ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしたものを若干加工しました。
全国に3つある国立刑務所のひとつ。元々はパリ東部にあった城砦で、のちに牢獄となる。元来、バスチィーユというのは普通名詞で、都市の入り口におかれた防砦を示したが、パリのサン・タントアーヌ門に設けられたものは固有名詞として示される。
建設は百年戦中の最中、1370年。シャルル5世がサン・ポール宮殿を守るために作らせた四角形の砦で、高さ23メートルの八つの塔を持つ。革命当時に、堀に水はなかったが、建物の周囲には堀がめぐられていて、ふたつの跳ね橋がなければ中に入ることができなかった。
17世紀から牢獄に転用され、主に身分の高い政治犯を収容した。囚人の待遇は悪くなかったが、思想犯や発禁処分を受けた本なども収容されたため、専制のシンボルとみなされた。
ルイ16世の時代になって、囚人の待遇はやや緩和され、収容人数も少なくなった。革命勃発当時の囚人は7名。その内の4人は贋金作りで、あとの2人は狂人。もう1人は家族の要請で逮捕状を出された貴族で、実際は重要犯などいなかったが、王政を象徴する不気味な要塞で、常時100名の守備隊に守られていたため、市民は恐怖を覚えた。1789年7月14日の襲撃では市民側の死者は98人。守備側はたった一人だったが、その後19人が市民によって私刑される。
革命中に取り壊され、現在は広場となって中央に七月革命の記念碑が立っている。
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ハプスブルク家 (H18.5.3.UP)10世紀、スイスに起源を持ち、代々神聖ローマ帝国、オーストリアの皇帝を出した家。650年にわたり中欧を支配し続けたヨーロッパ屈指の名門。北スイス、上ライン両岸に広大な領地を有し13世紀に南ドイツで最強の諸侯となる。
ハプスブルク家が歴史の表舞台に現れたのは、ルドルフ一世がドイツ国王(神聖ローマ皇帝)に選出された1273年のこと。その後15世紀になると、名君として称えられたマクシミリアン一世が、息子と娘をスペイン王家と、孫たちをハンガリー王家と結婚させるなどのいわゆる「結婚政策」によって領土を拡大し、「日の没する処なし」と称されるほどの大帝国を築き上げた。
マリー・アントワネットの祖父にあたるカール六世(1711-1740)が没すると男系が絶え、娘のマリア・テレジアが領土を継承、ロートリンゲンからフランツ一世(1745-1765)を迎えて結婚、以後ハプスブルク家はハプルスブルク=ロートリンゲン家となる。
1765年、フランツ一世亡き後、長男のヨーゼフ二世がマリア・テレジアと共同統治する。その後、1780年にマリア・テレジアが、1790年にヨーゼフ二世が亡くなり、次男のレオポルト二世が統治する。レオポルト二世亡き後、息子のフランツ二世(マリー・アントワネットの甥)が継承するが、1806年、ナポレオンによって神聖ローマ帝国は滅亡し、フランツ二世はフランツ一世として単なるオーストリア皇帝となる。フランツ二世の娘、マリー・ルイ−ズはナポレオンの第二の妻となった。
1914年6月、フランツ・フェルデナントがサラエボで暗殺され、これが第一次世界大戦の発端となった。敗戦の際、ハプスブルク家ゆかりのシェーンブルン宮殿で退位の文書に署名し、同家は歴史の舞台から消えた。
広大な領土を支配していたハプスブルク家の中心は現在のウィーン、プラハ、ブタペストだった。とりわけ、お膝元であったウィーンは政治文化の中心として発展した。
バブーフの陰謀(1)1796年、バブーフやブオナロッティなどによって計画されたもので、単に総裁政府の転覆を目的とする事件であるにとどまらず、テルミドールの反動以後、政府が次第に保守化して上層ブルジョワジーの支配が続いたことに対して、平等主義に基づく徹底的な社会改革を遂行しようとした。
決起寸前、内部の裏切りにより鎮圧され、首謀者達は処刑された。
バリ (H11.2.10.UP)パリ市の紋章 |
革命期のパリの人口は、およそ60万人。宮廷がヴェルサイユに移されると、ブルジョワジーを中心に、パリに住む人々の関心はもっぱら商業に向けられた。パリ市民は宮廷の干渉を嫌い、かえって必要とあらばフランスの国政にも干渉しようとした。多くの歴史家が、「パリを離れて統治する王は、やがてその王位を失う」と語ってきた。それはルイ16世を見ればよくわかることである。
パリの中心シテ島には王宮や高等法院、ノートルダム大聖堂などがある。
パリの管理機関は市役所の中にあった。市役所はずんぐりしたルネッサンス式の建物で、正面にはグレーブ広場がある。パリ市民が昔から、この広場に集まってきて、市政に対する不満を言い合ってきていたことから、苦情(グレーブ)広場と呼ばれるようになったのである。
ここから東には、マレ(沼)と呼ばれる地域がある。かつてはファッショナブルな住宅街だったが、革命当時には、汚いアパートやむさくるしい家々が雑居していた。
マレを突っ切るようにサン・タントワーヌ街があり、その通りの終わりにバスチーユ牢獄がぼんやり見える。そこが旧パリ市の最東部になる。
パスチーユの向こうには、家具生産で有名なフォーブル・サン・タントワーヌがあり、人々の活動の中心となっていた。同じような生活環境の中で人々は強い仲間意識を持っていたため、バスティーユ牢獄を襲撃した民衆は主として、この地区の住民だった。
家具職人は普通の労働者の倍の賃金を得ていた。賃金が一番少なかったのはパン屋の店員だった。
住まいについて述べると、パリの民衆の大多数は五階から六階建ての集合住宅(アパルトマン)を借りていて、持ち家がある人は全体の2%に過ぎなかった。
しかも、ひとつの建物には平均して10家族が住み、多くは一つの広間をカーテンなどの仕切りで区切り程度で、専用の居間、寝室、台所に分けて生活する余裕はなかった(昔の日本人と似たようなものですね)。
パレ・ロワイヤル Palais Royal (H12.2.28.UP)パレ・ロワイヤル |
ブルボンの分家にあたり王位を狙うオルレアン公が一般に開放した私邸で、革命家のたまり場となっていた。
オルレアン公は屋敷の庭園をぐるりとコの字を描くように建物を建て、商人たちに貸し出した。一種の不動産経営のようなものでもあるが、開放された一階にはレストランや商店が並び、中庭にはカフェができた。ここは繁華街となったばかりではなく、警察の立ち入りを禁じたので、民衆の政治論議の中心となったり、娼婦や怪しげな商売をする人たちで溢れていた。
1789年7月12日の午後、「諸君、武器を取れ!!」と大きな声でカミーユ・デムーランが演説した場所もここである。
バンテオン Pantheonパリにあるサント=ジュヌビエーブ聖堂。1755年、スロフによって設計され、1764-1790にかけて造られた。新古典主義の代表的な建築物。もともと「パンテオン」は古代ローマ時代の神殿のことを指す。革命後、偉人の墓地となり、ルソー、ヴォルテールなどの墓がある。パンテオンら祭られた偉人の第一号は、ミラボーだったが、死後、宮廷と密通していたことがばれ、パンテオンから出された。
百科全書18世紀後半に編集された学問・芸術・技術等あらゆる分野にわたる批判的総合的な啓蒙的辞典。正確には「百科全書、または科学・芸術・工芸の合理的辞典」と言う。
1751〜72年刊行。本文・図版を合わせて全28巻。他に補巻、補巻の図版、索引10巻。1772〜80年に刊行。
初め、ディドロとダランベールが共同で編集したが、政府の出版弾圧のため、ダランベールが編集を止め、以後ディドロひとりが編集の中心となり、あらゆる分野の執筆者、職人、後援者等を組織し、最後まで政府の弾圧や反対派の妨害と戦いながら完成させた。
ヴォルテール、モンテスキュー、テュルゴ(後の財務長官)らの百科全書派と呼ばれた啓蒙思想家が参加したが、これらはむしろ一部に過ぎず、執筆者、協力者の範囲は貴族・官僚・聖職者・弁護士・軍人・技術者・職人等ブルジョワを中心とする広い階層と様々な職業者に及んでいる。
購読予約者の階層・職業も執筆者とほぼ同様であり、全ヨーロッパに及ぶ予約者の熱意もまた長期にわたる困難な出版の完成を与える重要な力となった。
「百科全書」を画期的に意義付ける特徴として、特に生産技術の面では正確かつ詳細な図版を用い、諸項目を密接に関連させ、易しい解説によって生産工程を一貫して説明している。
合理主義と科学尊重が特徴で、権威に対する批判的な精神を広げ、フランス革命に大きな影響を与えた。
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百科全書派 Encyclopedistes反宗教的、科学的な合理主義を自然認識にも社会認識にも適用しようとし、自然主義、実証主義、唯物論、無神論などの思想傾向を生んだ。
「百科全書」の編集にはディドロ(哲学)、ダランベール(数学・物理学)が主となり、モンテスキュー、ヴォルテールも協力した。
その他の主な執筆者としては、コンディヤック(哲学)、エルベシウス(哲学)、ドルバック(化学)、ジョクール(機械技術)、マルモンテル(文芸)、ルソー(音楽)、バルテス(医学)、コンドルセ(数学)、ドバントン(博物学)、デュマルセ(文法)、モルレ(神学)、テュルゴ(政治・経済)、ケネー(経済)等百数十人の学者や技術者が執筆した。これらの人々を総称して百科全書派と呼ぶ。
彼らに共通していたのは、人間の自然的理性に対する信頼と、宗教的政治的権威に対する徹底的な批判精神であり、その意味で彼らはフランス革命のための思想的準備をなしたと言われる。
ルソーは初め「百科全書」に寄稿したが、次第にディドロらと思想的に鋭く対立するようになったため、一般的にはルソーは百科全書派とは言わない。
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ビルニッツ宣言 Declaration de Pillnitz (H11.5.10.UP)1791年8月25日、神聖ローマ皇帝レオポルト二世とプロシア国王フリードリヒ=ウィリアム2世が、フランス革命に対して、フランスの王位を守るためには武力行使も辞さないと言う決意を革命側に警告した宣言。一応、ヨーロッパ諸国の共同行動を条件にしており、それ自体は空虚な脅しに過ぎなかったが、これがフランス革命を強く刺激し、対外戦争の誘引となった。
なお、ピルニッツはドイツのドレスデンの近くの村。ここで会談が行われた。
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