ここの背景画像は「SWEET HOME PAGE」さんからお借りしました。
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一言で説明すると…民衆が立ちあがり、絶対王政の象徴であったバスチーユ牢獄を陥落しました。絶対王政の鎖を断ち切り、革命の大きな前進を遂げたのです。 |
今までは政治の頂点での戦いでした。しかし、これからは民衆もこの戦いに参加するようになったのです。(詳しくは「小部屋」で)。 6月26日、国王は威圧のために二万人の外国人軍隊を召集しました。これに対し、パリの選挙人達の代表は議会に赴いて軍隊の撤去を要求しました。7月8日、議会はこの要求に対し国王に撤兵を要求しました。
3万5千の外人傭兵がヴェルサイユ周辺に配置され、なお2万の軍隊が待機しており、国民議会は武力の前に屈服寸前でした。
また、これらと並行して、7月6日、下からの改革を目指す国民議会は憲法制定のための憲法委員会を創設し、続く7月9日には国民議会は名称を「立憲国民議会(立憲議会)」と名乗り、絶対王政から立憲王政へ切り替えを目指しました。
一連の議会を中心としたパリの民衆の動きに対して、ルイ16世は7月11日、民衆に人気のあったネッケルを突然罷免し、また、議場をパリからノワイヨンまたはソワッソンに移す用意があると表明しました。これらの都市はパリから東北約90キロ離れたところにあり、東部国境を守る軍団の中心地にありました。つまり、パリ民衆と結託している議会をパリから遠ざけようとしたのです。
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カミーユ・デムーラン |
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バスティーユ陥落。 |
守備兵に説得されたド・ローネー長官は、身の安全を条件に降伏。
群集がバスティーユになだれ込む。何人かの守備兵が殺害され、残りの守備兵は囚人となる。生き残った守備兵の日記はこちら(短いですが…)
長官を虐殺し、その首を槍につき裂して、市庁舎に向け勝利の行進。
バスティーユが陥落し、ド・ローネ長官の死を知ったルイ16世は、7月15日に議会に出向いて軍隊の引き上げを約束し、翌16日にはネッケルを再任させ、市長バイイから帽章を受け取りました。
7月17日、無事を祈るミサを受けた後、国王は護衛も付けずパリ市役所に赴きました。数十万の市民は歓呼して国王の訪問を喜びました。
ルイ16世はバイイの指名する人々の演説を聞き、バイイの市長就任、国民衛兵の設立、ラファイエットの国民衛兵司令官就任を認め、バイイから三色の記章を受け取って帽子につけました。民衆は喜びましたが、これによりルイ16世は、絶対君主ではなくなり、制限付きの国王となったのです。これは国王の屈服でした。
陥落したバスチーユには7人の囚人が収容されていたに過ぎませんでしたが、元々民衆の目的は武器が欲しかったのであり、中に誰がいようと関係ありませんでした。ここでの大きな意義は、絶対王政の象徴であったバスチーユを陥落したことです。今まで侵すことのできなかった旧体制を崩壊させ、市民権力を成立させました。
この後に続く人権宣言などの重要な事項はこのバスチーユ陥落を抜きにしてはありえないことでした。同時に三色旗に、「国王の白」が入っていることは大変意味深いことです。絶対王政を否定している民衆ですが、ルイ16世を敬愛し、誰一人として彼を国政から排除しようなどと考えてもいませんでした。ですから、この危機をルイ16世がうまく切り抜くことができたのならば、最悪の事態は防げたはずだ、と後世の人間は思ってしまうわけです。 また、こういう意見もあることを特記しておきましょう。1792年彗星のごとくデビューしたサン・ジュストはバスティーユ襲撃の一連の事件を「規律なき行動」として非難しています。(諸国のバスティーユ陥落についての所見はこちら。)H12.11.15.UP
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