ここの背景画像はまりまりさんの「いろいろ素材」からお借りしました。
5.7月14日 降伏
白旗がなかったので、ハンカチが一枚、塔の一つに掲げられ、バスティーユからの銃撃が停止されました。5時頃、ド・ローネイが次のような文書を書いて、それを門の隙間から民衆に渡しました。(画像をクリックするとギャラリーに飛びます。)
我々は二万個の火薬を持っている。もし、君達が降伏を承諾しなければ、我々は兵営とパリを吹き飛ばすだろう。
バスティーユより、夕方5時、1789年7月14日、ド・ローネイ
ずいぶん居丈高な降伏文書ですが、とにかくド・ローネイは降伏を決意してこれを差し出しました。
しかし、民衆は降伏を認めませんでした。跳ね橋に向かって砲弾が放たれ、ついに橋は落ちました。民衆は喚声とともに内部に突入します。
民衆は七人の囚人を全員救出し、弾薬を奪い、バスティーユの武装解除をしました。 この戦闘での市民側の死者は83名、バスティーユ側はわずか1名でした。この不均衡を民衆は許しませんでした。バスティーユの兵隊はその憎悪を免れましたが、その代わり、全ての憎悪は司令官であるド・ローネイに集中しました。
エリー |
ユラン |
彼は大勢の<群集の中、市庁舎に向かって連行されていきました。<群集は彼に罵詈雑言を浴びせ、何度も殴りかかってきました。その嵐のような怒涛の中、勇気があり並外れた体力の持ち主であるユランとエリーが必死でド・ローネイを守りました。
ド・ローネイ |
デスノという菓子職人は彼を市庁舎の中に連れて行くことを提案しましたが、民衆から痛めつけられつづけたド・ローネイは、デスノに向かって「殺したらどうだ」と大声で叫びました。
たちまち彼は剣で体中を刺され、最後は拳銃の集中射撃を浴びて絶命しました。
誰かが「司令官の首を公衆に見せることを国民は要求する」と言いました。 ド・ローネイの首をナイフで切り取って槍の先に付けたのは、デスノでした。民衆から裏切りを非難されていた市長フレッセルは、市庁舎を出て、パレ・ロワイヤルに行こうとしたところで射殺され、ド・ローネイと同じ運命に遭いました。その他、バスティーユから連行された3人の士官と3人の廃兵もまた群集により殺害されました。
市民の歓呼を浴びて、ド・ローネイ、フレッセルの首を付けた槍が夕暮れのパリを練り歩きました。
夕方から予想通り激しい雨になり、人々は散り散りに帰途につきました。長かった7月14日は終わりました。
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