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一言で説明すると…左翼を弾圧したテルミドール政府は、力を増してきた右派から身を守るため、新しい憲法を発令しました。それは、民主主義と独裁を封じ込め、ブルジョワ支配を確立するものでした。 |
ジェルミナルとプレリアルの民衆蜂起が失敗の終わったことで、白色テロはさらに力を増していきました。何かが起きればすぐジャコバン派のせいにされ、ジャコバン派は武装解除され、逮捕され、虐殺されました。
タリアン、フレロン、メルラン・ド・チオンヴィルらが中心となって、テルミドール派はブルジョワ共和派、立憲王党派などの反ジャコバン勢力の全てを結集しました。恐怖政治の時の恨みを晴らすため、彼らは徹底的にジャコバン派に復讐し、サン・キュロットを叩きのめしたのです。
ジャコバン派ら左翼に対する弾圧を強めれば、当然のことながら右翼を元気付けます。拒否僧侶や亡命貴族がますます活躍し出し、今まで身を潜めていた右翼議員が国民公会へ復帰しました。
ちょうどそんな時、1795年6月23日、ルイ16世の弟プロヴァンス伯が、次のような宣言を発しました。
これにより王党派の動きが更に活発になり、国王処刑に賛成票を投じたテルミドール派は恐怖を覚えました。
続く6月、イギリスは王党派に資金と船隊を与え、亡命者の軍隊をブルターニュの南岸とヴァンデに上陸させました。亡命者達がイギリスの制服を着て派遣部隊を構成したのです。しかし、亡命者と王党派の間には確執があり、もたもたしていました。
その間にオッシュ率いる共和国軍は、ヴァンデの「ふくろう党」と亡命者たちをキブロン半島(ブルターニュにある半島)に押し込め、半島を封鎖し、1796年7月20日から21日にかけて、王党派とイギリスの混成軍を辛うじて打ち破りました。(ヴァンデの完全平定にはもう少し時間がかかります)
薄氷を踏む思いのテルミドール派は、「共和国1年(1793年)の憲法」を人々の記憶から消し、自らの権力を固めるために新しい憲法の制定を急ぎました。この憲法は「共和国3年(1795年)の憲法」と呼ばれ、共和主義者と立憲王党派で構成された11名の起草委員の手で作成され、8月22日に可決されました。彼らは次の二つを基本に、ブルジョワの政治的支配を確立しました。
「我々は最良の人間によって統治されなければならない。最良の人間とはすなわち、法の維持に最も関心を持つ人々のことである」
「要するに金持ちの財産を保証しなければならない」
次に内容を見てみましょう。
このように、政治のさまざまの機構が互いに妨げ合うために存在する仕組みは、平和な時世ならば有効かもしれませんが、まだ不安定なこの時代にはうまく稼動しませんでした。したがって、危機に対処するためには例外的な方法に頼らざるを得ませんでした。つまり、軍隊です。軍隊ではまだ革命的精神が生きており、反動に荷担することも腐敗することもありませんでした。 |
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