雪 深き時,
長空 一雁 無し。
平生 李少卿,
酒を持ち 來りて相ひ勸む。
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◎ 私感訳註:
※顧炎武:明末清初の儒学者。反清復明運動に携わる。名は絳。(清朝になっての)字は寧人。号は亭林。江蘇省崑山の人。1613年(萬暦四十一年)〜1682年(康熙二十一年)。清朝考証学の基礎を確立し、浙西学派の祖と称される。黄宗羲、王夫之とともに清初の三大師と呼ばれる。
※海上:北海(バイカル湖)の畔。匈奴に捕らえられた蘇武が、匈奴に屈することなく漢の節を持して過ごしたところ。 *顧炎武は明が亡び、清が勃興する時期に彼の活動時期が当たり、新王朝の清からの招聘もあったが、断っている。この詩も李陵と蘇武をうたい、彼等が漢王朝と匈奴との間を彷徨(さまよ)ったことをうたうが、顧炎武の時代の人物群は明朝(漢民族の王朝)と清朝(満洲民族の王朝)との間で彷徨っていたことを言う。 ・海上:北海の畔。バイカル湖の畔。北海の=バイカル湖。 ・-上:(…の)ほとり。場所を指す。この用例には、盛唐・岑參の『與高適薛據同登慈恩寺浮圖』「塔勢如湧出,孤高聳天宮。登臨出世界,磴道盤虚空。突兀壓~州,崢エ如鬼工。四角礙白日,七層摩蒼穹。下窺指高鳥,俯聽聞驚風。連山若波濤,奔走似朝東。松夾馳道,宮觀何玲瓏。秋色從西來,蒼然滿關中。五陵北原上,萬古濛濛。淨理了可悟,勝因夙所宗。誓將挂冠去,覺道資無窮。」や、中唐・白居易の『送春』「三月三十日,春歸日復暮。惆悵問春風,明朝應不住。送春曲江上,拳拳東西顧。但見撲水花,紛紛不知數。人生似行客,兩足無停歩。日日進前程,前程幾多路。兵刃與水火,盡可違之去。唯有老到來,人間無避處。感時良爲已,獨倚池南樹。今日送春心,心如別親故。」や、中唐・張籍の『征婦怨』「九月匈奴殺邊將,漢軍全沒遼水上。萬里無人收白骨,家家城下招魂葬。婦人依倚子與夫,同居貧賤心亦舒。夫死戰場子在腹,妾身雖存如晝燭。」や、 完顏亮の『呉山』「萬里車書盡混同,江南豈有別疆封。提兵百萬西湖上,立馬呉山第一峰。」や、現代でも張寒暉の『松花江上』「我的家在東北松花江上,那裡有森林煤鑛,還有那滿山遍野的大豆高粱。我的家在東北松花江上,那裡有我的同胞,還有衰老的爹娘。"九一八","九一八",從那個悲慘的時候,"九一八","九一八",從那個悲慘的時候,脱離了我的家ク,抛棄那無盡的寶藏,流浪!流浪!整日價在關内流浪!哪年哪月,才能夠囘到我那可愛的故ク?哪年哪月,才能夠收囘我那無盡的寶藏?爹娘啊,爹娘啊,甚麼時候才能歡聚在一堂?!」がある。
※海上雪深時:北海(バイカル湖)の畔(で匈奴に屈することなかった蘇武(=わたし・作者=顧炎武)の居所の情況は一層悪くなり)雪が深まってきたこの時に。
※長空無一雁:大空には、手紙を届けるという雁の姿は、一つとしてない。 ・長空:大空。現代・毛沢東は『蝶戀花・答李淑一』で「我失驕楊君失柳,楊柳輕颺直上重霄九。問訊呉剛何所有,呉剛捧出桂花酒。 寂寞嫦娥舒廣袖,萬里長空且爲忠魂舞。忽報人間曾伏虎,涙飛頓作傾盆雨。」とする。後出・「持酒來相勸」の「持酒」は、「捧出桂花酒」に相当する。 ・無一-:一つとしてない。 ・雁:雁信を謂う。蘇武は雁の脚に手紙を結びつけて、天子に通知した。
※平生李少卿:(それに反して)、普段(しばしば)、(漢民族以外の君主に使えた)李陵(と同様の人物)は。 ・平生:ふだん。平素。平時。 ・李少卿:李陵のこと。少卿は李陵の字。匈奴に降りた漢の武将。。前漢の名将。騎都尉として、匈奴の征討をし、五千で以て八万の単于軍とよく奮戦した。簡潔に「以少撃衆,歩兵五千人渉單于庭」と表されている。孤軍の歩兵のため、武運が尽き、匈奴に降りた。単于は、李陵を壮として、単于の女(むすめ)を妻として与え、右校王に取り立てた。(『漢書・…・李陵列傳』) 彼はその地で二十余年を過ごし、そこで歿した。蘇武とともにこの時代を彩る人物。李陵、蘇武は、ともに漢の武帝の対匈奴積極攻略策で犠牲となったと謂える人物。二人は、漢の地、胡の地双方を通じての知己で、古来、両者を比して論じられる。一方の蘇武は、匈奴に使いしたが拘留されて十九年匈奴の地にさまよった。しかしながら節を持して、屈服しなかった。その節義は後世にまで永く讃えられ、豪放詞にしばしば取り上げられている。また、文天祥『正気歌』でも「天地有正氣,雜然賦流形。下則爲河嶽,上則爲日星。…於人曰浩然,沛乎塞蒼冥。…時窮節乃見,一一垂丹。…在秦張良椎,在漢蘇武節。」と歌われている。それに反して、李陵は『漢書・…・李陵列傳』での武帝の怒りの通りで、「投降派」「裏切り者」となった。なぜ玉と砕けなかったのか、なのである。しかし『文選』第四十一巻に遺された李少卿(李陵)の『答蘇武書』は、胸に迫るものがある。『漢書・李陵列傳〜蘇武列傳』でも、その間の事情と心の動きが描写されている。前出『漢書・…・蘇武列傳』では、武帝が亡くなった後、昭帝が立ち、匈奴との宥和外交が展開され、蘇武が匈奴の地に生きていることが判り、中国に凱旋することとなった。李陵は、蘇武の帰国を祝い、置酒して餞別の宴を張った。そこで李陵は、苦悩の胸の内を打ち明けて、起って、舞いながら『徑萬里兮度沙幕,……,雖欲報恩將安歸!』の歌を歌った。李陵の頬には涙が流れた…。原文では:「數月,昭帝即位。數年,匈奴與漢和親。漢求武等,匈奴詭言武死。後漢使復至匈奴,常惠請其守者與倶,得夜見漢使,具自陳道。教使者謂單于,言天子射上林中,得雁,足有係帛書,言武等在某澤中。使者大喜,如惠語以讓單于。單于視左右而驚,謝漢使曰:『武等實在。』於是李陵置酒賀武曰:『今足下還歸,揚名於匈奴,功顯於漢室,雖古竹帛所載,丹青所畫,何以過子卿!陵雖駑怯,令漢且貰陵罪,全其老母,使得奮大辱之積志,庶幾乎曹柯之盟,此陵宿昔之所不忘也。收族陵家,爲世大戮,陵尚復何顧乎?已矣!令子卿知吾心耳。異域之人,壹別長絶!』陵起舞,歌曰:『徑萬里兮度沙幕,……,雖欲報恩將安歸!』陵泣下數行,因與武決。」と二人の別離の場面と、この詩の由来を伝えている。また、『漢書・…・李陵列傳」では、「立政隨謂陵曰:『亦有意乎?』陵曰:『丈夫不能再辱。』」と端的にその心を述べている。余談になるが、中島敦の『李陵』は、この『漢書・李廣蘇建傳』の詳しい訳と謂える優れたものである。李陵の心の動きが活写されている。
※持酒來相勸:酒を持ってきて、(酒と仕官を)勧めにやってくる。 *匈奴に降った李陵に降伏を勧められたが、蘇武は節を守り通した。 ・來相勸:勧めにやってくる。 ・相:…てくる。動作が対象に及ぶさまを表現する。
◎ 構成について
2009.5.30完 2013.3. 2補 |
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