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 10.ブルジョワ共和国  

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10.ブルジョワ共和国
  1. テルミドール派の支配ロベスピエールらを倒した後、テルミドール派と呼ばれる上層ブルジョワジーが国民公会を支配しました。彼らはブルジョワに都合のいい国家を作ろうとしました。
  2. 物価狂乱パリは革命勃発以来最大の食糧危機に見舞われ、再び民衆が蜂起します。しかし、政府軍によって二度とも鎮圧されました。これ以降、革命は民衆の手を離れブルジョワの利益のみを追求するようになったのです。
  3. 共和国3年(1795年)の憲法左翼を弾圧したテルミドール政府は、力を増してきた右派から身を守るため、新しい憲法を発令しました。それは、民主主義と独裁を封じ込め、ブルジョワ支配を確立するものでした。
  4. ヴァンデミエールの反乱不安定な政権の元で作られた1795年の憲法は、非合法な軍事行動を正当化することになりました。それは、不世出の天才ナポレオン・ボナパルトの独裁の道に通じていたのです。

iii. 共和国3年(1795年)の憲法

一言で説明すると左翼を弾圧したテルミドール政府は、力を増してきた右派から身を守るため、新しい憲法を発令しました。それは、民主主義と独裁を封じ込め、ブルジョワ支配を確立するものでした。

反ジャコバン Anti-Jacobins

ジェルミナルプレリアルの民衆蜂起が失敗の終わったことで、白色テロはさらに力を増していきました。何かが起きればすぐジャコバン派のせいにされ、ジャコバン派は武装解除され、逮捕され、虐殺されました。

タリアン、フレロン、メルラン・ド・チオンヴィルらが中心となって、テルミドール派はブルジョワ共和派、立憲王党派などの反ジャコバン勢力の全てを結集しました。恐怖政治の時の恨みを晴らすため、彼らは徹底的にジャコバン派に復讐し、サン・キュロットを叩きのめしたのです。


右翼の攻勢

ジャコバン派ら左翼に対する弾圧を強めれば、当然のことながら右翼を元気付けます。拒否僧侶亡命貴族がますます活躍し出し、今まで身を潜めていた右翼議員が国民公会へ復帰しました。

ちょうどそんな時、1795年6月23日、ルイ16世の弟プロヴァンス伯が、次のような宣言を発しました。

  1. 弑逆者を復讐する。
  2. 旧制度再建を実現する。
  3. 自らをルイ18世とする(6月8日に獄中で亡くなったルイ16世の幼い皇太子をルイ17世とする)。
これにより王党派の動きが更に活発になり、国王処刑賛成票を投じたテルミドール派は恐怖を覚えました。


イギリスの上陸作戦

続く6月、イギリスは王党派に資金と船隊を与え、亡命者の軍隊をブルターニュの南岸とヴァンデに上陸させました。亡命者達がイギリスの制服を着て派遣部隊を構成したのです。しかし、亡命者と王党派の間には確執があり、もたもたしていました。

その間にオッシュ率いる共和国軍は、ヴァンデの「ふくろう党」と亡命者たちをキブロン半島(ブルターニュにある半島)に押し込め、半島を封鎖し、1796年7月20日から21日にかけて、王党派とイギリスの混成軍を辛うじて打ち破りました。(ヴァンデの完全平定にはもう少し時間がかかります)


共和国3年(1795年)の憲法

薄氷を踏む思いのテルミドール派は、「共和国1年(1793年)の憲法」を人々の記憶から消し、自らの権力を固めるために新しい憲法の制定を急ぎました。この憲法は「共和国3年(1795年)の憲法」と呼ばれ、共和主義者立憲王党派で構成された11名の起草委員の手で作成され、8月22日に可決されました。彼らは次の二つを基本に、ブルジョワの政治的支配を確立しました。

  1. 民主主義の実現を妨げる(サン・キュロットが権力に復帰しない)。
  2. いかなる独裁も許さない
起草委員の一人ボアシー・タングラはこう言いました。

「我々は最良の人間によって統治されなければならない。最良の人間とはすなわち、法の維持に最も関心を持つ人々のことである」

「要するに金持ちの財産を保証しなければならない」

次に内容を見てみましょう。


共和国3年(1795年)の憲法の内容

立法権--五百人会議と元老会議の二院制。1791年の憲法では、まだ根強かった貴族の勢力を恐れ、一院制を取っていましたが、今では貴族の勢力も恐れるほどでなく、かえって一院制にすると議会が独裁する可能性がありました。

五百人会議(30歳以上、500人構成)が議案を提出、可決

元老会議(40歳以上、250人構成)が、五百人会議で可決された法案を可決する。元老会議そのものには発議権も修正権もありませんが、ここで可決されなければ法律として効力を持ちませんでした。また、元老会議には、民衆の暴動に対して立法府の安全を図るため議場と政府をパリの外に移す権限が与えられました。

行政権--五百人会議が提出する候補者のリストの中から元老会議が選出した五人の総裁(ディレクトゥール)に委ねられる。これを総裁政府と言いますが、五人の総裁は意思を疎通させることはなく、財政上の権限も法の発議権も軍隊の指揮権もありませんでした。

総裁の任期--五年。毎年一人ずつ更新。

六人の大臣--総裁の下でそれぞれの業務を担当。

こちらに総裁政府の図があります→

選挙権--直接税を納める21歳以上のフランス人男子。彼ら能動市民が第一次選挙集会で、25歳以上の選挙人を選び、この選挙人(約二万人)が第二次集会で議員を選ぶ。

このように、政治のさまざまの機構が互いに妨げ合うために存在する仕組みは、平和な時世ならば有効かもしれませんが、まだ不安定なこの時代にはうまく稼動しませんでした。したがって、危機に対処するためには例外的な方法に頼らざるを得ませんでした。つまり、軍隊です。軍隊ではまだ革命的精神が生きており、反動に荷担することも腐敗することもありませんでした。


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ii.物価狂乱へ
iii.共和国3年(1795年)の憲法へ

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