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一言で説明すると…公安委員会は軍隊を強化しました。イギリスやオーストリアなどの外敵も、ヴァンデの反乱などの内乱も鎮圧され、戦局上の危機は一応克服されました。 |
1793年2月24日に発令された30万募兵にもかかわらず、共和国軍の兵士の質は高いとは言えませんでした。共和国を防衛するどころか、破滅に追いやりかねない兵士達を、公安委員会の委員でもあるカルノーは非常に心配していました。
1793年8月23日、国民公会は、パリ・コミューンに強要される形で「国家総動員法」を発令しました。この徴兵法は、身代わり制度のある30万人募兵と違って、ブルジョワも下層民衆も全く平等に徴兵し、共和国軍に約100万の若くて革命的エネルギーに満ちた兵士を加えることになりました。
兵士がいくら優秀でも、兵器の調達が思うようにいかなければ軍は戦力を発揮できません。そこで、公安委員のバレールの発案で、パリに250以上もの兵器製造工場が作られました。そこでは、一日に700挺の銃が作られ、別の工場では年に500門もの大砲が鋳造されました。また、火薬も豊富に作られ、兵士の制服も立派なものになっていきました。
共和国軍の兵士はただの兵士ではなく、革命の兵士でもなければなりませんでした。公安委員会は、軍の中に革命的精神を植え込むために、エベールの発行する「デュシェーヌ親父」紙のような進歩的な新聞を送りこみました。また、将校の軍事教育、革命教育のために、1794年6月1日には士官学校を創立させました。
このように公安委員会が、軍の建て直しや政治教育を熱心に行ったおかげで1793年秋の危機が打開できたのです。
1793年秋、共和国は危機に瀕していました。幸い、北部戦線にいるイギリス軍内部で連携が充分に取れていなかったため、反撃のチャンスが与えられました。
カルノーは、バレール、クートンなどが支持する戦術(機動性を持つ一大兵力を一箇所に集中する)を採用しました。
実際には北部軍指令官ウシャールが臆病になったため(失敗すると処刑されるので)、イギリス兵の逃亡を許したり、完全な勝利とはいきませんでしたが、とりあえず北部戦線では勝利を収めることができました(結局、ウシャールは臆病な作戦のせいで処刑されてしまいました)。
そして、この勝利(オンドスコットの勝利)をきっかけとして、共和国軍の全面的な勝利が始まり、同盟軍が国境を侵す危険性は薄れていきました。1793年秋の危機は打開されていくのです。
5月31日と6月2日、ジロンド派議員が国民公会から追放されると、83県の内60県に及ぶ県で山岳派の支配に反抗する動きが見られました。これを連邦主義者(反ジャコバン派)の反乱と呼びます。
本来、連邦主義者は、共和主義で革命的ですが、地方の王党派による反革命連合と合流して反乱の規模を大きくし、危機は深刻なものとなっていました。
国民公会は反抗している県に対して反省を求めるとともに、軍隊の力を持って反乱の鎮圧に努めました。特に、徹底的に鎮圧されたのは次の3県です。ひとつひとつ簡単に見ていきましょう。
彼らはイギリス、スペイン両国に対して、ツーロンの町と港を平和が回復されるまで占領するよう要請しました。両国はそれに応じ、港を占領しました。この町を平定したのは当時、政府軍の副官だったナポレオンです。降伏後、港はポール・ラ・モンターニュ(山岳港)と改名されました。
連邦主義者の反乱が刺激となり、ヴァンデの反乱も大きくなりました。反徒たちはナントを攻撃目標としました。
しかし、ナントは持ちこたえ、反徒達は退却を余儀なくされました。国民公会は反乱軍を撲滅させるため焼土作戦を開始しました。カトリック・王軍は12月23日、サヴォネーで壊滅しました。ここでも反徒達への処分は残虐でした。全員を溺殺させ、反徒達はロワール河に沈められました。その残忍な処分に、逃亡していた反徒たちは降伏を諦め、1795年までゲリラ線を続けました。
とにもかくにも、内外に差し迫った軍事上の危機は一応、去りました。次なる問題は経済問題です。
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