「エスカルゴのオーブン焼き」に添えられた Grilled Escargots の最後の s だけ、どうも s に見えないのだ。 最初は z かと思ったほどだ。 各文字ごとに一つのフォントを用意して並べたのではなく、 前後の文字によって少しずつ字体を変えているようにも見える。 前の文字が t で、その最後の画は横棒となるから、 ペン先はかなり高い位置から s を書き始めることになる。 そのせいだろうか?
(私が習ったペン習字では、t の横棒を書く前に s を書き、 最後に t の横棒をひいたと思う。)
2008-11-26 (3) 22:58:24 +0900
道路交通法は信号機のない横断歩道における歩行者の優先を定めているが、 あれを文字どおりに守ったら、自動車の運転はできないのではないか、 と私は考えるので、運転免許は取得していない。(理由はほかにもあるが。)
でも、具体例がなかなか見つからなかったのだが、先日、見つかった。
## | | ## ## |===| ## ## | | ## ## |- | ## ## | | ##「|」が車道のへり、「===」が横断歩道、「-」が停止線である。 この停止線の位置に自動車が停まっている場合、「#」の部分は見えないとする。 建物があるとか、建物のかげになっている、とかである。 そして、ここで、「停止線から横断歩道までの距離のほうが、 横断歩道を延長して「#」にはいるまでの距離よりも長い」と仮定する。 また、この道路の制限時速は時速 40 キロメートルとし、 歩行者も時速 40 キロメートルで移動できるものとする。
(100 メートルを 10 秒で走るペースは、時速 36 キロメートルに当たる。 いまの世界記録はもっと速いし、 瞬間的には平均よりも速く走っているはずだから、 この仮定はそれほどめちゃくちゃなものではない。)
さて、ここで、 停止線に停まっている自動車が発進して横断歩道にさしかかるまでの時間よりも、 「#」のかげから走り出てきた歩行者 --- 走者というべきか --- が横断歩道の端にさしかかるまでのほうが短い。 よって、停止線で停止している自動車は、 走り出すことができないはずなのである。 (助手を自動車からおろし、横断歩道の位置まで移動させて、 人がこないことを確認させて走り出す、などとすれば別だが。)
次に、 停止線で停止せずに横断歩道にはいろうとする自動車について考えよう。 この場合、横断歩道の近くについては、 停止線で停止している自動車よりも、 見渡せる範囲が狭いことはあっても広くはないと考えられる。 もしも停止線を時速 40 キロメートルで通過すると、 横断歩道にかかる前に横断者が現れる可能性がある。 より低い速度で通過すれば、なおさらである。 よって、横断者がいるように見えなくても、 停止線で止まれるように走るしかなくなる。 そして、上で述べたように、発進することができなくなるのである。
2008-11-26 (3) 20:19:20 +0900
もしも自動車を運転していて信号機のない横断歩道にさしかかり、 そこを人が次から次へと渡り続けていたら永遠に通れない、 ということには道路交通法に目を通したときから気づいていた。 これが、昔、自動車の運転免許を取ろうと思わなかった理由の一つであった。
2008-12-02 (2) 21:03:56 +0900
注)いままで「○○・××ご両家」でダジャレのようになっている例をあげてきたが、 本項はそれとは異なる。 日本人にとって、あるいは核兵器について考えている人にとって、 「広島」と「長崎」が並ぶと、たとえそれらが都市名でなくても、 両都市に落とされた原爆のことが思い浮かんでしまうだろう。 そして、都市名でない「広島」と「長崎」が並ぶ機会として、 結婚式の「○○・××ご両家」があるだろう、というのである。
2008-11-25 (2) 01:40:27 +0900
本文ナシ
2008-11-25 (2) 01:39:09 +0900
本文ナシ
2008-11-25 (2) 01:38:20 +0900
本文ナシ
2008-11-25 (2) 01:37:42 +0900
「お母さまのさんすう」とかいう名前の連載があり、 おつりの問題だからといって引き算を使うとは限らない、 というような話の回に載っていたように思う。 子どもだった私は 80 円の買い物をして 100 円玉のほかに 10 円玉を3枚出す意味がわからず、母に尋ねたのを覚えている。
(いま Google で「"暮らしの手帖" さんすう」を検索したところ、 矢野健太郎氏による「お母さまのさんすう」という単行本が 暮らしの手帖社から出ているようなので、たぶんその元になった連載だろう。)
2008-11-25 (2) 01:30:16 +0900
24日づけ朝日新聞大阪本社版生活面「疑問解決モンジロー」は 「2千円札なぜ普及しないの」。
使えない自販機があった、あるいはまだある、というのは別として。
大蔵省(現財務省)に勤めていた紙幣研究家、植村峻(たかし)さんは、 「暗算が得意な日本人の特質と関係があるのでは」と推理する。
買い物の時、欧州や米国では、 買った物の値段に紙幣やコインで、どんどん足し算をして、 払った金額に達した時に、「これだけがお釣りだね」と渡してくれる。 こういうやり方だと、お札の種類がいろいろあった方が数えやすい。 ユーロには20ユーロ、ドルには20ドル紙幣があり、 他にもイギリスやカナダ、ブラジル、中国などで 「2」のつくお札がある。
一方、日本人は暗算が得意なので、引き算でおつりをパッと計算してしまう。 だから、「1と5のお札」で十分で、2千円札はなはなか普及しない、 というわけ。
確かにおつりの出し方は違うのだが、 それが「2」のつくお札・コインの有無と関係あるだろうか。 私は、そこが理解できなかった。
以下、私の推理を述べる。
たとえば、3000 円の買い物に対し 10000 円札が出されたとし、 欧米式でおつりを出そうとしてみる。 まず、1000 円札2枚か、2000 円札1枚を出し、 「5000 円」と心の中で唱える。 次に 5000 円札1枚を加え、「10000 円」として出す。 この際、どの札を出したらよいかは、 「いくらのときはどれを出す」 というのが頭にはいっていないとできないのではないか。 たとえば 4000 円の買い物に対し 10000 円札が出されたとする。 2000 円札1枚を足して「6000 円」としてはうまくない。
日本式の場合でも、おつりが
もう一つ。日本には、6000 円の買い物をして 10000 円札と 1000 円札を一枚ずつ、 つまり 11000 円出し、5000 円札でおつりをもらう方法がある。 これは欧米ではあまり普及しておらず、 出した 1000 円札を返されたうえで 4000 円のおつりがきた、 という話を聞いたことがある。 (もちろん、欧米の話だから、単位は「円」ではないが。)
「2」のつく紙幣・コインがある場合のこのような払い方については、 《財布の中の貨幣の数を常に最小にする支払い方》 で考察した。 結構、複雑なパターンがあるので驚く。 一例をあげれば、 10000 円札、5000 円札、1000 円札を1枚ずつで 16000 円持っていて、 7000 円の買い物をしたときは、 10000 円札と 1000 円札を渡して 2000 円札2枚のおつりをもらうのが紙幣の数を最小にすることになるが、 これがとっさにできる人は今の日本にどれだけいるだろうか。
以上、私の考えをまとめるならば、 第一に「2」のつく紙幣・コインでお金を出すことになれていないこと。 第二に、上の段落に書いたような、 財布の中の紙幣・コインの枚数を最小にする払い方をする習慣があり、 それに「2」のつく紙幣・コインがからむと複雑になること、 この二点ではあるまいか。
付) ほかに 《二千円札が普及しないのは 1 と 5 を単位とするそろばん文化圏だからでは?》、 《日本で二千円札が不人気なのはそろばんのなごりで「二」になじまないから?》、 《欧米に「二」のつく貨幣があるのは印欧祖語の双数のなごりでは?》も参照。
2008-11-25 (2) 00:48:04 +0900
「いくらのときはどの貨幣・紙幣を出せばよい」 ということが頭にはいっていないと使いにくい、 という説の傍証として、 手持ちの切手のなかから速達料金分の切手をはるときのことを思い出した。 いま、ネットで調べると、封書の一番軽いのは80円、 はがきは50円、速達はそれにプラス270円だそうである。 いま、官製はがきを書き上げた人が、 50円切手・80円切手を何枚かずつ持って郵便局へゆき、 「これを速達で出すにはあといくらですか」と尋ね、 270円と教えられたとする。 この状況で、私の場合、 50円切手と80円切手を何枚ずつはるのがよいか、 すぐには答えられない。 計算しなければ無理だ。 (実際には、たぶん、270円を現金で払ってしまうだろう。)
2008-11-28 (5) 20:00:26 +0900
カンダタが蜘蛛の糸を昇り始めると、カンダタの重みで蜘蛛の糸は伸びるだろう。 伸びきったあと、その反動として、こんどは縮むはずだ。 すなわち、蜘蛛の糸の先端は地獄から離れる。 お釈迦さまの住む極楽と地獄とはものすごく離れているから、 蜘蛛の糸の伸び縮みも相当なものとなる。 すなわち、地獄を離れていった蜘蛛の糸の先端は、地獄からは見えなくなる。 そして、縮みきると、今度はまた伸びて地獄に降りてくる。 そのとき最初に蜘蛛の糸を見つけた人間は、 「この蜘蛛の糸は自分のために降りてきたんだ」と思うのではあるまいか。
2008-11-25 (2) 00:41:40 +0900
24日づけ朝日新聞大阪本社版によると、実現の可能性が出てきているという。
2008-11-25 (2) 00:38:54 +0900
いないか。
2008-11-24 (1) 20:01:52 +0900
エンディングに至る前に、知らされていたとしか考えられない。 (新旧どちらのエンディングにしても。)
観客は皇帝の死を見てわかっているが、 あの状況では、ルークが知らせない限り、伝わらないはずである。 映像では省略されているが新デス・スターから脱出するルークが連絡したのか、 あるいはフォースでレイアに知らせたのか。
付)皇帝ネロは実は生きていて、というようなデマがあったことを考えると。
2008-11-24 (1) 19:51:48 +0900
「ジェダイの復讐」の終わり近くの、ルーク対ベイダー戦の中で、 ベイダーが「お前がダークサイドにおちなくても妹がおちるかも知れん」 というと、ルークはレイアのことを思ってしまい、 それをベイダーに見抜かれ、レイアがルークの妹、 すなわちベイダーの娘だとベイダーに知られてしまうシーンがある。
あれと同じ能力は、ジェダイや他のシスは持っていないのだろうか? もしもオビ=ワンが持っていれば、「クローンの攻撃」 で、ジオノーシスで捕えられ、ドゥークーの尋問を受けた際に、 ダース・シディアスとはパルパティーン議長のことだとわかったかもしれない。 (ドゥークーは知られないよう十分な配慮をしつつ語った、 とも考えられるが。)
皇帝は、ルークの怒りを感じることができたから、 シスにはできるということか。
2008-11-24 (1) 19:18:03 +0900
21日づけ朝日新聞大阪本社版生活面「ひととき」は京都市右京区の主婦、
森田紀江さんの「母の姿 見ていた息子」。
《信号のない横断歩道で、渡ろうとしたものの、
なかなか自動車がとぎれず、渡れなかった
》。
そのとき停止しなかった自動車は道路交通法違反である。
投書の趣旨とは関係ないが、 このことについてなんとも書いてないので気になる。
2008-11-22 (6) 01:42:18 +0900
20日づけ大阪本社版芸能面「50th ありがとう! フェスティバルホール」は
「名演響かせ半世紀3」。
《値段のもっとも安いこの席は、
かつてPP列と呼ばれていた。80年代、ここをこよなく愛する人たちがいた。
人呼んで、というより自ら「PP(ペーペー)会」と名乗った
》
のふりがなはカタカナと思われる。
《まさに“ぺーぺー”な業界の駆け出したち
》はひらがな。
最後近くの
《その後、ペーペーたちはペーペーでなくなり
》は再びカタカナだ。
「谷辺晃子」と署名あり。
2008-11-22 (6) 01:30:52 +0900
5月28日づけ大阪本社版芸能面「91歳ハスラーの人生 舞台に」。
《大阪市阿倍野区にある老舗(しにせ)ビリヤード場
「保名倶楽部」を、91歳の今も守り続ける現役ハスラー、
南川千代さんをモデルにした舞台「玉つき屋の千代さん」
が6月に上演される
》。
「西本ゆか」と署名あり。
《千代さんの息子で、放送作家の南川泰三さんが書いた
「浪速の女ハスラー 玉撞(つ)き屋の千代さん」
(集英社文庫)が原作
》とあるから、
原作が正しい意味で使っていてそれを引用しただけか、
原作も間違った意味で使っているからいい、と考えるか。
2008-11-22 (6) 01:19:41 +0900
Google で調べるとすでに出ていたが。
2008-11-20 (4) 00:42:02 +0900
19日づけ大阪本社版「医の最先端 神戸に集積」の記事中。
2008-11-20 (4) 00:38:31 +0900
10月24日づけ大阪本社版国際面「中国人権活動家 サハロフ賞受章」の中で。
2008-11-18 (2) 02:24:43 +0900
前項を書いていて思ったのは、 エレベーターのような身近な乗り物でも、 使い方のルール・マナーは人によっていろいろに理解されている、ということだった。
誰かが一人で空のエレベーターに乗り、 ドアが閉まるのを待っていたとしよう。あるいは、 「閉まる」ボタンを押してドアを閉めようとしたとしてもよい。 閉まりかかったところで誰かがやってきて、ボタンを押してドアを開け、 乗り込んできたとしよう。 そして、 ドアが閉まりかかったところでまた別の人がボタンを押して乗り込んでくる。 これを、エレベーターが満員になるまで繰り返していると、 かなりの時間がかかるのではあるまいか。
途中で、 しびれを切らした人が「俺は階段を使う!」といって降りる、 ということも考えられる。 そうやっているとそのエレベーターは永遠に動きだせないことも?
2008-11-18 (2) 02:04:56 +0900
17日づけ大阪本社版「声」に、 「ベビーカー優先」という見出しでまとめられた、 二つの投書が載っていた。 10月24日づけに掲載されたものへの反響だ。 そちらはまだ読んでいなかったので、そちらを読んでみた。
東京都稲城市の主婦、松木明子さんの「ベビーカーを優先し乗せて」。
《ベビーカーで外出した帰りの駅で、
エレベーターを使った時のことです。
閉まりかけたエレベーターのボタンを押し、
「すみません」と声をかけて乗り込んだところ、
50代と思われる女性に「あと2分で電車がきちゃう」と言われました。
その女性は、エレベーターから降りるまで
「あと2分でくるのに」と繰り返しました。
私は悲しい気持ちと、怒りでいっぱいになりました
》。
途中にあった段落がえは無視して引用したが、これでほぼ前半分。
残りでは、エレベーターではベビーカーを優先してほしいという主張である。
私には、この女性が機嫌を損ねたのはベビーカーのためではなく、 閉まりかけたエレベーターのボタンを押して乗り込まれたためだと思われる。
次に考えるべきは、 「閉まりかけたエレベーターのボタンを押して乗ること」の是非である。 私には、一向に構わないように思う。 「上」なり「下」なりのボタンを押して、ドアが開き、 かつ自分が乗る空間があれば乗り込んで構わない。 これが、私が理解しているところのエレベーターの利用法である。 閉まりかかっていたらボタンを押すべきではないというのがルールなら、 その場合はボタンを押しても開かないように設計しておくべきであろう。
だから、私は、この投書者に同情するが、 それはベビーカーが優先されなかったからではない。 ボタンを押したら乗れたから乗ったのに、嫌みを言われ続けたからである。
そう思ってから17日づけに戻ると、
大阪市港区の主婦、渋谷三恵子さんの「エレベーター利用に心配り」
は、エレベーターでのベビーカー優先に話をしぼっている。
徳島県吉野川市の主婦、財田小由美さんの「1基を見送る余裕がほしい」は、
《しかし、投稿を読んで最初に感じたのは、
次のエレベーターが来るのを待つ余裕もないほど、急いでいたのだろうか、
ということだった
》と述べ、
ベビーカーで急ぐことの危険性も述べている。
閉まりかけたエレベーターのボタンを押して乗り込むことが、
“急いでいる”とみなされるかどうか、私には判断できかねる。
そうとも言えるし、上に書いたように、当然の権利に基づく行動とも思える。
当然の行為であるなら、急いで乗り込む必要はないのだから、
普通に乗り込むときと比べて危険性は変わらないように思う。
《駅では、駆け込み乗車は危険だから、やめるように放送されている
》
のは確かである。
だが、閉まりかけたエレベーターのボタンを押して乗り込むことが、
それと同等に扱われることとは、私には思われない。
(いや、そのとおりだ、という考え方もあるだろう。)
ただ、 「閉まりかけたエレベーターをボタンを押して開けると、 先に乗っていた人の機嫌を損ねることがある」ということは、 覚えておいたほうがよさそうである。
2008-11-18 (2) 01:37:49 +0900
QRコードとは、新聞や雑誌の広告などで見かける、 黒と白の点からなる正方形の図形で、 携帯電話のカメラで写すと URL などが読み取れる、あれ。 たいていは一辺の長さが 1.0 から 1.5 センチメートルぐらいなので、 あのくらいの大きさに限るのかと思っていたら、 きのう、バスの中で、10 センチメートル四方ぐらいのを見た。 大きさに制限はないのか?
もしそうなら、 高校野球の応援の人文字で、QRコードになっているものも作れるか?!
作ってどうする、という質問はしないように。
2008-11-18 (2) 01:30:35 +0900
……のに。 あんなに近づいたものだから、ライトセーバーで腕を切られてしまった。 (遠くから発砲しても、 ライトセーバーではじき返されて結局はやり損なっただろうが。)
2008-11-17 (1) 20:00:54 +0900
本文ナシ
2008-11-17 (1) 19:59:40 +0900
どちらも姓と考えてほしい。
2008-11-17 (1) 00:15:46 +0900
文語訳「詩篇」74,22《神よおきてなんぢの
……》を読んで、ふと。
ここは「起きて」なのだが、漢字を使わなかった理由はわからない。
(名詞は大文字で始めると決めれば、この例は区別できる。)
2008-11-17 (1) 00:07:14 +0900
英語なら「ベクター」になろう。 いま、多くの術語が英語からはいっている中で、珍しい例か。 昔はいった語だからかな?
2008-11-17 (1) 00:05:03 +0900
小中学生のとき使っていた地図帳に「ヨーロッパ主要部」などというページがあった。 その地図はヨーロッパ全体をカバーしておらず、 比較的重要な地域のみを載せているので 「主要部」となったのだろうが、 この言い方には「それ以外の地域は主要でない」という響きがある。
(日本地図について、この「主要部」に異議を唱えた投書を読んだ記憶がある。)
その「主要」が、北鉄バス車内の路線図に使われているのに、先日気がついた。 「一部をあげたのみです」「全部ではありません」の意味だろう。
2008-11-16 (0) 23:59:07 +0900
これも前々項に関連する。
銀行のキャッシュコーナーで、後ろに人が並んでいるとする。 この場合、一人でどれだけの回数、 続けて使ってよいのかのルールはあるのだろうか? 数回に分けてお金をおろす場合など、 確かに、後ろで待っている人が気になる。 窓口で人に対応してもらっている場合には、 かなり長い時間がかかっても問題にされないと思うが、 このあたりの心理はどこからくるのだろう? 一列並びをしていなくて、 すぐ背後に人が待っていると、特に強く感じる?
2008-11-15 (6) 01:31:13 +0900
前項を書いていて思い出した。
ここ金沢市で、 交差点を右に見て、青信号で横断歩道を渡っているとき、 反対向きに走ってくる自動車の運転手の中に、 頭を下げて加速し、目の前を右折して通過してゆく人がときどきいる。 「すみません、先に通ります」のつもりかもしれないが、 自動車を運転する知人に聞いたところでは、 道路交通法違反である。 (横断歩道のうち、歩行者が渡り終えた部分を通過するのは構わないそうだ。)
2008-11-15 (6) 01:29:40 +0900
14日づけ朝日新聞大阪本社版「声」に掲載された、 京都市下京区の大学生、中村華子さんの投書「大人が進んで頭を下げよう」 の終わり近く。
《先日、すがすがしい光景を目にしました。
横断歩道を渡りきった小学生が、
振り返って車に深々と頭を下げたのです。
きちんとした家庭教育がなされているのでしょう
》。
これをすがすがしいと思う気持ちは理解できる。
しかし、ここでいう「横断歩道」は信号機のない横断歩道か、
あるいは歩行者側が「青」の横断歩道であろうから、
自動車を停まらせて横断するのは道路交通法で定められた歩行者の権利である。
投書者がそのことを知っているのか知らないのかは、文面からは全くわからない。
これが、その前の
《スーパーの陳列棚を見ている客の前を堂々と通り過ぎる人。
ささいなことですが、決して気持ちのいいものではありません
》
や
《銀行のキャッシュコーナーで機械を長時間独占する人。
長蛇の列にも何食わぬ顔。
待つ人のイライラはちょっとした心遣いで収まるのに、
頭を下げもしません
》
のような無礼・非常識とも思われる例と並んで書かれていると、
読者のうちで道路交通法をよく知らない人に
「横断歩道で自動車を停まらせるのは無礼・非常識なこと」
との誤解を生じさせるかもしれないのがちょっと心配だ。
(私も、大学にはいるまで知らなかった。
大学一年生のとき法学の時間のために買った六法を見ていて初めて知ったのだ。)
その間に
《
「人前を通るときは腰をかがめ、前を失礼しますと言いなさい。
人より先に用を足させてもらったら、
お先に失礼しましたの一言を忘れずに」。母の口癖です
》
とある。
このお母さまのことばが、
たとえ法律上では自分の側に優先権があっても礼を忘れずに、
の意味だとし、かつ、これが最初に引用した小学生の話に続くのだとすると、
横断者と運転手の立場を入れかえて考えてみれば、
歩行者用信号機のボタンが押されたがまだ自動車側が青のときに横断歩道を通過する自動車の運転手は、
歩行者に「お先に失礼しました」の一言をかけるべきだ、
あるいは腰をかがめるべきだ、となると思う。
声をかけてもおそらく聞こえないだろうし、
そのような姿勢をとることは危険だと思うので私はそれには賛成しないが。
ほかにも、自動車が歩行者に“優先”される状況はいくつも考えられる。 車道のわきに狭い歩道がついているだけの道では、 運転手は「まん中の広い部分を通らせていただいて済みません」 と思う必要があろうし、 歩道橋を渡っている人を見かけた運転手は 「わざわざ階段を上り下りしていただいて済みません」 と思う必要があろう。 こういう場合がすべて問題になってくる。
この投書の全体の趣旨であるところの、 大人が礼儀をわきまえよう、というのにはまったく賛成だ。 ただ、横断歩道を渡る際に礼をする必要があるかどうかは、 信号機のない横断歩道における歩行者の優先がほとんど守られておらず、 自動車の運転をしない人にはその規則があまり知られていない現状では、 道路交通法で歩行者の優先が定められていることはっきりと説明した上で、 別に議論が必要なのではあるまいか。
付) 銀行のキャッシュコーナーについては、 一列並びをすればほとんど解決すると思う。 長時間独占する人がすべての機械を占めることは滅多にないと思うからである。
2008-11-15 (6) 00:26:42 +0900
苅田敦也はここでは架空の人名。
2008-11-15 (6) 00:22:50 +0900
字数の関係でタイトル行に入れられなかったが、 最後の「答ふ」からわかるように、古文による回文である。 「二子玉川」は「ふたごたまがわ」ではなく「ふたこたまがわ」と読むそうだ。 よって歴史的かなづかいで書けば「ふたこたまがは」。 「答ふ」は現代語「答える」に対応する古語。
2008-11-15 (6) 00:12:17 +0900
本文ナシ
2008-11-13 (4) 00:53:30 +0900
現行のカードは ICa と呼ばれ、機械に近づけるだけで OK なのに。 古いステッカーを貼ったままなのであろう。 タイトル行のカギカッコの中の文言は記憶に基いているので違っているかも。
2008-11-08 (6) 23:40:29 +0900
本文ナシ
2008-11-08 (6) 23:36:04 +0900
本文ナシ
2008-11-08 (6) 23:34:28 +0900
本文ナシ
2008-11-08 (6) 23:32:39 +0900
神泉は地名だが、特にこれを選んだ理由はない。新線とかでもよい。
2008-11-08 (6) 23:30:57 +0900
本文ナシ
2008-11-08 (6) 23:29:49 +0900
本文ナシ
2008-11-08 (6) 23:28:22 +0900
本文ナシ
2008-11-08 (6) 23:27:12 +0900
本文ナシ
2008-11-08 (6) 23:25:45 +0900
2日づけ大阪本社版社会面「JR急行 風前」「最後の昼行便「つやま」来春限り」。
《「つやま」が廃止されると、
他に残るJR急行はいずれも夜行列車の
「はまなす」(青森―札幌)、
「能登」(上野―金沢)、
「きたぐに」(大阪‐新潟)の三つだけになる
》
とあるのだが、「きたぐに」だけ、
始発駅名と終着駅名との間の線が短いのはなぜ?
《中村二郎
》と署名あり。
注)ここで使った「―」「‐」の記号が、 紙面で使われている記号と“同一”であるかどうかはわからない。 ただ、長短の差がはっきり出るものを選んだだけである。
2008-11-06 (4) 00:20:14 +0900
踏切はカンカンではなくくゎんくゎんだと》
3日づけ朝日新聞大阪本社版の「朝日歌壇」の、
四国中央市の三宅郁子さんの
《踏切はカンカンではなくくゎんくゎんだといってたあなたの秋が来ました
》。
選者の高野公彦氏は
《秋はことに音が澄んで聞こえるね、
と生前のご主人は言っていたのだろう
》
と評しているが、「カ」と「クヮ」を区別する人だった、
ということはないのだろうか?
2008-11-06 (4) 00:14:09 +0900
3日づけ朝日新聞大阪本社版「天声人語」はドナルド・キーン氏の話だ。
《キーンさんは10年ほど前にも、「日本語で講演しているのに、
名刺をくれる人は必ず裏のローマ字表記の方を示す」
とやんわり異議を申し立てている
》。
氏名については、「ローマ字表記」で全く正しい。
ただ、肩書きなどについては英語で記している人が多いようである。
付) ここでいう「名刺をくれる人」とは日本人をさしていると私は思う。 だが、「日本語の講演を聞くのは日本人」と決めてかかるのも、 また同種の誤りに陥っているのではないか、と思うのだ。
2008-11-06 (4) 00:07:24 +0900
いま、私の髪は便座までつく長さなので、失敗。
2008-11-04 (2) 00:27:55 +0900
香林坊の地下通路に、八月ごろ、張り出されていた。 児童が「人間は神様にはなれないし、神様には形はありません」 と描くのを拒否したら?
2008-11-02 (0) 00:05:44 +0900
梶井さんと谷尾さんが鬼退治をした、と。
2008-11-02 (0) 00:02:34 +0900
本文ナシ
2008-11-01 (6) 23:29:12 +0900
完全に視力を失ったわけではない人も使うからだろう。 男性用女性用があるので計4種類。
2008-11-01 (6) 22:36:33 +0900
mouri と発音しているかも知れない。
2008-11-01 (6) 18:44:19 +0900
…言っていた。
2008-10-31 (5) 00:40:15 +0900
本文ナシ
2008-10-30 (4) 23:54:48 +0900
「ものす」は古語。
2008-10-30 (4) 23:54:09 +0900
「からだが暖まるから風呂にはいろう」とは構文が違う、ということだな。
2008-10-30 (4) 20:37:05 +0900
本文ナシ
2008-10-30 (4) 20:34:13 +0900
本文ナシ
2008-10-30 (4) 20:32:52 +0900
本文ナシ
2008-10-30 (4) 20:31:50 +0900
「話す太郎」「話す相手」でも同じ。 「相手」が特別な性質を持った語、ということ?
2008-10-30 (4) 20:28:46 +0900
中井駅で大江戸線と乗り換えられるので、中井駅付近には大江戸線が書いてある。 一方、 小竹向原から副都心線に乗り入れる電車もあるので副都心線は全体が書かれており、 東新宿駅も乗っている。 しかし、大江戸線が東新宿駅を通るようには書いてなかった。 九月に帰京したとき気づいた。ちょっと不思議。
2008-10-30 (4) 20:24:31 +0900
九月に帰京したとき、気づいた。 少なくとも内回りはなかった。 乗り換えても渋谷方面に向かうなら渋谷駅にしか行けず、 だったら山手線に乗ったままでよい。 池袋・小竹向原方面に行く人が乗っていることは考えにくい。 そういうあたりからか。
2008-10-30 (4) 20:20:56 +0900
前項参照。
2008-10-30 (4) 20:14:28 +0900
《「押そう」は osô, 「襲う」は osou が普通と思われる》、 《「誘う」は sasou,「刺そう」は sasô って小学生にわかるかな》 参照。
2008-10-30 (4) 20:09:53 +0900
少し前は、両局対応といってもスイッチで東局か西局かを選ぶのだった。 両局自動対応になって便利ではあるが、 なにかの都合で「東局だけ受信」「西局だけ受信」を選びたいとき、困る。
「東局だけ受信」「西局だけ受信」とした電波時計を並べて置くことにより、 どちらかの局が間違った時刻の電波を出したときに気づくことができる、 と思うのだが、そういう可能性はものすごく低いのかな。
2008-10-30 (4) 20:02:46 +0900
葬儀関連のサイトで。
2008-10-30 (4) 20:02:04 +0900
そういうやつもいるだろうな。
今年が平成20年であることを知らないと意味がわからないかも。 あとで見返すときのために書いておこう。
2008-10-29 (3) 19:08:22 +0900
それをするといったん子ども時代に戻ってプレイすることになるが、 無駄に過ごした奴隷時代に別の冒険をすることができて、 元に戻ると、同じレベル99でも前とは強さが違う、という技があるという夢。
五臓六腑の疲れか。
2008-10-28 (2) 00:00:42 +0900
以前の口語訳では《おしとつんぼの霊よ、わたしがおまえに命じる
》
となっていた。これでは、霊が《つんぼ
》ととれる。
そうだとすると、イエスが言葉で命令できたのはなぜか、という疑問が生じてしまう。
最近の版では、《言うことも聞くこともさせない霊よ、
わたしがおまえに命じる
》となっている。
不快語の言い換えの結果だろうが、意味がわかりやすくなっている。
文語訳は、初期の口語訳と同様であり、 新共同訳は最近の口語訳と同様。 原文では、「おしとつんぼの霊」のようで、岩波版は直訳に近く訳している。
2008-10-27 (1) 23:47:31 +0900
マルコ 14.68 と 16.9 がそうである。 マルコ伝を通読していて気がついた。 「聖書の誤植」に追加。 マタイ伝にはこの種のミスはないようだ。
2008-10-27 (1) 23:44:24 +0900
too か either か、という疑問。
2008-10-27 (1) 20:17:05 +0900
飛んでみないと空を飛べるかどうかわからないはずだが。
私自身で言えば、生まれてからこのかた、 飛んでみた高さは3メートルぐらいのものだろう。 そのときはプールに足から飛び込んだのだが、空を飛ぶことはできなかった。 でも、デパートの屋上から飛んでみれば、空を飛べるかも知れないのである。
2008-10-27 (1) 02:06:43 +0900
「何時」なのかがまず知りたくて、「何分」はその次、と考えるとそうなるような。 「小秒針」なるものの存在も、これを裏づけるような。
もちろん、長い間の慣習だから、変えるわけにはゆかないだろうが。
2008-10-22 (3) 23:29:24 +0900
いや、これは現状通りのほうがいいのだ。 時針は、分針の位置と組み合わせて見ることにすれば、 30 度おきの位置しか取りえない。よって、短くていいのだ。
2008-10-27 (1) 20:21:19 +0900
歴代志下をようやく読み終わり、エズラ記は一気に読んだ。
2008-10-19 (0) 01:13:09 +0900
飛び降り自殺の場合、飛ぶ瞬間が「もう引き返せない瞬間」で、 「意識を失う」のは地面に叩き付けられるときだろう。 その間に、何かやり残したことを思い出したとしたら、 悔いが残るのではあるまいか。
よって、これが短ければ短いほど、すぐれた自殺法だと思う。
(悔いは残ってもほんの一瞬で消え去るからどうでもいいだろう、 という意見もあろうが。)
2008-10-18 (6) 20:39:54 +0900
ここ金沢市ではラジオ局がNHKのほかには一局しかないこともあり、 「Yahoo! プロ野球」で野球“観戦”をすることがあるのだが、 そこで「投球前」とあるのを見るとなぜか「東急前」を思い出し、 そして「三越前」が思い出されてしまうのだった。
2008-10-18 (6) 20:30:15 +0900
2007年3月17日づけ朝日新聞大阪本社版社会面の、
「長浜・園児殺害事件 67人と“卒園”」。
《市教委によると、冒頭で卒園児を含む約170人の園児に、
教諭が「目をつぶりましょう」と呼びかけ、30秒間黙祷
》。
黙祷の際には必ずしも目をつぶる必要はないのだが。 この指示が決して間違っているというわけではない。
2008-10-17 (5) 01:04:19 +0900
2007年5月9日づけ大阪本社版「あしたを考える」は
「国民投票 海外での役割は」。
《海外での国民投票の実態を調べた。
日本では「憲法改正の手続きを定める」という限られた目的しかないが、
国民投票とは本来、間接民主主義と両立して民意を直接示す手段だ
》。
『日本では「国会が発議した憲法改正案の賛否を問う」』
ぐらいが適切なのではあるまいか。
2008-10-17 (5) 00:49:31 +0900
13日づけ大阪本社版社会面の、三浦和義元社長の自殺に関連して、 先月5日に書いたという手記について述べた部分の最終段落。
手記の末尾は「この本が書店に並ぶころには日本に戻り、 今までどうりの平穏な生活に戻っていることを想像しつつ、 静かな心で合掌です」と結んでいた。
「今までどうり」は「今までどおり」のことだろう。 「原文のまま」などの断り書きがいるところではあるまいか。
2008-10-16 (4) 01:11:27 +0900
12日づけ大阪本社版生活面「ひととき」は、 堺市の松本由美子さんの投書「風邪の日、父の夢」。
暑かった夏がウソだったかのように、急に秋が訪れて、風邪をひいてしまった。 主人が家にいる休日の朝、とうとう床に伏せてしまった。
この「伏せて」にひっかかったので、辞書をひいてみた。 五段活用の自動詞「伏す」なら「伏して」に、 五段活用の自動詞「伏せる」なら「伏せって」になる。 「伏せて」になるのは下一段活用の他動詞「伏せる」だ。 だから、「床に伏してしまった」か「床に伏せってしまった」 が正しいと思うのだが。
投書者を非難しているのではない。 編集部で直さなかったのだろうか、と言いたいのである。
2008-10-16 (4) 01:00:44 +0900
…答えてしまったら、なんだかものすごく恥ずかしい気がする。 いま食べなかったら、もう食べる機会はないのだから。
もっとも、恥ずかしいと感じるのもあと数分だけなのだが。
2008-10-15 (3) 19:34:17 +0900
普通に考えると、一番いやなことは死ぬことだ。 だから、「いやなことを後回しにしてはいけない、 いやなことから順に片づけなさい」と言われたら、 すぐに死ぬ、すなわち自殺することにならないだろうか。
2008-10-15 (3) 19:30:03 +0900
「孫」が姓で「悟空」が名前みたいなもんだよね? その場合はしないのが普通では?
2008-10-15 (3) 01:38:00 +0900
ここ。 Google の画像検索では 21 から 30 番目にくる。 あまり関連のない写真が並んだあとなので、気づかずにいた。
2008-10-13 (1) 02:08:50 +0900
2008-10-10 (5) 01:05:13 +0900
ネットサーフィンしていて、 LA CLAIRIERE: MERCI ! というページを見つけた。 著者は今年度前期のNHKラジオのフランス語番組の担当者。 その打ち上げに先生もいらっしゃったという話なのだが、 語学番組のできるまでがわかったりもして、ちょっと興味深かった。 (その次の投稿も参考。)
先生はお元気ということはまたテレビ・ラジオに復活される可能性もあるわけで、 楽しみにしていよう。
2008-10-10 (5) 00:52:06 +0900
近所に、下図のようになっている交差点がある。 仮に上を北として説明しよう。
| | | | ----+# +------- I # I ----+# +------- | . . |「#」は横断歩道、「I」は停止線であり、横断歩道の標識が立っている。 自動車が、東からきて北へ右折するとしよう。 その場合でも、横断者がいたら、停止線で停止しなければならないのだろうか。 普通に通行すれば、全く横断歩道は通らないのだが。
それとも、南北の道のほうが東西の道よりも幅が広いので、 その意味での停止線だろうか?
この交差点の南はすぐ橋であり、自動車は通れない。 よって、南北に通過する自動車はありえない。 それでも、北からきて西に向かう自動車があるから、 それを優先せよというための停止線?
2008-10-10 (5) 00:43:05 +0900
Windows95 をいつものように使ってこの「いろいろ」を書いている。 しかし、できるファイルの日付が昨日、すなわち 2008-10-09 になるのだ。 時刻は合っている。
一瞬、Vz 最後の日か?! と思ったが、 date コマンドで日付を変えて実験しているうち、直った。 (おかしかった間も、パソコンのクロックは合っていた。)
2008-10-10 (5) 00:37:24 +0900
9日づけ朝日新聞大阪本社版「声」の、主婦、前川由記子さんの投書 「歩行者が優先 規則守らぬ車」。 ちょっと前に、 信号のない横断歩道における歩行者の優先が守られていないという投書があった。 《朝日新聞>珍しく「声」に横断歩道における歩行者の優先を訴える投書が》 である。まただ。朝日新聞として集中的にとりあげようというのだろうか。 それはともかく。
《昔なら横断歩道で少し待っていれば、必ず車は止まってくれたのだが、
今ではいくら待っても止まってくれない
》とあるが、
この「昔」の状態でも道路交通法違反であることは明白である。
(この人が間違ったことを書いているといっているわけではない。念のため。)
2008-10-10 (5) 00:27:06 +0900
7月8日づけ大阪本社版国際面「アジアの街角」に
《虫たちと一緒に小人も出てくるとの言い伝えから、
3月の啓蟄(けいちつ)の行事だった。
今は年中行事となり、週末には多くの人が集まる
》。
《文と写真・奥寺淳
》と署名あり。
ただし、「年中行事」は広辞苑ぐらいの大きさの辞書でないと載っていないようだ。
2008-10-10 (5) 00:19:45 +0900
《紀元前のグレゴリウス暦*年は皇紀*年と一致するとは限らない?》 に関連して、ふと、皇紀 1 年二月 11 日の、 いわゆる神武天皇即位の日付が、 グレゴリウス暦の紀元前 660 年二月 11 日と一致するだろうか、 と気になり出した。
皇紀 1 年から 660 年までのうるう年は、 4年おきとした 660/4 = 165 から、 皇紀 560 年(660 を引くと -100 になって平年となる)、 皇紀 460 年(660 を引くと -200 になって平年となる)、 皇紀 360 年(660 を引くと -300 になって平年となる)、 皇紀 160 年(660 を引くと -500 になって平年となる)、 皇紀 60 年(660 を引くと -600 になって平年となる)、 の5回を除いた 160 回。
一方、紀元前 660 年から紀元前 1 年までのグレゴリウス暦のうるう年は、 4年おきとした 660/4 = 165 から、 紀元前 600 年、500 年、300 年、200 年、100 年の5回を除いた 160 回。
そして、二月 11 日はうるう日である二月 29 日よりも前だから、 大丈夫、一致するのだ。
2008-10-09 (4) 01:42:20 +0900
角川文庫、2008 年。
2008-10-07 (2) 22:31:40 +0900
9月8日づけ朝日新聞大阪本社版社会面。 大相撲力士の大麻問題の記事で、「委員会側の主張」の中。 「ロシア文字で書いたため」ではないのだろうか?
2008-10-07 (2) 01:33:50 +0900
6日づけ大阪本社版のまん中に GLOBE という、 4 ページの別の新聞のようなものがはいってきた。 G-2 面にいきなり「郷富佐子」とあるのでビビッときた。 彼女の名前を紙面で見るのは久しぶりだからだ。
《郷記者の取材日記は、ウェブサイト
http://globe.asahi.com
でご覧いただけます
》とのこと。
G-4 面によれば、GLOBE 副編集長だそうだ。
よく見たら、G-1 面全面の写真も郷富佐子氏によるものだ。
2008-10-07 (2) 01:08:50 +0900
5月8日づけ大阪本社版文化面の記事。 「おはす」という現代語はないと思うのだが。
2008-10-07 (2) 01:05:27 +0900
3日づけ朝日新聞大阪本社版「声」に載った、小学生、西元美樹さんの投書 「ゆずられたら座ってほしい」。
バスの中でお年寄りに席をゆずったのだが、
座ってもらえなくて、その席は空きっぱなしだった、というもの。
《学校で、お年寄りや体の不自由な人に席をゆずりましょうと習ってきたのに、
とても気まずくて次に同じようなことがあった時、また席をゆずれるかどうか、
人の目が気になってしまいます。
お年寄りは席をゆずられたら、えんりょせずに座ってください
》。
まず、相手が座っても座らなくても、 この投書者がしたことが立派な行為であることに変わりはない。 事情があって座りたくない人もいるだろうから、 ゆずられたら絶対に座れ、というのには無理があるだろう。 私は、このような場合、「あ、そうですか」と言ってまた自分が座ってしまうが、 小学生だと、なかなかそうもゆかない面もあるだろう。 どうして、学校はこのような場合の対応法を教えないのだろうか。 「『あなたのようなお年寄りが立っているところで座ったままでいることはできません』 と言ってそのまま立っていなさい」と教えるのも一法か。
いろいろ、思いつくままに書いてみた。 全員着席を原則としない日本の交通機関にも問題があるのだが。
2008-10-07 (2) 00:54:08 +0900
懐中時計を買おうかとも思っていたが、 腕時計が仕事にじゃまなら、カバンにしまえばいいだけの話だ。 しかし、むき出しでカバンに入れると腕時計が傷みそう。 そこで、クリアーホルダーに入れてしまうことを考えた。
しかし! 購入したリヒトの HOLDER CASE L-TYPE "PLAN-DO-SEE" F-282 は、完全に透明ではない! ダイバーズウォッチの針は見えるが、 日付・曜日までは見えないのである。失敗。
2008-10-06 (1) 19:54:57 +0900
PC-9801 VX が使えなくなるかも知れないので、 日記つけを Windows マシンに切り換えた。 Windows ではテキストエディタは notepad しか使っていない。 notepad は .bak を作らないので、 編集時に間違って何かを消していないか、ちょっと不安である。 そこで、バッチファイルを書いて .bak を作り、 編集後、それと比較することにした。
最初に考えたのは
copy %1 %1.bak notepad %1 fc /3 %1 %1.bakである。
これだと、最初の copy 時にエラーが起きると、 元のファイルが失われる。そこで考えたのは
del %1.bak ren %1 %1.bak copy %1.bak %1 notepad %1 fc /3 %1 %1.bakである。これなら、元のファイルは必ず .bak として残っている。
2008-10-05 (0) 02:27:20 +0900
日記は、これまでは PC-9801VX + 自作 FEP + Vz でつけていた。 編集時にうっかり大事なものを消していないか心配なので、 必ず fc で .bak ファイルと比べていたが、どうも、うまく比較してくれない。 私は日と日の境目を二行の空白を置くことで示している。 それを、誤解するようなのだ。 今回、fc にオプション /3 をつけるようにしたら、うまくゆくことに気づいた。 これなら Windows に移行して notepad で編集しても大丈夫だ。
これに気づいていなかったので、 いままでは Vz の二つのバッファを比較する機能を使っていた。
2008-10-05 (0) 02:16:50 +0900
以前のこと。 鼻がつまって目が覚めかかった。 死んだら鼻はつまらないだろうから、これは生きている証拠だ、 と思ったのだが、死んで綿が詰められているのかも知れないのだった。
2008-10-05 (0) 01:52:20 +0900
Google の画像検索で適当なのを選んで。
2008-10-04 (6) 01:05:39 +0900
2008-10-03 (5) 00:57:30 +0900
5月19日づけ朝日新聞大阪本社版社会面の、「四川大地震1週間」の記事。
《超ちゃんは今も、夜になるとおびえたように突然泣き出したり、
母の名を呼び続けたりする
》とある。
《冨森ひな子
》と署名あり。
《「母親の名を泣き叫ぶ」》 参照。
2008-10-03 (5) 00:50:27 +0900
5月25日づけ大阪本社版文化面「現場から 万城目学です」の「中」に、
《こんなペーぺーのために
》とある。
2008-10-03 (5) 00:46:57 +0900
わが国の現行暦のうるう年の入れ方は、 皇紀から 660 をひいた数が
これがグレゴリウス暦の採用以前にまでさかのぼって適用されるのだろうか、 と前に 《たとえば「皇紀 1600 年」と言った場合、グレゴリウス暦で?》 で考えた。
しかし、 グレゴリウス暦を紀元前までさかのぼって適用したものと皇紀とでは、 紀元前になると食い違いが出てくるのではないか。
西暦 | 皇紀 | ||
---|---|---|---|
4 年 | 閏年 | 664 年 | 閏年 |
3 年 | 平年 | 663 年 | 平年 |
2 年 | 平年 | 662 年 | 平年 |
1 年 | 平年 | 661 年 | 平年 |
紀元前 1 | 平年 | 660 年 | 閏年 |
紀元前 2 | 平年 | 659 年 | 平年 |
紀元前 3 | 平年 | 658 年 | 平年 |
紀元前 4 | 閏年 | 657 年 | 平年 |
紀元前 5 | 平年 | 656 年 | 閏年 |
皇紀 660 年の三月 1 日以降は紀元前 1 年のそれと日付が一致するが、 皇紀 660 年の二月 29 日は紀元前 1 年の二月 28 日にあたる。 さかのぼってゆくと、このずれは、 皇紀 657 年の三月 2 日が紀元前 4 年の三月 1 日に当たるところまで続き、 皇紀 657 年の三月 1 日は紀元前 4 年の二月 29 日となり、 その前の日は 皇紀 657 年の二月 28 日が紀元前 4 年の二月 28 日となって、一致する。 しかし、この一致は皇紀 656 年の三月 1 日までしかさかのぼらない。 その前日は、皇紀では 656 年の二月 29 日であり、西暦では紀元前二月 28 日である。
東京へ研修に行っていて、朝目が覚めた瞬間に気がついたこと。
2008-10-03 (5) 00:21:06 +0900
まず、移動用フロッピーを用意しなければならない。 完全に新しいのはないので、 ラベルの貼ってないのを 98 の ecology で中身を見て、空であることを確かめる。 それを PC-9821 Xa7 で、1.44 M バイトでフォーマットしたいのだが、 オプションを忘れている。 二度、無駄にフォーマットしてしまった。
その間に、 日記は 5 インチと 3.5 インチのフロッピーに同じものを入れていたはずなので、 VX で「fc %f in (*.*) do fc /% g:%f >> h:kekka」 として内容を比較。 「違いは見つかりません」だったので、 3.5 インチのほうを PC-9821 Xa7 へ。 (Xa7 は、98 フォーマットと DOS フォーマットの両方が読み書き可能なのだ。)
全ファイルをハードディスク内のフォルダに移動。 フロッピーを移動用のに入れ換えて、そこへファイルを移動。
そのフロッピーを LaVie に挿入し、ハードディスク内のフォルダに移動。 さらにそれを USB メモリへコピー。
ここで最後の二つを fc で比較し、差のないことを確認。
逆にそれを移動用フロッピーにコピー。 Xa7 で 98 でも読めるフロッピーに移動。 それを VX に戻して、5 インチのと比較。
僕は神経質なのか、単に移動するのでは不安で、必ず比較をしないと気が済まない。 しかし、思っていたより簡単にできた。 でも、これでTコードを使う機会はほとんどなくなった。ちょっと残念。
2008-10-01 (3) 23:17:18 +0900
そう言っている人がいるかもしれない。
地名と書いたが実際には住居表示のこと。
2008-10-01 (3) 20:23:59 +0900
各駅停車が止まっているところを、急行列車が追い越すとする。 「追い越される電車」と言ったら各駅停車を指すようだが、 その各駅停車に乗っていたら、「(僕らが)追い越される列車は急行? 準急?」 のように言うような気がする。
なんだか変な気がするが、すぐにはわからない。
2008-10-01 (3) 01:36:51 +0900
後者は、 「それによって僕らが追い越されるところの列車」。
「殴られた男」も、「僕が殴られた男」の意味を持ちうるか。
2008-10-01 (3) 20:27:29 +0900