ここの背景画像は「SWEET HOME PAGE」さんからお借りしました。
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封建的特権の廃止…バスティーユが陥落され、多くの亡命者ができました。亡命した貴族たちが農村を攻めてくるというデマが流れ、フランス全土は大恐怖に襲われます。農民を鎮める対策を立てながら、国民議会は封建的諸権利を放棄する決議を発します。 |
王が屈服したのを見て、多くの貴族達が亡命しはじめました。最初の亡命者は、王弟のアルトワ伯です。その享楽的な生活から国民に憎まれていたアルトワ伯を心配したルイ16世が亡命を勧めたのです。彼は7月16日の夜、若干の友人と共にヴェルサイユからオランダに向かいました。
その後、マリー・アントワネットの寵愛を受けたポリニャック伯夫人、また、マリー・アントワネットの後見人のメルシー伯、王族の筆頭にあたるコンデ公も我先にと亡命しました。王族は国王をも亡命させようとしましたが、国王軍の総司令官ブロイに諭されて諦めました。
亡命者の正確な数字を把握するのは困難ですが、大体12〜13万人くらいと言われています。貴族の亡命はその中のおよそ17%くらいです。彼らは国境に近い都市を拠点にしてアンシャン・レジームの復活を虎視眈々と狙ってました。国王に対する敬愛もありましたが、彼らがアンシャン・レジームで得ていたさまざまな特権をもう一度手にしたかったからというのも大きな理由です。
大恐怖 |
噂自体は根拠のないものでしたが、集団ヒステリーのような状態になった農民は武器を取り、貴族や都市の役人たちを襲撃しました。これを大恐怖(グラン・プール)と言います。この大恐怖はフランス全土に及びました。
農民の反乱に怯えた貴族や大地主達は、軍事力によって暴動を抑えるよう議会に訴えました。ブルジョワ議員達も、反乱が一定の限度を超えることを真剣に恐れました。しかし、軍事力で弾圧したら、それは、「貴族の復権と王権の強化を助ける」ことになりかねません。と言って、「神聖な財産への侵害」を認めるわけにもいきません。
議会は、貴族と農民の間にはさまり、苦しみました。
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革命前 平民(真中)だけが 信仰の力で世界を背負 っています。 |
革命後 平民が両手を叩いて 貴族に馬乗り。 前にいるのは僧侶。 |
「農民は憲法を望んでいるのではない。彼らは領主税が廃止されることを望んだのだ。」
これを受けて国王に次ぐフランス最大の土地所有者エギヨン公爵(ブルジョワ議員に吹き込まれていた、と言われています)は、封建的権利の自発的放棄を主張しました。彼の発言の要点は次の三つです。
議場の様子 |
熱狂の中、わずか六時間で決議した「封建的特権の廃止」を成文化するのに六日間もかかりました。なぜなら、多数の議員は自分達の軽率な行動を反省したからです。
8月11日、「国民議会は封建制度を全面的に破壊する」と激烈な文で始まるこの法令の内容は肝腎なところで大きな抜け道を用意しておきました。
喜ぶ農民 |
つまり、「農奴身分、領主裁判権、狩猟権、十分の一税」などは無償で廃止されますが、農民にとって最も過酷な「年貢の徴収権」は、二十年か二十五年分の年貢を一括で支払った場合にのみ、買い取ることができる(土地所有者になれる)ことになったにすぎません。それができなければ、土地は以前として貴族のものであり、農民達は借地料としてこれまで通り年貢を払わなければならなかったのです。
実際問題としてこんな大金が一発で支払えるような貧農はいません。この制度は、全然生活に困っていない大地主や上級ブルジョワを喜ばせるための法令と言われても仕方ないでしょう。しかし、これにより、古い体制は一応崩壊し、農民達の不安はこれで収まりました。
(H12.12.18.UP)
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