ここの背景画像は「SWEET HOME PAGE」さんからお借りしました。
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一言で説明すると…封建的権利の放棄に続き、絶対王政の死亡証明といわれた「人権宣言」が採択されました。そして、立憲議会となった国民議会は憲法の制定に取りかかります。 |
バスティーユが襲撃されるよりも前の1789年7月6日には憲法委員会が創設され、7月9日には国民議会を立憲国民議会と称する決議を行っていました。
その間にバスティーユ襲撃、大恐怖等ありましたが、審議は進められており、動乱がとりあえず落ち着く8月上旬には審議はいよいよ本格化しました。
8月12日から二週間かけて議会は「人間と市民の権利宣言」について討議を重ね、8月26日にアメリカの独立宣言の影響を強く受けたラファイエットが起草したいわゆる「人権宣言」を採択しました。
「旧制度の死亡証明書」と言われた「人権宣言」の内容を少し見てみましょう。
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人権宣言が採択された翌日から憲法本文の審議が開始されました。最初は
派の名前 | 傾向 | 議会構成 | 拒否権 | 構成する主な人 |
王党派 | 最右翼 | 二院制 | 賛成 | ムーニエ、マルーエ、ラリ・トランダル、クレルモン・トネール |
立憲派1 | 中間 | 一院制 | 賛成 | ミラボー |
立憲派2 | 中間 | 二院制 | 反対 | シエイエス |
三頭派 | 中間 | 一院制 | 条件付で賛成* | バルナーヴ、デュポール、ラメット兄弟 |
民主派 | 最左翼 | 一院制 | 反対 | ロベスピエール、ぺティヨン、ビュゾー |
H13.1.16.UP
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