ここの背景画像はまりまりさんの「いろいろ素材」からお借りしました。
4.7月14日 攻防
チュリオが市庁舎に行っている間に、バスティーユでは事態が急速に転換していました。
「バスティーユを我々の手に!!」の叫び声が聞こえたかと思うと、九百人の民衆は無防備だった外庭に殺到しました。
元兵士を含む一団が中庭への通用門に隣接する家の屋根によじ登り、屋根伝いに歩いて城内の中庭に飛び降りました。彼らは城門と跳ね橋の鍵を探しましたが、見つからなかったので、斧で、跳ね橋を支える鎖を切り、槌で門を壊しました。
警告なしに橋を押し倒したため、下にいた群集の一人が下敷きになって死んでしまいました。数百人の群集は、その死体の上に渡した橋を超えてなだれ込みました。
最初の銃声が響きました。この最初の銃声はどちらのものかわかりません。両軍とも相手側だと言い張ったからです。
銃声はともかく、跳ね橋の鎖を断ち切ったのは民衆側でしたが、この大混乱の中、群集は味方が鎖を切断したことを知らなかったため、相手側が狭い場所に群集を閉じ込めて大砲で大量殺戮するためにわざと中庭に導かれたのだと誤解しました。彼らはド・ローネイの罠にかかったと思いました。
中庭での戦闘は数時間続きました。塔の上からも一斉に射撃してきました。第二の跳ね橋と牢門は頑丈でどうにもならず、奥に進むことができません。攻撃側に多くの死傷者が出ましたが、守備側はほとんど無傷でした。
誰かが藁を積んだ二台の荷車を持ってきて、それに火を放って煙幕を作り牢門に接近するという戦術を実行しました。しかし、この荷車は後で民衆の側から砲撃するとき、邪魔になったにだけでした。
戦闘が続いている間、市庁舎には負傷者が次々と運ばれてきました。常置委員会はをこれとどめようとして、何度も代表団をバスティーユに送り、1)戦闘の停止、2)武器の引渡し、3)バスティーユの共同防衛をド・ローネイに呼びかけました。
しかしながら、代表団の派遣はあまり効果をあげませんでした。敵側に停戦を呼びかける以上、味方にも停戦を同意させなければなりませんが、現に敵(ド・ローネイ側)の脅威にさらされている民衆が停戦を納得するはずがありませんでした。
結局のところ、この呼びかけは味方(民衆)からも相手にされませんでした。
バスティーユでは戦闘が深刻化しています。午後3時30分頃、フランス衛兵隊の部隊、兵士、退役兵なども民衆に加わり、攻撃側は強化されました。
エリー |
ユラン |
その中でも、王妃付の歩兵部隊の旗手ジャコブ・エリー少尉と、王妃付洗濯監督のユランの二人は、統一の取れていない攻撃を組織的にする上で重要な役割を果たしました。
彼らは廃兵院から取ってきたたくさんの武器や王室倉庫から奪った大砲二門も持ってきました。
砲撃は牢門を直接狙うことに決まりましたが、その前に燃えさかっている二台の荷車を牢門の前から移動させなければなりませんでした。バスティーユ側の砲口にさらされながら、エリー少尉が荷車を引きずり出し、大砲を牢門の前に据え付け、砲弾が装填され照準が合わされました。
今や、攻撃側の大砲と防衛側の大砲は30メートルくらいの距離をおいて、一枚の牢門によって遮断されているだけでした。もし、両軍が砲撃を開始すれば、恐ろしいことになることは必至です。
ド・ローネイ |
攻撃側は、牢門の裏に防衛軍の大砲があることは知りませんでしたが、バスティーユ側にはこの危険な状態が充分わかっていました。午後4時頃、廃兵達は戦闘が長引くのを嫌がるようになり、ド・ローネー自身の士気も衰えてきました。
彼は自分がどんな目に会うのかわかっていました。だから、自分を含めて守備側の名誉と生命を条件に降伏しようと考えました。そのために、バスティーユにあるありったけの火薬を爆破させフォーブル・サン・タントワーヌを破壊することをほのめかして、名誉ある撤退を保証させようとしたのです。
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