ここの背景画像は「miho's lovely material」からお借りしました。
1789年の夏はいろいろなことが起こりました。7月14日のバスティーユ襲撃に始まり、8月4日には封建制が廃止され、8月26日には「人権宣言」が採択されました。これらは旧体制に比べればまさに革命的なことでした。しかしながら、国家の体制は君主制でしたので、国王が裁可しなければせっかく議会が決定したことも何ひとつ現実のものとなりません。議会を初め、民衆は国王に「封建的特権の廃止」と「人権宣言」を承認してもらいたいと願っていました。
しかし、ルイ16世は裁可を与えようとしません。そればかりか九月に入ると地方の軍隊をヴェルサイユ宮殿を防衛する目的で呼び寄せようとしました。彼は啓蒙専制的な改革路線には積極的でしたが、イギリス流の立憲王政には反対でした。議会に国王以上の権限を与えるなど、論外だったのです。
マラー | ダントン |
バスティーユ襲撃以来、一部の貴族達が亡命しました。すると、召使、出入り商人、奢侈品の職人達が突然職を失わざるを得なくなりました。おまけに、食料事情は秋になっても改善されません。パリのパン屋さんには毎日、長い行列ができました。賃上げと仕事を要求するデモも多くなりました。
パリの女性達は台所を預かる身としてパン不足には怒りを持っていました。おまけに当時の支払いは10月が多かったので、たまっている借金を返さなければならなかったのです。パン屋を襲撃したり、穀物を積んだ荷馬車を捕まえ、積荷を市庁舎に運び入れることも多くなりました。
マリー・アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいのに」と言ったという証拠はどこにもありません。しかし、王妃がこのようなことを言ったと言う噂はパリ中に広がり、宮廷への疑念と憎悪がますます向かうようになりました。
急進派のマラーは「人民の友」の1789年9月16日号でこのように訴え、民衆の行動を呼びかけるようになりました。
「きょう、飢饉の恐怖が再び感じられ、パン屋は取り囲まれ、民衆はパンに事欠いている。最大の豊作、豊富の只中にあって、我々は飢え死にの前夜にある。我々は破滅の仕上げを企んでいる裏切り者に取り囲まれていることを疑えるだろうか。」