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   上代特殊假名遣臆見 ―日本語變換ソフトからの管見―

 

「國語國字」平成十九年二月二十三日(第百八十七號)に掲載

 

           

 今日パソコンで日本語の入力を行ふ場合、假名入力であれ、ローマ字入力であれ、原文を假名書きとして打鍵すると、ディスプレイ上に假名の文字列として表示される。これを假名漢字變換システムを通して、所期の漢字假名交り文に變形して確定すれば入力作業が完了する。

 さて例として「早く走れない」と「早くは知れない」の二つの文が可能である「はやくはしれない」といふ文字列の變換を考へて見る。先づ第一に打鍵文字列を「文節」に分割する過程がある。動詞、助動詞の活用語尾、助詞などの直後、または體言など自立語の直前直後などが分割箇所の候補となる。そして先頭から最も長い文字列の文節を選擇して行く。この場合は先づ

 先頭の一文字「は」は「葉(他に齒など)」の可能性がある(助詞の「は」はあり得ない)

 二連字「はや」は「葉(他に齒など)」と助詞「や」に結び附いた「葉や」或いは「早」が可能

 三連字「はやく」は形容詞連用形「早(速)く」或いは「破約」、「端役」が可能

 四連字「はやくは」は「早(速)く」、「破約」、「端役」に係助詞「は」が膠著した形が可能

 五連字の「はやくはし」には特定の變換候補が見當らない

この結果「はやくは」が最長の文節文字列となり、「早くは」「破約は」、「端役は」が變換候補として表示される。これに續く文字列に就いて同樣の手順を行ふと「しれない」が最長文字列であることが確定して「知れない」が變換候補となる。

 しかし目的とする漢字假名交り文が「早くは知れない」ではなく「早く走れない」であれば、最初の文節「はやくは」を強制的に「はやく」まで短縮して「早く」とし、後續の文字列は「はしれない」が上述の過程を經てそのまま最長文節となり「走れない」が變換候補となる。

 この一聯の過程はコンピューターの内部で起るのであるが、人間の腦内では假名だけの文字列「はやくはしれない」からはむしろ「早く走れない」を先に思ひ浮べる筈で、それはそれまでに「走り」と「早い」とが關聯した漢字假名交り文を何度も見た經驗、つまり學習の結果であり、コンピューターでも一旦「早く走れない」で確定するとこれが學習され再度同じ文字列を打鍵變換すれば「早く走れない」が第一候補として表示される。

 このやうに見て來ると假名だけの文字列に初めて對應するには人間もコンピューターも試行錯誤的にならざるを得ない。これが漢字假名交りの文字列であれば人間は瞬時にその意味を諒解する。それは漢字が文節の切れ目を明示するからである。コンピューターでも例へば小文字の「っ」「ゃ」「ゅ」「ょ」は「つ、や、ゆ、よ」などの大文字とは[shift]キーにより別コードを與へられ且つこれらの小文字は「ん」と共に語頭には來ない特性があるのでこれを利用すれば、これらの假名を含む打鍵文字列は目的とする文節變換への接近度が高いと言ふことができる。從つてもし他の假名でも例へば助詞の「は」とそれ以外の「は」とに[shift]キーなどの操作で別コード乃至は特定の標識を賦與できれば、一囘の變換操作で目的の文節を得る度合は格段に高まる筈である。この考へを一般化したのが、打鍵中に紛れ易いと思はれる文節の切れ目に[shift]+[space]を插入する方法である。これにより文節の分割が打鍵者の企圖した通りに正確に行はれる。

 問題はそれだけではない。假名だけの文字列では同音異義語が多數あつて、コンピューターは文脈から適正な漢字を選ぶ事ができず、學習したとしても、他の文脈で現れた場合には無力である。此の解決法の一つとして字音假名遣の利用が可能であり、現に實用化されてその有效性が確かめられてゐる。

 ここで考へが飛躍する。漢字が渡來して日本語の表記が始つたときそれは眞假名と呼ばれる萬葉假名であつた。これ等が「表音文字」であつたことは紛れもない事實であるが、それを讀む當時の人は今日のわれわれやコンピューターが假名だけの文字列を讀むのと同じであつたらう。さすれば、そこには文節の區切を間違なく素早く發見するための何等かの工夫があつたに違ひない。その工夫は漢字假名交り文の成立とともに必要性が無くなり消滅してしまつた可能性もある。實はその工夫こそ上代特殊假名遣ではなかつたかといふ考へが出て來るのである。

 甲乙兩類を持つ十三の假名(エキケコソトヌ(正しくはノ)ヒヘミメヨロ)は謂はば小文字の假名、若しくは[shift]キーによつて別コードを賦與された假名を併せ持つものと考へることができる。實際に石塚龍麿の「假字遣奧山路」に擧げられた漢字群の用法を概觀しただけでも例へば「え」を表す「衣」は語頭にしか來ず、また「け」の場合、助動詞「けり」と動詞(助け)や形容詞語幹(清けし)の「け」とではそれぞれ「祁」と「氣」とで使ひ分けが行はれてゐて、「け」が助動詞或いは動詞・形容詞どちらの一部なのかが直ちに判別できるのである。このやうな假名の使ひ分けが單に甲乙兩類を持つ假名ばかりでなく、他の假名においても、例へば壹岐の「い」には「壹」が專ら用ゐられるなど國名などにはほぼ一定の漢字が當てられてをり、このことは、「同音の假名の語による書き分け」乃至「語を書く決り」としての「假名遣」の意識がこの時既に萌芽してゐるとも見られる。

 更に假名として用ゐられる漢字には、例へば「か」に「甲(かふ)」、「た」に「當(たう)」を用ゐ(但し例外として「と」には「刀(たう)」)、一方「よ」、「ろ」には「用(よう)」、「漏(ろう)」を用ゐるなど明らかに字音假名遣と符合してをり、これも同音の漢字識別の工夫とも見られ、假名の普及し始めた平安期に現れる「消息(せうそこ)」、「法師(ほふし)」などの字音假名遣表記へ繋がつたとも考へられる。

 孰れにしてもこれまで「假名遣」に就いて、これが意識せられたのは鎌倉時代であり、それまでは發聲と假名表記が一致してゐたから、假名遣は問題とならなかつたとされてきたが、實は萬葉假名を含めた假名の發生と共に假名遣が發生したのではなからうか。最初は萬葉假名文字列の判讀を容易にする機能を擔ひ、漢字假名交り文の成立とともに、假名部分の書き方、更にそれに止らず漢字部分の假名表記にも一定の法則性が確立しこれが後世契冲の發見するところとなつたと思はれる。平安後期ハ行轉呼の發生により發聲と表記との乖離が始り謂はゆる假名遣意識が萌え、藤原定家の表記固定の方針から今日の歴史的假名遣へと完成に向つたと見ることができる。たゞ定家假名遣は契冲の和字正濫鈔の出現まで五百年の長きに亙り行はれたが、體系的な統一性に缺ける憾があり、爲に假名遣が難しいとの觀念が生じたのは假名遣にとり不幸なことであつた。かうした歴史的事實を見るにつけても、石塚龍麿大人が自らの研究を「假字遣奧山路」とし、更に甲乙兩類の假名がそれぞれ當時の別の音韻に對應してゐた事實を證明せられた橋本進吉博士が「上代音韻文字」とせず「上代特殊假名遣」と名附けられたことに深い感銘を覺えるのである。

 

 石塚龍麿竝びに橋本進吉兩先達により集大成された上代特殊假名遣に就いて私如き國語學の門外漢が論考すること自體僭越の沙汰であることを十分承知しつゝ、谷田貝事務局長の御好意により敢て本稿を發表させて頂く次第であります。會員諸先生の御批判を仰ぎたく思つてをります。

(平成十八年二月七日)

市 川   

昭和六年生れ

平成五年 有限會社申申閣設立。

正假名遣對應日本語IME「契冲」を開發。

國語問題協議會常任理事、文語の苑幹事、契冲研究會理事。

 

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