日 記

(2011年6月)


<Welcome from Fukushima - Konno>

◇ 6月も最終日です。真夏のような暑さが続いています。あの日から、時間の経過に鈍感になりました。カレンダーの数字を見ない限り、期日を実感できなくなってしまいました。
 今朝の1コマ目は、単発の講義です。行政政策学類の「キャリア形成論」(1年次必修です)。月曜日も木曜日も各学類の責任で開講しているオムニバスの講義ですが、今年が最後の機会と思い話をしましたが、思いだけが強くて、もう少し絞ったほうがよかったと反省。いつものことですが。現代の労働事情と労働者の権利がテーマですが、まじめに聞いてくれました。知識付与型ではないので、1年生の気持ちの接点を、なかなか見つけられなかったようです。
 偶然、世話役の教員から、早期退職して長らく介護をしていた友人Yさんの母上が、4月に逝去されていたと聞きました。この間、メールなどを交換していたので、びっくりしました。早速メールでお伺いしたのですが、返信が来ないので、夕方、電話。元気な声でしたが、この大変な時期に伝えるのは、申し訳ないということで、家族だけで済ませたということです。火葬も震災で難しく、会津で行ったということです。早期退職をして父上を自宅で看取り、そして母上を看取った。親孝行できたねという言葉だけでした。そもそも彼も病身。7月には検査入院とのこと。2010年3月退職組の仲間ですが、早期退職して、息子としての役割を果たしたということです。今後は、体調を回復して、いままで抑えてきた外出など、行きたいところにも行ってほしいと思います。
 行政社会学会、後援会、同窓会を一手に受けて事務的な世話をしてくれたKさんが、今日で退職。学類長室で、ささやかな送別のパーティ。学部創設以来、20年間もの事務処理を的確にやってくれました。子どもさんを抱えていたので、安い給料には気になりましたが、息子さんも社会人として働き、幸せな家庭を築いているようです。こうした縁の下の支えがあった、行政社会学部・行政政策学類も、発展して来たのだなと確信しています。卒業生が、津波で犠牲になった方もおり残念ですが、多くの卒業生が物資支援などボランティアとして活躍していること、この学部・学類の意義の何よりもの確証でしょう。
 夕方、土曜日に女川に支援金を届けに行く一人、同級生のWさんに連絡。当日の予定を聞きましたが、時間的余裕があるので、東松島市在住の中学校時代の阿部先生宅に、立ち寄ることの連絡。仙台から来る人々と13時に女川で合流することで、先生宅には私一人で行くことにしました。先生と直接お会いするのは、1959年3月以来、53年ぶりでしょうか。元気でお会いできるのは、本当に幸運です。早く旅立った者が、こうした出会いを実現させてくれているのでしょうか。
 明日は、福島県議会の本議会に出ることになっています。6月よ、さようなら。(6/30)<5657>


◇ いやー、こんなことってあるんですね。東北楽天の延長逆転勝利。
 昨日・東京ドーム、今日・クリネックススタジアム、ソフトバンクとの連戦です。昨日は、久し振りのテレビの中継。BS11ですが、途中経過では、リードしていたのでテレビをつけた途端に、小久保の逆転3ラン。妻からは、いつも「テレビ観戦すると負ける」との誹謗に、なるほどと自信喪失していました。
 今日も、途中経過でリードしてたのにテレビ観戦したら、同点。9階裏に期待をして、チャンスをものに出来ない。10回で引き分けかなと思っていたら、10回表に1点リードされる。半分以上諦めて10階裏。ツーアウトランナーなし。最後かな最後かなと思ってはいたが、ヒットの連続。そして、久し振りのスタメン岩村。何とかと、祈る思い。外野フライト思ったが外野を抜いて、逆転サヨナラ。勝ったこともさることながら、期待されながら応えられていない岩村に万歳。仙台のファンも同じ思いだろう。諦めてはならない、そうした場が準備されたようだ。被災地・東北に、こう頑張ろうとのメッセージ。
 午前・午後と研究室で、明日の行政政策学類用の「キャリア形成論」の講義の準備。基本的には、昨年度と同じだが、震災と労働、福島県の状況などを追加資料。明日は、早朝出勤。早めに休みましょう。(6/29)<5640>


◇ 今日は、午後からの専門演習の日ですが、デイサービスの迎えの車と近所の車が、軽い衝突をしてしまい、警察の現場検証など、道路(私道ですが)を塞いでしまって、車は出れません。急かさないで待っていました。代わりの車が迎えに来てくれました。私道でも、バックで入ってきて、頭から出る車が多いので、十分な注意が必要です。
 カーラジオでいつも聞いている「ラジオビタミン」。今日の「ときめきインタビュー」は、女川の佐々木写真館の娘さん。両親を津波で失いつつも、親の遺志を継いで小学生などの写真撮影の為に、女川に通っています。女川弁を話すとの予告でしたが、「アンダー、イダノ?」(あなた、居たんですか?)くらいだったかな?チャレンジ精神旺盛な女川生まれのお嬢さん(?)、頑張っていい写真を撮ってほしいもの。
 演習の後、隣の研究室のT先生が来た。先日、大学で行った放射能除染の講演を聞いて、商店街(パセオ商店街)で除染活動を実施、放射線の値をかなり減少させているとのこと。商店街が自ら、何とかしようと具体的な行動に立った。悔しい事態だが、市民の力を感ずる。
 二女からの父の日プレゼントの一つ(涼しい枕?)が、届いた。今日の寝苦しさは避けられるかが、楽しみ?(6/28)<5619>


◇ なでしこジャパンの試合をテレビで観ています。
 今日は忙しい一日でした。朝の1コマ目は、人間発達文化学類1年生向けの「キャリア形成論」の単発講義。300人近い1年生の必修科目ですが、労働者の権利と男女雇用機会均等法の話をしました。何故労働法が出てきたのか、その体系と、特に男女差別の話ですが、静かではあったのですが、少し眠っている学生が多かったかな?こちらも眠いよとはいえませんが。まだ、労働に関しては、現実感がないのかも。1年生だから、アルバイトも少ないよう。
 1コマ目の特別の単発講義のため、専門講義の「社会保障法」は、2コマ目だけ。介護保険の話だが、感想文などをみていると、祖父母の介護の経験とあわせて考えると、かなりの現実性のあるテーマ。しかし、自分のこととして考えると、まだまだ先の話との感想。学生も、家族形態で、経験することが大きく異なるよう。私も、今になって介護保険制度の実体験をするチャンスをもっている。意外と身近に感じているのに驚いた。
 午後は、昼食も取らないで、市内で開催される「地方労働審議会」に出席。震災対応の労働行政について熱心に議論。何とか福島県の復旧・復興によって、労働者の就労場所の確保をという切実な声。予定より30分の延長。
 平泉が世界遺産となったが、これを推進していた名誉教授の工藤雅樹先生を思い出す。昨年の1月に残念ながら逝去されたが、この時期に工藤先生の功績をたたえる河北新報の記事をみる。一番、喜んでいることだろう。なでしこジャパンは、2対1でニュージーランドを破る。勝ち点3。気分良く、休むことにしましょう。(6/27)<5603>


◇ 雨の日曜日。眠い一日だが、明日の準備で研究室へ。
 大学では、福島県庁職員の採用試験。ほぼ例年通りの受験率のようで、安心した。日曜出勤で業務を遂行している県人事委員会の事務局の職員のみなさんに挨拶。雨で大変だが、暑くなく、試験日和か。
 不十分ながら、何とか明日の準備終了。早めに休むことにしよう。明日の朝は、早い出勤。(6/26)<5572>


◇ 東京で働いている、中学3年生(仙台・東華中)のクラスのときの同級生が仙台に来るので、一緒に昼飯を食べないかという誘いで、仙台へ。当初の4人の予定が7人。中学時代のキャンプの写真も見せられて、懐かしい思い出話。また、震災の話。私は、3年生への転入生で、小学校時代からの旧知の仲とは異なるが、その当時を思い出す。1959年度だろうか。
 昼食を終えての喫茶店での語らい、4時半の新幹線での帰還とあいなる。
 新幹線で、携帯を観ると、東京の大学で教鞭を取る元同僚のH氏からの電話(不在通知)。折り返し電話すると、盛岡への震災見舞いの帰り、福島に下車とのこと。30分前後しての福島着、駅で落ち合う。大学にいるM氏を呼び出し、夕食をともにする。福島の街の店は、いずこも満杯。土曜日のせいか、賑わっている。原発の閉塞感から脱却しようとする叫びか?
 月曜日の2種類の講義準備が心配になってきたが、日曜出勤で頑張ることにしよう。(6/25)<5563>


◇ 寝苦しい夜でした。今日は、県の所属している委員会に出席。震災のため遅れた転入職員の歓迎で、幹部の職員のみなさんと昼食会。いろいろ各部で培った経験を生かしてほしいと思います。震災の対策本部詰めの方もおり、業務は多忙を極めています。
 今朝の朝日の朝刊は、新聞社と本学の今井研究室が行った共同調査の結果がでています。避難している方々へのアンケート調査ですが、朝日一面トップの大きな見出しは、「福島 戻りたいけど」「原発避難者調査8割が希望」「放射能怖い。無理」と。調査の詳報もあり、1面・23面・36面と大きく飾った。社会科学者の専攻による、復興を目指した取組みの一つとも思える。行政政策学類の教員・研究室の社会貢献として意義深い。
 原発避難地区8町村の住民自治に大きな関心。もう既に、県外に移転した者43%というから大きな移動である。地域的一体性のない状況の一定期間、どのように自治体としての機能を果たすか。自治体の選挙はどうするか、その税収はどうなのか、住民が地域的バラバラのときの自治体の運営はどうあるべきか、早急に検討して対策を取らなければ、自然死的な崩壊の道を辿るしかないのか。
 津波で家を流されて、首都圏の娘などの所に身を寄せている女川の同級生なども同じだが、原発地域は、元の地域に住民は無く、役場も移転している異常性がある。二重の住民登録等も必要か、物的支援だけではない、自治的かつ生活的コミュニティを維持する具体的な支援も必要だと思われる。
 コープふくしまの力も借りて、こうした支援を考えて、いくつかの首長との接触を試みたが、なかなか、その支援相談の機会がもてない。それどころではない(?)ことに、追われているのかもしれない。その意味で、避難者の意向を聞く、今回の調査の意味は大きいと思われる。
 夕食のために妻が鰹を刺身を買ってきた。久し振りだ。しげしげと刺身を見ながら食べた。美味しい。鰹を、ゆっく味あうといのは余り経験がない。震災で品薄もあるだろうが、いつも生魚(鰹はそのまま)を送ってくれた姉はいない。自然と姉の話。そういえば、いつも送っていた福島のりんごが美味しいと、自分で送り先(妻の友だち)に電話をしたようだ。心配になったのは、支払がすんでいるかどうか、早速、思いついたようにリンゴ農家に電話連絡。こちらから払わせてもらうことにしたが、このような類の不義理は、数え切れないのだろうか。鰹の刺身が思い出させてくれた。直後、宮城・河南の80歳過ぎた叔母(娘達が小さい頃「からし巻き」の叔母ちゃんと呼んでいたほど、手製のからし巻は美味しかった)から電話あり。いろいろ心配していだいているのに、きちんと説明していないなあと反省。年はとっても、いやとればとるほど、姪等を心配しているのだろう。自然災害とはいえ、悲しみの輪は広がっている。(6/24)<5541>


◇ 昨夜は、疲れていて寝てしまいましたので、気がつくと日記の更新を忘れていました。これは6月23日分。
 6月23日は、沖縄地上戦66周年です。テレビも特集を組んでいますが、沖縄復帰後も、基地問題も、何か飛躍的な改善も無く、住民の苦悩は続いています。なかなか、アメリカに物申せないのは、従属同盟のエヴィデンスでしょうか?日本に独自の見解があるというのは、国際的にも信用回復の重要な手段なのですが。
 震災復興をめぐる論稿や報告を読んでいました。特に、連合総研の『国民視点から生活復興への提言』は面白い。Webからダウンロードして読んでいました。関心を引かれたのは、女川のことを思ってか、漁業の再生問題。特区構想は、小規模沿岸漁業の再建には有害としつつ、「船の共同化方式」、「農業で進展してきた食品製造や小売など製造やサービス業との連携による新たな付加価値の創造やブランドイメージの確立に向けた取組み(いわゆる「6次産業化」)」の漁業での取り組み、「閉鎖的漁協の維持か、規制緩和による新規参入の促進か」という二者択一ではない新たな方向など、興味が尽きない。
 明日、娘の努力もあって、塩竃の餃子屋さんが、炊き出しで入ってくれる「尾浦」は、1952年の調査では97戸、638人の住民(女川町誌)。震災1年前(昨年3月)は、78戸、246人。人口の減少の割りに戸数の減少は緩慢。漁家は残しながら、家族が都会に向かって働きに出ること、漁業ではやっていけないことを示しているのだろうか。この半世紀のドラマに興味をそそられる。離半島部は、女川のアイデンテティ。少し、拘ってみたい。
 夕方、復興をめぐる懇談会に出て、有意義な話を聞いて帰宅。妻は、熱が出たらしく、早目の就寝。
 私も、蒸し暑さに閉口したのと、疲れで就寝、日記更新を忘れたということです。(6/23)<5527>


◇ 明日の単発の講義(キャリア形成論)のために来てくれたHさんとの夕食。学部創成期の卒業生で、消費者問題で活躍しています。友人のM先生のゼミの卒業生なので、高齢者2人を含めて3人での食事。
 震災当時のそれぞれの行動、同じ空の下ですが、百人百様のドラマです。「生まれて初めて」という言葉の修飾語の連続。町の復旧か復興かの議論もありますが、人間も同じでしょうか。単純な復旧はありえないのですが、町村もこの経験を経て、どのような生き方を目指すのか、どのような街づくりをするのか、考えるべき時なのでしょう。
 震災の中でも、その支援の中心なって活躍する卒業生の活動に、驚嘆。我が学部の誇りです。我々老人2人は、すこし後ろ向きかな。楽しい語らいでした。
 月曜日の講義の感想文をタイプしていました。厚生年金保険の話ですが、多くの学生が、年金制度が複雑で分りにくいという感想を述べていました。私もそう思うのですが、もっと、工夫して、複雑なものも、分りやすく整理して提供するのが、教師の役割。複雑だが、良くわかったという感想を得られるよう、こちらの勉強・準備が必要だと反省しています。(6/22)<5494>

 


◇ 火曜日はゼミの日。震災と労働問題・労働法についての論文紹介。震災という有事で、労働法の限界も知ることになる。零細事業(被災者の多く)に育って、「サラリーマンになる」ということが夢の世界。商売していると、経営状況とは別に定期的に賃金が出て、ボーナスがでることは大きな夢だという世界に育った。
 労働者の厳しさを知り、労働法を勉強したが、労働者のなかでも階層分化、正規雇用と非正規雇用の問題。震災でも、この格差は、その厳しさをさらに増す。この時期に、非正規雇用の切捨てが進み、見通しの明らかでない企業は派遣等非正規雇用に依存する。それとともに、自営業者の厳しさ、自営業者にも休業補償を与えるという要求に大きな賛意。大企業に対して中小零細企業の営業をいかに保護するか、労働者の中でも特に非正規雇用をいかに守るか、同じ原因であるが故に、一体的な解決を真剣に追求しなければならないのだろう。
 二女から、父の日プレゼントの第2弾が送られてきた。この前の花束とともに、「冷却クールジェルマット」。暑い夏の快眠のためのグッヅ。節電の折、エコ用品である。いろんなものがでるもんだ。それだけニーズがあるということか。最近は、寝入りに問題はないが、途中で目が覚めてしまう、近くのiPadを操作。何か分断された睡眠。昼間に、眠気に襲われる。十分な睡眠は、諸活動の素。しばらくは、実験。ありがとう。
 ゼミ卒業生から、栄転で転勤のメール。震災で遅れた7月1日の人事異動。頑張って、護民官として活躍してほしい。(6/21)<5467>


◇ 月曜日・早朝2コマ連続の社会保障法の講義。先週の国民年金に続き、厚生年金の話をする。特に、遺族厚生年金等の話は、他人事ではない。被保険者の死亡によって遺族が保険給付を受けるが、死亡が分らない行方不明者の扱いが問題。通常の行方不明者(生死不明)については、民法30条で失踪宣告を行うが、津波のような特別の危難の場合には1年後の失踪宣告。ただ、通達は、年金受給などのために、3ヶ月経過で死亡推定し、年金などの受給を可能とした通達を出した。新聞報道でも取り上げられているので、通達そのものを資料として配布し、説明した。ちょっと特殊すぎるかもしれないし、個人的な感慨が入るので、好ましくは無いかもしれないが、今年だから関心を持って欲しかった。
 夕方、母、妹、姪が行方不明、そして父が避難所生活3ヶ月で病死してしまった姪が電話を寄越した。親戚のおばさんを含め、合同で告別式を7月末に行うとのこと。民法上は1年だが、遺族の再起のために、心にケリをつけて、進みたいということだろう。悲しいことだが、姪たちの意向を支えていくことしかないであろう。私の心にとっても、階段一段をあげることになる。
 夕方、ゼミ卒業生のお悔やみ、お見舞いで、陸前高田にいってきたN先生が帰ってきて、立ち寄ってくれた。陸前高田市の職員として犠牲になった教え子たち。若く、未来のある地方公務員の卒業生も、犠牲になった。遺族との話し合いで、期待していた息子、娘であるが故に、その悲嘆の心情が伝わってくる。こんなことがあっていいものだろうか。本当に、恨めしい。
 娘は、地元の餃子屋さんにお願いして、女川の離半島の避難所に餃子の配食をするという。女川の役場の親戚から聞く。この前、離半島の様子を見ようと行ったところ。偶然ではあるが、街場だけでなく行ってくれるのはありがたい。私は、頭だけで考えるが、娘は、積極的に行動してくれていることで、頼もしい。ご主人の理解と協力がないと出来ないものだが。70人近く住んでいる避難所の方々が、喜んでくれるはずである。こんな方法で実現するとは思わなかったが、一所懸命さが、業者の心を動かしたのだろう。「ハチドリのひとしずく」のように、できることをやっているという思想は、大事だなと思っている。
 週末、東北芸工大学大学院長・東北文化研究センター所長の入間田さんから、資料を送付していただく。東北文化友の会の会報「まんだら」における特集の座談会、やまがたコミュニティ新聞、そして週刊現代の記事コピー。それぞれ入間田さんが、この震災について専門の立場からの発言である。入間田さんは、仙台での長い下宿生活を共に過ごした兄のような存在。良くも悪くも(?)、私に大きな影響を与えてくれた。しかし、私とは異なる学究肌。週刊現代(6月11日号)で、彼はこう語る。「東北を抜きにして、いまの日本は成り立たなかったはずだ。それを政府はしっかりと認識して、復興に尽力してほしい。東北地域の文化や伝統も考えずに、『新しい住宅はすべて山の上に』など、なぜ中央はいつも上からの目線なのか」と。そして記者はまとめる。<この「上からの目線」がどれだけ苦労を東北の人々に強いてきたのか。いまこそ問い直すべきだ。>と。(6/20)<5437>


◇ 今日は、父の日。娘たちから、それぞれ花束のプレゼント。どちらもひまわりが入っています。明るく空をみつめて元気が出ます。ありがたい。父親らしいことは、何もしていないのですが、・・・。
 ひまわりといえば、ソフィアローレンの映画「ひまわり」を思い出します。イタリアからロシアの戦線、帰らぬ夫を訪ねてロシアへ。そこでは、現地の美しい娘と家をもち、子どもとともに幸せな家庭を築いている夫を探し当てます。しかし、その幸せな家庭を見て、イタリアに帰る。ひまわり畑がなんともいえない美しさと悲しさ。
 福島では、「ひまわり」のことが、特に今年は話題になります。放射線の汚染除去に有効ということで、プロジェクトもできています。きっと、人間を守ってくれる美しい花です。私は好きです。今年の福島は、ひまわり一面になりそうです。
 大学学類で所持している放射線の線量計を借りてきました。家のなかは、0.5マイクロシーベル前後ですが、庭は、福島市のデータ並に高そうです。庭仕事をする妻に、明日、丁寧に測定してもらいましょう。
 日曜日は、毎度の月曜早朝の講義のための出勤。最後まで、こんな調子かね。7月一杯ですが。明日は、早朝出勤です。(6/19)<5410>


◇ 仙台での研究会。高速バスが往復1400円ということで、安く往復できました。
 歓迎の意を込めて、昼食を恩師とともにできました。東北大の川内の食堂に、小奇麗な食堂を併設。東北大らしくないというと怒られますが。研究会は、淡々と進み、夕食は、仙台の「牡鹿半島」という店で7人。これも歓迎会です。
 会場に向かう直前に、女川の同級生が経営している串焼きやに立ち寄る。津波で親戚も無事だったようで、何よりです。元気に商売をしていました。ゆっくり、皆で逢って、語り合いたいものです。
 長女は、気仙沼の避難されている方々に物資を届けに、石巻まで。個人のできることは限りがあるかもしれないが、多くが集まれば、大きな力になるでしょう。無理をしないで、がんばってほしいものです。
 私の帰宅は深夜11時近くになりました。明日は、また月曜日の講義準備です。(6/18)<5396>


◇ 大学に行く途中、福島労働局によって、震災で生じている労働問題の統計等をいただく。雇用保険の失業手当を受給していながら、求職者数が、宮城よりかなり低い。これは、特例措置で、休業であっても受給できるために、求職を要件にしていないためのようだ。隣県同士でも、生じている状況がかなり違っている。しかし、年内に切れる失業手当の後は、生活保護か。生活保護のほうも、義援金が収入認定され、支給が停止されている状況がでているので、予断は許されない。義援金受給による生活保護の支給停止などを、ツイッターに書いたら、反応の大きさに驚く。
 夕方、図書館の小林さんのお通夜に参列。図書館の職員を含め、親しい職員が参列。定員外から正規職員になって、特に病気になって有難さを感じたとの話を聞かされて、いかに不安定な身分だったのかと、改めて痛感。明日の告別式には行けないが、安らかにお眠りください。
 明日は、仙台での研究会。福島大への新任者Hさんの歓迎の意を込めて、昼に恩師との昼食会。夕方は、有志による夕食会。もちろん、その間は、まじめな研究会。往復1400円と安くなっている高速バスで仙台へ。(6/17)<5378>


◇ デイサービスの送迎の関係で、早めの帰宅。夕方、同僚からの携帯メール、そして学類長からお知らせで、本学図書館職員の小林順子さんが、今朝、お亡くなりになったとの訃報を受けました。60歳という若さです。テニスを颯爽とやっていた元気な人なのですが、最近、重い病気で入退院を繰り返していたそうですが、信じがたいことです。
 図書館で、いつも明るい笑顔で接していただきました。数十年間、定員外職員として、定員職員と同じく働いていただきましたが、いつも年度末の1日のみ解雇されて、再雇用という不安定な身分に置かれていました。組合のなかで、一緒に改善のための運動を行いましたが、定員化を開始できたのは、国立大学が法人化したとき。副学長時代でした。長い間の精神的・経済的不利益を回復した訳ではないのですが、本当に喜んでくれました。晴れて、正式職員になったこと、大学の一員になった事の喜び。私は、喜びながら、こんなに時間が経過してしまったことに強い自責の念におそわれました。
 そんなことを特に口にせず、明るく働いてくれました。正規職員になったのですから、もっと長く働いて欲しかったのですが。学長になってから、小料理屋で、他の定員外職員とともに、励ましの懇親会を開いてくれました。本当にありがとう。
 小林さんは、我が家の近くの信陵中学校の卒業生。昔は、学校から、笹谷駅が見えたんですよ、と教えてくれました。明日のお通夜に、参列させてもらいますが、あの笑顔に、もう逢えないと思うと、本当に残念です。心が痛みます。
 ご冥福をお祈りします、そして心からの感謝を。
 研究室で、中学3年生時代の友人H君から突然メール。私が1年間だけ在籍した仙台の東華中学校の同級生。いまは、ある大学の教授を定年になり名誉教授。それ以上の情報は書いていません。25日、仙台で他の2人と昼食を取らないかということ。昼飯食いに、仙台に行くのかとも思いつつも、彼も東京から来てくれるのですから、文句もいえません。高校時代も仙台なので、接触はあったのでしょうが、40〜50年振りといえるでしょう。1年間だけど、転校生の私を包んでくれました。ありがたい。どんな人生を歩んできたのか、そして震災をどう迎えたのか、楽しみにしています。(6/16)<5362>


◇ 今日は6月15日。一昨日の社会保障法の講義で国民年金を扱ったが、その際、偶数月の15日は年金支給日と話したが、自分の年金自体は忘れてしまった。6月も、もう半分過ぎたことになる。
 今日は、珍しく、一日研究室。震災と労働問題に関しての依頼原稿が2本あるので、少し勉強しないとと思って、本読み。7月7日締め切りと10月半ば締め切り。うーん、最近、原稿の書き方(?)を忘れたのか、書き上げる自信がない。被災者が生活する場の創造、これは法律問題になりにくかったので、どこか、瑣末なことになりそうで、気分はあまりよくないが、書くことは被災地の研究者の使命だろう。実態報告ではないのではあるが。女川の担当者に、震災前と震災後の、就労関係の変化を教えて欲しい旨メールを出したが、難しいだろう。ただ、復興は、やはり、一人一人の生活を建て直す取組みと新たな街づくり。
 離半島の漁港を見て、漁業・漁村の6次産業化の話をツイートしたら、絶景を望む高台を観光地化して、若者の就労をという風に解釈されてしまったようだ。否定はしないが、もう少し幅広の6次産業化のイメージですが。でも、素敵だな。「尾浦御殿の撞鐘つけば、伊達の梁川思い出す」との唄は、今に繋がる悲恋の話。この前お会いした尾浦の漁民はみんな知っていた。伊達の梁川とは、福島県伊達市の梁川。梁川の職人と尾浦の美女(?)の悲恋。そんな宣伝をすれば、福島の人は、尾浦御殿に足を運ぶかな?
 「あなたへ伝えたいこと」の原稿依頼は、今は難しいとの返信。そうだろうなと思いつつ、少し気長く待つことにしましょう。(6/15)<5341>


◇ 午後の専門演習は、卒研準備報告を一時休んで、「大震災と労働問題・労働法」について、関連雑誌論文を分担して紹介してもらった。厚生労働省の施策などが中心ですが、震災と労災問題、賃金問題、解雇問題等など、平常時の労働法の特例。ただ、非常時ではあるが、労働法では処理できない労働問題の課題を意識させます。労働だけではなく、福祉、医療、教育等など、こうした時期だから、その問題の所在を明らかにしているのかもしれない。逃げないで、真正面から取り組むことが必要なのでしょう。
 ツイッターで、交流していたら、中学時代の先生の甥の方が、先生への連絡方法をDMで教えてくれました。先生にも通告しているので、早速、50年ぶりの電話での会話。社会の先生でした。先生は80歳前後でしょうが、ご自宅の1階は水をかぶり、2階にお住まいだったということです。明日、1階に引越し(?)が出来るとのこと。お元気な様子で、安心しました。
 近くに住む教え子は、すでに訪問しているようですが、卒業後の長い先生との交流は、羨ましい。いまは、横浜の娘さんのところに寄留しているようですが、娘さんが、そのときの様子をツイッターDMで教えてくれました。何か、若い世代を通じて、同期生や先生との交流が出来ていて、不思議な感じです。インターネットの力でしょうか。
 女川の方々も、その活動が町内外で始まっているようです。鳥取県で食品会社を再興させる人、コンテナの仮商店、徳島・愛媛・和歌山からの支援と交流、その胎動を感じています。がんばっぺ!!(6/14)<5324>


◇ 月曜日・朝の連続講義。年金制度の話をすることにしていたが、国民年金の説明終了で、時間が余ったが早めの終了。もう少し理解を深めるところのデータや実例の準備をすべきだったなと反省。2コマ連続の準備には、もう少し時間をかけるべき。前日が日曜日なのは、どうも上手くいかない。
 行方不明者に対して伝えたいことのメールの集約をしては、との話があり、少し、落ち込むかなとも思ったが、その人々を忘れないためにも、また残った者の言いたいことを吐き出すためにも、ページをつくってみた。名前は、「あなたへ伝えたい」。どうなるか、思い出の文集とでも考えよう。大宣伝には躊躇するが、まずは、同じく探してくれた方々にお願いしてみよう。その後の報告も必要だろう。
 蒸し暑い一日。今日は、早めに休もう。少し疲れ気味。(6/13)<5297>


◇ 何か慌しく過ぎてしまった一週間だったので、明日の講義の準備で、大学研究室へ。
 張り切っているわけではないが、なにか準備不足で日曜出勤とあいなる。それなりきの時間を使うが、いろいろと頭を過ぎることがあり、落ち着いた心持ではない。女川の尾浦の漁港を見て、なんとか6次産業化できないか、水産庁の「水産白書」を読む。自分の知らない分野があることに驚く。
 友人に頼まれて、「東日本震災復興支援ネットワーク」のブログの編集委員にされて、何か書かないといけないと思い、恥ずかしげも無く、以下の文章を。どうもやり慣れない仕事(?)。
 「昨日6月11日、福島大学震災復興研究所主催で、震災3カ月を期して、シンポジウムを開催した。学内外、県内外から、200名近くの参加者があり、関心の高さを示していた。福島県外から県内の避難所に支援に来ていただいている人が、福島県の来年度、教員採用がゼロだということで、同じボランティア学生から、大きな嘆きを聞いた。県外に小中学生が転出していることが理由だが、他県の費用で採用し、福島県に派遣し、福島県に小中学生が戻る時期に、福島県で採用してはどうかとの話であった。
 文科省が、この震災で、被災県に教員定数の加配をしており、岩手県134人、宮城県216人となっているが、福島県については、「福島県においては、児童生徒の県内での転出入や県外への転出が多数あり、それに応じた教育活動再開後の学級数に基づく教職員定数を見極めた上で、国に追加の加配定数を要望することとしており、具体的な要望数が示され次第、速やかに追加の加配措置を行う予定。」としている。
 加配が必要な理由として。「1.校舎等学校施設の損壊が激しく、当該学校の児童生徒が複数の施設に分散しており、教師による手厚い巡回指導等が必要であること。2.家族や住居を失い、厳しい家庭環境に置かれている児童生徒が相当数就学しており、家族(親族)や福祉施設などの関係行政機関との連携・相談・確認等の業務が必要であること。3.今回の被災により、心身の健康の回復のための特別の指導を必要とする児童生徒が相当数就学しており、また学習の遅れを取り戻すために個別の指導が必要であること」を示しているが、福島県からは具体的な加配の要望がないらしい(?)。
 確かに、生徒数から割り出した計算では、教員が過剰と云うことかもしれないが、教育現場からは、教員の加重された労働の悲鳴の声が聞こえてくる。教員志望の学生は、他県の採用試験に向かっている。生徒も教師も減り、県人口の減少の大きさははかりしがたい。
 復興は、ハードな面だけでなく、それを担う人の問題が大きい。復興計画に、そうした観点も大切ではないかと、痛感している。」
 女川へのメッセージで、「がんばっぺ」といってきたが、犠牲者・行方不明者への伝えたいメッセージを、文集化しないかと提案を受け、考えることにした。ますます悲しくなるのではと思いつつ、やはり生きていくためにも、伝えられない人への伝えたいメッセージを集めることに意味があるかもと思って、無料のアドレス(tutaetai@gmail.com)を取った。後は、それを掲示するページの立ち上げ。明日にしよう。明日は早い。テレビは、吉永小百合の「キューポラのある町」の映画。若いなー、私もサユリスト。(6/12)<5275>


◇ 3日連続の自家用車による遠出。メーターを見たら、いつの間にか、走行距離が10万キロを超えていました。車の購入が6年前の7月かな。1年2万キロにはなっていない。遠出は押さえ気味だが、女川・塩竃へのドライブは多かったかな?
 土曜日は、病院の定期通院。値は少々改善(6.2⇒6.0)。油断禁物ですが。昼前、大学へ。午後からのシンポジウムに出席。福島大学災害復興研究所主催の「東日本大震災災害復興シンポジウム」です。雨の中、200名近くの聴衆があつまり、その関心の高さを感じます。
 関西学院大学の山中茂樹氏の記念講演、そして4人のパネラーのシンポジウム。特に、一次避難所⇒二次避難所⇒仮設住宅と、特に孤立化を防ぐための様々な取組みが報告されました。今後は、孤立化しがちで、行政サービスから除外されてくる仮設住宅での支援が必要になってくると思います。支援物資も、仮設の問題でしょう。復興計画も、研究的価値が常に優先される訳ではないので、住民の持続的生活・感情との調和が必要です。孫子の代まで枠付けるものですから、要注意。漁業の発展に関心を持っていますが、この6次産業化も考えてみたいものです。
 娘たちも、避難所での健康相談、そして支援金の送金など、震災復旧・復興の活動を行ったようですが、震災後3ヶ月たった今日、持続的な支援活動が必要なのでしょう。(6/11)<5260>


◇ 今日は金曜日。第3回の女川町の復興計画策定委員会です。
 福島市内でS先生を車に乗せて、一路、女川へ。11時の約束に間に合うように早く出たのですが、石巻市内で大渋滞。これは困ったと思い、女川町役場に電話。交通事故の後処理での渋滞でした。11時半頃着。
 役場の職員のDさんの車に乗せてもらい、女川一中にいる女川一小校長のH先生を訪問。大変喜んでくれました。目的は、校長先生のお話を紹介しているブログをプリントアウトして手渡すこと。ブログの内容に、若干、事実と異なるところはあるのですが、感動的な話に違いはありません。ただ、H先生から直接、話を聞くと、姪の次女は、すらすらと答えたというのではなく、しばらく考えて・・(30秒、1分?)答えたというのです。何か、急かさないで待っている先生の姿が眼に浮かぶようです。担任のA先生の、みんな違った感じ方を大切にするという指導を誇りにしていました。大津波の3日目にして、学校を再開し、被災者でもある先生方が、生徒の指導に立っていた素晴らしさを、校長先生の話で、また感動しました。福島大学卒業の先生にもお会いできました。
 短時間で惜しかったのですが、離半島部の見学。尾浦漁港です。丁度、漁師さんたちが、瓦礫の掃除をしていました。目前の出島も、いつもの姿を見せています。一日も早い、漁業の復興を願わずにはいられません。その明るさ、それは強さとともに、仲間との連帯の中で培われるのでしょうか。天気が良かったせいもありますが、この漁港から離れたくないという気持ちが、痛いほど分りました。女川のアイデンティティは、これらの離半島部。ここを大切にして、未来につなげる知恵を絞るべきでしょう。帰途、崎山公園に立ち寄りましたが、そこから臨む美しい女川湾は、変わりません。しかし、公園内は地割れが出来て、危険区域です。グレー大尉の慰霊碑も倒れています。何とか、この崎山公園の復活に大きな期待を持っています。
 復興計画策定委員会は、5会場でのの公聴会を経て、住民要望にそった修正案が出されていました。ハード側面の議論から、ソフトの側面の議論へ。復興というためには、新しい価値を付与していかなければなりません。復興計画と総合計画をどのように関連付けるか、まさにゼロからの出発として、女川の場合は、新たな町づくりに向けて、進まなければならないのでしょう。
 自宅に戻ったのは、午後9時過ぎ。また、がんばりましょう。(6/10)<5238>


◇ 火葬の為に多賀城に行く前に、明朝、女川に行くのに持参する資料を大学で印刷。一つは、校長先生に会うための資料。話題にしたブログのプリント。今日の火葬には、話題の対象だった姪の子も参列していたので、立ち話ができました。転校先の小学校で、修学旅行に行ってきたようです。張り詰めているのでしょうが、新しい学校生活に慣れて、楽しそうなので一安心。
 もう一つの資料は、私のホームページにつくった、「女川へのメッセージ」。<女川出身者を中心のメッセージ><女川に支援に来てくれた市町村等の職員のメッセージ>。折角なので、女川町外の人々の女川に対する眼差しを、行政や委員のみなさんに知っていただきたいと思いました。
 約束の12時到着に10分ほど遅れましたが、女川や石巻、仙台など、遠くから来てくれました。塩竃の斎場での火葬、こうした異例の事態は、津波の影響。
 娘の婚家からも参列していただき、申し訳ない。終了後、自宅まで送り届けながらお茶をいただきました。帰りしな、保育園から戻った孫たちと、戸外での交流。個人の弟さんたちと戒名の話など、いろいろ姪たちの苦労を聞きます。昨日から、迷惑をかけっぱなしの大家さんに、お礼の挨拶をして福島に戻りました。
 明日は、女川。また、月曜の講義の準備が心配になりましたが、こうした非日常を日常のなかに組み込まないと、いけないなと反省。全国団体から、震災を専門の立場からの投稿を依頼されましたが、何を書けるのか、少し考えて答えることにしましょう。昨日今日は往復200キロのドライブ、明日は300キロ。安全第一で、走りましょう。(6/9)<5214>


◇ 寝床に置く携帯電話は、電源を自動的にON、OFFにしているので、深夜は繋がりません。いたずらメールと、震災対応のMLに深夜に書く人がいて、しばしば起こされることへの防御手段。そのため、深夜にかけてきた電話は、朝に気がつく。今朝起きたら、3件の電話・不通(SMSで通知)。いずれも姪たちからでした。朝起きてすぐに電話をしたら、彼女たちの父、私の義兄の訃報。行方不明の実姉の夫です。
 避難所で逢ってはいましたが、震災後、肺炎となり、入院・退院を繰り返しましたが、昨日深夜、心臓疾患で亡くなったとの報せです。二次被害でしょうか。女川には居宅が無いし、寺の和尚さんも忙しく、また女川の火葬場もあいていないということで、多賀城の仮設住宅(民間の貸家)に入ったばかりの次女のところに運搬したそうです。姪たちが右往左往していたはずですが、私が知ったのは朝。
 慌てても仕方が無いのですが、とりあえず、朝、多賀城へ。姪たち、義兄の兄弟たちのお陰で、夕方に納棺、和尚さんを頼んでの枕経。明日午後、塩竃の火葬場で火葬を行えることになりました。明日も、行くことになります。妻を失い、がっかりしてしまったのでしょうか。葬儀は、しばらくせず、延ばすことにしました。
 テレビで釜石の犠牲者の地図が出ていましたが、海の前でなく、避難地域の近くに集中。「油断」と「前の津波の先入観」があったのではないかと解説されています。何か、女川も同じではないかという気がしてなりません。目前の危険には敏感に対応できるが、前例がないと無防備。ハードだけではなく、ソフトの避難訓練が重要といわれていますが、「避難地域」指定が、必ずしも、絶対安全ではないというメッセージをどう取り込むか、難しい。
 金曜日に、女川の復興計画策定委員会に出席しますが、ハードだけでなく、何故、このような多くの犠牲者を出したのか、それぞれの人の目線から、その原因を突き止める必要がありそうです。同じハードの環境で、助かった者と、犠牲になった者の違いは何か、そこに、ハードの見方、ソフトのあり方を見つける鍵があるのかもしれない。
 多賀城の街を、短時間、徒歩で見ました。45号線の海側は壊滅的です。未だに大きな建物は片付いていません。堺市のボランティアのグループに逢いました。街の被害自動車の集積場を通りました。なんでこのように車が壊されるのか、多くの人の夢を運んだ車が、無残に堆積しています。復興しつつあるように見える街、その裏側は、その復興の大変さを裏付ける瓦礫の山です。帰宅は9時でした。(6/8)<5198>


◇ 今日は、午後からの専門ゼミだけが業務ですが、3人の卒研準備報告を予定していましたが、1人が欠席。一コマだけで終了しました。12人の1回目の報告は一応終了、次の段に向かいますが、来週から2週間は、東日本大震災と労働法・労働問題について、既に出されている報告などの紹介です。研究するほどの準備はできていませんが、常識的に、生じている労働問題についての現状と労働政策の対応について、最低限抑えておいてほしいと思っています。災難を受動的に受け止めるだけでなく、勉強してきたことで光を当ててみようというこです。
 帰り道、弘前大医学部の福島拠点を訪ねて自治会館へ。先日、学長さんとも話した。放射線医学の国立大学のひとつの拠点としての弘前大学。応援で福島にくることになっている。拠点は、別のビルに予定されていることが分ったが、スクリーニングの支援に来ている先生と電話連絡ができた。わざわざ、来てくれている専門の先生方、十分にできるように支援したいものである。
 午前中、昨日書いていたブログの小学校長と電話で話すことができました。予想通り、ズバリです。事後談があるらしく、転校した仙台の小学校で、元気にやっているようで、校長先生に手紙を書いてきているそうだ。子どもは強いね。10日の女川行きの際、校長先生にもっと詳しくお話を聞くことを約束した。親戚の話だけでは、申し訳ないので、女川の教育のあり方、ボランティアを含め支援の方法についても話をお聞きしたい。復興は、人ですので、女川の子どもたちをいかに育てていくか、長期的スパンの話も聞きたいものである。
 会議の前に、離半島の一部を見学したい。グレー大尉の慰霊碑も観ながら、尾浦まで足を伸ばしたいのだが。離半島の14の浜は、女川のアイデンティティと思っているから。
 前回、行った時に購入したハチマキ。我が部屋に掲げた。「がんばっぺ 女川! 負げねーど 宮城! おだづなよ 津波!」。やらなければならないことは、山のごとく。(6/7)<5171>


◇ 月曜日の1−2コマは講義。今日は、雨もなく車はスムーズ。講義30分前に到着。国民健康保険制度等の講義をしました。国保保険料の滞納による被保険者の返還、資格証明書などの話は、学生の関心を特に持ったようで、質問票への反応が多い。現実にそういった経験者もいて、その広がりにびっくり。国民の生存権、健康権の観点から、保険制度の改善が必要と思われます。
 100人ほどの受講生なのですが、昨年後期の30人前後と異なり、少数の学生ですが、なにか落ち着かない。携帯の電話がくるのか、教室外に出たり入ったりしてする。講義をしていると、気が散ってしまいます。あまり相手にしないのが良くないのか、落ち着きがない。男子学生に多いような気がする。眠る学生は女子が多い。朝早いから、夢の続きか。90分+90分の2コマ連続だから、集中力が持続しないのかも。放射線問題など、心にさざなみが寄せているのか。内容的に、引き付けられるような講義内容にすべく努力しましょう。
 Facebookにも書いたが、ある人のブログの記事に引き寄せられている。私の出身の小学校の校長先生の話であるが、一部だけ引用させてもらう。<町を見ている子供達にも同じ質問をしました。「あのヒマラヤ杉がこの地震でも倒れなかったのは何故だと思いますか?」その時1人の女子生徒と目が合い、その子に聞いてみました。するとその子は・・「あのヒマラヤ杉は、今までの卒業生の優しい眼差しに見つめられ、大事にされていたからだと思います」そう答えたそうです。涙を流さずに。 校長先生はこのお話をした後に、その子の母親と姉、そして祖母が津波に流され、父親と2人きりになってしまた事を知ったそうです。この女子生徒の母親の友人が?「彼女(母親)の娘なら、そう言うと思う。彼女も小さな頃から、周りをあっと言わせるような独特な言い方をしていたから。」と話していたそうです。校長先生はその女子生徒に「お母さんのお友達がそんな事を言っていたよ。だから○○が言う事はお母さんが言うのと同じなんだ。○○の言う事はお母さんが言うのと同じなんだよ。そうやってお母さんに近付いていくんだよ」と言ったら、その女子生徒は始めて大声をあげ泣いたそうです。>
 祖母は私の姉で、母は姪、そして姪の子(姉)ではないかと思っている。確信している。しかし3人は未だに行方不明。いたたまれないが、この子は、家族の中で、大切に育て来られたことを伺わせる。テレビで、母と祖母が津波でなくした陸前高田の高校生のトランペット演奏の様子を放映。受けた家族愛をしっかり受け止め、人間は進むことが出来るのだろうと思う。10日に女川に行くが、早めに行って、校長先生や、またグレー大尉の碑のある崎山公園を寄って、町の委員会に出席することとしたい。(6/6)<5143>


◇ 日曜日。月曜日の早朝講義のための教材作りなどで、大学研究室へ。一昨日の放射能除染についての学習会にたいする関心が強く、学習会の内容及び資料がツイッターで求められた。関心あれば、参加すればいいのにとも思ったが、放射能関係の動きを集めているようなので、思いなおして探す。丁度、行政政策学類教員有志のブログに、丁寧な学習会の報告が掲載されていたので、それを紹介。リツイートする方もいて、多くの方々に読んでいただけるようで、結果的に良かったかなと考えている。
 何とか準備を終えて、夕方、帰宅すると、従妹夫婦の見舞いの訪問があったという。私の亡父の一番下の弟(叔父・故人)の娘なので、少々、年は離れているが、長い間、日本の大手会社から中国に派遣されている夫とともに中国滞在。定年後、中国の関連会社に再就職しており、たまたま昨日、短期間帰国した際に、自動車で来てくれた。私の帰宅前だったので、玄関先で帰ったらしいが、その後、電話で話すことができた。中国で報道されている日本の津波に大変心配していたようだ。彼女の兄からの情報で、既に知ってはいたが、小さい頃、姪たちと遊んでいたことも懐かしがり、連絡できるよう携帯電話番号を教えておいた。
 大学のホームページには、第1期中期目標期間に係る業務実績に関する評価結果(確定評価)が公表されている。役職を終えて、既に1年2ヶ月が過ぎているが、対象時期は、法人化の直後の6年間。副学長の後半2年間と学長の4年間。評価作業は、現在の執行部の責任になるが、見た限りでは、「良好」及び「おおむね良好」と評価されているので、安堵。過去の思い出になってしまったが、第2期への繋がりをつけられたのではないかと思っている。不十分なところを補って、さらに発展させてほしい。いま降りかかっている苦難で不利な条件もあるので心配だが、学内の意思を統一させ、地域に根ざす大学として発展することを願っているし、期待している。(6/5)<5110>


◇ 土曜日、訪問看護の日でもあり、大学研究室へ。
 朝、被災した親戚の子のことを、女優のDさんのブログに書かれているということを娘が連絡してきた。既に、ダイレクトメッセージの交換をしているとのこと。子どもの父親の従姉。私も一応、挨拶すべく、ブログにコメントを書いたら、程なく返事。気さくな方だ。それでも、残された子に、新学期の衣服をプレゼント。その気持ちが有り難い。
 通っていた小学校長の話が、他のブログにも紹介されていたが、この子のことと思われるので、次に郷里に行く時にでも校長先生に確かめてみたい。
 女川の学校に英語教師としてきていたカナダ人が、震災後帰国、被災地の状況の取材などを受け、1000万円の義援金を持参して戻ってきたと言うニュースに心が温まる。大戦末期に女川湾に停泊していた軍艦の攻撃して、自らも撃沈した連合軍機のグレー大尉の捜索を、敵味方を超えて、捜索に協力したことを記念して、グレー大尉の慰霊碑(崎山公園)を建立し、その出身地であるネルソン市と交流を重ねてきて、中学生も派遣してきている。こうしたことが英語教師の派遣元にもなっているのだろう。ネルソン市からも激励が来ているという。嬉しい話だ。
 この崎山公園は、女川から雄勝に向かう街道で、桜のきれいな公園だが、私がこれを知ったのは、子どもの頃でもないし、かなり後になってからである。グレー大尉の慰霊碑に、我々夫婦と未だ見つからない姉と3人で、短時間だが遊びに行ったことが思い出される。田舎の女川だが、敵味方を超えた平和の交流のともし火が続いていること、誇りに思っている。
 そういえば、フランスのバチスカーフ号という深海潜水艇が女川を基地にして、日本海溝の調査をしたが、中学2年生の私は、生徒会副会長として3年生の会長とともに、歓迎の挨拶に行ったことを思い出す。(新聞に写真が出たと思うが)。津波となると恐ろしい海だが、海なくして女川の生活はなかったのだろう。海と人間、どう調和させるかが、課題なんだろうと思う。(6/4)<5095>


◇ 特別講義と講演を聴いて勉強をしてきました。
 午前は、「ジェンダー論」の特別講義(外部講師)。医療ジャーナリストの藍原寛子さん。テーマは、「ジャーナリストが見た 東日本大震災報道 〜ジェンダーを考える」。いわきを中心におこなった取材のなかでの、興味深い話だった。
 夕方は、緊急企画・学習会「福島における放射能除染のあり方」。講師は、NPO法人「放射線安全フォーラム」副理事長の田中俊一氏。市民も参加し、熱心な聴講・質疑応答。行政に対する要望のような質問もあったが、切羽詰った市民の反応ともいえる。繰り返し、繰り返し、放射線の理解をする勉強会を行いつつ、実際に健康障害の怖れの放射線除去の具体的な行動が求められている。150人ほどの参加者。テレビ会社のインタビュー終了を待って、松川IC(ETC)まで誘導し、帰宅は9時過ぎ。一日、勉強の日だった。(6/3)<5069>


◇ 今日は、研究室で作業。長女が、ある人のブログの中にある小学校校長先生の話は、祖母・母・姉が見つかっていない親戚の子について書いているのではないかと。殆んど間違いないが、何らかの伝で確かめてみよう。心優しく、強く、育っている姿が、また悲しさを誘う。何とか、強く、優しく生きてほしいと思う。実姉は、きっと、この可愛い孫のことが、一番気がかりではないのかと思う。
 夜、親友からメールが来た。明日の放射線除染の講演の内容を是非、Webにアップして欲しいとのこと。郡山では、その土をどのように処理するかが大問題。それは私の能力では難しいので、誰かに頼むことにするが、最後に付記してあった、講演の講師は、大学4年間、同じ寮の友人のとの事。20数年前に転勤してから、お互いに(?)音信不通だったらしい。先方では、皆で何処に行ったんだろうねと、飲み会で話されていた仲らしい。考えてみると、私は、そんなこととは知らず、右往左往していたみたいです。人生、長く(?)生きていると、面白いことがあるもんです。
 明日、午前中の単独講義(ジェンダー論)の講師Aさんは、長女が、仕事上で接点あり、いつも娘さんは元気ですかと問われる。世の中の狭さを感じてしまいます。午前中は、講義(「ジャーナリストから見た被災地〜ジェンダーの視点から〜」)を拝聴し、夕方は放射能除染の講演。少しは、賢くなるかな?(6/2)<5046>


◇ 6月になりました。隣の田圃は宅地化されたので、毎年、うるさかった蛙の声が聞こえません。放射能のせいか、春の活発な農作業の様子を見かけません。異常な6月です。
 今日は、トラウマ・ケアの講習会と講演会で終わった感じです。震災、原発事故で、学生のメンタルヘルスが心配ですが、トラウマ・ケアの第一人者が来学。ボストン大学医学部ののビッセル・ヴァン・デア・コーク博士です。
 午前中は、行政政策学類教員対象の講習会、「学生のメンタル・ヘルス、トラウマ・ケアにどうのぞめばいいのか。」授業が再開されて、個別に問題を抱えている学生への指導のあり方が、大きな悩みの種。博士が、前日、石巻・女川に行ってきたらしいので、女川のような壊滅的だが、再出発しようとしている被災地と、福島の浜通りなどの被災地の違いを踏まえて、見えない恐怖のストレスの話を聞きました。
 福島在住者は、毎日、マイクロシーベルトの値を見ながら、いかに除染をしていくかという課題の解決に向かっています。しかし、他県の友人・知人(学生の親元も)からの善意の心配(一刻も早く福島を脱出して!)が、ストレスを増幅させている、遠ければ遠いほど、その心配は大きい。留学生の悩みは特に大きい。ツイッターで、福島で子ども育てている親は、将来、子どもにどのように説明できるのかという類の匿名のメッセージ等は、福島の人の心を痛める。子どもと妻を、他県の実家等に避難させている人も少なくないが、それが可能な経済的条件があろう。母親の就労が不可欠の場合、心配しながらも、最大限の防御をしながら子育てをしている。
 直ちに、肉体的な被害が生ずるレベルではないが、将来的な被害については、全く問題がないとは言い切れない。しかし、そのレベルと確率も含めて、それぞれが判断している。避難する者の判断も、気をつけながらここに留まる者の判断も、それは尊重しなければならないだろう。他の判断に自分の判断を押し付けてはならない。
 抽象的な心配をしてくれる方々の多く(特に外国)は、具体的な情報が不足していると思うのだが、他県では、正確な情報を出しているが、福島には、それを報せないでいるという噂話には、唖然としてしまう。情報の公開は、大きな問題だが、国民全体ではなく、一地域のみ非公開というのは、信じがたい。
 そんな問題関心をもって質問もしたが、共感を得ることができたと思う。新しい現象ともいえようか。被災地住民の解決のために立ち上がろうとする意欲を、「貴方たちは大変なんだ」と確認して、同情すればするほど、被災者の意欲を減殺させ、立ち上がる力を抑えてしまうのではなかろうか。
 被災者の気持ちと判断を理解し、困った時には、いつでも引き受けるよ、相談してと励ますことではなかろうか。こんなことは、被災との人間が言うことではないが。
 女川に派遣された他自治体職員からのメッセージを受けているが、鳥取県立厚生病院の医療スタッフ9人の感想・提言を送っていただいた。整理をして、「女川へのメッセージ」に掲載したい。石巻出身で山形県庁に勤めているゼミ卒業生が、女川に派遣されてきているとのメールをくれた。自身も、実家が被災して、自ら家族を救助したようだが、仕事でがんばっている姿が嬉しい。フジテレビのニュース番組で女川町長が復興計画について出演している。頑張らねば・・(6/1)<5012>


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