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一言で説明すると…パリは革命勃発以来最大の食糧危機に見舞われ、再び民衆が蜂起します。しかし、政府軍によって二度とも鎮圧されました。これ以降、革命は民衆の手を離れ、ブルジョワの利益のみを追求するようになったのです。 |
恐怖政治が終焉すると、物価が目に見えて上昇しました。冬を迎える頃、民衆の不安、不満は段々大きくなります。1794年12月24日、テルミドール派が支配する国民議会は最高価格法と全ての物価統制を廃止し、商業の自由を復活させました。
これは、食糧の保有者、生産者、仲買人、投機家には無制限の利益を約束し、物価の騰貴に拍車をかけました。この信じられないような物価上昇は一般民衆の生死にもかかわるほどでした。
例えばこうです。
品 物 | 1795年1月 | 4月 |
1ポンドのバター | 3フラン | 6フラン |
肉 | 40スー | 7フラン20スー |
アッシニア紙幣の下落 x軸は年、y軸は%で表した信用度 |
当時、アッシニアを発行するに当たってはもはや議会の決定など不要で、財政委員会の命令さえあれば、無制限に増刷することができました。1795年11月当時、何と200億もが流通されていました。
1795年11月、ついにアッシニア紙幣の図版が破壊され、12月23日には発行が禁止されました。
物価の驚異的上昇をみこして農民は穀物を手放さなくなりました。輸送中の穀物が暴徒に略奪され、食糧供給が困難になっていきました。それでも、パリは首都として食糧や生活必需品の供給がある程度確保されていたので、人々はパリへなだれ込んできました。
そのため、パリは急速な人口増加になりひどい食糧不足と住宅難に見舞れるようになったのです。しかも1794年から1795年にかけての寒さは殊のほか厳しく、零下18℃にまでなり、セーヌ河は凍りつき、食糧の輸送ができなくなりました。冬の初めには400グラムあったパンの供給が5月には125グラムにまでなりました。
ジェルミナール12日(4月1日)、極度の物価騰貴と食糧不足から、民衆が立ちあがりました。彼らは国民公会へ押しかけ、1793年の憲法の実施、食糧不足対策を要求しました。この蜂起は事前に察知されており、武器も指導者も持たない民衆は政府軍にたちまち敗れてしまいました。
国民公会はこの機会をとらえて、ロベスピエールを打倒したときに一役買った山岳派の残党達、ビヨー・ヴァレンヌ、コロー・デルボワを国民公会から追放し、南米ギアナへ流しました。ただし、戦争時の功績を考慮されたカルノーだけは処分から免れました。
この年の生活難は革命期間を通じて最大のものでした。サン・キュロットはロベスピエールの没落に力を貸したことを後悔しました。
「ロベスピエールの支配の元では、血が流れたがパンはあった。今は血は流れないがパンがない。パンを手に入れるためには、血が流されることが必要なのだ」
ブレリアル1日(5月20日)、民衆は再度国民公会を襲撃し、一人の議員を虐殺するほど狂暴に食糧・物価問題の解決を迫りましたが、これも政府軍によっあっけなく鎮圧されました。
この二つの事件からもわかるように、パスチーユを攻撃したりした勢いは民衆にはもうありませんでした。主な理由は次の通りです。
フランスの政府は民衆を離れて動き始めていました。軍隊に支配されたブルジョワ共和国が始まろうとしているのです。 |
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