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一言で説明すると…ロベスピエールらを倒した後、テルミドール派と呼ばれる上層ブルジョワジーが国民公会を支配しました。彼らはブルジョワに都合のいい国家を作ろうとしました。 |
国民公会での主導権は「平原派」と呼ばれた共和主義的なブルジョワ勢力が握りました。山岳派のテロリストと穏和なブルジョワ派が結びついたこの一派を「テルミドール派」と言います。主なメンバーは、ロベスピエールを恐れていたタリヤン、パラス、ボワシー・ダングラなどです。
有名な歴史家のマチエはテルミドール派をこのように評しました。
「政治家が政治屋に取って代わられた。国家的人物は全て死亡した。後継者達は掴み合いをしながら、自分のちっぽけな企業を成功させるために、必要とあらば国家を犠牲としようとしていた」
まさにその通りです。彼らがまずやったことは、自分達の「財産」をしっかりと確保することでした。そのためには、
を行いました。まさに、ロベスピエールの政策に対する「反動」です。しかし、彼らは国王の処刑に賛成した過去を持ちます。反動が行きすぎて王党派が台頭すると身の破滅です。また、ロベスピエール派を倒したことため、ジャコバン・クラブに頼ることもできませんでした。結局、テルミドール派が頼るのは、企業家、投資家、軍のご用商人など革命と戦争から最大の利益を引き出して支配階級に成り上った新興ブルジョワだけでした。
国民公会はロベスピエールらを処刑した次の日(7月29日)、公安委員会に対し次のことを可決しました。
8月1日には、恐怖政治を緩和するために、ロベスピエールが制定したプレリアル22日の法令(裁判を迅速にするために弁護人を廃止することを定めた)を廃止しました。
8月10日には革命裁判所の組織替えを行い、役人や判事は免職になり、人々を震え上がらせた検察官フーキエ・タンヴィルは逮捕処刑されました。
街頭では、ミュスカダン(洒落者)とメルヴェイユーズ(伊達女)などと呼ばれる異様な格好をした若者達が現れました。男性は髪を後ろへ耳まで伸ばし先をカールし長いコートを着て長いつばのある帽子をかぶります。彼らは「執行権」と呼ばれる棍棒を持って、サン・キュロットを見るとそれで乱暴しました。
女性の服装も一気に開放され、シースルーが流行しました。劇場や社交界も再開され、「テルミドールの聖母」と言われたタリアン夫人 (テレーズ・カバリュス)が社交界の花形になりました。 当時の流行はこちら→
貧乏人が軽蔑され、お金持ちが肩で風を切る時代になったのです。
しばらくの間、ジャコバン・クラブは以前一番大きなクラブとして活躍していましたが、政府はジャコバン派を「吸血鬼」「無政府主義者」などと非難し、過去のあらゆる紛争はジャコバン・クラブの責任とされました。
また、ブルジョワの子弟で作られた「金ぴか青年隊(ジュネス・ドレ)」や「伊達男」達がタリアン、フロレン等に率いられ、我が物顔に横行し、ジャコバン派に制裁を加えました。彼らとサン・キュロットとの争いがパリのあちらこちらで見られました。(白色テロ)
11月11日にはパリのジャコバン・クラブが閉鎖されました。マラーの半身像はこなごなに壊され、パンテオンから取り除かれました。
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