テニスコートの誓いの議長。のちのパリ市長
バイイ |
パリの宮廷官吏の子。天文学を志す。1763年、ハレー彗星の軌道の計算の業績などにより科学アカデミーの会員となり、その後、木星の衛星に付いて、更には衛星の光について研究論文を著し、1783年、アカデミー・フランセーズ会員になる。
革命により研究生活を余儀なく中断されられ、1789年5月、三部会が召集されると、第三身分代表としてパリから選出され、国民議会議長となって「テニスコートの誓い」を司会した。
1789年、バスティーユ占領の翌日7月15日、パリ市長に推され、17日ルイ16世を市庁舎に迎えている。その際、パリ市の鍵を捧げたりしたが、人気も長続きしなかった。
1791年7月、シャン・ド・マルスで発砲させたことで不評を買い、11月に辞任すると、ナントに引退した。
1793年7月に逮捕され、11月、民衆に罵倒されながら処刑された。
バブーフ(フランソワ−ノエル・バブーフ)1760-1797早すぎた共産主義者。
北フランスのピカルディの貧しい農家の父と下女の母の間に生まれる。父は軍隊を脱走し、各国を放浪、結婚後も職が一定せず、バブーフは14歳から家計を支えた。正規の教育を受けず、貧困の中、持ち前の知的好奇心で独学した。15歳で領主の土地台帳代理人になり、貧農の実態に触れ、封建的な土地制度に憤慨し、権威に反抗し始めた。
革命の開始と共に故郷で政治運動に身を投じ、徹底した平等主義と革命独裁論とを持つ独自の思想を抱いて、最急進派の一人となり反税闘争、立法議員代議員、下級官吏などをして、度重なる投獄にもめげず活動を続けた。1793年からパリに出て新聞『護民官』を発刊。自らもローマの護民官の名を借り、「グラックス・バブーフ」と名乗った。
総裁政府樹立後、1793年憲法実現のため、ブオナロッティ、マレシャルなどと「パンテオン・クラブ」という秘密結社を作り、1797年5月、反乱の陰謀を企てた。(これをと「バブーフの陰謀」と言う。)スパイのグリゼルによる密告で逮捕され、翌日死刑になった。
共産主義と革命独裁を掲げ、19世紀のロシア革命などに大きな影響を与えた。
バラス1755-1829 (H11.3.2.UP)ロベスピエールを打った貪欲な政治屋。
プロヴァンスの旧貴族の家に生まれ、16歳で軍隊に入り、革命前はインド戦役に従事した。
その後、パリに出てジャコバン・クラブに加わり、1792年には国民公会議員に選出された。1793年、イタリア軍に参加。ツーロン攻囲で残酷、かつ貪欲な行動を取った。
1794年、反ロベスピエールの勢力に加わり、テルミドールの反動では公会軍の司令官として指導的な役割を果たした。
また、ヴァンデミエールの反乱では王党派をナポレオンに命じて鎮圧した。翌年、総裁政府の成立に際して五人の総裁の一人となり、武力を利用した巧みな均衡政策で、左右勢力に対抗した。バラスの元愛人であったジョゼフィーヌをナポレオンと結婚させたのも彼だし、テルミドールの同志、タリアンの妻、テレジアをタリアンから奪って自分のものにしたなど、巧妙な政治技術と背徳によって名を得た。
ナポレオンを高く評価してイタリア遠征軍司令官に任じたりしたが、ナポレオンによるブリュメール十八日のクーデターより失脚した。その後、バラスはモンペリエで隠遁と亡命の生活を送った。
バルナーヴ (アントワーヌ・ピエール・ジョゼフ・マリ・バルナーヴ)「屋根瓦の日」に活躍した三頭派の中心人物。
バルナーヴ |
グルノーブルの高等法院付き検事の家に生まれる。高等法院検事の父のもとで、高い教育を受け、二十歳で弁護士となる。グルノーブルの高等法院で反王制的な演説をし、ムーニエと共に<最初のフランス革命>と言われた「屋根瓦の日」に活躍した。
立法議会ではデュポール、ラメットらと共に「三頭派」結成し、中道議会主義を唱え、ムーニエ、ミラボーらの論敵を負かし、ジャコバン・クラブを掌握し、時の革命児となった。
1791年、国王のヴァレンヌ逃亡の際、議会代表として国王をパリに連れ戻し、この時以来、国王側に付く。ジャコバン派と決別し、フイヤン派を結成して民主派と対立した。
1791年の憲法は、彼の主導の基に作られた。一方では、議会に王への妥協を画策し、他方、王室には革命への協調を求めた。8月10日の革命で国王とのつながりを糾弾されて逮捕。恐怖政治の下、国王処刑後、あえて逃亡を望まず、反論しつつ反逆罪を受け、翌1793年11月に処刑された。
獄中で「フランス革命序説」を執筆し、その透徹した理論は高く評価されている。
バルバルー (シャルル・ジャン・マリ・バルバルー)物理学者のジロンド派。
バルバルー |
物理学者。1792年マルセイユの連盟兵を組織し、この時歌われた「ラ・マルセイエーズ」が、以来、フランス革命の聖歌となる。8月10日の蜂起にも活躍し、プロヴァンスから選出され国民公会議員になる。ジロンド派。
1792年冬、ジロンド派と和解しようとしたダントンの申し出をビュゾーと共に頑なに拒否した。また、パリ・コミューンが提案した「穀物価格の最高価格」に大反対し、対立はますます深まった。
自派の没落後、ビュゾーやガレらとカーンに逃亡、地方の反乱を煽動。捻挫と天然痘で苦しみピストル自殺をしようとしたが失敗。捕らえられ、1794年6月に処刑。
なお、彼はカーン出身のシャルロット・コルデーが獄中にいる時、手紙をもらっている。
ピシュグリュ (H11.5.7.UP) 1761-1804対外戦役に活躍した王党派の将軍。
ジュラ地方のアルボワに生まれ、ブリエンヌの兵学校を出たのち、軍人としての野心に駆られ、革命に関わった。アメリカ独立戦争に参加、ブザンソンのジャコバン・クラブで指導的役割をし、1792年義勇兵旅団長となった。その能力を発揮して、オッシュと共にライン戦線で指揮を取り勝利を獲得し、1793年には将軍になる。巧妙な戦術家で、ロベスピエールの支持を得た。1794年6月、「フルリュスの勝利」でベルギーとオランダを占領し、パリ駐屯部隊の最高司令官となる。さらに1795年4月、ジェルミナール十二日のクーデターではパリ民衆の蜂起を鎮圧した。
しかし、王党派の陰謀に加わり、裏切りが発覚して罷免された。五百人会議長になったが、フリュクチドールのクーデターで逮捕、カルノーらとギアナに流刑。逃亡し帰国すると、1803年、イギリス政府の黙認を得てナポレオンを誘拐するという陰謀に加担。これが発覚すると1804年2月、再び投獄され、獄中で自殺した。
ピット 1759-1806.1.23 (H11.5.8.UP)フランス革命時のイギリスの首相。
同じくイギリスで首相をしていた大ピット(1708-1778)の次男。ケンブリッジ大学に学んだ後、23歳で大蔵大臣、24歳で首相となる。巨額の国際償還、自由貿易による産業の振興などに専心。フランス革命の激化と共に、その全生涯を対フランス問題に捧げた。国内的には急進主義運動を弾圧すると共に、国外的には1793年、1798年、1805年の3回にわたって対仏大同盟を結成する。
革命政府からは「人類の敵」と言われるほど、反革命派に軍資金を援助などをしていた。
1803年くらいから、ナポレオンのセント・ヘレナ島流刑プランを持っていて、絶対王制主義者のフランス人カドゥーダルにクーデターの資金を援助した。その計画は露見し、これにより、カドゥーダルは死刑、ナポレオンの腹心だったモローは流刑、無関係だった王族のアンギャン公爵を銃殺刑にした。
アウステルリッツの大敗後、失意の内に46歳で死去。
ビュゾー (フランソワ・ニコラス・ビュゾー) 1760-1794 (H11.9.7.UP)ジロンド派の指導者の一人。ロラン夫人の愛人。
ノルマンディー地方のエヴルーに生まれ、高等法院の弁護士となった。三部会には、第三身分で選出され、ネッケルの財政案に反対し、急進的改革を求めた。
立法議会ではジャコバン派の最左翼に属し、人民の利益を擁護するため普通選挙を要求した。郷里の裁判所長官となってのち、1792年には地元ユール県から国民公会議員に選ばれ、ジロンド派の一員となる。この頃、共和主義者ロラン夫人のサロンに出入りし、愛人であったと言われる。
国民公会では王の執行猶予に投票したり、パリ・コミューンの専制を攻撃し、1793年3月以降、ロベスピエールの独裁に反対し、山岳派と精力的に戦った。
1793年5月31日の革命で追放され、翌年には逮捕令が出た。郷里エヴルーへ逃れて、バルバルー、ペティヨンと共にカルヴァドス県での反乱(連邦主義者の暴動)を企てたが失敗。サン・ジュストらに非難された。ボルドーへ渡ろうと発見され、いったんは潜伏に成功したが、ジロンド県でロラン夫人の刑死を知って、同士ペティヨンとともに自殺した。
ビョー・ヴァレンヌ (ジャン・ニコラス・ビョー・ヴァレンヌ)ロベスピエール没落に一役買った公安委員。
西部フランスのラ・ロシェル港の弁護士の家に生まれ、法律を学び弁護士になった。オラトリオ会の教授を務めたが、パリで弁護士を開業し結婚。
革命でジャコバン・クラブ参加。1792年8月10日の革命では、コミューンの一因となり助役に任じられた。国民公会成立後、議員となり山岳派に入る。
地方派遣議員としてヴァンデの反乱と闘い、公安委員会の急進的な一員となる。しかし、公安委員会の内紛の頃から、バレール、カルノー等との絆を強め、ロベスピエールの独裁を公然と非難し始めるようになる。ダントンの逮捕のときには、保身から「ダントンは死ななければならない」と発言し、ロベスピエールの躊躇を消した。
テルミドール九日ではタリアンと組んでサン・ジュストの発言を封じ、ロベスピエールの失脚に一役買った。
テルミドール以後は反動の行き過ぎと戦おうとしたが、コロー・デルボワ、バレールらと一緒に翌年南米ギアナへ流刑とされた。そして、ナポレオン政府を容認せずに恩赦を拒否して帰国しなかった。20年間の流刑生活の後、アメリカ本土に渡り、その後ハイチへ逃れ、そこで病死した。