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一言で説明すると…不安定な政権の元で作られた1795年の憲法は、非合法な軍事行動を正当化することになりました。それは、不世出の天才ナポレオン・ボナパルトの独裁の道に通じていたのです。 |
物価は相変わらず、日々暴騰を続けました。
品 物 | 1795年1月 | 4月 | 7月 | 9月 |
1ポンドのバター | 3フラン | 6フラン | 18フラン | 30フラン |
肉 | 40スー | 7フラン20スー | 8フラン | 20フラン |
しかも、民衆が困窮しているのに、新興成金の放蕩振りはすさまじいものがありました。パリには650ものダンスホールができ、洒落女や伊達男らが闊歩していました。風紀は紊乱しました。
物価狂乱に加え、このような風潮を作り上げたテルミドール派の人気はもちろん最悪でした。国民公会は、憲法を制定してのち解散することになっていましたが、こういうときに選挙しても負けるに決まっています。しかしながら、テルミドール派は上層ブルジョワジー出身者が多いだけあって、頭は良いのです。彼らは「テルミドール派的精神の最高傑作」と言われた法案を作り上げました。(「三分の二法」)
選挙に不利な情勢の時、確実に議席を確保するためにテルミドール派は「三分の二法」と呼ばれる法案を通過させました。
これによると、「選出される750の議席の内、500(三分のニ議席)を旧国民公会議員の中から選ばなければならない」というわけです。
選挙で勝つ予定の王党派は激怒しました。彼らは暴動にさえ訴えました。(ヴァンデミエールの反乱)
1795年9月に行われた国民投票の結果、「1795年の憲法」は約106万票対5万票、「三分の二法」は約20万票対11万票で可決されました。認められはしましたが、「三分の二法」に対する風当たりは強いものでした。
新しい憲法にのっとり、1795年10月20日に選挙が行われることに決まりました。しかし、「三分の二法」に不満を持つ王党派を中心に、10月5日(ヴァンデミエール13日)に暴動が起きました。暴徒がテュイルリー宮殿にある国民公会を襲撃したのです。国民公会はサン・キュロットの援助を求めましたが、もちろん拒否されました。次に、彼らはテルミドールの反動の時に活躍したバラスを国内軍指令官に任命しました。
バラスは、早急に有能な軍事指揮官を必要としました。彼はツーロン攻略(1793年12月)の時、非凡な才能を見せたナポレオン・ボナパルトを副官に任命しました。
ナポレオンは期待にこたえました。彼の指揮する砲兵は、抵抗する王党派を粉砕しました。暴徒は撃退され、翌日、抵抗は止みました。
10月25日、国民公会はナポレオンを国内軍の総司令官に任命し、反徒に対しては寛大な処置を取りました。流血の場であった「革命広場」は「融和」を意味する「コンコルド広場」と名前を変えました。
以後、パリは国内軍指令官の命令に絶対服従することを余儀なくされました。国民衛兵は武装解除され、パリは完全に軍の制圧下に置かれたのです。
事実上、ヴァンデミエールでの唯一の勝利者は26歳の将軍ナポレオンでした。彼はこの時の成功を称えられ、「ヴァンデミエールの将軍」と異名を取りました。輝かしい未来が開かれようとしていたのです。
10月26日、国民公会は「共和国万歳!!」と唱和したのち解散しました。彼らの大部分は議員を続けることになっていました。
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