(架空)山田正紀選集 第1巻

最後の敵

《モンスターのM・ミュータントのM》


序文

 選集の記念すべき第1巻としては、かつて第3回日本SF大賞を受賞しながら、なぜか復刊されない不遇な作品、『最後の敵』を採用した。“進化”という目に見えないものとの戦いを、悪夢的な表現を駆使して描いたこの作品は、観念的で難解な、読者に受け入れられにくいものと考えられているのかもしれない。しかし、そんなイメージとは裏腹に、“レベルBの現象閾世界”という設定によって、主人公が重層的な“現実”の間を行き来することを可能にしているこの作品は、独特のイマジネーションあふれる物語に仕上がっている。また、醍醐銀という魅力的な敵役の活躍により、物語にダイナミズムが導入されている点も見逃せないだろう。

 そもそも、「想像できないものを想像する」という、実に野心的な宣言とともにデビューした山田正紀にとって、この作品はその困難な命題に正面から挑戦した意欲的な作品ともいえる。そして、数多い傑作群に埋もれてしまっているきらいはあるが、山田正紀の永遠のテーマである“超越者との戦い”を描いた作品でもあるのだ。その意味で、選集の先頭を飾るには実にふさわしい作品ではないだろうか。


作品内容の簡単な紹介と感想はこちら→『最後の敵』

解説
―― 山田正紀と神 ――

 長編『神狩り』でデビューし、さらに『弥勒戦争』『神々の埋葬』(いわゆる<神>三部作)を発表した山田正紀にとって、“神”が非常に重要なテーマであることは間違いないだろう。しかし、山田正紀にとっての“神”とはどのようなものなのだろうか。

 数多い山田正紀作品の中で、宗教が作中ある程度の比重を占めるものは、『弥勒戦争』(仏教)、『螺旋』(キリスト教)、『顔のない神々』及び『エイダ』(ゾロアスター教)など、非常に少ないといえる。短編「ヨハネの剣」(『ヨハネの剣』収録)や「ユダの海」・「ヘロデの夜」(ともに『ヘロデの夜』収録)などでは聖書のエピソードが単なる象徴として扱われているし、「かまどの火」(『地球軍独立戦闘隊』収録)における仏教も、世界を記述する体系として借用されているにすぎない。

 一方、『神狩り』などに登場する“神”は特定の宗教との関わりが薄いようだ。つまり、具体的な宗教の象徴としての神ではなく、強大な力を持つ存在という、一種の概念的なものだといえるだろう。さらにもう一つ見逃せないのが、“支配者”としての属性である。“神”は登場人物たちに敵対する存在ではなく、圧倒的な力をもって君臨し、支配する存在なのだ。
(注:ここでは詳しく書かないが、その意味で『デッド・エンド』は特異な作品といえるのかもしれない。)

 この“強大な支配者”という定義を念頭に置いてみると、“神”と呼ばれてこそいないものの、数々の作品に同様の概念が登場していることがわかるだろう。<神獣聖戦シリーズ>の“大いなる疲労の告知者”などは比較的ストレートな部類だが、例えば『デッドソルジャーズ・ライヴ』などにおける“死”や、『ミステリ・オペラ』などにおける“歴史”、『チョウたちの時間』における時間そのもの、そしてもちろん本書『最後の敵』における“進化”など、いずれも登場人物たちに対する強大な支配者として描かれているのである。

 そして、これらの支配者に対峙する登場人物たちは、はるかに無力な存在であるにもかかわらず、支配者に戦いを挑んでいく。例えば、『宝石泥棒』の主人公・ジローを見てみよう。タブーを乗り越えていとこの娘と結ばれるという当初の望みは、単なるきっかけにしかすぎなかった。彼は、望みのない戦いであることを十分に自覚しながら、世界を支配する“秩序”に対して反旗を翻さざるを得なかったのだ。そこにあるのは、支配に対する強烈な否定、そして抵抗である。
(注:この点において<神獣聖戦シリーズ>は例外的である。ほとんどの作品において、人類にはすでに抵抗する力はなく、主役たるべき存在の戦いに翻弄されるしかない。)

 近年の『神曲法廷』などでは、その抵抗もだいぶ弱体化してしまっているようにも受け取れる。神に操られて事件の真相を看破する主人公・佐伯神一郎の態度には、どこかあきらめのようなものがつきまとっているのだ。だが、その彼にしても、支配されることをよしとしているわけではない。強大な支配者に対して、彼は無意識に、あるいは反射的に、抵抗の意思表示をしている。いまだ書かれない“天国篇”にて、死闘の果てに彼が一矢報いることを待ち望んでいる読者も多いのではないか。

 このように、山田正紀にとっての“神”とは、強大な支配者であり、全力を挙げて抵抗すべき対象なのだ。

***

 山田正紀の作品においては、敵たる“神”が全能の存在として描かれているわけではないことにも注目する必要があるだろう。全能ではないがゆえに、登場人物たちにも抵抗する余地があるといえるのだから。この点、キリスト教的な唯一絶対の神という概念とは相容れない。むしろ、ゾロアスター教のイメージに近いのかもしれない。

 ゾロアスター教(拝火教)は古代ペルシアに発祥し、ユダヤ教やキリスト教にも影響を与えたとされる宗教で、その教義の根本は、光(善神アフラ・マズダ)と闇(悪神アングラ・マイニュ)の対立という二元論である。若い頃に中東を放浪した経験のある山田正紀も、このゾロアスター教の影響を(多少なりとも)受けたのではないかと考えられる。それは、前述のように複数の作品においてゾロアスター教が扱われていることにも表れているといえるかもしれない。それを考えれば、作中で描かれる“神”が唯一絶対の存在ではなく、常にその対立者(カウンターパートといってもいいかもしれない)が存在することも納得できるだろう。

 しかし山田正紀は、ゾロアスター教的な二元論をさらに相対化しているように見受けられる。二項対立の概念はしばしば作品に導入されているが、そこには絶対的な善と悪は存在しないのだ。極端な例としては、<神獣聖戦シリーズ>の“鏡人=狂人{M・M}”と“悪魔憑き{デモノマニア}”の抗争などが挙げられる。両者いずれも人類を超越した存在であり、善悪という観念でははかれない。ただ、対立(拮抗)のみが残り、それが果てしなく続いていく。

 また、初期の<神>三部作における、主人公と敵との力関係の変化にもそれが表れているかもしれない。『神狩り』では、強大な“神”に対して主人公の島津は普通の人間にすぎない。だが『弥勒戦争』では、主人公の結城は超常能力を有する独覚一族に属している。そして『神々の埋葬』に至っては、主人公・榊賢二と敵である榊乃理子は同等の力を有している。つまりここでは、善悪が存在しないまま、ゾロアスター教における拮抗の構図が再現されているといえるのではないだろうか。

 (以下、『神々の埋葬』の内容に触れるのでご注意下さい;一部伏せ字
 なお、私見ではこの点が『神々の埋葬』の弱点にもつながっているように思える。“神”の悲哀を描くために、“神”を主人公とするのはおそらく正しい。だが、敵が主人公と同等のレベルであっては、その強大さが伝わりにくくなってしまうのは否めない。さらにこの作品では、完成した拮抗の構図が、最後の対決を経て主人公のみが生き残ったことで崩れ去ってしまっている。そして、明確な理由がないまま、山田正紀は主人公を生き残らせ、その上で支配者となることを放棄させている。そのため、エピローグで描かれた主人公の悲惨な末路が、物語の流れを無視して作り出されたものに感じられてしまう。
 (ここまで)

 その点、本書『最後の敵』では工夫が凝らされている。主人公・森久保与夫は“進化”と戦うことを決意するが、彼はその前に、“進化”が用意した天敵である醍醐銀と戦わなければならない。与夫と銀、与夫と“進化”という、レベルの違う複数の対立関係が存在することで、与夫は自らのカウンターパートである銀を倒してもなお、反逆者の立場を貫くことができるのだ。

 この、与夫、銀、そして“進化”の関係は、キリスト教における、神、天使、そして悪魔の関係にたとえることができるかもしれない。天使と悪魔は抗争を続けるが、天使の上位には神が厳然と存在している。一説によれば、この“天使と悪魔”という概念は、奇しくもゾロアスター教の影響によるものだという。山田正紀の作品にみられる対立関係がゾロアスター教の影響を受けて生まれたとすれば、やがてそれが同じように変化していくのも運命的といえるのかもしれない。
(注:<神獣聖戦シリーズ>では、この関係がよりはっきりしたものになっている。“鏡人=狂人{M・M}”が天使に、“悪魔憑き{デモノマニア}”が悪魔に、そして“大いなる疲労の告知者”が神に、それぞれ相当する。このシリーズは、天使と悪魔の抗争を、それに翻弄される人類の視点で描いたものだといえるだろう。)

***

 そして2002年秋、長いインターバルを経てついに『神狩り2』が発表される(加筆訂正された『神狩り 完全版』というおまけつきで)。山田正紀にとっての“神”、その最新の姿は、一体どのようなものになるのか。目が離せないところである。



 最後に、本書『最後の敵』についてもう少し触れておこう。

 (以下、『最後の敵』の内容に触れるのでご注意下さい;一部伏せ字
 冒頭に意味ありげな「カローン報告書」が、次いで木星での謎の爆発を描いた短い文章が掲げられているわりに、物語は日常的な現実から始まっているが、やがてその“現実”は姿を変えていく。その変容は“レベルBの現象閾世界”という言葉で説明されているが、日常的な現実と思われた世界の方が現実ではなかったことで、登場人物たちはすぐに新たな世界(作中の現実)に適応しているように思われる。そのため、読者にとっても異世界への移行が比較的スムーズになっている面があるのではないだろうか。

 その世界――遺伝子侵略により人類が破滅に瀕した世界――において、人類に対する裏切り者とそしられる与夫の姿は悲哀に満ちている。それは、彼が新人類となってしまったことによるもので、まさに“神”の悲哀といえるだろう。しかし、それでもなお、彼は決して孤独ではない。その傍らには、愛する鳥谷部麻子がいるからだ。

 終盤、与夫は麻子に“おとぎ話”を語り、ラストでそれがまた繰り返される。「いつの日か、“愛”もまた物理的な力であることが証明されるときがきたならば――」と。このラストは、一見あまりにも唐突に思える。だが、思い出してみてほしい。進化が用意した与夫の天敵、いわば進化に後押しされているはずの醍醐銀を、与夫が倒すことができたのはなぜだったのか。与夫を救ったのは、愛ゆえに戦いに介入した麻子に他ならない。このエピソードはつまり、愛が進化に対抗しうる力であることを象徴しているといえるのではないか。証明こそされていないものの、与夫の“おとぎ話”は作中ですでに現実のものとなっていたのであり、悲壮な戦いの果てには一つの光明が用意されているのである。
 (ここまで)

***

 なお、この作品が発表された後、遺伝子工学は大きな進歩を遂げてきた。作中でも触れられている、原核細胞と真核細胞の間の遺伝子組換えなどは、少なくとも実験室レベルでは日常的に行われているし、いわゆる“ヒトゲノム計画”によってヒトの染色体に含まれる塩基配列も大部分が解析されている。しかし、進化そのものについては、依然としてほとんど解明が進んでいないのが現状である。


2002.05.15 SAKATAM


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