ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしたものを若干加工しました。
ヴェルサイユ宮殿に対抗するようにして造られたウィーン郊外にあるハプスブルク家の夏の離宮でオーストリア最大の宮殿。1696年レオポルト一世の時代に建設が始まった。 名前の由来はマティアス皇帝が「美しい(シェーン)泉(ブルン)」を見つけたことによる。
1740年、マリア・テレジアが即位した当時は資金が不足し建設もままならない状態だったが、財政を立て直したマリア・テレジアの時代に完成した。
部屋数1441室という大宮殿。外壁はマリア・テレジア・イエローと言われる黄色が美しい。大宮殿の周囲には庭園、ネプチューンの泉、大温室、動物園、グロリエッテなどがある。
1762年、幼いモーツァルトがこの宮殿に招かれて演奏したとき、マリア・テレジアの膝に飛び乗ったと言われているのは鏡の間。また、床で転んだ彼を助け起こしたのがマリー・アントワネット。1歳年上のアントワネットに結婚を申し込んだと言う有名なエピソードが残されている。
それ以外にも歴史の大舞台となっている。ナポレオンのウィーン占領時にはここが司令部となり、最後の皇帝カール2世の退位宣言もここで行われた。
1814年〜1814年のウィーン会議では、「大広間」で舞踏会が催され、「会議は踊る」として知られることになった。
第二次世界大戦時には、英国とソ連の司令部が置かれ、1961年にはケネディとフルシチョフの会談の場にもなるなど、数多くの歴史の大舞台となっている。
七月革命
1824年、子供のいないルイ18世が逝去し、過激王党派の首領であった弟のシャルル10世が即位した。
シャルル10世は、王が手を触れれば病気が治ると言う時代錯誤のロイヤルタッチを病人に施したり、亡命貴族に対する金銭的補償を立法化する等して国民の支持を失い、最後は言論の自由を奪う勅令を出したことが引き金となり、1830年7月、パリで革命が起こった。
「栄光の三日間」と言われる戦いが終わると、フランス革命初期の指導者であったラファイエットが再び、国民軍総司令官となり、ルイ16世の従兄であるオルレアン公フィリップ・エガリテの息子ルイ・フィリップを「フランス人の国王」に推し、立憲君主政を維持することとなった。
民主的党派の要求は抑え込まれ、以後は秘密結社の活動が盛んになった。
ジャコバン派前身はブルトン・クラブという議員のサークルだったが、1789年11月に改組されて、一般市民も参加できる「憲法友の会」というクラブになった。その本部がパリのジャコバン派(ドミニコ会)修道院の中に置かれていたので、この名がついた。(「概要」はこちら)
1791年には右派が分裂して。フイヤン・クラブを結成したので、ジャコバン・クラブは左派を代表するようになる。さらに1792年から1793年にかけて、議会内でジロンド派と山岳派との対立が激化すると、ジャコバン・クラブからジロンド派が脱退した。通常、ジャコバン派とはジロンド派が脱退してからのことを指す。
ジャコバン派の代表的な指導者は。ロベスピエールで、パリの本部は全国各地の同様な結社と緊密な連絡を保ち、加入者は社会各層にわたって、相対的に富裕で活動的な会員が多かった。
活動の内容としては、私有財産や経済の自由に一定の制限を加え(ここがジロンド派と。大きく違う)、巨富を抑えて、中小所有者からなる平等主義的な社会を実施することで、革命政府(革命的独裁)による強力な政治指導を行った(恐怖政治)。
1794年7月のテルミドールの反動で、ロベスピエールら主だった会員が処刑された後、同年11月にパリのジャコバン・クラブは閉鎖された
ジャコバン憲法
1793年6月24日に山岳派の支配する国民公会で可決されたので、山岳派憲法とも言われる。
人民主権、立法府議員の直接普通選挙、法律案に対する人民の異議申立て件などの民主的な規定を持ち、基本的人権(平等・自由・安全・所有など)を保証している。この憲法は平和の回復まで実施が延期され、テルミドールの反動ののち、1795年の憲法が採択されたので、結局は実施されなかった。
ジャコバン主義
特に1793年〜1794年における政治原理。私的所有権や経済的自由に一定の制限を加え、巨富を抑えて、中小所有者よりなる平等主義的な社会を実現することと、革命政治による強力な政治指導を行うことを言う。
こうしたジャコバン主義は、ブルジョワジーと民衆との同盟を維持することによって内外の反革命勢力から革命を擁護するためのイデオロギーであり、19世紀以降には、小ブルジョワ的急進主義の中に継承されていった。
十分の一税聖職者身分が、祭礼の維持、村の聖堂や司祭館の維持、貧民の救済などに使用する目的で農民に課した税で、収穫物の一定の割合を徴収する。通常は十分の一以下であった。種類は次の3種類に分けられる。
この税は本来の目的どおりに使用されることはほとんどなく、多くの場合、司教、大修道院、司教座聖堂参事会のような高位聖職者の利益になったり、世俗の領主のものになったりしていた。これに対して、農民に直接かかわる司祭の取り分は「小十分の一税」だけだった。したがって、農民は十分の一税を払った後で、さらに祭礼の費用や聖堂等の維持費、貧民救済費等の大部分を負担しなければならなかった。
そのため、他の税金よりも嫌われていた。
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ジロンド派 Girondins (4)パリにあったロラン夫人のサロンを中心に結成された派。ジロンド地方の出身者が多かったのでこう呼ばれた。大商人や資本家などいわゆるプチ・ブルジョワのための革命を目指したので、市民達から見放されていった。
人権宣言 Declaration des droites de l'homme (H13.1.23.UP)人権宣言の盾 |
1789年8月26日、ラファイエット将軍によって採択された。全部で17条あり、市民の自由と平等を保障し、新しい市民社会の確立を目指す。アメリカ合衆国の独立宣言と共に、この後各国の憲法に大きな影響を与えた。主な内容は、
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人民の友 L'ami du peuple1789年9月12日、革命勃発間もなく、ルイ16世は信じていたが国王の側近に疑いを持った46歳のマラーが創刊し、初期の革命を監視する役目を自ら担った。まもなく、「人民の友」はパリの日常生活の一部と言えるほど定着したが、マラーの歯に衣着せぬ切り口は非常に辛辣で多くの敵を作った。その代表はラファイエットである。例えば、こんな具合である。
「一年前に500〜600の首を刎ねていれば、諸君は自由と幸福を手に入れていたはずだ。今日では10,000の首を刎ねなければならない。おそらく数ヶ月もすれば十万の首を刎ねるだろう。そうすればずっとよくなるだろう。なぜなら、祖国の情け容赦ない敵を最後の子供に至るまで皆殺しにしなければ諸君には絶対平和は訪れないのだ」
「武器を取りに走れ! 諸君の最初の一撃を卑劣な将軍(ラファイエットのこと)に! 国民議会の堕落した連中、不実なミラボーを真っ先に生贄に捧げよ!」
そのため警察に追われ、1790年1月、イギリスへの亡命を余儀なくされる。4月、パリに戻ったマラーは自分の全財産、友人知人の寄付を継ぎこんで「人民の友」の再刊し、その口調はますます過激になってくる。
ルイ16世を攻撃し始め、王党派から反発され、国民議会はマラーを追放し「人民の友」を発禁処分にする。しかし、マラーは文字通り地下にもぐり、「人民の友」を発行しつづけた。
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聖職者民事基本法聖職者基本法 click! |
1920年、旧制度から引き継いだ負債の他に、旧制度を破壊するために更に負債が増え、財政は逼迫し、立憲国民議会は思想的な面を含め、教会を改革する必要に迫られ7月12日にこの「聖職者民事基本法」を設定した。
修道士の廃止、1県1司教区、司教も司祭も選挙で選ばれ、かつ法王ではなくそれぞれの教会の上級者によって叙任され、給料は国家によって支払われた。つまり、聖職者は他の官吏と同じ公務員となり、フランス教会は国家教会となった。
しかし、この法律は法王ピウス6世の承認を得ず、聖職者もこの法律に対して宣誓聖職者と宣誓拒否聖職者の二派に分かれ、前者は東南部で後者は西部で多数を占めるという地域差があり、宣誓拒否聖職者は反革命の中心をなし、ヴァンデの反乱の中心ともなった。
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絶対王政16〜18世紀のスペイン、イギリス、フランスなどで成立した政治形態。官僚制と常備軍を軸にして国政を整え、海外貿易を進めた。国王を頂点とする伝統的な身分制社会という面と、国王を中心とする近代的な行政国家という面の両面を持っている。
国王を聖なる中心とし、社会の階層序列を正当化する文化的枠組みによって支えられていた。
総裁政府総裁政府を図にしてみましょう。(あまりいい図でなくてごめんなさい) 歴史的背景はこちら→
五人の総裁が選ばれ、一年に一人ずつ新しい総裁が交代する。大臣、軍指令官、地方行政官を指名。総裁に議会解散権はない。最初に選ばれたのは、カルノー、パラス、ルーベル、ルトゥルヌール、ラ・レヴェリエール・レポで、全員ルイ16世の死刑に賛成票を投じた。メンバー紹介はこちら→ | ||||||
各省 内務省、外務省、陸軍省、海軍省、司法省、財務省、警察庁 |
立法権 元老会 200名の議員で構成される。総裁を選任し、五百人会からの法案を票決する。 | |||||
大蔵省 総裁政府からは独立している。 |
立法権
五百人会 五人の総裁それぞれに10名の候補者を推薦する機関で、法案の起草を担当する。 |