ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしたものを若干加工しました。
最高存在の祭典 |
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ロベスピエールが主宰した革命期最大の祭典
ロベスピエールがルソーの「市民宗教」の主張に倣い、また非キリスト教化運動を批判して具体化した革命期最大の祭典。
1794年6月8日(草月20日)、前日の夜から断頭台は姿を消し、全国からあらゆる種類の花がパリに運ばれてきた。祭典は、テュイルリーの庭園で画家ダヴィッドの演出に従って行われた。
朝8時、ポン・ヌフの大砲が鳴り渡り、テュイルリー宮殿の正面に向かって、樫の枝を持った男性とばらの花を抱いた女性達の長い行列が始まった。数日前、公会の議長に選ばれたロベスピエールが、花と穂の束を手にして祭典を主宰した。彼は「最高存在」に敬意を表し、「明日からなお悪行と専制者と戦う」ことを誓った。
この祝祭はゴセックとメユールの作曲した荘厳な音楽に伴奏されて、テュイルリー宮殿の公園からシャン・ド・マルスに向かって堂々と行列を繰り広げた。シャン・ド・マルスでは「無神論」をかたどった像に火が放たれ、その灰の中から「知恵」の像が現れる。ロベスピエールの演説の後、全員で「共和国万歳」と叫び、祭典は終わった。
祭典は、国内外でも非常に評判になり、反革命派のマレ・デュ・パンが「ロベスピエールは革命の深淵を閉ざそうとしている」と言ったほどの成果をあげたが、その成果は一時凌ぎのものでしかなかった。この一ヶ月半後、テルミドール九日でロベスピエールは失脚するのである。
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サン・キュロット(5)半ズボンをはかない人。市民のこと。
キュロットとは、現代の女性がはいているものとだいぶ形が違うが、フランス語で半ズボンのこと。サンは「〜なし」の意味。
当時の貴族や大資本家達は、半ズボンとタイツでおしゃれを楽しみ、長ズボンをはいていた市民達をばかにして言った言葉。しかし、市民達はキュロットをはかない自分達を誇りを持ってこのように呼んだ。
小手工業者、職人、小売店主、労働者などから構成され、議会には代表されず、議会外の諸組織(民衆協会やパリのセクションなど)に拠って活動した。
特に1793-1794年には、デモクラシーの徹底(直接民主主義)と、経済統制の強化(経済安定)とを求めて議会に圧力をかけた。彼らの運動は、フランス革命に一定の影響を与えた後、1795年以降衰退する。
三権分立
国を統治する立法権、司法権、行政権の三つの権利を同じ所の人が持たないように三者に分けること。
三十人会(H12.3.27.UP)
三部会召集が近付くにつれ、組織活動が盛んになったが、三十人会はその中でも最も影響力のあった組織。
パリ高等法院の中での進歩派のリーダーであったデュポールと、絶対王政批判の辛辣な文章を書いていた貴族の反逆者ミラボーが中心となった会で、毎週デュポールの家に集まって会合を開いた。
活動としては、パンフレット類の作成を指導、全国三部会への陳情書(カイエ)のモデルを配布、三部会の候補者を推薦等の他、地方へ工作員を派遣することもあった。保守的なパリ高等法院が第三身分の代表者の定員を倍にすることを認めたのは、この三十人会からの圧力が大きかったとも言われている。
メンバーは、デュポール、ミラボーの他、ラファイエット、コンドルセ、ラメット兄 弟、シエイエス、タレーラン等、革命の指導者となっていく人々も含まれていた。また、意外な人物としては、ラ・ロシュフーコー・リアンクール公、エギヨン公なども加わっていた。
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30万人動員令
1793年2月24日、国民公会は兵士の不足を補うため、この法案を可決した。
内容は、義勇兵の登録は町村毎に割り当てられ、その割り当て人数に達しない場合は、市民の多数決により最も適切な方法を採用するというものである。
このため、多くの町村では革命で利益を得たブルジョワが登録を強要された。しかし、登録されても代理人を立てることが許されていたので、指名されたブルジョワはいくらかのお金を払い、貧しい代理人を義勇兵として登録させた。したがって、お金目当てのあまりやる気のない兵士が、重大な局面のときに戦地に赴くことになった。このような兵士は軍隊から脱走し、共和国を防衛するどころか破滅させる危険があったので、カルノーはこの制度を非常に憂いた。
また、この制度が誘引となってヴァンデの反乱が起きた。
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三色旗(H11.2.15.UP)
フランスの国旗。赤と青はパリ市の色。その中間にブルボン王家の白をはさんだ。考案したのは立憲王制派のラファイエット将軍で、国王と市民との間の橋渡し役を演じていた彼の立場をも象徴しいている。当時誰も共和制を考えるものはなく、白色を挿入することはむしろ歓迎され、国王も3色の構成を拒否しようとはしなかった。
バスィーユ牢獄が陥落して、ルイ16世がパリ市役所のバルコニーに姿を現したとき、三色記章(もちろん国旗ではありません)を付けたのも、ラファイエットだった。
三部会起源は14世紀の初めに遡る。ローマ法王と争いを起こしたフィリップ四世(在位1285-1314)が国民の支持を得ようとして、全国から三つの身分(僧侶、貴族、第三身分)の代表をパリのノートル・ダム寺院に召集したのが始まり。
その頃の三部会は、高位の僧侶と貴族、都市の有力者からなる少数特権者の集会だった。三部会は14世紀にはよく召集されたが、15世紀以降は開催回数も少なくなり、1614年を最後に召集されなかった。絶対王制の行政機構が整備されるにつれて、三部会の必要性が薄れたのである。
全国三部会と地方三部会がある。国の周辺部に多く見られる地方三部会は、王権に併合されたかつての大諸侯領に地方特権として認められたものである。地方三部会においても、招集権は国王にあったが、慣習によって定期的に開催され、独立性も高かった。
第一身分 | 第二身分 | 第三身分 | |
身分 | 僧侶(特権身分) | 貴族(特権身分) | 平民 |
人口 | 14万人 | 40万人 | 市民(300万人)と農民(2300万人) |
絶対主義 | 反対 | 反対 | 反対 |
内部対立 | 司祭は、司教(司祭より高位)に反発。 | 田舎貴族は特権の維持に執着しながら、利権の多すぎる宮廷貴族に反発。 | ブルジョワジーと労働者は、農民の要求を無視。 |
服装 | 上級僧侶は紫の衣。下級僧侶はみすぼらしい黒服。 | 羽付きの帽子、レース、勲章、肩賞着用。 | 質素な黒服。 |
議員数 | 308人 | 285人 | 621人 |
代議員の内訳 | 205人が身分のあまり高くない司祭。貴族出身の上級僧侶の中には進歩的な人たちも若干含まれる。 | 266人が帯剣貴族、19人が上級裁判所の司法官。保守的傾向の強い地方貴族が多数だが、自由主義貴族も約90人。 | 僧侶出身の代表が5人、貴族が15人、農民代表の1人を除き、全てブルジョワ。中でも弁護士・公証人が一番多く214人、次いで商人・地主などが178人。市長または市の職員29人、上級裁判所司法官2人、下級司法官158人、医者12人、財政家5人、文筆家4人。 |
代表的な議員 | 革新思想→タレーラン、グレゴワール、ボワジュラン、シャンピヨン・ド・シセ。反革命→モーリー、モンテスキウ。 | 革命反対派→カザレス。自由主義貴族→ラファイエット、クレルモン・トネール、ノアイユ子爵、エギュイヨン公、モンモランシー、デュポール、 ラメット、ラ・ロシュフーコー公、ラリー・トランダル侯。 | 弁護士→ムーニエ、バルナーヴ、ロベスピエール、ル・シャプリエ、ビュゾー、メルラン、ランジュイネ、トゥレ、トロンシェ、タルジェ、カミュ。学者→バイイ、デュポン・ド・ヌムール。貴族→ミラボー。僧侶→シエイエス、ラボー・サン・テチエンヌ。 |
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