ここの背景画像は「SWEET HOME PAGE」さんからお借りしました。

 革命の勃発!  

順番に読んでいってもかまいませんし、興味のあるところから読んでも大丈夫です。
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3.革命の勃発!
  1. バスティーユ襲撃 …民衆が立ちあがり、絶対王政の象徴であったバスチーユ牢獄を陥落しました。絶対王政の鎖を断ち切り、革命の大きな前進を遂げたのです。
  2. 封建的特権の廃止バスティーユが陥落され、多くの亡命者ができました。亡命した貴族たちが農村を攻めてくるというデマが流れ、フランス全土は大恐怖に襲われます。農民を静める対策を立てながら、国民議会は封建的諸権利を放棄する決議を発します。
  3. 人権宣言封建的権利の放棄に続き、絶対王政の死亡証明といわれた「人権宣言」が採択されました。そして、立憲議会となった国民議会は憲法の制定に取りかかります。
  4. ヴェルサイユ行進「人権宣言」を認めないルイ16世に抗議してパリの女性達が、ヴェルサイユまで行き、国王一家をパリに連れ戻しました。これはブルボン王家の葬送でした。

iii.人権宣言

一言で説明すると封建的権利の放棄に続き、絶対王政の死亡証明といわれた「人権宣言」が採択されました。そして、立憲議会となった国民議会は憲法の制定に取りかかります。

立憲国民議会 Assemblee constituante

バスティーユが襲撃されるよりも前の1789年7月6日には憲法委員会が創設され、7月9日には国民議会を立憲国民議会と称する決議を行っていました。

その間にバスティーユ襲撃大恐怖等ありましたが、審議は進められており、動乱がとりあえず落ち着く8月上旬には審議はいよいよ本格化しました。

8月12日から二週間かけて議会は「人間と市民の権利宣言」について討議を重ね、8月26日にアメリカの独立宣言の影響を強く受けたラファイエットが起草したいわゆる「人権宣言」を採択しました。


人権宣言 Declaration des droites de l'homme

「旧制度の死亡証明書」と言われた「人権宣言」の内容を少し見てみましょう。

人権宣言の盾
人権宣言の盾
  • 人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である。
  • 自由、所有権、安全、圧制への抵抗は人間の権利である。
  • 自由とは、他人を害しない全てのことをなしうることである。
  • 国家の主権は人民にある。
  • 思想、言論、出版の自由を保障する。
  • 法の前にはみな平等である。
  • 司法、行政、立法の三権はそれぞれ独立の機関とする。
  • 所有権は犯してことのできない神聖な権利である。
この「人権宣言」を憲法に優先する根本的な原則として取り扱うことにしたのは、8月4日の封建的特権の廃止の決議が行われる数時間前のことでした。旧体制の廃棄と新体制の誕生が時を移さずに行われたわけです。そして、その思想は1947年に制定された日本国憲法にまで継承されています。

憲法審議

人権宣言が採択された翌日から憲法本文の審議が開始されました。最初は

  1. 国民議会の構成: 一院制二院制(貴族にチェックさせる機能を議会に持たせる、ということ)か。
  2. 王と議会の関係: 議会の決議に対する国王の拒否権を認めるかどうか。
の二つが重要な問題でした。この基本問題をめぐって議会はいくつかの派に分裂します。
派の名前傾向議会構成拒否権構成する主な人
王党派最右翼二院制賛成ムーニエマルーエラリ・トランダルクレルモン・トネール
立憲派1中間一院制賛成ミラボー
立憲派2中間二院制反対シエイエス
三頭派中間一院制条件付で賛成*バルナーヴデュポールラメット兄
民主派最左翼一院制反対ロベスピエールぺティヨンビュゾー
*国王は一回だけ拒否権を行使できるが、六ヶ月後に議会が再度同一決議をした場合はこれを拒否できない。

H13.1.16.UP

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