ここの背景画像はまりまりさんの「いろいろ素材」からお借りしました。
3.7月14日 バスティーユ
バスティーユ |
バスティーユは古い要塞でしたが、簡単に陥落できるようなものではありませんでした。もし、攻められても、救援隊がやってくるまで持ちこたえればよかったのです。そのための食料も武器も充分にありました。
万一のことがあれば、大砲を打てばよかったのです。パリに向けて打てば、マレ地区一帯、サン・タントワーヌ地区を火の海にしてしまうことなど簡単でした。
難攻不落のバスティーユを攻撃するなど、民衆は思ってもいませんでした。市庁舎にいた選挙人たちも、攻撃するどころか、攻撃を受けることを恐れていました。
ド・ローネイ |
7月14日の朝、群集はバスティーユに押しかけました。口々に「武器をよこせ」と言っていますが、バスティーユの長官ド・ローネイは耳を貸しません。
市庁舎の選挙人集会は、廃兵院に代表を送ったのと同じように、バスティーユにも代表を派遣しました。午前10時に代表が到着しました。ド・ローネイは愛想よく代表を迎え入れ、城内にある自分の居室に案内しました。
バスティーユでは10時30分が昼食の時間だったので、ド・ローネイは代表を昼食に招待しました。昼食は友好的に行われ、バスティーユにある武器の引渡しについては話題になりませんでした。代表は、サン・タントワーヌ区に照準を合わせてある大砲をひっこめ、民衆の不安を取り除くことを要請しました。ヴェルサイユから発砲の命令を受けていない長官は、喜んでその提案を受け入れました。
ド・ローネイと代表との会談は一時間以上にも及びました。その間にバスティーユに詰め掛けてくる民衆の数はだんだん増してきました。のちに彼らは954人の「バスティーユの勝利者」として称えられることになります。
彼らは塔の上を注視していました。やがて数門の大砲が、代表との約束通り引っ込められました。しかし、何も聞かされていない民衆は、大砲の装填が始まり、一時間たっても帰ってこない代表は人質に取られたのだと誤解したのです。
民衆の間では、もはや武器を要求しても無駄だという気持ちが広がり、「バスティーユを奪い取ろう!!」という叫びが強くなりました。
チュリオ |
代表がちょうとバスティーユから立ち去るのと入れ替わりに、弁護士のチュリオがド・ローネイの所に派遣されることになりました。
チュリオはド・ローネイにバスティーユを市民の手に引き渡すことを勧告しましたが、ド・ローネイは受け入れません。チュリオを自ら案内して塔の内部を見せ、大砲は引っ込めてあり、装填していないことを確認させました。
ド・ローネイは「攻撃をしかけられない限り、こちらからは決して攻撃しない」ことを約束しました。
12時30分ころ、チュリオは降伏させるという目的を果たせないまま、塔を離れました。彼は待っている民衆へ何の説明もせず、市庁舎に戻りました。市庁舎の常置委員は、なお交渉の余地があると見て、チュリオと別の男をもう一度バスティーユに派遣することに決めました。
二人の代表がバスティーユに向かう途中、砲声と銃声が聞こえ、ふたりの重傷者が運ばれてくるのに出会いました。事態は急速に展開していたのです。
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