にゃこリンの夢現シリーズ         
         
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R0UDOKU(朗読)

Webページ:今日という日445のページ【無断転載禁止  著作日高よし子 
  今日という日 (2度と昇らぬ今日の日は)
  今日という日(2度と昇らぬ今日の日は)
2003年〜2004年を掲載しています。ご感想。
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注意:クリックしてもその場所にいかない時は、その前後をクリックしてから上下に行って下さい。

2004年2004年
11/25(木)生命の証 他2件 12/29 スマトラ沖地震

11/13(土)秋彩
9/22(水)神々の美の世界 10/23(土)「矢倉緑地」の夕焼け
10/15(金)ディゼル排ガス規制を
7/16(金)木の精神性 8/31(火)  「アテネオリンピック 閉幕」  
8/21(土)「日本バンザーイ!!!」
8/17(水)夏休み「オリンピック」 「墓参寺」
(画挿入) 『七彩の虹』  「嵐山・桂川」   
5/25(火)受けて返して
5/24(月)死という総決算
6/29(火『高貴な日本人』
6/23(水)『見知らぬあなたへ

6/1(火)
『私の本質』

6/6(日)『疲れの根因』
6/12(土)『何故?ナシのツブテ』
6/13(日) 『最近の甥子達』
6/11(金『花のフォトスケッチ』
3/31(水)追加分『島は動く』
3/27 ニュースを疑え

3/28 星と月
3/24 トラウマの戦後憲法 初緑の草
    「未来」の為の広報活動
3/2卒業式に思うこと

3/3 『無心の笑い』
4/30 『富士山を世界遺産に』
4/27『芸術家の宿命』
4/26進化 という「美」』
4/21 『新緑の季節

4/8(木)
日本の「害(外)務省」

4/6(火)『彫 画 展』
4/4(日)『保育所の同窓会』
1/31 『猫のにゃこりん死ぬ』
1/29 『風邪で家族(母以外)総崩れ』
1/21(水)『自転車で転倒』
1/16『夢でも夢』
1/8『未明道』
2004/1/『墓参と露店』
2/4 『新たな「立春」』
2/1 『詩 『新たな「立春」』
・猫のにゃこりんに寄せて』
2003年2003年
12/26 『竹久夢二追想展』
11月23日(日)のこと    
同窓会  
車がレッカー移動 そしてフォークコンサート
『夢の遊園地』 

『福祉国家の手本』
10/31私の誕生日
10/12国民が英断すべき時
 
9/21『小泉首相大勝

9/18命懸けで
8/25『夏の思い出
7/22(火)
『たこの足(8本)が欲しい』
 
 
7/5(土)『時間の彫刻』
5/30(金)『2006年人類滅亡?』
5/8(木)『無力感』
   
5/5(月)『端午の節句』
5/1(木)「察知能力」
<6/18、19、23、24>日の 『六 月』という月
6/1(日)『手のひらには?』
3/30(日)『いっぱい咲く「私」』 
3/25(火
 『ひがんなり』

3/21(金) 『とうとうイラク戦』
 
3/19(水)
インディーズ応募
  
3/16(日) 
『慣 れ』という塵 
3/14(金) 『くじ運はなし』

3/12(水) 『お好み焼』 のこと
 3/8(土)  『教育の風穴』

3/7(金)
   あの時』
 
3/5(水)  『山にならい』を

3/3(月)『雛まつり』  
3/2(日)
 『ミキシング出来ない!』
4/18(金)『昼月から燈月』
4/16(木 )『目も口も満腹』
 
4/13(日) 『桜の通り抜け』

4/11(金『犬とこの道』 
4/2(水)
『花見』
/30(木『人間の存在意義』
1/29(水) 寒さには上がある』 
1/28(火
『可能性の全てを「花」』

1/27(月)
 『「朗読」の録音』

1/25(土)『
甥子のスキー合宿』

1/24(金)
 『
犬は「毒をも喰らう」?』
  
1/23(木)
『靴の「呼び水」』

1/22(水)
  『我家の「BGM」』
  
1/19(日)
【やっと445のページ】

1/13(月)【コンサートへ】&温故知新  

1/8
 生命の礼節

2002/12/15『トキコとコンサート』
2/26(水)『愛』について 
2/20(木) 
『右利きの不思議』

2/18(火) 『リンクのお知らせ』
 
2/16(日)  『新コーナー』

2/14(金) 『幸福の感性』 
2/11(火)  『春「一」輪』
2/9(日) 『新コーナー』のこと 
2/7(金) 『北方領土の日』
2/5(水) 『甥子の風邪』
 
2/4(火)
 『甥子 修学旅行

2/3(月) 
「節分夜」
 

2/2(
) 
『昭和39年の修学旅行』

/1(土) 「見栄えはいいけど空疎
2004年
12/29(水) 「スマトラ沖大津波」                        
 年末も押しせまって今日を入れてあと3日で今年も終わろうとしてい 
ますが、異常気象の(猛暑、台風、地震)とどめの様に、インド洋スマ 
トラ沖での大地震も大地震(M9近く)による大津波で昨日現在で24 
000人死亡被害がありました。警報システム未整備による、避難勧告 
の遅れがこの結果をもたらしたようです。(沿海の国、地域には大いな 
る教訓でしょう)                         
 しかし、所詮人間は、この不安定な地球の中の生であるということを 
、忘れずに生きていくしかないのでしょう。             
       2004/12/29 2:30          

             「生きてる証」
11/25(木) 
「言いたいほうだい」「コスモスページ」更新しています。

 近況報告すれば、11/21(日)にあった
吉野小学校のクラス同窓会に今年は出席出来ず、一年の行事の遂行しなかっ 
た「忘れ物」の如くです。そう思う程にこの同窓会と言う会合は毎年の 
この時期の「行事」となりました。発足してから40年に足らずという 
処でしょうか?当初は全然参加していなかった私ですが、思えば仕事を 
リタイアしたあたりから徐々に出席するようになりました。      
この10年間で皆勤とはいかないまでも、それに近い出席率と思います 
。幹事も3回こなしました。                    
 今年欠席の返事の後、TEL下さったYさんの「生きてる証やん」と 
いう出席を促す言葉、常連出席者に鬼籍に入った人を思えば実感でしょ 
う。私も10月31日で58才の仲間入りを果たしました。      
世界の中の最長寿国に生きてはいても、最近の天災等何が起きるか不明 
な人の生き死に。来年は「生きてる証」を行使出来るよう、色んな意味 
でガンバリましょう!                       
                *                
       『派遣会社 何の為の電話?』            
 頑張らなければならないけれど、1年余り勤めたホームヘルパーを昨 
日で辞めました。担当ケアマネの退社に伴って私の仕事量も今月から少 
なくなったので、12月に忙しい業種(配送関連)に就こうと思いまし 
た。                               
 それはそれとして、この11/22月曜日午後2時から3時の間、求 
職登録(ホームヘルパー)している医療関係の派遣会社「メディカル・ 
サービス」から電話があり、こちらの都合を聞くだけ聞いて私がその条 
件で良いと言っているのに、それっきり電話がない、と言うのはどうい 
う事なんでしょうね。先方(派遣先)からの返事の結果位、此方に知ら 
せるべきでしょう。                        
 しかし、3件提示のあった派遣先の1件目は【今福鶴見で各1時間勤 
務週5日】等は交通費で働いた分がなくなる所だったし、2件目は【関 
目の施設で夜11時位まで夜勤可能な事】と言っていたのに、先方との 
面接の段取りを兼ねて詳しく聞きなおすと、夜勤というのは午後4時か 
ら朝9時迄の勤務であるという返答で結局断り、3件目【派遣先提示守 
口の施設】が上に書いた返事がないという顛末だった。        
 こう考えていくと、一体何の為の電話だったのでしょうか?。    
          
             「他人の声音」
 以前、ヘエーで有名なテレビ「トリビアの泉」で、ある女性の歌手録 
音した歌の回転数を変えたら、「平井賢」という男性歌手ソックリでし 
た。声の周波数を調整すれば他人の声音も可能という事でしょうか。  

       2004/11/25 15:45          

 2004/11/13(土)                   
このページ【秋彩】の他、【私のフォトスケッチ】に「菊花展」の写真 
を、【マイポエム】に詩「しきのつれ」を、【言いたいほうだい】に
「中国原水潜侵犯の事
」を掲載しています。                                              
       『秋  彩』                                           
 ” 58才 誕生日 明日から 一葉に 五千円札 発行 ”                                    
今年も無事、我が家の秋生まれ3人(母、私,下の甥子)の誕生祝いを
終える事が出来ました。                                 
 私の誕生日の翌日、11/1から新札が発行されました。まだ見る事 
も、手にもしていませんが女性がお札の顔になった事は、私の産まれた 
昭和21年に初めて女性参政権が与えられて以降の民主主義の堅実な進捗 
の結果と言えるでしょう。民主主義の基本「平等」は、この機会均等以外に 
ついては適用出来ない(すべきでない)。例えば個人には能力を含めて
(努力、才能、容姿等)差異があるのは当然で、それが個性というもの。
個性は尊重されなければならない。現在の、特に小学校では間違った平等主義 
がはびこり運動会等も順位を付けなくなっていると新聞で見た事がある。 
能力を伸ばすには良いライバル(実力伯仲の好敵手)に恵まれる事と 
いうのは定説、競争心がなければ存分な力を発揮する必要性を感じない 
だろう。変な平等主義が伸びる芽を摘んでしまう。そして、子供達は将来 
競争「社会」で生きていかなければならないのだ。適応出来る人間 
にしてやる事が、本当の「平等」と言えるのではないだろうか?    
 樋口一葉が生きていればきっと、この間違った平等主義を「イヤだ、 
イヤだ」と、ペンで斬ったかも知れませんね。            
                *                
 「秋」と言えば実りの秋、収穫の秋ですが、                                  
 ” 甦り 休耕田に 秋桜は ” 
 (高槻市三島江にて)                                   
  何年か前から収穫される事のなくなった休耕田一帯に可憐なコスモス                  
の花が生命をさざめかせていました。その色彩は甦った土の煌めきの如                 
 くです。「土」から遠く離れてしまった人間にも「休耕田」があるので                     
はないでしょうか?                                                  
秋の花と言えばもうひとつ菊がありますが、たまたま他の用事で行った、                
寝屋川市民会館小ホールで菊花の入賞展が開かれていました。                       
” 大輪の 愛が結集 菊花展 ” 
                                              
 直径が20pはあろうと思われる作品群、これが菊?と思えるのや、                   
天皇家の紋章のモデルになった菊の花もありました。                              
どの作品にもここまでの丹精さに感服しました。                                   
 ” 雲はゆく 夏から冬へ 秋の空 ”                                             
 秋の澄み切った空気の中、一年の最後の彩りを飾る如く街路樹は
真っ赤に生命を燃焼させ、その落葉は大地の懐に抱かれています。    
 「芸術の秋」とも言います。束の間の、秋彩を堪能致しましょう。
     2004年11月14日 3:26   

10/23(土)                  
  これを編集している現在、新潟地方で大きな地震が発生しテレビ全局が
このニュース一色です。
つい最近の台風と言い、日本列島は「満身創痍」ですね。
甥子が天変地異と言いましたが、本当に地球が節度をなくした様です。

10/20(水)から10/23(土)迄書き込んでいます。
この矢倉緑地の写真を『私のフォトスケッチ』に掲載しています。
 又「言いたい ほうだい」も更新していますので。
              *
10/20(水)      『矢倉緑地』の夕焼け                                            
 ” 台風の ニュースで 明け 暮れる 今日という日 ”     
         (23号)                   

 大型台風と言われる23号が日本列島を横断中てすが、被害に遭遇さ 
れた方々には心よりお見舞い申し上げます。             
 私も夕方の仕事(介護ヘルパー)は休みましたが、此処大阪寝屋川は 
雨風は強かったものの、甚大な被害はないのではと思います。     
但し、古家の我が家はこの雨に雨漏りが数ヶ所、玄関、洗面所、それに 
台所などはガスレンジ部分とその周辺、流し台横へ雨がポトポト落ちて 
きて、夕食の準備時どうしようかと思案の挙句、かやくご飯は炊飯器で 
炊きましたが、鯖の煮付けは醤油、砂糖、だし、生姜の細切りと共に耐 
熱鍋に入れて電子レンジで加熱(13分プラス余熱)して作りました。 
なんとか食れましたよ。今日は電子レンジさま様でした。       
               *                 
  ” 秋晴れに 誘われて 矢倉緑地へ ”            
 この日曜日(10/17)は今日とは嘘の様な晴れ渡った秋晴れ、  
午前の仕事を終えた午後から、先週産経新聞で見て、その後インターネ 
ットで検索、管轄の西淀川区役所にも電話して場所確認した「矢倉緑地 
」へ行く事にしました。                      
 伝法大橋へ抜ける淀川沿いの道は各一方通行で、結局迷ったお蔭で両 
方を走り、元の一方通行道から伝法大橋へもう一度走り抜け「矢倉緑地 
」へ抜ける淀川沿いの道へ出て走っていると、区の人に聞いていた通り 
車止めに突き当たり(其処には「矢倉緑地へ」という小さい案内板があ 
った)、手前に車を駐めました。頂度その案内板の処に役所の人が居て 
目的地の方向を再確認して歩いて行きました。            
 淀川沿いを見遣りながら、昔野田阪神に住んでいた子供の頃死んだ猫 
をこの淀川に流した事を思い出した。怖かった父だったが、父親の居る 
時には家に上げていなかったからだろう、猫の事を(捨てろとも)何も 
言わなかったが、何が原因だったか猫は死んでしまっだ。       
あの頃はこんな高い堤防ではなく、子供でも直ぐに岸に下りる事が出来 
た。其処までは一駅弱の距離があったので川沿いで遊んだという記憶は 
ないが、もっと身近な存在だったと想う。あれは、「中江町」の家が火 
事で焼けた後住んでいた、その家と共に今はその町名もなくなった「川 
上町」に在た頃のこと。                      
 その家の事は【童話「こわい」】(『マイメルヘンコーナー』に掲載 
)に創作を混じえて書いていますが、燃えた木の怨霊を信じますか?  

  ” いきあうは 「矢倉緑地」 帰る人 ”           
 この道の行き止まりは、大阪湾を望む「矢倉緑地」なので、行き合う 
人は皆、其処からの帰りの人ばかり。場所確認を兼ねてどんな所か聞い 
たりした。                            
 加齢毎深まる自然回帰志向が、歩を軽やかに進ませる。途中、何度か 
立ち止まって写真をパチリ。おまけ付きに草叢から洩れる秋の虫の聲に 
耳を澄ませ、ボイスメモに録音。「チリチリリ」この秋の気候の様に澄 
み切った聲………夏の終わりのか細い風鈴の音のよう。        
そういえば、風鈴の音をまったく聴かなくなった「今はもう秋」だった 
。長袖の服を着て、この淀川べりを歩いて行けるのも、すっかり秋だか 
ら。汗ばむこともない、いい季節の只中に在る。夏ならこの道を歩こう 
とも思えなかっただろう。                     
     2004/10/21 AM1:00           

 淀川を挟んだ向う岸にはビルの連なりの中、誇るように一段と高いビ 
ルが目に付く。私の記憶に間違いなければ弁天町の西日本で一番の高さ 
のマンションかな?しかし、高さなど「その中」だけであり、東京、 
アメリカのと並んだなら「高い」と思っていてもたかが知れている。   
 人の姿も稀で、舗装されているがこの道沿いの会社関連の車以外は走 
らないと思われる道路に、空缶が一個捨てられているのが珍しい物を発 
見した様に感じられた。何も無い所にただ一個だけ。ゴーストタウンに捨て 
られている、と言うのがその印象の適切な表現か。          
「自然界」というのは元々、人間がゴーストタウンの所だったのだ。  
 大地を窒息させている舗装した道路も、整備された堤防もすべて「人 
間のサイズ」に合わせて造られた。                 
 しかし、今回の台風23号(大阪は難を逃れたが)の猛威には為す術 
がなかった人間。「命だけあったらいい」と避難出来た人の言葉。   
テレビ画像の氾濫した川の荒ましい濁流の流れ。「速さ」とは決して美 
しいものではない、というメッセージを叩きつけているように見える。 
 最近のインターネットを通じての自殺者志願者もこの台風の怒涛の中 
に身を置いたなら「命」を呼び覚まされるのではと、「生きもの」であ 
る存在からあまりにも乖離してしまった現代人の「文明の支配下」に置 
かれた故の、標ない心の漂流を悼む。                
その「現代」と相容れない人間は「自然児」に戻るべきなのだ。 
   

 3日後に血相を変えて走るなど予想もつかない、当日の川の流れは流 
れているのかと思う位穏やかだった。                
 道が頂度右側斜め方向になる地点で水除けに積まれているのか、各1 
個の先端が3ヵ所三角状に出た型のコンクリート群に視界が塞がれる。 
見様によっては人間の胴体と両腿部分を切り取った型に見えなくもない 
。なにかゾッとする様な物体だった。                
        2004/10/22 1:33                  

昔から変わらぬ花を主役にパチリ、「背景」はどれだけ変遷した事か。
                                
 やがて見慣れぬ「潮留り」が目に付いた所で「矢倉緑地」の看板のあ 
る入口に突き当たる。やっと着いた、が実感。            
歩きだして約35分だった。(時計を持っていないので、デジカメの撮 
影日時で確認)案内板を見、休憩所や野鳥の休息所のある方へ上がって 
行く。秋の終りの様な枯葉色の葉を纏った木。少しきがはやいのでは? 
もう南へ渡ったのか野鳥の姿は見掛けなかった。           
 此処にも「潮留り」があり、敷き詰めた岩群で構成された中、処々高 
い岩が記念碑の如く配置されている。水の勢い軽減促進の為だろう。  
ふとテレビで観た事のあるモアイ像を思い出した(勿論大きさは比では 
ない)。                             
 
 午後4時過ぎ、大阪湾一面を照らしていた太陽が、レンズを絞る様 
に海面にその陽を濃縮した光の帯に変え、夕焼けの序章を奏で始めた。 
刻一刻、光の帯は密度を増し海は煌びやかな光の反射鏡となっていった 
。これからが夕焼けの本番だ、が淀川沿いの帰路を考え4:48分最後 
のパチリをして、思い切るべく踵を返す。             
 
 打ち寄せられた岸辺に濁物と共に白い花束のようなものが目に入り、 
何やろ?と思いを巡らす。水難した人の関連者の鎮魂花かな?カメラの 
望遠で見てみるが若しかしたらただの白い物の塊かも知れない………。 
 元来た道を歩きつつ後が気になって仕方ない、折角此処まで来たのに 
ーー、振り返っては夕焼けの破片をパチリ、又パチリ。5時過ぎから 
1分毎、湾曲したところから全く見えなくなる5時12分まで、それこそ 
パチパチパチパチリ(拍手喝采!)でした。
             
 その姿を見ていた人でしょう、自転車を停めて「舞洲の方が夕焼けが 
綺麗」と教えて下さいました。今度行って来ます。その時には又、ここ 
に書き込みますので、有難うございました。             
 以上、「矢倉緑地」の感想紀です。                

 行き交った数人の方には私のペーパーマガジンをお配りしたので、ア 
クセスして頂いたでしょうか?                   
          2004年10月23日 20:38 

 10/15(金)       「近況報告」                                   今日は、この今日という日に「ディゼル排ガス規制を」、マイポエムに「星の輝き」
言いたいほうだいに「教育基本法早期是正を求める」を掲載しています。       

 近況報告、頑張ってヘルパーの仕事をしながら仕事の合間合間創作を 
続けています。(最近は少し仕事量が減ってきたのも幸いしていますが 
、創作出来て嬉しい様な、でも収入が減って悲しい様な、複雑な気持ち 
です。)                             
               *                  
 人の心を読み取る事が出来たら、反対に人に読み取られたら?……  
「魔法のキャップ」を被せれば、それが可能に  
なる。────── こんなショートストリーを現在執筆中。     
 昔、短い鉛筆に縦長の帽子(キャップ)を付ければ、例えば5cm  
のが10cmに変身した………でしょう?それからの発想です。    
              *                  
 ♪古い上着よ さようなら、淋しい夢よ さようなら………     
                      「青い山脈」より   
となるよう「夢でも夢」の為、ガンバルよー!            

 この10月4日(月)「服部良一記念・大阪音楽祭」へ行って来まし 
た。戦後生まれの私なので観客の中では「若く」感じられました。   
上の「青い山脈」は最後客席共に唱いとても盛り上がった音楽祭でした 
。来年はこの音楽祭の中の催し「ストリートミュージシャンコンテスト 
」に応募しようかと思っています。(笑)              
              * 
『ディーゼル排ガス規制を』 
 平成16年10月4日付、産経新聞の「日本よ」の中で石原慎太郎氏 
がこの9月、石油連盟がサルファーフリー(硫黄分無し)とも言われる 
含有硫黄分10ppmの軽油の来年3月からの発売を決定した事(これま  
で先進国の中で日本だけが硫黄分500ppmの軽油を使っている)に関  
連して「国政の怠慢」を指摘しているので抜粋して紹介します。    
【以前、ディーゼル排ガス規制に着手し始めた頃500ppmの軽油を使  
って走る車の出す有害粉塵をテレビや講演の折々ペットボトルに入れて 
持ち歩き、東京では1日12万本散布されていると説明して回った。  
世界肺癌学会の外国専門医、トラック、バス業界が反応してくれ首都圏 
1都3県での広域行政としての規制取締りが実現していった。     
結果1日12万本の有害粉塵は5万本にまで減った。これはひとえに中 
小企業の多い運送会社や石油販売業界の骨身を削っての協力のたまもの 
だ。政府の予定を1年9カ月自発的に前倒ししたサルファーフリー精製 
は石油業界の文明の破壊を防ごうという強い意志によるもの。     
 昨年、大阪堺で選挙応援をしていて喉や鼻、目が痛くなり、東京の選 
挙ではもはや有り得ぬことだった。現在のトラック業界の実態は、大手 
の会社は東京に持って行くと規制にひっかかり、罰金をとられる様な古 
い車は大阪その他の地域に回し、首都圏へは新型の装置を施した車を回 
すという算段だ。国に依頼しても動かぬので都自体で実験した結果、排 
ガスの有害粉塵に晒された母体から生まれたマウスの子供は他に比べて 
運動能力に劣り、回転する輪車からすぐに転落してしまい、他の能力に 
も格差が見られる。人間にも同作用が懸念される。 (略)      
 ここまで来ているのになんで国は全国一律の規制に踏み切らないのか 
。国政の怠慢以上に現実感覚の欠如、人間としての志の欠如である。  
この国はいろいろな意味で、いかにも危うく頼りない国になりつつある 
。】以上抜粋要約。国が動かぬのは「議員」の圧力ですか?      
 志と、行動力のある人が舵を取れば日本丸の沈没もくい止められる。 
次期総理大臣は是非、石原慎太郎氏に務めて頂きたいものです。    

 9/22(水)                                       
【私のメルヘン】コーナーを新設しています(9/13付)。   
(【マイポエム】からも入れます)               

 ファンタジーや、メルヘン、ショートストリーを中心に掲載して 
います。又、これらの朗読と音楽をCDにしようと思っています。 
 お問い合わせは【こちら】まで。               
【言いたいほうだい】書き込んでいます。            

 昨夜からの雨、今日の時折小雨パラつく曇天の空の下、自転車で 
走っていると半袖のTシャツでは涼感を通り越した寒さを感じまし 
た。 “黄づいた きづいた 今日も さくらの葉”       
 先にさくらの葉の黄色の点灯に初秋を見付けていましたが、今日 
本当の秋の入りを体感しました。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いま 
すが、思えば彼岸に入っているのです。             
 あんなに猛暑だった今年の夏も、記憶だけをとどめて黄泉のくに 
へ旅立ったようです。猛暑も記録的なら、台風の数も今年は観測史 
上最高の8コ上陸したそうです。その台風8号のお蔭で、我が家の 
ベランダの屋根の波板一枚が3軒隣りまで吹っ飛びました。    
 翌日早速波板一枚を買い自分で悪戦苦闘しながら取り付けました 
。これも「お金儲け」のひとつです。その代わりクタクタのおまけ 
つきでした。                         
       『京都・「神々の美の世界」』                                         
9月20日の祝日「敬老の日」は午前中の仕事を終えた後、いつ                               
もの様に甥子2人と墓参りを兼ねて京都へ行き、博物館で催されて                               
いる「神々の美の世界」を観て来ました。最終日に間に合って良か                               
った。入館してすぐの両端には獅子と狛犬(運慶の弟子・湛慶作)                               
が、生体像の様に今にも駆け出す如く、特に威光を発している眼等                               
はそれを極立たせている。その先の真ん中、この展覧会のポスター                               
にもなっている「男神坐像」は、向かい合ったなら、精神を酷使し             
艱難辛苦(かんなんしんく)な人生を消化し切った如き達観さで、                               
我等凡人を戒め導き、何か語りかけ教示してくれそうに坐してある                               
。 一見それと正反対に見えるのが「恵美須神像」。右手に釣り竿                       
、左手に大きな鯛を持ち、この上ないという笑顔の「恵美須顔」。  
しかし、足の左膝の関節部分等は(俗にいうお皿部分)、木その物 
をあてがったように作造され、全身を支え踏ん張る「木」の根を連 
想させる。肉体を酷使し切った労働者にだけ与えられる喜びが、全 
身像(坐像だが)から溢れている。「言葉」を持たなかった頃の人 
間のような………。                      
「男神坐像」の丹念さと、「恵美須神像」の荒削りの手法。    
相対の極、忍耐と開放。敢行狭道と無惑広道。二つの道。     
 精神を酷使するか、肉体を酷使するか。            
その結果のようなこの二像。─────             

 絵画にしろ、美術品にしろ、故きをたずねたくなるのは、その古 
人(いにしえびと)の視点に興味があるから。          
 日本書紀の素原稿も展示品にあった。当たりの前の事ながら、「 
言葉」が歴史を創り、遺し、継承させて来たものである事に、改め 
て感銘を覚える。                       
 徒歩以外の交通手段しかない古代、その形式は違っても「神」と 
いう概念はどの民族関わらず持った様に、同じく「言葉」も発展さ 
せた。(と言う事は、万一この文明が滅びても再び、人類は同じ様 
に永い年月をかけて「言葉を発明」するのだろう)        
 言葉というのはメッセージ、伝達すべき事柄の手段の為のもの。 
それは結極、「神」を伝える為のものであった。         
 日本の「神」というのが自然界の、八百万の神の化身信仰なら、 
東洋というか日本の仏教の如来信仰は、その宇宙、自然界の仕組み 
を繙いた人を以て開祖として布教伝来してきたもの。根本的な処、 
人へのメッセージは共通のもの。(それはキリスト教や他の宗教も 
)それにしても、仏教の極楽と地獄、キリスト教の天国と地獄と、 
共に明文化していると言うのは何故だろう?           
 善人悪人、神と悪魔。共に人間の心の内にあるもの。      
何故、自然界のものを「神」と崇めてきたか?          
 木は木であり、花は花であり、虫は虫であり、それ以外を望むべ 
くもなく、欲せず。その調和の中で世界は成り立っている。    
それを「美」と認識した。   2004/9/21 1:46         

 現在も、その古代原始時代そのままの神信仰を持っている原住民 
の姿がテレビ放映されていた。                 
 極楽鳥の色彩鮮やかな羽根飾りを身に纏い、身体塗色や踊り迄極 
楽鳥の求愛ダンスを曲似ている。                
 極楽鳥の美しさに「神をみる」と言う。            
この視点こそ、芸術作品の原点であると、目から鱗だった。ずっと 
、ずっと自然界の中で生き、神と向かい合って来た、そんな人間が 
(原住民)未だこの現代に在るという事も。           

 不要なものは淘汰される。その中で引き継がれて来たもの。   
それは「必要」なものだからである。              
 「自然」に膝まづいて、祈る心が今こそ必要な時はない。    
    2004年9月23日 3:40               

8/31(火)  「アテネオリンピック 閉幕」                                               
   “ 真夏 台風 オリンピック 疾走や ”                                   
昨朝から昨夜、今早朝と台風16号の所為で勢いのあった風も、                 
今(午後12時過ぎ)嘘のように平静さを取り戻し、減量した陽差                       
しの中、入道雲が夏の名残りをとどめています。                                
その夏の如き名残り尽きないアテネオリンピックは、終りました。                     
 4年に一回のオリンピックも、私自身、今年程熱中した事はあり                       
ません。
平成8年に甥子達の子供会の役員をして初めて盆踊りを踊                       
って「踊る阿保に見る阿保、同じ阿保なら踊らにゃ損々」と思った                       
。どうせオリンピックがやってるのなら見な損々、さしずめそんな                       
心境からです。その観戦という五輪の「輪」の中に入れば、時差は                     
あるにしても同時間Live放送で「生感」出来るのは、「現在」                         
に生きている者の特権です。だから、ホット処ではなく、熱い熱い                      
のです。代償としてこの期間は「慢性の睡眠不足」でしたが………                               。                                                  
オリンピックは「出場する事に意義がある」、確かに各国内での                      
競争を踏破した者しか出場出来ない、各分野の最高峰の選手の競技                  
なのです。ですから、あのイギリスのラフニトフ選手のマラソンだ                      
けではなく10000mの途中棄権は恥ずかしく情けない事。                         
せめて10000m(10km)だけでも順位に固執せず走破して                        
欲しかった。なんといって、それまでのマラソン世界記録保持者な                     
のですから。増田明美さん記述の産経新聞<from>欄に、
【アテネ五輪前、ラスニトフ選手の「たかが42.9kmでしょう」と                       
いう言葉に、マラソンを人生に喩える時代ではなくなった】という                       
文章があった。それを見ていただけに、人間軽はずみに言葉は発す                    
るものではないと思ったし、その高慢さこそがチャレンジャー精神                      
を忘れさせ「戦略」を立てる事をも怠らせた。チャレンジャー精神                       
こそが十分どころか「十二分の力」を発揮させる。                               

 何でもいいからメダルをと思っていた、あの日本選手初めての女子                    
800m自由形「金」の柴田選手は毎日20kmの走泳をこなし                        
てオリンピックに挑み、「特に目立たないがプールの掃除を率先し                      
て行なう…(略)……神様も応援したくなったのでは」という記事                       
も目に留まった。                                                   
まさにチャレンジャー精神が開かせた大輪の花でしょう。                                   
 鍛練という「努力の結果」の実力を雲が覆い隠したハンマー投げ                    
の室伏選手は、母なるオリンピアによって「真実の証明」がなされ                      
ました。表彰台で「金メダル」が欲しかったというのは、日本国民                      
共々の気持ちです。(これを教訓に、試合前試合後の徹底したドー                     
ビングの検査体制の充実促進を)                                         
それにしても、室伏選手の演技姿の美しさ。ギリシャの彫刻が動き                     
出した如くです。きっと天上のオリンピアもその見落としたものに                      
気付いたのでしょうね。                                                  
 「判定」というものに不信感を抱かせた『シンクロナイズスイミ                       
ング』の、演技ミスも目立ったロシアに対する「金」評価。見た目                       
の柔らかな肢体美には適わないが、日本はデュエット、チーム共に 
技術、演技では決して見劣りしない、銀ではなく「金」の値打ちが 
あった。「やり残した事はない」、清々しい武田選手の言葉が充実 
度を物語っています。                     

 28年振りの金メダルに輝いた「男子団体体操」ですが、あ
鉄棒の何回転もしての着地等を見ていると、昔本当に「忍者」が実在 
したと思えます。訓練の塾度によって。人間技とは思えない、人間 
の限界への挑戦。オリンピックとはその競演美でしょう。     

 この道の果てに「夢」がある────先のマラソンに戻るが、山 
あり谷あり、坂の上り下りの多かった今回の42.9kmは、
150cmの身長と40kgの体重の野口みずき選手が金を獲れる唯一 
の戦略、「25km地点の上りからスピードを上げトップに躍り出 
る」が功を奏した、一つの賭けだったそうです。それにしてもあの 
身体で走破出来たのですから、日々の練習が限界を超越させて行っ 
たのでしょう。「オリンピックスタジアムの観客の声援に迎えられ 
たい」という夢を掲げた野口みずき選手の快挙は、「限界の挑戦」 
に挑み戦いぬいた故のものでした。               
 「夢」は叶うもの────それは何万人、何十万人分の一の確率 
のものであっても、「一生懸命」という努力の積み重ねでしか得ら 
れない事を、オリンピックは「実現」してくれます。       
本当に応援している者も、「一生懸命」でした。         
 そして、今大会で印象的だったのは「感謝」という、選手達を応 
援してくれた人達に対する言葉。「花みずき」という花の花言葉が 
「感謝」で、そこから野口選手は「みずき」と命名され、いつの場 
合も、この言葉は野口家の家訓であるとか。           

 「一生懸命」は、素晴らしい!                
 「一生懸命」は、美しい!                  
              *                
       
 「一生懸命」は美しい!            
 環境に対応して「進化」して生き永らえてきたのが現在生きてい 
る人間を含めた生物。以前の445のページbV3号にも書いた『 
その進化の瞬間こそ、美しい美だっただろう』。         
 それは必死な「一生懸命の美しさ」だ。            
いつの頃からか、日本人の若年層の間でこの「一生懸命さ」を侮る 
風潮と傾向が見受けられるようになった。            
 一生懸命が「進化」なら、その否定は「退化」。        
開いた花は美しい、萎んだ花は醜い。何故、そう感じるのか?   
それは、私達の遥か彼方遺伝子の中にインプットされたもの。   
「一生懸命」の刻(こく)一刻の産み出す新しい生命。      
 単細胞の頃からの、その営みに依って、現在の私達は在るし、  
未来の君達も存在し得るだろう。          
      
         2004/8/31 24:10       

8/21(土)  「日本バンザ−イ!!!」        
 アテネも燃えて、日本も燃えているよ!                
昨夜から深夜に掛けてのアテネオリンピックの展開。         
柔道の女子谷本選手の「金」から浮き浮きだった私も、バレーボールの対韓 
国戦では接戦の末とはいえ3−0でストレート負け、しかし、その後の柔道 
では女子の塚田選手、男子は鈴木選手が続けて「金」に溜飲が下がり、女子 
サッカーを見れば劣勢で結局2−1でアメリカに負けました。舞い上がった 
心もフ−ッと一服。が、しかしこの後が又凄かった!水泳女子の背泳200 
mで田中選手の「銅」の後、柴田選手が800m自由形でなんと逆転の「金 
」ですよ。「ガンバレ!」「ガンバレ!」残り150mからの田中選手の追 
い上げの応援をしている私の大きな声に、2階で寝ていた下の甥子が起きて 
きましたが、上の甥子も今朝「うるさくて眠られへんかった」そうです。あ 
の状況を見ていれば、誰でも声がでますよ−、ゴールの時には「日本バンザ 
−イ!!!」と、叫声と共に両手を上げていました。           
 山あり谷あり、浮いて沈んで、浮いて沈んで、最後、舞い舞い上がった! 
この日のアテネ震動の私の「心動」です。                

 卓球の愛ちゃん、韓国の選手に負けてベスト8入りが出来ませんでしたが 
実力では負けていない「若さ」の差だけでした。試合終了時韓国の選手が崩 
れる様にへたりこんだのがその苦戦を物語っている。(どっちが勝ったのか 
な?と思わせる一コマでした)。4年後の愛ちゃんが本当に、楽しみです。 

 今、(日付は8/22)男子競泳400mで日本は堂々の銅メダル。     
水しぶき、汗しぶき噴った水泳の有終の美を飾ってくれました。      

 過去2回のオリンピックでは1回戦で敗退した安武選手の「厳しい試練が 
今日の日を(金メダル)迎える事が出来た」そして、「皆さんの応援がここ 
まで頑張れた」の言葉は、すべての選手にはてはまることでしょう。    
 しかし、その「期待」に潰れてしまった人がいる。           

 死闘と言える選手達の競技。オリンピックの度、メダル取得という「光と 
影」だけではない、オリンピックの背影の如く甦る故円谷幸吉選手。東京オ 
リンピックで誰も予想しなかった銅メダルを取り、メキシコオリンピックで 
更なる躍進を期待されていた同選手が、その重圧感から自殺。       
その遺書は文豪川端康成も絶賛した名文だが、その名文たらしめた締め括り 
の「幸吉は、父母様の側で暮しとうございました」には、誰もが涙を滴ため 
た。                                 
 この故円谷選手を思えば、オリンピック出場選手の誰もがきっと「死と隣 
り合わせ」の、本当に死闘しているんだと確信出来る。          
ならば、メダル如何に拘らず全ての選手に賞賛を捧げるべきでしょう。   

 まだまだ「自分自身の限界に挑戦」する死闘が繰りひろげられます。
大阪はすっかり残暑だけになって、朝晩などは秋の気配が漂っていますが、
心の熱は未だ真夏が続きそうです。
           2004/8/22 4:30

2004/8/17(火)  『夏休み』         
 夏休みもはや3分の2を過ぎようとしています。           
15日にはいつもの様に京都へ墓参に行きましたが、下の甥子は特に他に 
は行きたがらず、海に連れったろか?と言っても「いらん」と、読書、ゲ 
ーム(一日2時間程)をして過ごしています。宿題は7月迄あったクラブ 
の終った後毎日やり7月中には終えていました。来年高校受験を控えての 
中学最後の夏休み、悔いなく過ごして貰いたいと思っているのですが、こ 
ればかりは本人次第の事。読書だけは私が買ってやった本を読み進め、い 
まや品薄になってきました。                     

       「アテネオリンピック」                
  “ しげんの火 パルテルンから オリンピック ”        
    (始原)                          
 8/14、競技する方も、応援する方も必死、一生懸命の火燃え上が 
るアテネオリンピックが開催されました。力を完全に出し切っていない女 
子日本のバレーボール、ソフトボールですが、柔道の内芝選手の「金」、 
谷選手の2連覇に続けて、野村選手の3連覇と、幸先よいスタートの日本 
勢。水泳は北島選手、今日は男子体操団体が「金」という快挙です。長島 
監督の熱魂も一緒に戦っている様な、野球の長島ジャパンも2勝を上げ、 
昨日は女子バスケットボールが熱闘の末1勝しました。3才の頃、負けて 
泣いていた卓球の「愛ちゃん」も2回戦に逆転勝ちし、今日の3回戦は4 
−0のストレート勝ち、いやはや恐れいりました。           

 お盆の15日辺りから天候が曇天の所為もあり暑さ和らいだ感のある大 
阪ですが、オリンピックに目を転ずれば、熱い熱い「アテネ」に同化され 
てしまいます。北島選手の平泳ぎ200M予選は2’11’97のタイム 
で2位でしたが、決勝戦がたのしみです。柔道の谷本選手の準々決勝戦は 
又々の一本勝ちそれも17秒の勝負でした、スゴイ!          
 この後の決勝戦で「金」です。強いのなんのって!          

          「墓参」                
 オリンピック開催中の所為かいつもの車の渋滞にも遇わず、京都に着く 
事が出来ました。眠ったままの夏の陽射し下、今にも雨が降りそうな曇天 
の所為で、車の中も窓を開けているだけで充分快適だった。       
   “ 墓参段 一段一段と 深みどり ”             
 緑蔭の深さが一段一段と深くなる墓参段を上がり乍ら、アテネオリンピ 
ックの出場国の中に国土の90%が砂漠という国があった事を思い出し、 
何処で「当たり前に生きている」にしろ、当たり前の差が、極立つ。   
 寺の主のような樹木の生い茂る境内の中、今日の蝉の聲は鈴虫に近い、 
風鈴の如き涼やかさ。                        
蝉や鈴虫の求愛メッセージの透明な音色に浸っていると、人間の穢れだけ 
が、浮き立ってみえる。人類の始祖にインプットされた虫の音色や、花の 
色彩に対する美しさの記憶。それに辿り着けば、その頃から現在の人類の   
永い旅は何だったのか?切り取って然るべきものと弾劾、断罪の「叫愛メ   
ッセージ」に聴こえる。                        
 そして、蝉しぐれ、読経、アイスクリーム「墓参寺の夏」を例年通り終 
え、墓参段を下って行きました。                   
        ───────────────────       
<ファンタジー>『七彩の虹』平成13年8/15/記) 
 お盆の八月十五日お墓参りした帰り、四条通りを嵐山に向かって車を走 
らせていた。ビルの「山」がだんだん低くなってきた辺り右手側に「七彩 
という会社の看板が目に入った。その会社名に引き付けられ………気が 
付くと其の会社の前に車を停めていました。『「七彩(なないろ)の「虹」を下 
さい』、中に入って言おうとしたら、入口の処にストローとシャボン玉液 
が置いてありました。それで早速そのストローにシャボン玉液を浸けてプ 
ーッと吹くと、丸い虹色の輪が一杯に躍りだしました。そして、その輪が 
壊れると、そのあとに何か文字が見えます。壊れた順番に見ていくと『こ 
のシャボン玉を持って道路先の「サンコール」という看板の所へ行きなさ 
い』という言葉になりました。<太陽に呼ばれ>風に乗せられるシャボン 
玉のように、その言葉のままシャボン玉液を持って道路に出ました。少し 
行くと本当に道路の左側にその看板「サンコール」がありました。
中に入 ると、大きな真っ赤な太陽の絵に視界が塞がれました。「そうか、太陽を 
背にしてシャボン玉を吹けばいいんやな」となぜか想い、そのようにする 
と、あの小さいシャボン玉が大きな大きな虹になり、それは本当に虹の橋 
のようであり、あまりキレイなのでその虹に触れてみたくなって、虹の端 
の方へ行きました。下から赤、橙、黄、緑、水色、青、紫と本当に七本の 
橋が懸かっています。みんなキラキラ輝いて、そっと触れてみると、ヒャ 
ッとする「氷」でした。どの橋もみんな渡りたいなと思いながら、一番下 
赤い橋を渡って行ったのです。ガラスのような冷たい感触の橋を駆け上 
がり、頂上から下(くだ)る時は、滑り台の様にツルーンと滑っていきま 
した。そして、下りた処から又、次の橙色の橋を登って行こうと足を置い 
た途端、「赤」い橋は消えてしまいました。同じように橙色の橋を渡り終 
え、次の黄色い橋を渡ろうとすると、やはり橙色の橋は消え、緑、水色、 
青、紫色すべての橋を渡り終えた時、そこは、真っ白い雲の中でした。  
 その雲の中から、真っ白い鳩が一匹、まるで雲の中から産まれたように 
、現われました。あの鳩「私」だわ、私は地面の上に確かにこうしている 
けど、でもあの白い鳩は間違いなく自分だと、なぜか思えるのです………
 
。又、元の道路に戻り目的地に向かって走りながら、昔、浅川マキという
歌手が「赤い橋」という歌を歌っていたのを思い出していた………。  
 
♪いろんな人が この橋をゆく  渡った人は かえらない………♪ 

「虹」の初めの赤い橋………七本の橋、仏教の「七」という数の因縁はな 
んやろ?初七日、二(ふた)七日、・・・六(む)七日、七七日(ななの 
か)の四十九日(満中蔭)………………。               
 【この年(平成13年)7月23日は亡父の三十七回忌でした】。   
      ─────────────────────       
       「嵐山・桂川」             
 その後は、三年坂を上がり清水通りに出て八ツ橋を買い、今年も嵐山へ 
向かって車を走らせ、途中私のペーマガbV7号の「七彩の虹」に掲載し 
ている「サンコール」という会社の受付けの人にそのペーマガを渡す。前 
日に大雨で水嵩を増し急流だった昨年と違って、今日の嵐山・桂川は穏や 

かな流れに鷺の一種と思える白い鳥が一処をじっと見詰めているように動 
かず、絶好のシャッターチャンスにパチリパチリパチリ、角度を変えたの 
でおまけにもう一枚パチリ、うまく撮る事が出来ました。3年前の終戦記 
念日に来た時の嵐山と違って今日は、夕方の温度が26度で湿度感もなく 
桂川の浅瀬に足を浸らせる必要も感じないままに甥子達2人を見ると川原 
辺りをウロウロ。手に持っているデシカメで甥子達をパチリ。(今日は動 
画で墓参寺や三年坂、清水通りも撮っておいた)足元を見ると何の木だっ 

たのか直径40〜50cmの大きな切り株が、胴体を切られて、生きてい 
た。その側にはそれより小さい岩石が3個風雪を刻んだ形相の侭にあった 
。その内の1個は半分程が極端に黒ずんでいて、どんな厳境下を通過して 
きたのだろうと、答えぬ石に問いたくなった。あの木の様に胴体から上が 
吹っ飛んだ人間もいただろう。この石の様に灼けただれた人もいただろう       。
以前のテレビ放映に広島原爆投下後の状況を証言しているのがあった。       
真っ赤な川の流れに無数の死体が流されて行く、次の日も、その次の日も       
………。毎日見ていると凄惨さに対する感覚がダンダン麻痺して「慣れた      
 」。この言葉程、空恐ろしいものはない。そんな風に殺していく者も慣れ       
てしまう。あの岩石、黙して語らぬ石だが、人類の産まれる以前からの変   
転の闘いの歴史「全て知っている」と皺だらけの顔が物語る。太平洋戦争 
(第2次世界大戦)で京都や奈良以外、全土が焦土と化した日本。そして 
、国土の山河の中から再生した日本人。「国破れて山河あり」。誰の言葉 
か、実感だっただろう。日本人の心のふるさと………嵐山を含めた京都に 
惹かれるのは「失われた記憶」を呼び覚ます事が出来るから………。   

 59年前、先に無条件降伏したドイツは東西に分断され、アメリカと   
ロシア(当時のソ連)の管理下になった。故に日本は無条件降伏を拒否し 
一億国民玉砕を宣言、それによりポツダム宣言受諾となり、アメリカの統 
治下に置かれたが、国を分断されることなく「自由主義民主国家」となる 
事が出来た。それは最後迄戦いぬいてくれた戦没者達の御蔭です。それを 
忘れないようにしましょう。8月15日は59回目の終戦記念日でした。
               *                  
 「国威力を戦争ではなくスポーツで」との平和祈念の下、開催された  
その最初の地アテネで今年のオリンピックが開かれています。      
 参加しているすべての国が原点に戻って、その精神を引き継ぎたいもの
です。                              
   “ 打ち上げて 打ち下すことなく 祝「砲」わ ” 
     
                  *
 (そろそろ嵐山を発とうと思っていた時、私がずっと流していた「広報カーの
事で苦情があったから」、と警官に注意されたのですが、その時、手前に石があった
事に気付かず躓いてこけてしまいました。夜右足の膝下辺りに少し痛みを
感じ、翌朝ズボンを履く時その右足に重心を掛けたときグラッとして痛みを余計に
感じるようになりました。
 それにしても、うるさかった方はごめんなさい。地球の未来のため、日本の未来の為
私なりに活動しています。これからもご協力の程、よろしくお願いします。)
 2004年8月18日 3:53            

7/16(金)「言いたい ほうだい」書き込みしています。 
 この7月でペーパーマガジンを
創刊して丸4年です。 又 
7/8は平成9年に 初めて前橋汀子さんの音楽を聴いて丸7年(満7才 
)の「魂のバースディ」
の日でした。                            


        『木の精神性』             
   道を極めた人───樹の様に、土にズッシリ根を張り巡らせ そし  
  て、そこから変わらぬ、又変えられぬ自己決定の意志を、幹からか細  
  い枝の先々迄伸張させ(あんなに繊細なのに、引力の重圧にも、風圧  
  にも屈さず)凛然と聳え立つ。それは、まるで「或る人が」心の根の  
  芯を重心にして、歩み歩んだ一筋の道の道標を、天に見たなら、一本  
  の木に成るが如くに………。天の啓示の様な、冬の          
  落葉樹の清々しさに、私の体内の地殻変動の清々し          
  さが、重なる。少し前の新聞に、海洋生物を使った          
  実験で陸の重力に抵抗すると体内の圧力が高血圧に          
  なり、其処から脊椎骨が芽生されたとあった。地球          
  の歴史に、及ぶべくも無い人類になる為の人間への                  
過程。………私達、遥か彼方には、その人間になろ                  
うとした長年に至る、人類先祖の苦節の歴史がある。
   その生物の、圧力に屈しない要素こそ、樹木の精神性を、
  その遺伝子に宿す要因となったと言える。「或る人」が、一筋の道を極める。
  そして、その音楽に人は惹かれて行く。又、人が真直ぐなものに、憧れる。
  それは人類になろうとした発端の、木の精神性────人間の神秘の遺伝子を、           
現在の私達が見出だしているのかも知れない。
   一方、他の「木」は地球をも超えた。この現代の、高度な文明、
  限りなくロボット化して行くであろう人間の涯てには、もう一度、
  人類のその前の段階迄、降りて行ってしまう様な気がしてならない。
  何故なら、その「木」は折れる迄、伸びるしか無いだろうから……。
   ただその中で、人間が人間たる所以の精神性に目覚めたなら、
  人間は何処に向かって生きているのか、何を求めて生きて来たかと言う、
  人間たる所以の、答えに辿り着くであろう。
   或る芸術家に根付いたその「木」の根元に、現在いまの私は、在る。      
     (詩歌集夢現第3集「夢幻」P12より)  
──────────────────────────────────
  2000年7月創刊                                                        
「にゃこリン「夢」シリーズ」ペーパーメールマガジン、とは?                                   
     『にゃこリン憲章』                
  
(略)第3集「夢幻」に掲載の俳句、詩、短歌、散文、エッセー、                       
音楽詞(HPに歌を公開)、「にゃこリンスペース」です。                             

日本の文化的遺産(俳句、短歌)と、西洋の文化的遺産(クラッシ                     
ック音楽)の感動感という、物質的指向と相反するものの位置観か 
  ら、その生態性に必然なバランス感覚、この自然界の、地球の生業 
  に立ち還らずにはおれません
。そして、その「聲」を聴く事が出来 
  たものは、それを伝えなければなりません。           
  それが、此の時代に生まれて来た者の「使命」だと思っています。 
   これが「夢現」シリーズの根本的骨格です
。           
                                       
  以上は発刊当時の「にゃこリン憲章」と、そのテーマソング(下記6/23付)
見知ぬあなたへ」♪です。当初予定の内容より当マガジンはニュース性
(私見)を加味したものとなり、それが現在の『445のページ』の形態    
 13のリンクの内の「今日という日」「言いたいほうだい」)の新設と   
 なりました。                             
────────────────────────────────────                                                     
7/12(月) 『熱中症?』                            
 今夏の最高気温だった次の日、あれが熱中症というのでしょう頭がブア〜ン 
として熱の球が頭の芯にあるような感じでした。              

(ヘルパーの)仕事で自転車で片道20分(往復40分)の道を帰った後の事 
。その前日も同じように走ったのですが、長袖の着衣していたのと、私が帰宅 
した時私の母が暑いというのでクーラーを点けた事、両方が幸いしたのでしょ 
う最高気温だったのにこれという事もありませんでした。          
次の日の頭がブア〜ン時は氷枕(アイスノン)を枕にして横臥っていましたが 
、すっきりせずクーラーをつけてやっとブア〜ンが消え去りました。現在未だ 
57才の私ですが、気持ちは若くても<身体が従いてこん>ですわー。    
 前号の「私の本質」に書いた時よりも仕事の量は減って、あんなにぎっしり 
疲れは溜まっていないけど、暑さが増した分、身体の疲労度もピークに達した 
という事でしょう。疲労度に関連して同じく前号のホームページに掲載した「 
疲れの根因」に書いたけれど、いつまでこの仕事を続けないといけないのでし 
ょう?いい加減私の歌や創作物、認めてくださーい。            


今回は6/23から6/29迄を流しています。

                『見知らぬあなたへ』

6/23(水)
 昨日の6/22(火)は午後から広報活動の為車で家を出て、大阪市内の扇町駅乗降口(関西テレビの斜め向かい側辺り、「養老の瀧」前)で暫く車のスピーカーから私の朗読(【ペーマガ445のページbV5号を中心に】を流し乍らペーマガを配りました。別にスピーカーを車に積んで来て、本当は生演奏ならぬ生放送をと思っていたのに、肝心のマイクのアダプターを忘れて目的は半減でした。あの界隈の方々、迷惑と思われた人にはお詫び申し上げます。
 いつも言う事ですが【地球の未来のため、日本の未来の為】私なりに活動してます。ご協力の程、よろしくお願い致します。
 その後は、曽根崎東界隈で同じ事をしていました。

 これからも、折々に「見知らぬあなた」の街町へ神出鬼没、お伺いします、どこかでお会いしましょう。
  【 ♪見知らぬあなたへ  作詞曲 日高よし子

   見知らぬ街の 見知らぬあなたへ  
   見知らぬ町の 見知らぬ私が

   あなたに 届ける 私の言葉のメールが
   渇いた季節の 渇いた心の

    ほんの一杯の ジュースにでも
    なることが できたら………

   渇いた季節の 渇いた地面に
    打ち水のような 
    言葉を 撒くことが できたら………

   見知らぬ町の 見知らぬ私が
   見知らぬ街の 見知らぬあなたへ  
    今日をも 届けます   
       】

 その昨日の夜は、ホームページの更新をしようとデジカメの中のをパソコンに取り込んだまではよかったけれど、ホームページビルダーの無料の掲示板を私のホームページに貼り込む設定をして出来上がったのを見てみると、CMが組み込まれてあり、その内容が【スロットゲーム】だった。
意に反したものだったので、急遽取り止めようとしたが、その「利用に関して」の項目を見てもその説明がなく、解除方法をメール送信して待っている処です。本当にただより高いものはない<その為要らぬ時間を浪費した>でした。
───────────────────────────────────
6/28(月)
 その掲示板、管理会社にメールを送りやっと削除する事が出来ました。
未だ設定完了する前の段階だったので、やきもきする事もなかったのですが………。
 『にゃこリン「夢現」シリーズ」の時にトップページに貼り付けていたアクセスカウンターが『445のページ』に衣替えした時、勝手に外れてしまいその侭にしていました。再度取り付けようと試みています。又、数字の中の「あなた」とお会いしましょう。
                 『高貴な日本人』
【「日本は貧しい。しかし、高貴だ。地上に決して滅んでほしくない民族をただ一つあげるとすれば、それは日本人だ」。太平洋戦争で日本が配色濃厚になった頃、大正末期から昭和初めにかけて駐日大使を務めたフランスの詩人ポール・クローデルはパリでこう語った。】
 以上は、産経新聞平成16年6月25日付正論欄のお茶の水女子大学教授、藤原正彦氏の寄稿文『日本は守るに足る国家と言えるのか』の中で特に印象に、そして感激した箇所。
又、【小学生の頃私は、新憲法こそ苦い経験を生かした歴史的快挙と思った。世界が日本の美しい覚悟にならえば、戦争をこの世からなくすという人類の悲願が達成されると考えた。半世紀近くがたった。どの国も日本にならわなかった。世界の諸国民には公正も信義もなく、どの国も国益だけで動いている。
イラク進攻に見るアメリカ、イギリス、文句をつけたドイツ、フランス、ロシア、靖国参拝や歴史教科書に口出しする中国、韓国すべて国益のみである。自由と民主主義、世界平和、正義、人道といった美辞麗句で飾られていても、本質は国益追求である。
 農産物の自由化は、価格下落をもたらすが農家は減少し、日本の田園は荒廃する。美しい自然の喪失は「もののあわれ」など日本人の有する美的感覚の喪失に繋がる。この感受性はわが国の誇る文学、詩歌の源泉。美しい自然や情緒、高い道徳、文化、伝統などは国家の品格である。『国益を守るに足る国家を作ること』繁栄追求という国益を求める事以上に、それが重要な事である。  そして、アメリカ頼みの国防体制を改め、日本に独立不羈と品格を取り戻すこと。国益とはこれを守るものである。】以上要約しましたが、確かに、日本は食料だけではなく全てに自給率は低い。それでもこの風土が豊かな穀物を実らせてくれる。地球上の乾燥砂漠地帯などから見れば、夢のような状況だろう。しかし、土壌を耕して醸成してこそのものである事を忘れてはならないだろう。他の国から見れば罰当たりの様な減反政策、以前そんな農家の特集番組で潰した土壌を元に戻すのに10年はかかるというのを見た事がある。「食」という生命活動の基幹。
 そろそろ永い目で見た日本という国の本当の国益とは何か?を見詰め直してもいいのではないだろうか?これだけは譲れないもの、それを見極め国軸とする。藤原氏の書かれている様に「瑞穂、稲穂の国」日本の稲穂を壊減させる事が自然の理に適ったことなのか。それほど迄に感性は鈍ってしまったか。

『敗戦の遺産』

 敗戦後の復興、繁栄を追い求めた時期からGDP世界第2位に迄経済発展を遂げた日本。物がなければ生きていけないと、なりふり構わぬままに走り続けて来たのだろうが、結局それは「敗戦の遺産」として日本人の精神性迄も駆逐してしまった。それは戦後アメリカが故意に「抹消」したものでもある。
 戦争に敗けたという事は偏に国防力の低さ。それは<日本は貧しい。しかし、高貴だ。>に繋がる、国の貧しさ故だっただろう。軍国主義と非難されてきたのも敗戦故。あの当時、又戦時下、どこの国も国民一丸となって軍国主義的愛国心で戦ったと思える。それが戦争というものだろうから。
この現在の日本人を見た時、確かに「日本は敗けた」事を実感する人が多いだろう。その「日本人の精神性」の喪失を憂い。
 現在のこの豊か過ぎる日本に暮らす日本人が<高貴さ>を取り戻すには、敗戦によって全否定したもの、道徳心、恥知心を子供の時から教える。
少し以前の事だが、公園でスケッチ(左の絵です)をしていたら小学生の低学年らしき子が私に話し掛けてきた。「絵がお好きなのですか?」「樹を描いておられるのですか?」、見れば小さい男の子だった。その後公園の横の塾へ入って行ったが、今時中学、高校生、いや社会人でもあのような言葉遣いはようしないだろう。本当に吃驚して、そして、感激した。親御さんが素晴らしいのだろうとだけは断言出来るでしょう。あの様に教えれば、出来るという典型です。

 やはり新聞で近頃の若い女性に「路地」が注目を集めているというのがあった。これも日本の昔の風物詩になってしまった。「路地」というイメージとはなんだろう?道幅の狭い所に家が軒を列ねた中、家々の話し声が聞こえ、各家の料理の匂いを風がごちゃ混ぜにし、食器の音、子供の泣き声が止んでは響き、「ただいまー」どこそこの誰が今帰ったこと迄分かる。どこの子も、親の手伝いをし、どこの子問わず、子供も親も「みんな家の子」面倒看、少ない物を分け合って、親、年長者を敬い、年下を庇う。極めは、物の対価に心は売らぬ
。何かで見た「夢物語」です。それは肌の温もりのようなもの
────。

 温故知新、古くからあるものでも「知らない」ものは新しい。そんな風に現在日本人のすべてを覆っている物質文明に替わって、路地裏に息遣いている日本人の高貴な精神性を自身の中に再発見、再認識し「敗戦の遺産」を抹消する事が、「心」を己の中心に据えてきた日本人らしさを取り戻すことになるだろう
            2004/6/29  3:08


今回分は6/1(火)〜6/13(日)までを、流しています。
又、<味わう日本語>に代わって<私のデジカメフォトスケッチ>コーナーを新設しました。<言いたい ほうだい><コスモスページ>写真も書き込んでいます。

                *
6/1(火)  『私の本質』───太間公園にて───
  【動画は容量が大きくて掲載は出来ません。5ケ所に写真を載せています。】
 
 自転車で行けば車の停める場所の気兼ねも不要だし、車で行けば広報出来るしと考えた末、仕事休みの今日位、自転車を忘れようと結局車で、淀川河川敷の太間公園へ行きました。デジタルカメラは勿論、本一冊、雷菓子一袋、ポカリスエットを持参して。せせこましい空間に生きている毎日、広々とした空間の中に立ち、自然人に戻った。この360度のパノラマ空間は、仕事や家事に拘束されない場所に居る事を実感させた。
 紫陽花の季節なのに何処にも植花されてなく、珍しい黄色い菖蒲が目に付くその辺りの草叢から虫の聲が、この広い空間を我がもの顔に、その存在をアピールしている。希望通りデジカメのボイスメモできっちりその存在を刻印ならぬ刻音してやる。その上を白や黄色のモンシロ蝶が、私の心その侭のように自在に飛び交う。デジカメでシャッターチャンスを狙うが(この後の池の水面の燕もだが)ここまでおいで、と言う様に仲々撮らせてくれない。
 平日の今日、視界彼方目に入る人は、駐車場から入ってすぐの所でバーベキューしている2人、犬連れの2人、ベンチに寝転がっている人がとびとびに3人程、木蔭に座っている人、いつの間にかキャッチボールしている若い2人の女性がいる。未だまだ男のスポーツだからそれを見ていて、抑圧された女の時代があった事に少し思いを巡らせた。
 飛び石の様に処々にある腰掛け岩にデジカメ以外の物を置く。
昔、仲々母に買って貰えなかったホッピングを手にした時の様な、満面の嬉しさに心弾ませながら、落ちないようデジカメを首から2重に紐を掛けて、再び蝶や鳥を追う。抜き足、差し足、忍び足、忍びの者になって近付くが、剣もほろろに逃げられる。未だ使い慣れないから余計。
たんぽぽの綿帽子が地球の球形の丸さに刺繍されていて、糸目の繊細さに見惚れる。何故かこれを見ると水母(くらげ)を思い出す

水源は分からないが、枯草の茂みから命の音をたてながら湧き水が溢れ出ている。2メートル巾程の川仕立ての流れは、処々に設けた段差が勾配をつけ、曲線を描きながら或る地点迄続いている。その間には意図を以って配置された様な茶色の岩が数多く見られる。(本当に、人生と言う川を過ぎて行くには、岩の様な壁を避ける為、目と耳を澄ませて流れに乗って行かなければ、と想う………)
視線を前方に伸ばすと楠の木が風に葉を揺らせ、生命を踏まえている。此処にも、其処にも「命」の源がある。

 何処で本を開けようかと日蔭を物色していたが、木蔭は犬のオシッコ跡かも知れずと勘念して、木からそんなに離れていないベンチを見付け、やっと腰を落ち着かせる。其処から樹を見上げ、何気なく右側に視線を向けると、遠く橋の上には「仕事の車」がびっしり、ひしめき合って行き交っている。「日常」から離れた積もりだったのに、彼処にはいつもの日常の顔が連なっていた。皆、同じ様な疲燥感を背中に負ぶって。

疲れが溜まっている………信号停でぐったりしている車群。
解放されて、息遣く間隔の開いた車はスーイスイと泳いでいる、がそれは稀。もう90度右へ首と身体を回す。大海原のような大地の緑色の素顔が広がる。今、私はその空間の中にいる。これが私の本質なのだと確認出来る。一人でいるけれど、全然そう思わない、これら全てが私のすべてであると思えるから。 自由な空間に身を置いて、若い頃やはり一人でベンチに仰向けに寝、空の広がりの中、自由である事を確認出来た幸福を思い出した。あれは、父の亡くなった1〜2年後だったと想う………。
 又、元に視線を90度戻す。明日から又戻らなければならない「制圧された空間」が逃げ場なく、時間を消費していた。何もわざわざ此処に来て迄見たくない………。この緑の奥まった突き当たりに淀川の流れがある。
海は好きだけれど、川は急わしなくて好きになれない。抗えない運命の様に走っている、とても従いて行けない。時の速さという残酷な一面を併せ持つ。
だから、今日其処へは足を伸ばさなかったのに……… 

 持参のポカリスエットが、山の真清水の様に喉元を流れて行く。     
やおら、持参の読みかけの本、吉本ばななの「N・P(ノースポイント)」の続きのページを開く。読み始めて次頁を繰ると【街はずれの川原の土手に座って………】(P135)という件りに出会う。まさに私も土手のような所に居たので「奇遇」を感じた。陽に背中を晒しながら 直径5Cm位の丸い雷菓子をガリポリ1個2個と噛み砕き、ポカリが沢を洗う様に口の中をさらって喉奥のもっと奥へ、内蔵工場へ送り出す………。

 この大きな空間の中、本を膝の上に置き、それに見射っている。
 この広い地球上の幾万、幾億冊とある中で手にした、
 この一冊の本と見詰め合う様に、向かい合っている。

 私の昔の「若さ」の断片を拾い上げてゆく。
 「若さ」それ自体、絶たれた断面。
  社会の濁色に染まる前のひと色が、光に縁彩られている。
  そのひと色が赤であれ、青であれ、白であれ
  流星の輝きを放っている

 何を買う場合にも言える事だが、どんなに物が溢れていようともそれは各自の財政事情と合致して購入出来ると言うのが実状。私の場合もそういう事から古本屋へ行った。其処で買った3冊の内の1冊がこの「N・P」である。以前読物雑誌でこの吉本ばななのを読んだ事があり、相性は悪くないという印象を持った。
「夏が大好き」……… この本「N・P」の主人公の言葉。
 昔、若い頃私も夏が好きだった。この気候感は理由なく善兆の気配が匂った。反面の秋から冬の陰欝感は、不吉な前兆を内包していた。
 夏の無遠慮な太陽の輝きも、秋の理性を積み重ねて輝きの牙を失って行く。冬の不吉さも忍び込まなくなる。
 摩耗して「円滑」になるのは、機械ではなく、人間だからかな?     
 本当は今日、海に行きたかった、近い所にあれば。           ほとんど泳げないけれど砂浜に座って、寄せ引く波の傍に一日でも居たい。
  “人のいき 吐く息 吸う息 海のいき”  (以前の作句)
 あの波音の感触の記憶の源泉は、母の胎内かな?と考えたりするし、いや、もっと「以前の記憶」かな、とも想う………。
 このこの日の「私自身のショット」です。
          2004/6/14 AM5:30
───────────────────────────────────
6/6(日)   『疲れの根因』
 この私の蓄積された疲れはなんだろう?
訪問介護というホームヘルパーの仕事に就き8ヵ月が過ぎた。
 2年前、生活の糧の手段として、年令から就職可能と思えたホームヘルパーの講習を受け2級の認証を得た。その後、就職活動するも思うに負かせず、ボランティアをしながら就職の機会を待った。
そして、やっと去年9月から就業する事が出来た。
 このコーナー「夢の遊園地」に書いている様に、子供の頃の思い出に繋がる坂道が好きだったのに、今仕事でその坂道を日に3度(と言うことは往復で6度)越えなればならない時がある。チャレンジ精神旺盛、気持ちは若いが齢57才「若くはない」と認めざるを得ない。精神と肉体は別。         坂を上がってヒーフー、ミーヨー、イヤヤ(笑)。
又、疲れっぽく、明日に尾を引く。
 その疲れの根因は、この坂に続く道は自分の目指している方向ではない、この同じ時間、この刻、本当に自分のしたい事(創作全般)が出来ないというジレンマにある。家事全般(料理、掃除)は一番嫌いな作業だった。     母が平成2年12月に脳梗塞を患って以降、左手足に障害を残し、仕方なくやってきた、本当に仕方なく。それを現在、仕方なく「業」としているのだから。歌も創り、本も、CDも自分で作り、或いはMDに録音して、それをテレビ、ラジオ関係に又、個人宛に送付してきたがナシのツブテ。■6/12(土)に続く それでも諦め切れんなぁ。自分の作品には自信があるから。       もっと広報しなくてはと思うが、疲れがネぇ、ブレーキとなってます。
 今年高校を卒業した上の甥子は高校3年生の担任が就職担当だったのに、就職出来ない侭卒業して、現在もかれこれ20件くらい面接に行っているのに未だ決まらず。下の甥子は中学3年生、これから進学を控えてやはり、未だくたばる分にはいかない。身体を擦り減らして日々の糧の為生きている理由は、それだけ。
 高慢痴気な「若さ」はなくなったけれど、高慢痴気な「夢」、いつか創作物で生活の糧を得られる夢だけは、持っていよう! 【 夢 でも 「夢」 】

6/12(土)  『何故?ナシのツブテ』
 あまりのナシのツブテに、若しかしたら【私の作品】は既に世の中に流通しているのでは、と考える時がある。もしそうなら、<私はバーチャルリアリティの中の存在>。もしそうなら、私がもうひとり存在すると言う事になる。
ならば公然と犯罪が行なわれていると言う事である。     
すぐに警察に通報しなさい!  (以上は、芽の出ない故の「日本の花」のタワゴトです)  
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6/13(日)   『最近の甥子達』                  面白い話をひとつ。                         今日の夕食時、下の中学3年生の甥子が以前に読んだ太宰治の『走れメロス』の1ページを開いて「どの本見ても一番最初は<メロスは激怒した>なんやなぁ、2年生の時に国語の本で見た時も、最初が<メロスは激怒した>やった」「ほんで、なんで最初が<メロスは激怒した>なんか解らん」
「?」最初、私は何を言っているのか分からずポカン。一人の作家が書いた本はどれでも最初も最後も同じやで、若し違ってたら作家が怒るし、太宰治が化けて出てくるでェ。と答えながら可笑しくて可笑しくて、笑わせてくれました。
 その甥子は先月末から6/2迄関東の方に修学旅行へ行きました。
横浜の中華街や、外人墓地、山下公園等は「ツマランかった」、やはり楽しかったのは「東京ディズニーランド」だったようです。
 小遣いは上限8000円でしたが、5000円に後から1000円プラスしましたが、約2000円程使わずでした。当家と私の妹宅にクッキー、チョコレート、甥子の兄にキーホルダー、卓球クラブの後輩2人にやはりキーホルダーを買って、私にファイルを呉れましたが「雄ちゃんのは?」なかったので、そのファイルは貰わず甥子に返しました。ほんとにいじらしいです。

 上の甥子はこのコーナーに書いている通り、未だ就職が決まらず、「それはなんでやと思う?」と甥子に問い返すと、面接の時「夢は?」「自分がこの職業に向いていると思うのは、何故?」と聞かれて答えらへんかった事もある、そうです。シュミレーションの必要性を説きましたが………。
一日も早く採用される事を祈るばかりです。
           2004/6/14 0:45
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6/11(金)  『花のフォトスケッチ』  花の写真集『私のフォトスケッチ』へ          
デジカメを持って嬉しさ真っ最中の私、やたら何でも撮りまくって私の部屋、犬のコスモス、甥子、母、私(甥子に撮らせた)………等。       
 昨日は、自転車に乗って、この界隈(といっても近所ではないけれど)の家の玄関前の花壇のフォトスケッチをしてきました。            
よく見るうす紫や、ピンクの紫陽花はもう疲れ気味かな、精彩をなくしていました。そう思っていると、角を曲がった、まさに出会い頭、素晴らしい紫陽花に出会いました。珍しい色、赤といっても真っ赤ではなく、未熟な赤、幼い赤、遠慮気味の赤、赤にフイルターーを何重も掛けるとあの色になるのではないでしょうか。私のシャッターチャンスを待っていたかの様な生鮮さでした。 角度を変えて見て見ると、大きな輪が4輪、頬寄せ合って睦ましいこと。  
「♪狭いながらも楽しい我が家………♪」という歌が思わず出てきます。  
その一角には同じのがある家もあり又、軒並み花壇がズラリ、「花の町やで」と、私が花の名前を尋ねた人が言う通り、どこも見事な咲きっぷりの花ばかりでした。寝屋川市の良い処、何処の家にもスペースがあるのは、建築基準が厳しかったお蔭と言えます。                  
ある家ではうす紫の紫陽花がここでは疲れ知らず大盛りに咲き誇り、他に名前は分からないが処狭しとオレンジ、黄色の花が玄関を覆うように自由を謳歌していた。花の鑑賞をしていていつも思うこと、玄関の花をみれば、家人が分かる。その花に対する入念な丹精さは、自分自身以外の他物に愛情を注ぐ事が出来る人です。「花咲か爺さん」の血統か

5/24(月)    『死という総決算
     
 現在、たまに広報カーから私の歌「最後の五月に」を流していますが、あと一週間もすればこの五月も最後です。径々にはもう六月の色をほのかに匂わせ紫陽花の花が先にカレンダーをめくってしまったかの様です。
 思えば雨のよく降った五月でした。
  “ 雨紡ぐ 紫陽花さいて 五月の日 ”

 若葉の季節、新緑の新しい命漲るこの五月の初め、私の母の兄が亡くなりました、憲法記念日の日でした。
  “ 改正を 「憲法」記念日 望むれど             
    それどころではない  伯父 死に至り ”

  “ つつじしおれ 涙雨ふる 告別式 ”


 【 人の 死に様は 生き様        
  損得なしに 他人の幸福に 尽力す
  これに 勝るとくなし
  人の道の 標となり
  この人を以て 高(功)徳という
   人みな みちたり      】


 享年88才(満86才)だった亡伯父の通夜、葬儀に出席した。
 通夜は(一番下の)妹夫婦の車に乗り、母共々で行った。母は足が痛いと皆さんに抱えられながら車から降り、故人とのお別れも出来ました。
 葬儀の日は母はよう行かず、妹夫婦も行かなかったので、私の2番目の亡妹の子供、甥子2人を連れて私の広報カーで行った。言い聞かせた通り甥子は平成5年の亡妹の葬儀の時のお礼を亡伯父の家族に言っていた。

 会社という社会組織から退いた後の残人生過ごし方、生き様が偲ばれる。一口に言うと地域貢献に尽力されたその生き方にゆえに、雨中に関わらず、あれだけの人が見送りして下さったのだろう。
「死」という人生の総決算。死ぬ迄は収支バランスを調整出来る。が「死」という局面でそれは確定する。動かす事が出来ない。それは他人の幸福の為に費やした金銭、或いは心の行い(ボランティア、奉仕活動)と、自身の為だけの行い、自己利益とのバランス。

 日本の様に四季があり、溢れんばかりの緑と花に恵まれた国もあるけれど、他方、花どころか雨のない、水の無い国もある。それが地球。
 産まれた所が其処だったと言う、それだけの差で天と地の違いがある。同じ様に持って生まれた能力や才能もたまたま両親から受け継いだもの、それに努力を重ねて磨きをかけていくのが自身の責務である事は言う迄もない。
しかし、それで花開くかどうかは自身を離れた処の作用に依る事が多いだろう。だから無事にその事が軌道に乗り「自身が花開いた時」は、還元しなければならない。四季と花々があるのは、砂漠という負の部分を請負う大地があって、成り立っている地球の営みの中の一部。
 その「富」持つ人は、その「負」の人の構成で成り立っている

【「たまたま」の自分なのだから、その富を持つものは、それを持たざるものに分配する義務がある。その行為を「徳ある行い」と言う。】
         2004/5/25  04:15
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5/25(火)   『受けて返して』
 『死という総決算』を打ち込んでいて結局、昨夜というか今朝5時前頃寝た。朝7時には起きなければならないのに7時半頃私の母に起こされ、慌てて下の甥子の弁当を作りました。眠くて眠くてもう弁当は夢の中で作り終えた感じ。お蔭でその後は昼食迄寝て、食後又寝て仕事が休みだった今日一日、ひたすら身体を休養させていました。
 さて、昨日の続きですが、あの葬儀の帰り、葬儀のあった場所からすぐの所の昭和54年迄私達が住んでいた辺りを車で通りました。甥子達に「此処に伯母ちゃん(私)達住んでたんやでェ」と案内がてら。
 現在その跡地には建売住宅が5軒建っている。昭和54年この場所に建っていた土地家屋を売る時の事、又それ以前の事を思い起こせば、世間知らずだった私達家族、それに付け入る人間、そしてその窮状が1000に1の割合、泥砂から真砂を掴む如くに救われた。間口が極端に狭く奥で拡がっていた我家は何人見に来ても売れなかった。最後に見に来た建売屋が結局買ってくれたが、建売屋に言われる侭に隣家との交渉もして、それで売る事が出来た。あの時、売れなかったらどうなっていただろうと、思い返す。この以前に良い買い手があれば紹介してと依頼していた、その建売屋を斡旋したのが私の友人の紹介の不動産屋だった。
改めて、人の繋がりの得難さを想う。若い頃から、その友人には世話になりっぱなし、その「甘え」は、若かったから自分を許せたという部分。いま思えば何事も恥ずかしい。あの頃から思えば自分で言うのもなんですが、人間が「大きく」なったでしょう。誰かにして貰った分、誰かにして(甥子達に)
、「受けて返して、おもいはなし」という心境に落ち着くのです。

 その福島区の家を処分後1年半位住んでいた住吉区の長居の銀行に塩漬けしてあった(笑)定期預金(僅かですが)が満期だったので解約し、その
ささやかな余裕から、欲しかったデジカメを遂に買いました。ウレシイ!
320万画素で動画と音声も可能な物。パソコンにも繋げるが、テレビのビデオからでも見れるし、ACコードでバッテリーを外しても撮影出来る。25インチのテレビ画面で見てもはっきり、くっきりでーす。
潰れた以前のデジガメの画素はその10分の1だったのでその鮮明さは歴然。 又、「アートコーナー」に随時、良いのが撮れれば流します。
         2004/5/25 11:25


4/30   『富士山を世界遺産に』
 以前の『にゃこリン「夢現」シリーズペーパーマガジン』bQ0号(2001年1月7号)に掲載したことのある野口健氏の登山家によるゴミ汚染の事を書いたが、2004/4/30付産経新聞の「富士山を世界遺産に」テーマに、この3/23ワッハ上方ホールでの同氏のトークショーの内容が掲載されていた。以下は抜粋です。
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富士山で清掃登山を始めて4年。5合目から上はだいぶ綺麗になってきたが、下は相変わらずで、特に樹海のゴミは廃棄ドラム缶数百個とも言われ、悪臭を放つトレーラーがトラック毎捨てられている。夏場に掘り返すとドブの匂いで吐き気がする。土壌がどれだけ汚染されているか不気味になる。富士山と姉妹山提携しているアメリカワシントン州のマウントレーニャ国立公園ではパークレンジャーが柱となって環境保護活動を展開している。しかし、富士山にはそれがなく、NPO同氏の対立もある。東京都知事にその重要性を訴え、結局「都レンジャー初代隊長」に任命され、初代隊長として今年1月には25時間船に揺られ小笠原へ視察に行った。公共事業がやがて尽きた時、自然が破壊されていたら元も子もない。ソフト事業の人間にお金をかける事。自然を保護し、活用する事で生計を立てていける、小笠原に「自分達の自然は自分達で守る」という流れをつくりたい。
 小笠原にダムの水源である山を削ってダムを造る計画があった、予算1400億円の公共事業の地元の期待も分かるが、それをやったら取り返しがつかない。
 茨城県の「ふじみ湖」は廃棄物処理施設にする為埋め立てられた。(かって1日100トン超の水が湧き“関東の摩周湖”とも称された「ふじみ湖」)
変わり果てた「ふじみ湖」はもう元には戻らない、二度とこれを繰り返してはならない。
 「ふじみ湖」を見た時、アフガニスタンで見てきた難民の姿を思い出した。彼らが最も恐れているのは、戦争ではなく、水がなくなる事。水源地の山に雪が降らなくなって10年程経過し、気が付くと川が枯れ、緑が消えていた。
子供が毎月80人死んでいく現実を目の当たりにした。温暖化の原因としたら、加害者は?文明国の僕等だろうか。水がなくバタバタ子供が死んでいく国があるのに、コンコンと湧く美しい湖を自ら消し去る国もある。

帰国後、アフガニスタンの記憶を削除しようとしている自分に気付いて、危機感を抱き続ける事の難しさを改めて痛感しました。
 環境を守るのはデータではない。富士山の樹海で強烈な悪臭をかいで吐き気をもよおすと、子供達でも危機感を持って目の色が変わる
 日本には素晴らしい自然がある。しかし、このままでは50年持つかどうか。日本の象徴である富士山を守る事が一つのきっかけになる。日本が少しでもきれいになるよう頑張る覚悟です。】以上、野口健氏のメッセージ、かいつまんで紹介しました。
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 野口健さんの行動力には、ただただ頭が下がります。
私もこれまで、ペーパーマガジン配布や、広報カーから地球環境保護のキャンペーンを行なって来ました。お互いに、これからも「地球の未来の為」使命を全うしましょう『マイメードソング』コーナーに現在「誰のために・地球の未来に」(作詞・曲・歌 日高よし子)を流しています。 クリック
                       *
 修学旅行か校外学習に、この「樹海見学を導入」すればと思いますね。
山に登るのは何故?精神性を鍛える為ではないのでしょうか?
これまで、山登りする人を崇高な人だと思ってきましたが、大量のゴミの記事を見る様になって意識が変わりました。
 先程の掲載分に、野口氏の登山清掃は国内では評価されるが、欧州では当り前の事としてなんの話題にもならない、という事が書かれてある。先述の『にゃこリン「夢現」シリーズペーパーマガジン』bQ0号にも書いたように、アメリカはキリスト教の復活を取り入れ教育の立て直しに成功した。だからゴミの中には日本語、ハングル語、漢字のラベルばかりで、英語のがないという事だろうし、ヨーロッパでも当然の事としているのだろう
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前にも書いたが、日本人は神仏合体を祀り、正月には神社に参り、寺社にも詣る。それは確かに神仏を崇めていることは間違いない。しかし、それは自分の幸福の為祈っている、自己利益の為である。その事の為に自分の為すべき事など思いもよらない。神社に詣って打った柏手のその手で、露店で買った飲食物のゴミを、その境内に捨てる。これが現在の日本人の姿である。 自由という言葉は自分勝手とイコールで、道徳という言葉など知りもしないだろう。公共心を持たせるには「道徳心」を教えなくては成り立たない。

キリスト教でなくてもいいから、せめて「道徳教育」を学校に是非。
親には、期待出来ない。親を見て育った子の姿が現在のこの状態なのだから。『ゴミをそこらに捨てる事は恥ずかしい事』なのだと、子供の時から教える。  
 それだけで「美しく」なれる

   『この世で 恥ずかしい事』      
                      
 この世で 恥ずかしい事。         
      嘘をつくこと。         
      悪口を言うこと。        
      言葉や暴力で 人を傷つけること。
      (弱い者いじめを含む)     
      裏切ること。          
      物を盗ること。         
      物を粗末にすること。      
                      
      ゴミをそこらに 捨てること。  

 














(註)他に『この世で 恥ずかしい事。』思い当れば、お知らせ下さい。
                *
 昨日たまたまテレビで「小笠原」の番組を観た。
美しい海が拡がる風景に、心がとろけるようでした。
その中で、鯨やイルカが人間に近寄って来るのをみて、肉食動物であるのに、音波感覚の優れた「かれら」の何が、人間に対して敵意を抱かないのかと不思議だった。波長が合うのかな?
 五官で地球を護ろう、行動している野口健さんのように、五感を研ぎ澄まして「美しさ」を(感じる感覚を)取り戻そう。
(人間に「美しさ」を感じる感覚を与えたのは、地球の生き残る戦略ではないでしょうか?)
 
 1日1便航路25時間でもいい(だからいいのです)このまま、そのままの小笠原を「保存」して置いてください。いつか行きます、「夢の島」へ。

 富士山の事が掲載されたついでに、私が平成9年10月に創った歌の歌詞を掲載します。近々、『マイメードソング』コーナーに流すかも知れません。
 この歌はバイオリニスト前橋汀子さんの音楽を聴いて創ったものです。

  ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪        ♪                         ♪
  ♪(前橋汀子のバイオリンに寄せて
)         ♪
  ♪         『噴 動』             ♪
  ♪       作詞・曲 日高よし子        ♪
  ♪                         ♪
  ♪ 1.富士の山に 憑かれた人が いるのならば   ♪
  ♪   音楽に 魅せられた者がいても いいはず   ♪
  ♪     その魂の 感動の 噴灰を        ♪
  ♪     これからも 積んでゆけば        ♪
  ♪   やがて 富士の山に なるかもしれない
    ♪
  ♪                         ♪
  ♪ 2.真っしぐらに 海へ還る 川があるなら    ♪
  ♪   溢れる 息吹きが 川をつくって いいはず  ♪
  ♪     その魂の 感動の 噴水が        ♪
  ♪     これからも 噴き上げれば        ♪
  ♪   やがて 湖に なるかも しれない      ♪
  ♪                         ♪

  ♪ 3.地球体の 遺伝子を持って いるのならば   ♪
  ♪   鉄の塊の 赤いエネルギーが あるはず    ♪
  ♪     その魂の 感動の 噴動を        ♪
  ♪     これからも 繰り返せば         ♪
  ♪   元の 地球に 戻るかも しれない      ♪
  ♪                         ♪
 
  ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
               2004/4/30 22:45


  <4/28(水)の今日は4/21〜4/27迄を流しています>                           
 
4/21(水)   『新緑の季節』                 
 生命のざわめきが眩しい新緑若葉の季節となりました           
。ついこの間の絢爛豪華なピンクの衣裳から、瑞々しい緑の衣裳に着替    
えた桜の木。ヘルパーの仕事途上、その木の下を自転車で走り抜け乍ら    
深く息を吸い込むと、空気が濾過(ろか)されたようでした。 走る道    
々、又各民家の花壇には、桜から主役を転じられたつつじの花が、色彩    
鮮やかに街の求心力となっています。その中で一段と目を引く「白い」    
つつじ、まさに白光を放っています。   
“夜を さく 白いつつじは こころ さく” (以前の作句)

民家の花壇にはひと群れのマーガレットや、シクラメン、菫、山つつじ、
小手毬等「この世の春」を謳歌する如く咲き匂い、後には紫陽花が葉を整え、花の蕾を膨らませつつあります。
  


  4/26   『進化 という「美」』     

4/26(月)のNHKテレビの「ふしぎ大自然」『世界一冷たい海南極海』を観た。
  
 ” 海中に 真水のオーロラ 南極海 ”        
 
 海の中に雲が漂い、オーロラのカーテンが揺れ、氷柱が立ち、雪の結    
晶が舞う………。これは海水の塩分から分離された真水の氷結した現象    
。マイナス1.9度の海中(海中温度はマイナス2度になれば塩分も氷    
結する、この僅かの差マイナス0.1度を保持させている神秘)で生息    
しているのは、体内の水分が海と同じ塩分の非脊椎動物だけだが、唯一    
脊椎動物の魚が生きている。「ボウズハゲギス」(この魚は肝臓で作ら    
れる不凍物質が体内の水分が氷凍するのを防いでいるから)生き延びる    
事が出来た、その「進化」の瞬間こそ「美」だっただろう。
死の淵からの再生「新しい生命の誕生」。
海中温度をマイナス1.9度に維持させている「もの」にも、その「生」への緊迫を見る。             
 それは、新しいものを創造する芸術家のようです。            


 4/27   『芸術家の宿命』                                     芸術家と言えば4/25(日)教育テレビの「新日曜美術館」で見た    
香月泰男の「シベリア抑留」の絵。あのような絵は描けるものではない                 。「悲しい」というそんな薄っぺらな言葉では言い尽くせないし、悲し    
みですらない。暗い、暗い奈落の底へ引きずられそうになる。        

 「日本の土を踏んだ時、私は自分を亡霊だと、いや亡霊を背中に背負っ    
ていると感じた」。この画家の言葉が象徴している様に、その「地獄」    
から逃げる事なく生涯、シベリア抑留の体験、極寒の地での強制労働、    
寒さ、飢えの中で死んでいった人達を描き続けた。「シベリアシリーズ    
」にみる背景色に炭を画材のひとつに使ったという暗色の中、描かれた    
どの人物も表情のない、岩を削った様な骸骨の如き顔、顔、顔。
「感情腺」を断たれた者を「人間」というのか?そんな消え入りそうな聲が聞    
こえてきそうです

「現在の満腹の中で、シベリアを描かなければならない」
芸術家の宿命には畏怖するばかりです。

 香月泰男氏が日本への帰国が決まった時にシベリアから持ち帰った(名前は            
忘れたが)木の種子が、氏の家の庭で逞しく育っていた           
。日本人がシベリアの土と化したその土の木に実った            
種子が、日本の土の中で大きな木に育った。それは、            
日本人がシベリアから日本に「帰れた」喜びを、天に向           
って謳い上げている様な、雄々しい姿だった。               
 
 
ロシア(旧ソ連)人に、踏みにじられた人間性。             
 ロシア(旧ソ連)に、掠め奪われた北方4島。              
 抑留され、極寒の地で死んでいった人達の                
 御霊供養を兼ねて、北方領土返還を強く、要求する。
      2004年4月29日 0:18


4/9の今日は、4/8〜4/6迄流しています。
4/6(火)    『彫 画 展』
 昨日の雨で散ったと思った桜ですが寝屋川から守口へ向う国道沿い、雨は吸着剤の役目を果たすのではと思う位、隅から隅まで見事な桜の艶姿がありました。産経新聞のウエーブ産経から貰った伊藤太一さんの彫画展(於守口の京阪百貨店)最終日の今日行ってきました。描いた絵の上に切り絵を貼っているのを彫画と言えばいいでしょうか?ほのぼのとした「童女の巡礼遍路旅」の彫画が中心でした。各隣には何番札所と寺名と御詠歌の詞の表示があり、遍路をした事がない者にもその意味合いが分かるようになっています。
【この世の苦行、あの世の極楽。それを標の難行の果てには、この世の極楽。 この世があの世、あの世はこの世】遍路旅の満願には「童」のこころに戻っている事でしょう。
 他には、昔懐かしいべったん、ビー玉、湯たんぽ、赤とんぼ等そんな時代を知っている者には、頬ずりしたくなる様な作品ばかりでした。       
 レシートを見せれば駐車代金が無料なので地下に降り、案内板で「御座候」の店を見付け回転焼きを買い、帰り掛け「551の蓬莱」の看板が目に留まり大好きなここの豚饅を家族分買い、余り安いので300円の赤ワインも買って両手は先にお腹一杯になりました。

 帰宅したら一番下の妹が(嫁いでいる)来ていてその買ったばかりのワインを上げました。1月に離職して今日は職安に行って来たらしいですが、求職者で一杯だったそうです。(妹より上の中高年層が圧倒的に)        新聞には最高益の企業の記事が目に突くのに、未だ末端に迄それが及んでいないのでしょう。それとともに中高年層には厳しいのでしょう。      
 卒業したばかりの甥子も未だ就職が決まりません。4/8の今日も一件面接に行ったようです。面接遍歴はいつ迄つづくのでしょうか?
この事は再度、政治課題にすべきでしょう、中高年層の自殺率の増加抑制の為にも。     ───────────────────────────────────
4/8(木) 日本の「害(外)務省」

 尖閣諸島の事で何故中国だけではなく台湾も領有権を主張しているのか、昨々日4/6の産経新聞の第1面、石原慎太郎氏の【日本よ】を読んで解った。沖縄と尖閣諸島をアメリカが日本に返還する前に、尖閣諸島の下には油田があるらしい事を知っていたアメリカが日本に油田の共同開発の話を持ち掛けた、が時の総理大臣佐藤栄作が断った。それでアメリカが俄かに台湾に領有権を主張させた。それに倣ったのが中国である、というのが事の顛末、経緯。
 その後有志や石原慎太郎氏の拠金で尖閣諸島の中の魚釣島に灯台を造り、それを正式な海図に載せようとしたら「時期尚早」と外務省から横やりが入ったとか。いつもながらの何処の国の外務省か分からない「外務省」。国益に沿わない決定しか出来ない省など「害務省」ですな、いりまへん。拉致問題然り。 それにしても日本は返還された後、何故すぐに油田開発をしなかったのか?

ODA(政府開発援助)を「カード」に

 今回の尖閣諸島への中国人侵犯事件も日本からのODA(政府開発援助)を「カード」にして釘を刺すと言う事位すべき。
 あの中国北京の豪華な空港は日本のODA(政府開発援助)で建てられたものなのに、何処にもその事の感謝の記碑がない。それが明示されれば少しは中国人の反日観にも変化が見られるだろうが、そうなっては仮想敵国を作っておかなくては国の統治がし難いという中国政府の意図故に明示されない。
以降の日本からのODAに関しては、現代宇宙開発では日本より先んじている中国に対しては軽減(ストップしてもいい位だが)は勿論、せめて最低限度の礼儀である感謝の記碑の設置を条件とする事。それは「反日観是正」という国益に繋がるから無駄金にはならない。(実際の処、中国よりもっと他に供与に値する国があるだろう。人口世界第2位国のインド等はIT先進国でアメリカの頭脳の一部を担っていると云われ又、教育レベルも高い。「投資」のし甲斐がある。そして、戦後の「東京裁判」で戦勝国が敗戦国を裁くという一方的な裁判等無効だ、とただひとり異議を唱えてくれたのはインドのパール判事だった。反日ばかりを喧伝する中国よりインドにODAを供与し軸足を移せば中国の対日本への接し方も変わり、靖国参拝等の内政干渉もなくなるだろう。日本はこの「ODAというカード」をもっと上手に使うべき)
 敗戦国であった日本が中国に支払うべき賠償は時の首相周恩来が田中角栄首相に賠償放棄を明言し、日中国交が回復された経緯がある。(戦後に台湾の蒋介石が日本からの賠償放棄をしたから、対抗して大見栄切ったのかも知れない。それが不満なら今からでも戦時賠償を請求すれば?「ええかっこ」ではありませんが。)                        だから日本が有難がって中国にODAを「貰ってもらう事」等ないのである。しかし外務省の「チャイナスクール」の面々は歓待という見返りが忘れられなくて、又中国に過分の「施し」をするのですか?
                2004年4月9日 0:23
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4/4(日『保育所の同窓会』
 昨夜6時半からは、平成8年に甥子が修了した保育所の同窓会に甥子共々参加しました。
先生を始めお母さん方は8年前とほとんど変わっていないけれど、子供達の成長は著しく「原型」を留めていない。じーっと見詰めて分かる子もいるが、全然分からん子が大半。男子は特に。
お互い同士もそのようで甥子も卓球の練習試合で隣の中学校に今日出席しているF君がいたが、保育所で一緒だったと知らなかったと言っている位だから。
 因みに「私」の事を聞いてみました、が「知らん」「誰?」。仕方がないか、甥子も先生を憶えてないと言うんやもん。先生ごめんね、たかが6才頃の時の事やもんね。私は9時前先に帰り、甥子が帰宅したのは10時半、丁度心配した頃にタイミングよく帰って来た。
夕食のカレーを食べながら(飲食してきたので半分残したが)、「あー楽しかった、行って良かった!」─────ある保育所の場所を借りての会合だったが、子供達と保護者は別々の部屋、と言っても隣合わせで見え、聞こえるので最初はシーンとしていた。先生も戸惑っておられたのでしょう。ちらっと覗きに行くと白々とした雰囲気。後で思ったが、当て合いごっこしたら良かったね、この子ば誰でしょう?って。
 打ち解けたのは男子だけが別室へ行ってから。音楽をかけそのF君がある冗談の様な話をしてからとか。ジャンケンで負けた子は出されているお菓子や料理の全てをごちゃ混ぜにして口に入れなければならない罰ゲームがあって、その回数もその子が一番多かったとかで「大活躍」でした。
 
「久し振りにあんなに笑って、寿命が5年延びた感じや」、皆ありがとうね、先生もお疲れ様で御座いました。
【先生も含めて私達が子供達に携わって来た保育所時代の年月は土の下に埋もれた根本的「根」となっています。「憶えてない事」を「知った」今回を契機に、「星の皇子さま」ではないけれど見えないものにこそ真実がある、という視点の上に、視野を定めて伸びて行ってくれたらと希います。】

そして、今回の事を企画して下さった方々に改めてお礼申し上げます。
 ありがとうございました。



2004/3/31(水)追加分                      
       『島は動く』 北方領土返還を
 (被植民地化された国は皆国力がなかったからだ)。
現在の日本は国力がないから、つい最近も尖閣諸島へ中国人グループに上陸され、逮捕した迄はよかったが「強制送還」という相手国の思惑通りの顛末。(救い?はアメリカが尖閣諸島にまで安保は及ぶとの声明)実際の処、尖閣諸島はアメリカから日本へ沖縄が返還される時一緒に返還された日本の領土である。

 日本海の竹島等は韓国に加えて台湾もこの島の絵の「切手」を発行した。 しるに日本の 郵政公社は発行を拒否した。これも「戦後教育」のたまものと言える。日本の国益を優先しないのに「公社」等ちゃんちゃら可笑しい他の民間に 参入させて「竹島の切手」を発行させれば?ポツダム宣言受諾後、武器を放棄した状態の時にソ連兵に占領された北方領土。国際法にも違反した その行為に対して何故政府もメディアももっ糾弾しないのか?一層の事日本が好きな「国連」に裁定して貰えば?(冗談ですが)
こういう日本だから「尖閣諸島」「竹島」問題も発生する。 
満州から日本に帰れると思って乗った列車でシベリアに抑留され極寒の地で強制労働に従事させられた日本人60万人、内死亡(不明含む)5万人余り、あのロシア(旧ソ連)のインフラは日本人の血と汗と涙で出来上がった物だ。この事はどういう処理がなされたのだろうか?この事をもっと表面に出して領土問題の解決を諮るべし。日本企業に依るロシアの石油のパイプライン敷設交渉も領土問題をからめて泰然と行う。
 府が真剣に北方領土返還に立ち向かえば必ず、「島は動く」。


2004.3/27〜3/28迄書き込んでいます。(但し3/18の「敗戦のトラウマ」加文しています)
3/27(土)   ニュースを疑え    
 昨日で終わったテレ朝の「ニュースステーション」、最後の最後位形だけでも皆と労い等の乾杯をすればいいのに久米宏サン、自分だけググッとビールを空けて、それでオシマイですか?さぞかしチームワークが悪かったのでしょうね。それにあの一言「民間放送でニュースを流せる事が素晴らしい」という言葉、それはアメリカの民主主義が日本にもたらしたもの。         
社会主義という全体主義国家の中国や北朝鮮等は国営放送だけ、資本主義を導入した中国でも今だに言論の自由がない。自由に物が言いたければ亡命するしかない。久米氏はそれが言いたかったと思うのだけれど、番組の最後「私の終わり方はこれです」と、2006、7年の表示と共に中国の国旗とニイハオという言葉が流れて終わった。あれはどう解釈すればいいの?

 私が当番組を見ていたのは、新聞が産経なので相反する朝日新聞系のチャンネルを極力見るように心懸けているからだ。時間がある時は朝の「モーニング」も見る。以前に新聞の標語に【新聞を疑え!】というのがあったが、情報の偏りに陥らない様にする為だ。その上で自分なりの見解を持つ。
 素人でもないニュースキャスターならせめてこういう事位は精通して貰いたい。
古館伊知郎さん、期待していますよ。
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3/28(日)   「星 と 月」
 同じく3/26(金)夜、TV「エジプトのピラミッドの真実」という番組。あの3大ピラミッドはメソポタミア文明人がもたらした物という吉村教授の解説。それ以前の階段形式で作られたピラミッドとの大きな違いは、メソポタミア文明の遺物の中の城壁工法と3大ピラミッドの壁面が同じであるとの事。又その傾斜角度は太陽の照射角度に沿っている。そして太陽信仰(地のエジプト系)と星信仰(メソポタミア系)の蔭に暗殺と報復(それはピラミッドの構造の中に)。ミステリーを解くように伝説を解明していた。
 興味があったのは、太陽と星という相対。万物の生命に恵まれた日本は八百万の神信仰があったが、星というものには思い入れが薄い。
万葉集でも月の歌は沢山あるが(百人一首だけでも11首ある)、星を詠ったのはない、どちらかというと「忌む」対照の様に考えられていたと何かで見た様な気がする。(ハレー彗星と天災の関連等)
 エジプトと日本の差、日本は四方八方海に囲まれた島国である。故に潮の満ち引きと密接な関連がある月は太陽と同じ位重要視されていた。

【月みれば 千々にものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど】                         大江千里
【この世をば わが世とおもう 望月の 欠けることなき ものとなりせば】                         藤原道長
このように「月」というものに悲しみを映し、栄華を喩えたように、それは理屈を超えた心の写し鏡だった、と言う方が正しいかも知れない。

 一方、あのエジプトの広漠たる地に在る人々と、同じく広大なる宇宙の中の星々。それを当時のエジプト人は写し鏡の様に捉えたのではないだろうか?

荒涼たる砂漠の中では砂粒ひと粒の様な人間。
月だけではなく花鳥風水を喩え心に詠った人間。
 この差は「人間」にあるのではない。風土という環境の違い故である。 「日本のかたち」へ戻る


  2004/3/11 追加及び3/18〜3/24
3/11追加分 
 産経新聞3/11「正論」欄に偏差値30台から70台へアップさせた茨城県の私立中・高校の事が掲載されていた。@に困難克服、根気、意志の強さをAに人間的情愛(感性の育み)Bに豊かな知識の向上という、これを以て【人格を磨けば学力は向上する】を学校の基本方針にしている。それは「日本や世界の礎を築く真のエリートつくる」事を目標としている学校長の、命懸けのリーダーシップの賜である。以上、抜粋要約。

 敗戦のトラウマ「平和憲法」
 3/18(木)
昨夜(3/17) のTVのニュースステーションでのキャスター久米宏の、世界で例を見ない日本国憲法第9条謂ゆる「平和憲法」があれば、これからも平和を維持出来るという「思い込み」発言に、申言したい。
この「世界で例を見ない」というのは、独立国で軍隊を持っていないのは日本国だけであるという事。それは被占領国、独立国ではないという事であり、敗戦後からずっと、それを容認してきたのが我が国なのだ。
現在の憲法は、その真にアメリカが日本を占領していた時にアメリカに依って制定されたものである。その当時「敵国」が作ったものにどんな意図があるか、それをこそ深考すべきである
 これまで「平和」だったのは「平和憲法があったから」ではなく、「平和憲法があって」「アメリカの軍隊が日本を擁護」していたからだ。
なのに、この「護憲派」と言われる人達に限って、例えばイラクでのアメリカへの支援、又自衛隊派遣に反対する。それでは「もしも」の時どうするの?と問いたい。現状は核保有国は増え続け、すぐ近くの国もその途上にあるかも知れないというのに。
 被占領国だった日本が昭和27年にアメリカと締結したサンフランシスコ平和条約に依って本当の独立国となった。本来ならこの時に当時の憲法を自主憲法に改変出来たのに、何故しなかったのか?
 対ロシア戦での奇跡的勝利により「敗ける事などありえない」と思っていた日本が、第2次世界大戦で日本全土が焦土と化した敗戦。それは戦えば「敗ける」ということを思い知らされた、精根尽き果てた国民が残っただけという結果をもたらした。敗戦のトラウマと言ってもいい。
(以下追加)     
 昔、私の母から何度も聞かされた「敗けても、なんでもええからこの状態(爆弾の雨、空襲警報)が終わって欲しかった」と言う言葉。これは大半の当時の日本人の気持ちを代弁しているだろう。日本が戦火と化したから「敗けても、なんでもええ」と身体に刻印された。故に2度と戦いたくないと、すんなり占領憲法が受け入れられ、現在まで「生き続けて」きたという事だろう。
そして、その後の被虐史観の押し付けも「敗けた」からである。勝っていれば例えばアメリカの原爆投下行為のように正当化され、なんらの批判を受ける事もなかった。
以前にも書いたがあの占領下の元帥だったマッカーサーが後に「日本のあの戦争は自衛戦争だった」と回顧録の中で証言している事を知っておくべきだ。
 私の産まれる前の第2次世界大戦だが、もし国に対して責任を問うとしたら負けた「国防力」に対してである。これをこそ日本人は肝に銘ずるべき。
 (追加ここまで)2004年3月28日 20:40:49
 
占領憲法が故意に取り除いたもの、軍隊は勿論だが、「日本人の精神」と言える伝統的慣習の秩序性、儒教的精神。
 『和を以って尊しとなす』という精神。皆言いたい事を言ったり、したりすれば争いになる。「和」を保つにはどうすれば良いか?それには自律心を持ち我欲を捨て去る事。そして秩序の認識。親孝行(現在ある命の連続性としての先祖思慕に繋がる)、年長者を敬う、礼節の尊重、そして公共心に繋がる利他心、奉仕の精神を持てる「精神的に豊かな」人間が、本当に素晴らしい人間であるという価値観の転換(現代人が賞賛しているのは物質的に豊かな人間)を図り、人間性を養う。これら日本人が「失ってしまったもの」を取り返す意味に於ても教育基本法を含めた憲法改正は現在の日本が実行すべき緊々の課題だろう。


2/3(火)〜2/4(水)    『新たな「立春」』
 仕事を日曜迄休み、月曜日は公休でゆっくりしたお蔭ですっかり体調も元に戻りました。洗濯を干したり、簡単な食事を作ったりとする以外は3日間、殆ど寝ていました。具合が悪いからそれだけ寝ていられたのでしょうが、累積していた疲労や、寝不足が吹っ飛んで行った様に頭の「軽い」事。(重たいと思った事がある分ではありませんが)    知らぬ間に疲労は溜り、だから風邪にも負けたのです。これからは、睡眠時間には充分留意しようと思っています。何事も健康という「身体が資本」なのですから。
 しかし、風邪の前日に(ヘルパー)仕事の予定の変更等が(早朝の仕事等)あったのをうっかりして連絡洩れとなったのがあり、利用者、事業所には大変迷惑を掛けてしまいました。
 節分の3日は諸々の疫病神を「鬼は外!」、今日から新たな「立春」です。

 下の甥子は2/1の日曜日の昼間元気になり、上の甥子とふざけたりしていたのに、調子に乗って「ゲームソフト買いに行ってもいい?」と言って出掛け、予算オーバーだった様で買わずに帰ってきてから又、ダウン。その日の夕食も食べないまま寝、氷枕をし薬を飲ませと「ふりだし」に戻った如くでした。回復の未だ「途上」だったのに出掛けて、回復の域から「滑り落ちた」というところでしょうか。結局月曜日も学校を休ませました。一日寝ていて気分もマシになった様で夜風呂に入り、すぐ又就寝しました。
やっと2/3日から、クラブは休ませましたが登校し、なんとか回復途上を進んで行けそうです。先程身体が資本なんやから今週一杯大事を取ってクラブを休めば、と促すと、皆から遅れる事が気になるらしく思案顔でした。というのもたまに未だ咳き込むので「それが止まらんと完全に治癒したと言われへんやろ?」「うん」「(卓球)素振りなら家でも出来るしな」と自分自身に納得させている様でした。

 猫のにゃこりんが死んでから心なしか寂しそうな犬のコスモス(「死んだ」ことも知らない筈だが)、実は生前のにゃこりんが犬の小屋に入ってから(一緒にくっついたりしていた)以降、やたらコスモスの毛が抜け痒いかして掻くわ掻くわ(掻くから抜けるが正解?)あの(自慢の?)ふさふさの毛が細くペシャーっと萎んだ感じです。
猫の蚤を貰ったにしても、あの掻き方、抜け毛は尋常ではありません。
いま上の甥子が自転車にコスモスを乗せて病院へ連れて行きました。
病名は「ホルモン性皮膚病」、抗生物質と炎症止め(服用分)、殺菌剤入りシャンプーを貰って来ました。猫の蚤は関係なしです。勿論ですが保険は効かないので代金は5600円也、高くつきましたがこれしか方法がないですものね。
 
猫が死んで4日「去るもの日々に疎し」といいますが、と言う事は私達が生きているというのは、日々生命(密度)が薄くなっていくと云う事なのでしょうか。それは物理的な物を見れば瞭然ですが。(消耗品?等)
 にゃこりんの追悼を込めて以前流したことのある「にゃこリンの歌」を、445のページの【アートコーナー】の中の《スライドショーbP『にゃこりん』》のBGMで流しています。【作詞作曲歌演奏:日高よし子】良かったらクリックして、
 
 【捨て猫か 迷い猫か 世の中は 公平ならず 餌を頂戴】

そんな猫だった「にゃこりん」に想いを馳せてやって下さい。


2004.1.21(水)〜 2/1(日)迄書き込んでいます。
 『自転車で転倒』
 『風邪で家族(母以外)総崩れ』
 『猫のにゃこりん死ぬ」
 『詩・猫のにゃこりんに寄せて』
 以上。
1/21(水)        『自転車で転倒』
 最近仕事(ホームヘルパー)で自転車に乗って買物途上2回こけました。先週の土曜日、信号待ちの車と車の間をすり抜けて歩道へ上がろうとした時(若干の勾配がある)ドターッと左側に倒れそうになりました。が先に左足が地面に着いていて全体重をその左足一本が支え、自転車は倒れたけれど身体は倒れる事なく(右足はというと空〔くう〕を突いていた)難無きを得ました。もう一度は今日、車道から歩道の段をいつもならほぼ直角に超えるのに、今日はその段の厚みをいい加減にしか見なかったのと、直角どころか20〜30度の角度で勢いよくペダルを踏み込み歩道へ入ろうとした、そこでドターッ本当にドターッと左側に倒れ、左足膝のお皿の下辺りを打ち、見るとズボンのその部分が破けていた。眼鏡も外れて歩道に投げ出され、両手も同じく手のひら側を擦りむいたかと思うくらいの衝撃受けた。手袋をはめていたお蔭で傷はなかったものの、手とその打った膝の下の痛い事。その場所は目的の店の前だったので自転車を押して行って駐輪し買物を済ませた。自転車に乗ろうとしたらハンドルが左にブレている、駐輪場のコンクリートに前輪部分を思い切り当てて元に戻し、乗って帰った。
 仕事を終え帰宅してその膝辺りを見てみると傷は大した事なくオロナイン軟膏を塗っておいた。以上が事の顛末。小事は大事の警報と言います(?)。以後は十分に気を付けましょう。
 勿論今日はお風呂には入りません。甥子達に「お風呂を洗って適当に入りや」と言うと「今日は入れへん」、お風呂を洗うのが厭なんでしょう。

        『風邪で家族(母以外)総崩れ
2/1(日)上記の怪我は完治しました。
 1/29に下の甥子が先頭を切って「風邪」の洗礼を受け、登校させたものの早退しました。上の甥子も私が仕事から帰るとベッドでダウン。2人に(プラス私と母の分も)生姜レモネードを作って薬を服用させ氷枕を作ったりしているうちに、私の具合も崩れてきていつもより早い目に就寝した。
次の日1/30(お弁当は作ったのに)下の甥子は欠席。上は当日からテストの為登校したが帰ってからはすぐに寝た模様。(その時は私は「他人」どころではなかった)
ひとり元気なのが我が母親。お陰で階下から「お腹が減った!」とがなる。
台所のテーブルには朝に弁当用に焼いた秋刀魚、炊飯器にはご飯もある。炬燵のテーブルには餡餅やお菓子、みかんもあるのにである。この時程母の元気な事を恨めしく思った事はない。「秋刀魚は要らん!」という母なので仕方なくおにぎりを作った。各2個づつの割りで8個作ったが私は1個だけ食べ風邪薬を飲んで寝た。
母の機嫌は治ったがこんな風に母が自己本位になってきているのは82才の老化現象ゆえか。
 
   猫のにゃこりん死ぬ。「動物虐待は犯罪である」事を衆知させよ。
1/31(土)は朝起床して仕事のキャンセルの電話をし、紅茶をのみ薬を服用して以降ひたすら寝ていた。午後遅く気分がマシになり階下に降りると上の甥子がケロッと回復して欲しかったパンを買ってくれていた。(我が母<甥子にとっては祖母>に云われ)
夕食用の洗米をしようとしたら近所の人が来て、台所の窓越しに「猫のにゃこりんが死んだ」事を聞かされた。我が家に(平成14年)犬のコスモスが来て以降、うまい具合というべきかにゃこりんに餌を上げてくれていた人なので、その後姿に永い間お世話様でした、と労いの言葉を掛けた。やはり猫好きの人が線路端の道を歩いているにゃこりんを見て車に轢かれてはと保護しておいたら、当日の朝死んだそうだ。
玄関前には猫用の段ボールの小屋をずっと置いてあったのだが冬以外は寄り付かなくなっていた。それでも憶えてたんやなぁ、やはり今冬も寝に帰ってくるようになったが、その顔、姿を見てびっくりした。首の後位から頭、顔にかけて毛が剥がされたように削げ、顔も同じく、又目も閉じた侭の状態になっている。見るからにむごたらしい様相で、インターネットでこの姿を流し虐待者を告発したいと思っていた。デジカメが故障していなかったら直ぐに行動に移したけれど、なにせ撮ったのはフィルム写真。未だ枚数が沢山残っているので写真は後になる。(動物を虐待すれば罰されるのを知っているか?
   (その現場を見た人は110番 通報しましょう)                    

そして、動物を 含めた生きものを食している人間として今一度、 古人の伝習事「いただきま 
す」や「ごちそうさま」に想いを重ね合わせたいものです。【太古原始人と動 
物は、ほぼ同じ環境下に生きていた(衣食住も)、だから命の痛みも分かち合 
えた。そこから「いただきます」や「ごちそうさま」の祈りの言葉が自然と発せられた】
                                    

しかし、自分の小屋があるのにやはり昼間は外に出している犬のコスモスの小屋にやたらと入る。
怒っても止めないので一度その小屋の置き場所を交換した。するとその「コスモスの小屋の場所」の自分の小屋に入った。要は目が見えていない事と、温もり(コスモスの)のある所というそれだけだったかなと思ったりする。よく見ていると猫が入ってくるとコスモスはなんと遠慮深いというのか自分が出て猫を入れてやるのである。そして、自分は外にいる。時には2匹があの小さい小屋にくっついて入っていることがあった。
そんなコスモスが可哀相で怒って、猫を元の場所に行かせたこともある。
その以前に前の段ボールの猫の小屋が余り間口が大き過ぎて本当にこれ以上丸くなれないという位丸くなっていたので、新たに小さい段ボールの箱で間口も風の侵入を少しでも防げるよう狭くして作ってやったのに、変わらなかった。
たまに私の使っていたカイロを小屋に入れてやったが効果は如何程だったか?
 コスモスが我が家に来た時既ににゃこりんが居て、そんな幼犬の時に一緒だったからか、にゃこりんに対してコスモスは一目置いていた。(私達が先輩猫やでェと教えたことなど憶えてないであろうし、分からないであろうから)
お互いがお互いを認め合って(?)、それはそれで良好な関係だった、だろう。
もしかしたら、にゃこりんはオスで、コスモスはメスだったので、コスモスが「ほ」の字だったのかも?(笑)熱気があったのか猫は水をよく飲んでいたと今になれば思い返される。

平成13年の秋口にこの界隈にひょっこり現れたのが、運のはてか、運のつきか。
正式に何処かの家に飼われたと云うことがあったのかどうか?当時は鈴を付けてはいたが。先程「にゃこりんが居て」と書いたが、我が家には数か月玄関内のたたきの所に小屋を置き寝起きさせて餌の竹輪やごはんをやっていたことはあるが、そこから先へは入らせたことがない。昔から猫嫌いだった母だが、その傾向がさらにひどくなったから。
だから昔の様に猫を飼っていたという気持ちにならないままだった。
それでも猫は、知らぬ間にこの辺りの「住人」になっていた。全然我が家に寄り付かなくなっても姿を見掛けると「にゃこりん」と呼び掛ける。だから姿を見ない日が続くと気になる。
それがその猫との「日常」だった。

 にゃこりんという名前は、たまたま私が『にゃこリン「夢現」シリーズペーパーマガジン』を平成12年より発行していたので、猫ならばと適当に「にゃこりん」とその名前を当てがった迄の事だが、この茶系統の猫には昔の猫に繋がる思い入れがあるからでもある。にゃこりんが来てから猫の歌を2曲創った。今となっては鎮魂歌になった。

     『平成16年(2004年)1月31日 朝
       にゃこりん(猫)死す。』


  小さい小さい 灯ですらない いのちが 消えた
  この人工の蛍光灯ですら スイッチを引っ張れば その 存在が見えるのに
  心臓を 持っていた いのちが プツンと 切れました

   猫の眼は 太陽光によって 色合が変わるところから 
   (太陽の光を集めるという意味合いから)
   猫を太陽神と崇めて  祀っている神社がある
   それを どこかの 罰当たりが よりにもよって
   猫の眼を 潰してしまった  輩(やから)よ   
    末代までも 祟られよ!

  小さい小さい 灯ですらない いのちが 消えた
  平成16年(2004年)1月31日 朝。 合掌。

以上、2/1(日)の2月の初めからにゃこりん死亡と云う悲しい「報せ」を流す事になってしまいました。以前にも書いたけれど「寄せた情愛の分だけ涙の量となる」のです。それは人間に対しても、動物に対しても同じでしょう。
誰もが口の端に滴る塩の香を含んだ時、死者は既に安楽の舟にその身を委ねていることでしょう。
そして、にゃこりんが私に残したメッセージは「動物虐待を廃絶させよ」ではないかと思うのです。
皆さんもそう思いませんか?

 今夜はテレビの「N響アワー」でもレクイエムが放送されていました。
今、その後の芸術劇場でもバッハの音楽が流れています。
悲しむ者の為の「鎮魂歌」といえそうです。2004年2月2日 0:15:55  戻る


 『445(よし子)のページ』
2003.12.26〜2004.1.16(金)分を流しています。

 「マイポエム」書き込みしています。

1/16(金) 【夢 でも 「夢」
 見る夢は、自分で言うのもなんですが【「才能」を認められたい!】。
    【夢 でも 「夢」
    《人間 ― 夢= 無》

 年末年始仕事の合間には、絵を書いたりこれを打ち込んだりとしていて、遂にダウン、仕事には行っていますが、家に居る時は横になっていないとしんどくて、玉葱の生のスライスが身体にいいと言うことを思い出して、早速、夕食事に食べたら大分回復した。
それとレモネード(レモンを搾り砂糖を入れ湯で溶かして薄める)を飲んだ後も良かった。気分のマシな昨日(1/15)、仕事の空き時間に歌の吹き込み(勿論オリジナル)「此処其処に(それだけのこと)」をした。が仕上がりがもうひとつなので、再度今日もやっていた。(この歌は平成9年に創ってから何度も録音してきましたが、自分に一番合った歌い方で)
新しい年「ご破算で願いましては」(そろばんの始めの言葉)ではないけれど、もう一度、当初自分が思っていた「作品」の売り込み(先ず私の「歌」を衆知させる事)からやってみようと決意を新たにしています。今年は歌に「一念発起」です。
歌で知名されれば「本」も、見て貰えるでしょうから。

 未だ書き込みたいですが、今年になって一度もホームページ流していないので、取り敢えず
流します。以下には

1月8日『未明道』
1/2『墓参と露店』
2003.12/2
『竹久夢二追想展』です。

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1/8(木)   謹 賀 新 年
      今年もよろしくお願い致します。

 平成16年 申年にーーー

  “ある時は さる 人は さる なり”

 年末年始と温侯でしたが、冷たい風が肌身を刺す今日8日は、3学期の始業式で学校も始まり気持ちも引き締まる思いです。過ごし易かったその年末年始も1月2日以外はホームヘルパーの仕事がありましたが、大晦日の日はおせち料理を煮て、為すべき事は例年の如くやり終え、家族にプラス妹夫婦も加わって晦日そばを食べ、新年を迎える事が出来ました。私の母がクリスマス前からお腹の具合が悪く下痢の止まらない日があったり、なかったりと不調だったのですが、新年、そして以降はそんな事もなく食べる過ぎると思う程の食欲で、一安心というところです。
 その新年の1日は朝9時から仕事があり自転車で走っていると、すっかり明るいのにまるで
寝静まった道路に、行き合った車は2台、貸切の専用道のようで快適そのものでした。
  “一年の 元旦の朝 バージンロード”
 この「バージンロード」に、以前書いたポエム『未  道』を思い出した ───

 詩歌集夢現第3集「夢幻」P60より
           『未  道』
                (平成十年八月十九日)
 “未明道 初めての「死」 おくの「生」 バージンロード 処女航海”

様々な 色彩を 着た                              
様々な人が  様々な車が                            
走り 抜けた 道路                    

    いつもの道かも 知れない                     
    時々の道かも 知れない。                            
今日だけの道かも 知れない………                    
     
そんな 思い 想い の 重み の おもい が                 
 流れて 行った……………                       
   
 波が ひと洗いして行った 砂浜のように                     
塵一つ見えない 未明の道路─────                  

     やがて 叉 この中から                           
 「人」が 一人 二人 現れ  十人 百人                     
十台 百台 ……………                        
   「大地が 草花を 産み出す 代わりに」                
    コンクリートの地面から 限りなく うまれる物達………          
    人っ気の無い 物っ気の無い               
    昼間の喧騒とは 対照的な 此の 未明の静寂には           
     全ての物の 「最初の以前(まえ)」が                
     限りなく 大きく 横臥っている様です。                
     白い ページの 「刻」の上を                          
今日も 走って行く─────。              

 “刻々と 巡回 時間(とき)の エレベーター 其処が 0階 午前四時” 
                  *
1/2(金)           『墓参と露店』
1/2(金)は墓参する為休みをとっておいたので予定通り甥子と共に車で京都へ向かう。
思った通り道路は混雑を極め渋滞のオンパレードだった。
京都へ入って東寺を左折し、いつもなら新幹線のガードを潜りそのまま五条通りに出るのだが、それでなくてもいつも渋滞の五条通りのことと思い、七条通りに出た。
京都国立博物館の所を左折して走り五条坂へ右折しようと思ったが(以前は日曜祭日以外は右折できたと思っていたので)指定方向以外進入禁止の為そのまま真直ぐ進み、適当な所から反対方向に向きを変えて走ったが又渋滞の帯に巻かれ、やっと墓に着いた時は日も傾きかけていた。暮れる空と競うように大急ぎで墓を洗い墓参を済ませたが、流石に参拝者は私達だけだった。
 帰る前に当寺を出た所の三年坂を上がり、清水の参拝道で八ツ橋、それと(いつも)店の前に列なす人につられ同じ様に並んで豆乳ドーナッツを買ったが、この味あの昔懐かしい夜店の「フライ饅頭」の「衣(ころも)」の味だった。味見がてら300円分しか買わなかったが、もっと買えば良かった。
夜店と言えば『ずっと大阪』の歌詞に書いている様に、その「フライ饅頭」と「関東煮き(かんとだき)」を思い出す。食材に味が沁み込んでどれを食べても同じ味で美味しかった!。その露店には、子供2人を含めた3世代の人がその時々入れ替わりで居た。子供の母親と思える人、その母親の父と思える人。子供の年恰好は私と変わらないと思える女の子とその弟と思える男の子。
 それと憶えているのは、「表札彫りの人」表札用の木に彫刻刀で名前を彫り込んだ後、墨を流し込み余分な墨を拭き取っていた。「上手やなぁ」、フライ饅頭に魅入ったように立ち止まってよく見ていた。あのおじさん、私の事をけったいな娘やなぁと思っていたかも知れない。
 それと1枚10円のキャベツと竹輪だけ入った「お好み焼」、このおばさんは

露地の奥の住まいで昼間はお菓子屋もやっていた。この2軒隣り辺りに「マー坊」が住んでいた。【さる 年の さる 悲しみを 初めて 知った 『幼き日』の 「マー坊」との別れ】若い頃から私が「無常感」に人一倍敏感だったのは、幼い日の人との別れ、「マー坊」や、「ぼた餅のおばさん」との別離も一因となっているかも知れない。
何故なら、こんなに遠くなっても、その事は今も鮮明だから────
生きているというのは、過去から「思い出」から日々遠ざかって行く。思い出す一コマは「夢」のように繋がりがない。それでも刻まれた「おもい」のシーンは、物語として語れるだろう。

2003年
12/26
 『竹久夢二追想展』  (平成15年11月24日
 あの「生駒山」を走り抜けている。カーブ又カーブの登り道路、時速60km死守して。11月24日午後家を出た時は晴天だった空も、外環に入った頃から降って来た雨が、未だ降り続いてる。車が軽四輪(ミニカ)なので行く道は時速60kmでセカンドギアが精一杯という処か。しかし、帰路は下りなのでやはり時速60kmでもエンジンブレーキだけで楽々だった。ああいうクネクネ道を走っている時に運転する事の醍醐味を味わう。だから決して自分を過信しないように、高速道は時速80km、カーブ道は60km迄しかスピードを出さないと決めている。
途中、新大宮駅の所で間違って曲がってしまったが、すぐ元の道路に戻って走っていると竹久夢二展が開催されている「奈良県立美術館」の案内板が目に入った。
連休の所為か雨のせいか、開催日2日目の振替休日の日にしては駐車場も空きが多く、 入館者も数える事が出来るほど。観覧する者にとっては幸いこの上ない。       しかし家を出たのが遅く入館したのは3時過ぎ、5時の閉館迄の2時間では時間が足りなかった。最終ルームは上滑りにしか観ることが出来ず、劇ならフィナレーを見逃したような気分。もう一度行ければと11/23日の産経新聞「ウエーブ産経」主催の「フォークコン サート」で貰った券2枚の内1枚を置いていたが(11/27)でこの展覧会も終り、勿体ない 事をした。
 画家が一枚の絵を描くのに要した時間日数を想えば、本当にその作品を理解しようと思うのなら通り過ごしの見方では土台無理な事。そんな焦る気持ちの中、私の足を留めさせたのは、題名は忘れたが西洋の新しいガラスの壷を蒐集している男の絵と、「室津懐古」の絵。
  ”「夢二」展 振りかえる夢と 見る夢と ”          

 右の絵をよく見ると日本髪の女性の首から下、身体の部分は繁隆極め
た漁港室津に向いているのに頭、視線は不自然にそれから目を反らして 
いる。「そんなうらぶれた姿など、見たくない」と言っているよう…… 
ことのほか夢二は漁港室津に心情を傾け、他にも数点室津漁港の絵が展 
示されていた。                          
 他に「日本男児」、絵に墨書で【日本男児は泣きませぬ 泣くのは涙 
ばかりです】と書かれてあるのが「その時代」の家庭教育という人間教      育が垣間見えて印象に残った。これの解説文には<夢二の子供へのやさしい眼差しが感じられる>とある。剣道着を身に着けたこの絵の子供は 
5才位か、日本の伝統的男子であっただろう。                  
人間は目標というか形を与えられなければ、ただ野放図に育つ。大仰さに言えば
この言葉
「男だから泣くな!」が、これ迄の日本を支えてきたような気がする。

 大正デモクラシーと言われた時代、竹久夢二が大衆からの支持を得るに到ったのは新しい日本女性の美人画だったからだろう。少し下がり気味の眉に大きな目はバタクサイ西洋の女性の顔の一部分を取り入れた風にも見える。浮世絵等に見るそれ迄の日本女性の顔の特徴と言えば「眉は薄く、目は細く」だった。(「室津懐古」等はその傾向の絵だろう)
 『大正ロマン』という言葉が目新しく聞こえるが、竹久夢二展が人を惹き付けるのはまさしくその「ロマン」なのだ。昔といってもそんなに遠くない「昔」、私の生まれた昭和という時代の前のたった「14年」で散った白昼夢の様な「大正」という時代は、近代国家確立の為日清、日露戦争を戦った「明治」という時代と、二・二六事件から始まり第二次世界大戦に敗れた「昭和」という時代の、そんな谷間に咲いた百合の如き稀な時代だった。その時代を享受したからこそ、夢二の絵がその「ロマン」を放つのだろう。
                  *
「竹久夢二展」へは現在から約14年前の平成2年9月頃に岡山県の夢二郷土美術館へ行った事がある。其処へ行こうと思ったのではないが、行き当たりばったりに新大阪駅から新幹線に乗り、たまたま降りた駅が岡山だったというその延長線上の事だった。    
 
すっかり暮れてしまった帰り道、進行する車のヘッドライトは必要とする以外の部分を照らさない。その頃の事を語る必要性を現在見出だす事はない。        
しかし、あの時の「竹久夢二展」でのホッとした心の憩いは忘れないだろう。     

 2004年1月17日 0:31:34     戻る


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11月23日(日)のこと                                    
   同窓会                                                    
 11/23(日)この時期毎年恒例の小学校の同窓会行きました。                              
    ” 毎年に 同じ顔ぶれ 同窓会 ”                                        
 皆より少し遅れて着いた会場には、去年と同じ顔ぶれに加えて去年欠席だった常連組も加わって座は盛り上がっている最中でした。                                    
2年前、常連だった人が亡くなり、又人伝てに他にも鬼籍に入った人の事を聞くにつけ、一年に一回こうして変わりなく皆と会せるのは喜ばしい限りです。                          
 近年の先生の生徒に対する指導力、統率力の低下に、いつだった御出席の先生が仰言られていた「昔は親の方が子供が言うこと聞かんかったら、どついて下さいと言ってた」という言葉を思しました。私も親から「先生の言う事よう聞かなアカンで」と言われていました。昔の親は働くのに忙しく、子供に「家庭教育」をする間がなかったでしょうが、その分謙虚に先生に全幅の信頼を寄せていた   と思います。だから昔の先生は恐かったイメージがあり(小学校の私の担任は別ですが)、 
クラスの全体的なイジメ等なかったと思う                 
 現在の親は「家庭教育」もようしない癖に、先生がちょっと暴力をふるった 
といっては、子供のその原因の事を顧みずに学校に文句を言う。そんな事では 
子供の「その事」は改まらないという悪循環に陥る。文句を言うなら子供にそ 
の事を改めさせる、という事を前提にすべきだろう。           悪循環の結果として先生にも先生としての気概がなくなった、憂えるべき現象です。 
                                

 同窓会に集う、その事の意味合いは、同時代を共有してきたという解合感を 
持てる事、発するひとつの言葉からその時代への橋がすぐに懸かるのです。  
 2つ下の弟、4つ下の妹もこの世になく、現在私の囲りにはその時代を語れ 
るものがいない。母はと言えば記憶が遠すぎて届かずと相成りては、その頃の 
自分の存在を確認出来るのはこの時以外にない。              
    ” 小学校 押し花の顔 同窓会 ”               
    ” 晩秋の 紅葉となり 同窓会 ”     
          
               *                    
 車がレッカー移動 そして               
      フォークコンサート 
           

    ” 同窓会 車はレッカー移動 さる ”             
『フォークソングコンサート』(堀内孝雄他出演・「ウェーブ産経」主催)の 
入場券が抽選で当たったのが、11/23同窓会と同じ日だったので、午後4 
時15分開場に間に合うべく会場の梅田「がんこ寿司」を皆より先、3時半頃 
暇して、車を駐車している所へ戻った。其処等のパーキングエリアが空いてい 
なくて新御堂筋沿いに駐めていたのだが「私の車がない」、まさか。胸騒ぎ通 
りその私の車跡の歩道際に、車の保管場所の地図を明記した【レッカー移動の 
知らせ】が貼ってあった。取り敢えずそれをはがして見ると、その場所は中崎 
町の「クニアウェイセンター」と書いてある。直ぐに取りに向かっても知らな 
い場所の事迷えば、これから行こうとしている『フォークソングのコンサート 
』は終わってしまうだろう、又どちらにしても駐車料金はかかるのだと判断し 
、其処から人に道を尋ねながら肥後橋迄歩いて会場の全日空ホテルに向かった 
。着いた時は入口ロビーにも観客と思われる人達が待機していた。産経の受付 
が設けられた所で入場券に座席券を貼付して貰い、程なく開場のアナウンスが 
ありエスカレータを上がって行った。3階のその会場に入ると円卓が並べられ 
、そのテーブルに番号の書いたウェーブ産経の封筒が置かれてあった。    
入口からすぐのテーブルに私の席番があり、腰掛けると飲み物の打診があった 
。Coffee、Tea、Juiceの内コーヒーと注文してから、同窓会の 
「がんこ」で飲んだばかりだった事を思い出しジュースにすれば良かったと思 
った……、おまけに2種類のクッキー迄用意されていて、勿体ないことに満腹 
のお腹に押し込んだ。
やがて、産経新聞の担当者から「産経新聞感謝の集い」 
と銘打って行なわれているこれまでの「ウェーブ産経の集い」の披瀝があった 
後、『フォークソングのコンサート』が始まった。ばんばひろふみ、高山厳、 
堀内孝雄が各自のヒット曲を歌いながら登場した。ばんばひろふみの「♪サチ 
コ思い通りに……」「♪君も観るだろうか<イチゴ白書>を……」、聴いたこ 
とのある歌、なつかしいー。高山厳のこれしかない(失礼)「♪心凍らせて、 
夢を凍らせて……」良い歌ですよね、「♪涙の終りにならないように」本当に 
。そして、堀内孝雄の「恋つづれ織り」、そしてこの歌を聴きたくて行った「 
♪愛しき日々はほろ苦く 燃え残る夢 青春の影……」会場内に下りて来ての 
サービス振りでした。その後は3人共演で「フォークソング」のメドレーが
あ り、「風」「花びらの白い色」「我が良き友」「素晴らしい愛をもういちど」 
等会場の皆も一緒に手拍子をとりながら歌い、暫し青春時代の気分に浸りまし 
た。「フォークソング」と言えば、元々反戦歌(ベトナム戦争)でアメリカか 
ら発祥しました。それが日本にも飛び火し、路上ミュージシャンの自己主張の 
それ等一連の歌はファンの圧倒的支持を得て彼等は「レコード歌手」となり、 
一時期を風靡しました。「フォークソング」という分野の確立の如く、あの社 
会現象は一時代を画しましたが、日本のそれの大半は反戦歌というよりも、
ギターを自奏して自作自演の青春歌と言えるものだったでしょう。       
 私がギターを買って自己流に爪弾いたのもその頃の事でした。       
コンサート終了後エスカレーターで下るその足取りは若い頃の様に軽く、いま 
聴いた歌が口唇からついて出ました。全日空ホテルを出た後は、元来た道ドー 
ジマ地下センターを歩き西梅田駅手前程の処だったと想う、左方向奥に目を遣 
ると小さい滝と、その前に赤い花の群れが目に付いた。           
  『いのち――― みずが おちている                 
         
 あかい はなが さいている』            
時間があれば(レッカーされた車を取りに行かなければと気持ちが焦っていた 
)勢いよく墜ちて行く水と、何の花か知りたいその花の方に足を向けたかった 
けれど、振り切って足を速めた。                     
 大阪駅からJRの環状線に乗って天満駅で降り、中崎町の「クニアウェイセ 
ンター」を目指すべくそのレッカー移動通知書の地図を見直し、取り敢えず目 
印を中崎町商店街の抜けた所と定めた。道行く人に中崎町商店街を尋ね天神橋 
筋商店街から車道の大通りに出て信号を渡り、中崎町商店街に入った。    
日曜日の所為か閉店の店が多く人通りも商店街とは名ばかりの、まばらだった 
。商店街を抜け又車の大通りに出たもののこの「地図」にある地理の名称と言 
えば今の「中崎町商店街」と「韓国ナントカセンター(名前は忘れた)」位で 
他の目印と言えるものは皆無。で又その地図を見せて人に聞いた、犬を散歩途 
上のその人は親切にその場所を教えてくれた。その場所からは信号を渡ってす 
ぐだったが、通りからは見えない裏手なので、あの地図では人に聞かないと( 
或いは電話で聞くかしないと)分からないだろう。頂度広告塔に「韓国ナント 
カセンター」とある真隣りだった。                    
 「クニアウェイセンター」の入口前には見慣れた私の車がポツンとあった。 
中に入って受付の人にレッカー移動の用紙を渡し、車の受け取り手続きをしレ 
ッカー移動料金14000円と保管料1750円、計15750円を支払い、 
おまけに駐車違反罰金18000円の納付書を貰って其処を出た。      
振り返れば今日は、本当によく歩いた、何の為に車で来たのかとつくづく思っ 
た一日だった。                             
                *                   
 12月になりました「先生」が走る師走です。その気配が伝わったかして紅 
葉艶やかだった街路樹もすっかり葉を落とし、ひと足早く「真冬」となった樹 
もあります。                              
             ” ひとつの葉 天 地 揺るがす 落つる音 ”                                    
   ” 新しき 朝に 新しき 落葉みち ” 
12月 今年 紅葉 僅かなり ” 
                               
                 *         
『夢の遊園地』 
      
          
 先日自転車で走っていて、車道沿いの小さい公園の銀杏の木が、一帯を満色 
の黄葉に彩っていました。私が其処を走り抜ける間にも、ひらひらと風のまま 
に銀杏の葉が1枚2枚と散っていきます。                 
傍らには、時計の振子の様なブランコに乗った子供が時を刻んでいる、変わら 
ぬ時を。子供の頃、ブランコ、銀杏の葉と実―――             
ペダルの回転を速め、坂道を下りてゆく…………              

 幾秋を走ったのだろう?                        
野田阪神から梅田新道迄、幼なじみと銀杏の実を採りに自転車で走った。   
一(ひと)秋? 二(ふた)秋? いやひと秋の間に何度も行ったような気が (  )
するが、記憶の不確かさ。独特な匂いのする銀杏の実を持って帰る事が目的だ 
った分ではない。そうして自転車に乗って何処かへ向かう事が目的だったと言 
える。何故なら私の母がその銀杏の実を使ってくれた事などないから……   
だからいつからか自転車を走らせても私は銀杏の実を持って帰らなくなった。 
銀杏の黄色い思い出は、その過程、自転車で走っている事、ただそれだけが楽 
しかった…………。梅新よりもっと遠く、一番遠く迄走った所は、兵庫県の甲 
子園球場横にあった阪神パーク、いつもの幼なじみと野田阪神から自転車を漕 
いで向かった。どちらから其処へ行こうと言い出したのか憶えていないが、と 
にかく2人とも10才頃だった。あの頃は野田阪神から神戸方面に路面電車が 
その国道沿いに走っていて車の量も現在とは比べものにならない程少なかった 
、だから事故にも遇わずに済んだのだろう。距離にして概そ10キロメートル 
?位だろうか。その距離の所要時間は分からない、時計を持っていなかったか 
ら。(後年高校が西宮の鳴尾、甲子園にあったので電車で通っていたが30分 
位かかったと思う。)それでもその「阪神パーク」という目的性故に、弾む心 
の羽に浮かされたように、ペダルは軽く滑るように進んだ。         
そして、やっと着いた、その時の嬉しかった事。ここがあの「遊園地!」、  
それまで一度も行ったことがなかった(母に連れて行って貰ったのは阪急百貨 
店の屋上の遊園地だけだったから)その場所の入口の前にいる、それだけで感 
激した、それほど遊園地というのは、あの頃の私達の夢の場所だった。(私達 
といったが、幼なじみもきっとそうだっただろうと想うから……)      
だから、中に入る事が出来なくても、ある満足感を持って元来た道を帰って行 
った─────。                            

 平坦な道になった。ヘルパーの仕事途上、この道の先に訪問宅がある。   
黄葉紅葉に季節が秋色に彩られようが、一人ではおいそれと出掛ける事が
出 来ない要介護の人達。それを想えば「健康」である事、これ以上望むべき事も 
ない。                                 
晩秋からやがて冬へ、同じ銀杏の木でもその場所によって気温の差がある、  
しかしその差異こそが、春の喜びの差異となるものでしょう。        
温かな「春」を提供出来るよう、心をこめて励務したく想います。      
 ホームヘルパーの仕事をして約3ヵ月、やっとこの仕事の段取りも分かって 
きた様な気がします。「なんでこうしなかったんやろ」と後で思うこともしば 
しば、今度ちゃんとしようと思っていても、この仕事には「明日がない」、そ 
の明日に亡くなった人がいるのです。悔やみ切れません           
 社会的にそこそこの地位を占めた人も、そうでない人も「病気」になって身 
体が不自由になってしまった後ほど、「家族」の呈相が露わになってくる。  
それは、生前のその本人に責の一旦がある場合もあるでしょうが、それでも身 
体にハンディキャップを負ってしまった人に対しては、ましてや家族であるな 
ら一層の慈愛を注ぐへきではないでしょうか?               
            『福祉国家の手本』                  
 最近の新聞の投稿の中に福祉国家スエーデンは老人の自殺率が高いという事 
、又老人にその原因は?と問うと「家族の崩壊だ」、と紹介されたのが掲載さ 
れていた。育児、介護、老後政策の先端を行くスエーデンが目標のわが国でし 
ょうが、いま一度「家族の絆」というものに焦点を当て、わが国独自の福祉国 
家を目指したいものです。                        

 産経新聞の夕刊に「夕焼けエッセー」という投稿欄が第一面にあり、その  
12/6付に掲載されていた文章の中に【6才の孫が、入院中の祖父の為に、 
色紙をハサミで細かく切って魔法の粉を作りやはり色紙で作ったコップ形の袋 
に入れ、おじいちゃんが早く良くなりますようにと見舞いに行く祖母に言づけ 
た。気持ちは通ずるもの、数日後に祖父は退院、祖父は「あの粉はお守りだ」 
。又一家6人の団欒が戻った―――以上概略】と、結ばれてあった。     
これを投稿されているのは34才の主婦の方ですが、この人が素晴らしい。  
親の意向が娘さんに通じているから、お守りの魔法の粉を作るわけです。   
核家族と言われて久しい今日、こういう家族の交わりはほほえましいし、忘れ 
てはならないと思います。                        
 そして、この御家族のこの形はずっと変わらず保たれてきたものであるだろ 
うし、保たれていくであろうと希望的観測に難くありません。        
「わが国独自の福祉国家像」は、利用者の家族が行政に依存し過ぎない、根本 
的な事「家族の繋がり」を最重視した上の福祉サービスの利用を心懸けるべき 
でしょう。結局そのことはいづれ「自分自身のこと」となるのです。
           
 現在の日本の失業者の物質的不自由による自殺の数が増大している様に、物 
がなくても死ななければならない。しかし、「福祉国家スエーデンは老人の自 
殺率が高い」様に、福祉に守られて、物質的に不自由でなくても死んでいく人 
が多いという福祉先進国の現実。                             
日本はこの「手本」通りにならないようにしたいものです。  2003年12月13日 23:50               

 <私の誕生日>  

 10月31日は、私の誕生日でした。

【今日 57才の 船出なり 天気晴朗 浪穏やか】                  

 秋生まれが3人いる我が家、例年の如くケーキを買っての                 
私の祝いは省略。代わりにホットケーキの粉にリンゴとレー                 
ズンを入れてのパンケーキを作りました。甥子達に「私の誕                 
生日やで」と言っていたのに「分かってる」のそれだけ───                
 現在ヘルパーの仕事をしていると、介護保険利用者は障害                 
を持たれ尚且つ一人住まいの方ばかり、それを想えば健康で                 
皆とこうして今年もこの日を迎えられた事が最高の「祝い」                 
でした。                                        

          *                         
去年に12回目の運転免許の更新をしました。               
3年毎の誕生日が有効期限だったのが、その1ヵ月後迄に          
変わったのを知っていますか?                      
それで猶予期間(忘れた場合の)が伸びたのでしょうか?         
 何の説明も為されないままでした。                    


        
                    


      
10/12(日) 『衆議院解散・国民が英断すべき時
 
 ついに衆議院が解散されました。今回の選挙の争点はなんでしょう?  
「マニュフェスト」選挙と言われていますが、その政策実行に何年も掛かる
という公約なら、国民にとっては空手形と同じ。            
 竹中大臣の処策により経済は銀行再編、大編成 を経てやっと上向きに転
じつつある。加えて小泉内閣の構造改革推進による歳出削減も功を奏してき
ました。歴代の政権がバブル処理の後始末を先延ばしにした事が谷底景気の
長引いた原因です。
誰がやっても一番日本が大変な時期に小泉首相が総理大
臣だった、誰かがこの「時期」をくぐらねば光明は得られない。その意味で
もご苦労さまと労いたい。結果として【イラク戦のアメリカ追随】という
選択肢しか持たなかった日本が、自国の国益も踏まえた選択肢を持つには
(近隣国の情勢も視野に入れた)、国防に軸足を置くべき。現在、盛んに北朝鮮
がアメリカに対して「不可侵条約」を核放棄の条件に据えている(例えば、
この条約をアメリカと結んでいれば、北朝鮮が日本を攻めた場合でも、アメ
リカは北朝鮮を攻撃出来ない
)、こんな事アメリカが呑む筈がないと思うが
、これとてアメリカの国益に適う間だけの事である位の覚悟を、日本人は持
っておいた方が良い。大分以前から、北朝鮮のミサイルの全射程に日本全土
が入っている現状で、(勿論安保を堅持する事は必要としても)全てアメリ
カ頼りにしておく事の懸念、それは自立国としての判断力も持たないし、持
てないという事。現在のイラク復興支援に対して、日本の自衛隊派遣を危険
だから「反対」と言っている野党連中だが、世界30数国が参加する中で
鎖国している分でもない日本が、国際的に相応の役割を担う事は当然で、それ
が国益に繋がっていく。国連加盟国の中で「軍隊」を持たない国は「日本」
だけ。自衛隊員の安全を危惧するなら、武器携行、使用を認めればいいだけ
の事(立法化して)。戦闘が行なわれている周辺地域に行くのだから
。経済
力ではとっくに世界的地位を占めている日本だが、国際紛争時の自衛隊派遣
の度、日本国内の「内輪もめ的論争」で先へ進まない。世界の国々から見た
らきっと滑稽だと思いますよ。この選挙では、国際的に日本をどのように位
置付けて行くのか、という国家ビジョンを示して貰いたい。自ずと「憲法改
正」という公約は必定だろう。
それ以前のアメリカ(ベトナム戦争)、
<10/11(土)の「ケネディ暗殺の真相」というテレビ番組で、ベトナムの
米兵撤退を決めていたケネディを暗殺したのは、軍需産業の為ベトナム戦争
を続行したかった勢力がCIAを使った陰謀だと、未公開のカットされた銃
撃シーンの映像と共に放映されていた。>又、今回のイラク戦のアメリカを
見て、少しは日本の第2次世界大戦時の日本の状況を思巡すれば良い。
(最近の産経新聞「正論」にアメリカのマッカーサー元帥の回顧録の中に日本の
「あの戦争」は大東亜戦争、自衛戦争だったという記述があるそうだ。しか
し、日本のメディアは取り上げない、と書かれてあった)植民地政策が当然
のあの時代、弱小国はどちらにしてもどこかの国の植民地になったという事
。西洋列強の対アジア圏への植民地拡大を防ぐ為、日本が戦ったのが「あの
戦争」(第2次世界大戦)大東亜戦争の所以だ。それが敗戦に依って「全て
日本が悪かった」と洗脳されたお蔭ですっかり被虐的国民になってしまい憲
法第9条を御守の様に死守してきた。戦後それで平和だったのはアメリカと
の安保(核の傘)があったからというのは自明の事なのに、「憲法第9条」
のお蔭と思っている浅薄な党や、人間がいる。合併した民主党をもうひとつ
支持出来ないのは、この国防、北朝鮮の拉致者への対応が分かりにくい事

元自由党派は改憲、元社会党派は護憲、それで民主党はどうなのか?これを
見ても選挙の為の「寄り合い所帯」にしか見えない。世界又、近隣情勢も変
化し、核保有国は益々増えている。北朝鮮の不審船もアメリカからの情報で
日本に伝わった。何もかもが「アメリカ頼み」の侭でいいのか、先のイラク
戦への対応も含めてこれからの日本はどうすべきか、国民が英断すべき時に
来ている。
 
 



 9/18(木)
『命懸けで』つづき
 法に則り、すべての生徒が等しく楽しく有意義な学校生活を 
全う出来るよう、
学校側は生徒を監督、教育する一貫として、 
全ての生徒の実態を把握する為、学校内に監視カメラの設置を 
要望する。 学校内に於いて、教育者は全ての生徒の行動を、 
周知すべきであり、それに依って、すくなくとも潜行している 
苛めを発見する事が出来、又それの抑止力になり得るものと、 
提案する。
それ以外
に、いじめ防止、発見の方策があるなら提示して頂きたい。 

  2003年10月14日 16:18:13 
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9/21(日) 『小泉首相大勝
 小泉首相、総裁選の大勝お目出度う御座います。
メディアの予想通りの結果のようですが、結局自民党議員が国民の声を敏感に感じ取ったとい言う事でしょう。これこそが「選挙」の「在るべき姿」でした。
 「毒まんじゅう」(ポストでつる)たらほざいて引退すると言った政治家は、これまでの自分のやり方を小泉首相にあてはめて、それを却って露呈させた。このポストでつるというやり方こそ、これまでの自民党の「田中、竹下派」の悪しき体質だった。これに辟易していたのが国民で、その民意を反映させた流れが3年前の「小泉総理」誕生、そして今回の再選と言えるでしょう。「自民党をぶっ壊す!」という小泉首相の意向はここへ来て見事に実現しました。あの野中広務こそ親北朝鮮派、謝罪外交で国家威信低下させた張本人、最近の週刊誌の見出しに【小泉首相よ、息子をイラクへ行かせよ】とあったが、それなら【野中広務よ、子供が北朝鮮に拉致されたと思って対処せよ】と言いたい、これまでの北朝鮮に対する温厚外交を拉致被害者家族に謝罪せよ、そんな人間が「国家の為」云々をほざくな。権力のままに「毒まんじゅう」を撒きまくって、結局その「毒饅頭」しか眼中になく、それを撒く事が出来なくなっての引退劇。
なんとかの「壁」ではないけれど、これまでの悪弊を断つ事をしなかった事の自省こそすべき。結果的には自分で作った「毒饅頭」を捨て切れずに、それを食べて自害したように見えます。これでこれからの自民党も、日本もまともになる事でしょう。
         「自民党の政策の一貫性」
 いまTV「サンデープロジェクト」で、ここにも「なんとかの壁」的発言があった。
古賀前幹事長の言「世界に例を見ない、平和憲法のお陰でこれまで平和であった」等、これは野中広務と同じ主張の事として発言している。
平和憲法があったからではなく、「アメリカ」がバックに控えている安保があったからでしょう?平和憲法があろうが、世界のあちらこちら、つい日本の近くの国も含めて、核をもつ国は増えているでしょう?そして、だからこそイラクがらみの事も含めて(アメリカ追随の非難をするなら)、日本が自立国になるという発想が、どうして出来ないのか。
「国家観」の基幹は、「国防」である。自分の国は自分で守る。これが当たり前の、独立国である。来月に総選挙という折に「自民党」の古賀前幹事長は又、小泉首相の政策に異を放って、それでも「自民党」員として選挙を戦うのですか?
政策を異にするなら、党を離れた方が国民も分かりやすい、どれが本当の自民党?
 自民党は小泉首相系を一枚看板にして、発言を統一すべき、それでないと、選挙民は戸惑うし、それこそ野党の思う壷です。
            『小泉首相へ注文』
             「売上税復活」
 予算を計上、配分して、景気浮揚を計るなら、税収を確保しなければならない。
国民の毎日の生活直撃の食料品等の消費税は兎も角も、高額品に対する売上税的、税金のアップを施行して税収不足を補う事。現在の世の中は「高低」所得層の差があり過ぎる。             「集団的自衛権」のこと
 イラク復興支援一環の自衛隊の「イラク派遣」をスムーズに進める意味でも、「集団的自衛権」位、立法すべきです。野党が何故この事を立案しないのか?だから、国民は机上の空論ばかりと、「野党」を選出する気にならない。自衛隊員の身体の危険に危惧を抱くのなら、それが先決。国際社会の一員、又アメリカと「同盟国」という立場からイラク派遣は避けては通れない、国益に適った事。
           拉致被害者の返還という交換条件
 先だっての北朝鮮万峰号日本寄港の時、日本人の拉致被害者達の「垂れ幕」、旗振り等を禁止しておきながら、出迎えの朝鮮関連人はそれらすべてに違反、加えて大らにかに歌を唱い、そしてバスで来た。片や徒歩でだったのにですよ。あの情景を見れば、此処は何処の国?と見違った様な錯覚を覚えました。私達は「拉致被害者を返せ!」という言葉と、垂れ幕位見たかったですよ。
 ああいう片手落ちの情況を見過ごした人間の制裁は課したのですか?
今後の為、処罰しておくべきです。
 最近の産経新聞にも、北朝鮮の軍幹部だった人の証言「援助米は国民には渡らず、軍幹部が全部取り込み、自分達の食用、又流用して売り捌いたていた。又外国の取材の時は、軍の人間が国民になりすまして撮影させていた。」の記事が掲載されていました。
 このように、いくら援助米を送っても一般の国民の口には入っていない。
拉致被害者の返還という交換条件以外では、北朝鮮への援助は一切為すべきではない。
 この態度を貫けば、きっと北朝鮮は「折れて」きます。去年の金正日に拉致を認めさせたのもその毅然さでした。
                  *
 大体、「武器の商人」という国家が存在するから、世界中の戦い(テロを含む)はなくならない。「民主主義」という意味を識らないとしか言いようのない、朝鮮「民主主義」人民共和国という国名とアンバランスな全体主義の「社会主義」が「20世紀の失政」であった事の立証は、ソ連崩壊という現象、中国の資本主義経済への移行で明らかである。 国を私物化した金正日を軍の人間がつまみ出すだけで、北朝鮮と言う国は救われるのだ。世界情勢も読めない、こんな「裸の将軍さま」では国の繁栄など覚束ないと見切るべき それが全世界の為でもある。
               教育に関して。
 先生の暴力というのが問題視されるが、潜在している「質の悪いじめ」の対策として、これに関しての叱責、以降のその行為を押さえる為、先生の暴力、これを是認すべし。
 先日、「地区懇談会」という会合があり、その折、中学生の喫煙の事が取り上げられ、注意すると、親が認めていると言う子供がいるという発言があった。
 現在は、こんな風に「親がなっていない」、先生がちょっと暴力を振るうと「親が異議を唱える」という事をメディア等で見聞きする。なんでもかんでも「暴力」には勿論反対だが、言うことを聞かない、現状を是正しない生徒には先生の「鉄拳」も必要だろう。
 それは、苛めを受けている生徒、子供になり代わって行なう制裁である。
昔は、こんな事、当たり前の事だった。明らかな訴えが本人、保護者からあった場合は、これを容認する現場を当たり前とする事。何事も、キレイ事では治まらない。
 又、全校に監視カメラの導入も提案する。先生は生徒在校中に於いては、この行動を、監理し、教育する義務を負うものである。全体の生徒の実態を把握し、「いじめ」を発見出来る体制を造る事が、その防御の第一であると推案する。
2003年9月21日 17:19:01


9/18(木)         『命懸けで(後悔のない人生を)

    “「苛め」 をば 命懸けで 護ってやる”            
                                   
 『 そう 命懸けで 私は 甥子を 護ってやる            
      君等も 命懸けで やれよ                 
   その親も 学校の先生も 命懸けで 対処せよ           
   クラスの人間も 他人事(ひとごと)だと 思わず         
   いつ自分が そうなるか 分からない               
   だから その風潮を 絶つのだ                  
    これからの 未来を担う 君達                 
    世の中を 良くする 変える それは 結局           
    皆 一人一人の 言動でしか あり得ないのだ          
   自分の 言うこと する事 それらに責任を持って         
   命懸けでやる                          
   それが 「後悔のない人生」を 送るということ
          
  
 <命懸けでU>  最低の人間                                                                                 
    花は好きだけれど ゴキブリは嫌で                                        嫌いだろう 「嫌な事を為す」人間は                                        ゴキブリだ いや ゴキブリ以下だ                                          ゴキブリは それ自体がその存在で                                       自分自身 選択出来ようがない                                           しかし 人間は やさしい言葉で                                           花のようにも なれる                                              なのに そうしないのは                                                  「人間である」 値打ちがない                                           だから 人の嫌が事を 言ったり                                           したりする 苛めている人間は 最低だ!と                                   周りの皆が 言う事。                                                本当に 最低だから。  

   自身の 言動 行為は 将来に                 
    それを 担保としなければならない               
   人の嫌がる「あだ名」を言う人間は               
   自分も「あだ名」で呼ばれても良いと             
   是認していると言う事だ。                   
    
    そして 君等の行為は 立派な犯罪行為だ            
    身体を傷付ければ 犯罪のように                
    「心」を傷付けているのだ                   
    もっと 質(たち)が悪い                       
     又 名誉毀損 侮辱罪にも 該当する             
    
    先生の、無気力さが問われて久しい。              
   宅間被告に死刑判決が下った、池田小学校の8人の子供       
   達が殺された事件、先生達が「身体を張って」護ってや       
   ったら、「8人」も死なずにすんだのではないか?         
    教育とは、「命」を吹き込む事だ。               
   だから、その教育者には「命懸け」になって貰いたい。
       

    苛めにおいて、親の対処を最大課題とする。           
    若し、現状が改まらなかったら、子供を学校へ          
    「来さすな」 そしたら、苛めはなくなる。           
    単純明快な答。以降の成り行きに依っては提案する。       
           (平成15年8月31日 記)          
               *                   
  “「命懸け」で 護りたいものはと 問われたら           
       家族 それと 自身の誇り”
               
   以前の作首、詩歌集夢現第3集「夢幻」に掲載。          
               *                   
 私は小学校3年生の時、隣の席の男の子から、あだ名ではな  
 いけれど、「いじめ」を受けていた。            
 その事は、いまも忘れられない「深い根」となり、胸底で
 とぐろを巻いている。                       
 会う事があったら、ぶっ叩いてやりたいし、罵倒してやりた  
 いと、思っている。                    

『命懸けで』つづき
 法に則り、すべての生徒が等しく楽しく有意義な学校生活を 
全う出来るよう、
学校側は生徒を監督、教育する一貫として、 
全ての生徒の実態を把握する為、学校内に監視カメラの設置を 
要望する。 学校内に於いて、教育者は全ての生徒の行動を、 
周知すべきであり、それに依って、すくなくとも潜行している 
苛めを発見する事が出来、又それの抑止力になり得るものと、 
提案する。
それ以外
に、いじめ防止、発見の方策があるなら提示して頂きたい。 

  2003年10月14日 16:18:13 
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8/25(月)
 【言いたい ほうだい】、【コスモスページ】書き込みしています


 1ヵ月振りの送信です。その分文章が長いです。最後迄見て下さいね。
先月に書いた「下絵」をしたのは色を塗り終えました、【かたちのはじめ】という
詩歌集夢現第3集「夢幻」にも掲載した「童話」的なものです。出来上がりの方は
「いまいち」でした。少しいらって(手を加えて)、詩歌集夢現第4集「無限」に載せる
かも知れません。他にも「童話」的なものを掲載しようかと思っています。

 兎も角働かなくてはと警備会社の面接に行き、2日間講習を受けましたが、其処の
会社は挨拶に「敬礼」しなくてはならないのと、仕事が自分には向かないと判断して
勤務に至りませんでした。(日焼けすること迄は覚悟していたのですが)
 また、頑張って探します。
                                                  
         『夏の思い出』             

        「日本の京都」              
 8月15日、いつもと同じ様に甥子2人と共に京都へ墓参。スイスイだった 
車の流れも五条通りから停滞、結局墓迄更に1時間掛かった。その過中、冷夏 
のことでもあり今年はクーラーを点けずに走っているので、多彩な蝉の鳴き聲 
に聴き惚れる、「熱唱」でも「涼唱」でも濁音がない。「日本の夏の特産物」 
、日本人であることの特権を満喫。外国人は「虫の聲」は、雑音にしか聞こえ 
ないとか。 これも例年、墓参寺でも蝉の出迎えの合唱。          
  ”汗をかく ことなき今夏の 墓参段”                
階段を上がりきって本堂裏の墓所へ。この一帯も蝉がワッショイ、ワッショイ 
とお待ち兼ね?墓前での住職の読経中も、規則正しい声明の様に調和よく唱っ 
ている。葉の触れ合う音かと聴き耳を立てたくなるほど絶妙なハーモニー。  
  ”(葉)はずれ音 まねて まねられ 蝉の聲 ”           
                                    
  ”みがくだけ まだこの墓には 入れない ”
             
 お墓を洗いながらの実感。甥子2人を一人前にする迄は、まだくたばる分に 
はいかないと誓い、仕事が見つかります様にとお祈りしました。       

 これ迄に録音した分と、新たな分の朗読を編集して『日本の京都』というCD
パソコンで作りお寺に寄贈しました。文明の進捗が著しい現代社会の中で 

「日本」のふるさと、求心力の様な京都。お墓の縁で頻繁に京都を訪れるよう 
になって、加年その想いを強くしています。                
「古さ」を固守する。その「こだわり」に共感を覚えます。         
                *                   
 墓参後は2年振りの嵐山へ。途上、「七彩」の看板は目に付かなかったが、 
「SANCALL」はあった。(この2ツの看板からイメージを膨らませて書 
いた「虹」というメルヘンを詩歌集夢現第4集「無限」に掲載する予定です) 

桂川沿いに出た。昨日の大雨の影響で水嵩が増し、濁った水の流れも数段速い 
。                                   
  ” だくだくと 濁流がゆく 桂川 ”  
              

 その影響と、涼まなくてもよい今日の涼しさに、川原の人影もまばら。   
2年前、甥子が水遊びしながら、向こう側迄渡った「石橋」も水に埋もれてい 
て、「この辺やったかな?」と流れの窪んでいる処を見付けて指差す。    
 小さい石ころを拾い上げ、誰が一番遠くまで投げる事が出来るか、川へ向か 
って投げる。しかし、石が小さ過ぎて見失う。                 


 川原を上がると、目の先真ん前、30〜40p位の「イモリ」?かヤモリに 
出会う。向かい合って、そのひと回り大きい「ワニ」もいる・・・      
いまにも跳びかかりそう。                        
それは、土からはみ出たその樹の根の部分を、風や雨という自然界のノミが彫 
り上げた「木の彫刻」だった。その先を辿れば、10メートル程の大きな樹が 
デーンと空高く古色壮然と聳えていた。                  
樹の周りを見てみると「手の形」もある。又、昨日の雨が「貯め池」になって 
いる処もある。                             

 生きものの「造形」と、生命の礎である樹に、暫し思いを巡らせました。                       
     ──── *  ───────
        「二色の浜」                

  ”「冬」になる その時の為の 「夏の思い出」 ”

下の甥子の中学校のクラブ休暇が17日迄だったので、最後のその日、上の 
甥子も共に海水浴へ行った。私は朝の4時過ぎから起きて弁当作り、でも家を 
出たのは6時10分頃、雨がパラパラ降ってきた。             
 阪神高速道路を走ったが車数は少い。でも私は速度80qを死守。     

  ”曇空に モクモク 煙突 入道雲 ”                
                                    
 この雨空にモクモクと白い入道雲のような煙が大きな煙突から押し出されて 
いる。冷夏と言われる今年、入道雲自体を数える程しか見掛けないが、    
何屋さんの煙やろ?何を炊いて白い煙になるんやろ?と思っている間に、そこ 
を通り過ぎる…。しかし、この阪神高速道路はどこにも緑の植樹がなく、最悪 
の道路やなと、毎度の事ながら想う。最速化、利便性最優先をこれっぽちも疑 
わなかった当時の人間の浅薄さを、未だに引き摺っている。         
 部分部分でも、中央分離帯に植樹しては如何です?            

 高速を抜け1時間程で貝塚市に入った。以前の二色の浜海水浴場への進入路 
を忘れ少し迷った。                           
 この二色の浜海水浴場へ最初に来たのは平成6年。            

 2度目が関空の開港したした年の平成7年、「夕焼け」を見る為車を走らせ 
て、何を間違ったか関空迄行ってしまい、仕方なく「りんくうパパラ」の遊園 
地で甥子達を遊ばせた帰りに行った。                   
   ”観覧車 昇ってまさに 最上段 今降りて行く飛行機ともに”    

   ”1年後 同じ海 空 砂浜も 動いた空に 飛行機が つく” 
                  
                 *                                      
”3度目の 8年振りの 二色の浜                                            甥子は14(才) 18才に ”                                          
 海水浴とともに、もうひとつの目的だった「潮干狩」の情況を見るため、  
取り敢えず車を入口の横に停め、私だけで止まぬ雨の中傘を差して見に行く。 
 海浜途上には朝8時位に関わらず幾組かがもうシートを拡げている、きっと 
キャンプ組だろう。                           
 当日の干潮は3時49分、しかし砂浜の何処にも貝の一片なく、藻だけが処           
 々で浜砂に受け止められた侭にあるのみだった。                            
車の方に引き返す途中にこの区域の案内板があり「自然遊学館」というのが            
 目に止まった。下見がてら私一人でその地図の方角へ向かうが、行けども行け         
 どもそれらしき建物が見えてこない。諦めて引き返す。交通誘導員の人がいた 
ので聞いて見るが、大分先のようだった。                 
 雨はまだ止まないが、此処まで来たことでもあるし、取り敢えず車を高架下 
の駐車場に置く。そこから直ぐの処にシートを拡げ、一服。甥子2人は空とに 
らめっこしながら交替で海の方へ行っていた。               
 時計を持っていないので時間見当がつかないが「お腹減った」、上の甥子の 
言葉を合図にお弁当を開く。私達の周囲ではほとんどの人がバーベキューをし 
ていた。この場所はそれが「可能な区域」だったので、そこでそれをしていな 
いのは私達くらいだった。                        
 食後、持参していた朝刊を一読していたが、睡魔の波に引き込まれるように 
眠ってしまった─────目が覚めた時、雨は上がっていた。甥子は2人共海 
に入ったようだ、脱いだ状態の侭の着替えをたたんでおく。         
隣の大きくテントを張ったシートの方に目を遣ると、犬が3匹【耳と尻尾をカ 
ラーリングされたマルチーズ2匹と、それより小さいポメラリアン(註:甥子 
の言)】が手持ち無沙汰?、おとなしく繋がれている。           
ふと家に留守番させている我が家のキャバリア犬「コスモス」を思い出した。     
一緒に連れて来てもいいのだが、軽自動車なので荷物等を積むと、コスモスを 
乗せるスペースがない。甘えたなので、連れて来てやれば喜ぶだろうが………      
 
 立ち上がり、少し離れている海の方へ行く。すぐ見える所で2人が泳いでい      
るというより、遊んでいる。上の甥子はシュノーケルを付けて「浅瀬」を潜水      
していたらしい。下のはゴーグルを付けて、恰好だけはいっちょまえ。         
しかし「100メートルは泳げる」とか。                      
 天候が天候だっただけに、泳いでいる人も数えられる位。              
それでも、下の甥子は結構日焼けしている、が上は「潜水」していたせいで、 
顔が焼けていない。                           
 急遽海に入ったのだろうか、服の侭泳いでいる子供達がいる。「もう、帰ん      
でー」「いやや、もっといてる」親子のやりとりが聞こえる………その余韻を      
まさぐるように、遠い波間に視線を泳がせる。あの年頃、「海」があることも      
知らなかった………。踵を返して海を離れた、そうだ折角此処まで来たのに「ペ      
ーマガ」を配ろう。車迄戻りペーマガを持ち、この近辺にこれまでの在庫一層      
も兼ねて配る。                                  
 2000年に創刊してから、甥子達と行く所行く所も、私の痕跡を遺す如く      
撒いて来たペーパーマガジン、「♪見知らぬ街の 見知らぬあなたへ♪」        
私の心届いたでしょうか? 
                            
 終えて、再び海へ行く。下の甥子に今日の味噌汁用に浮いている「若布を採      
って」と頼む。視界の中に小さい女の子が容物にその若布を蓄めているのが目      
に付く。同じように「あれ」持って帰んのやろか?余計な事、ああして遊んで      
るだけでええんやもんな。                             
まぶしい! わかめの みどりいろから きいろいおひさまが かおをだした
      
。 <未だ、緑色の事も、海の青さも知らない……>                 

 海から上がった甥子達と芝生の処でバドミントンをする。              
卓球とは勝手が違うかして下の甥子はタイミングが合わない。             
「続かへんなぁ」、私は降りて2人でさせる。どちらもどっこい、どっこい。      
 屋外なのでそれも仕方のない、風次第の羽根の行方です………。           

 帰路は高速道路を使わず一般道を使い、広報カーから私の作品「地球の未来 
に・誰のために」等を流しながら走り、日の落ちない6時過ぎには家に着く事 
が出来ました。                             
 犬のコスモスが嬉しそうに尻尾を大巾に振り、迎えてくれます。      
夕食には早速海で甥子が採ってくれた若布を味噌汁に入れ、冷凍庫の鰻を使っ 
た鰻御飯にして一緒に食べました。「まずーい!伯母ちゃん、これただの海の 
藻や、わかめと違う
」口に入れた途端上の甥子が開口一番言いました。予想し 
ていた味とは確かに違います、結局残していた分は捨てました。       
 
今日という日も、引き潮に運ばれる波のように、海の彼方へ消えてゆきまし 
た。いつか完全に「夏の思い出」に収まってしまった時、海藻の「わかめ」の 
事が一番印象深く思い出される事でしょう。                
 人の常として、平凡な事より奇異な事の方が、最も記憶に焼き付いているも 
のだから………。                            

 この事とは全然関係ないけれど、以前に「海藻」という歌を創った事を思い 
出した。                                

♪海面に 海藻 とけあって ゆ〜ら ゆ〜ら ゆ〜ら きらめいて・・♪
                                              (2003.8/25 18:15)    戻る

 7/22(火)    『たこの足(8本)が欲しい』                    
   【言いたい ほうだい】【マイポエム詩2篇】書込みしています。

 しかし、仕事がないですねー。今年何社面接に行ったか?10社近く行きましたが、
不採用。年令56才というのがネックなのでしょうか?(しかし、筋力年令は30代ですよ。表面的には分かりませんが)
 登録ホームヘルパーになっていますが、仕事なし。明後日はその登録ホームヘルパー含めた職員の健康診断があります。「血液検査」迄、余計なお世話と思うのですが、拒否権はなし。
仕事があれば、文句はありませんが。
 このまま仕事がなければ、死ぬしかありませんな。

 高校生と中学生の甥子2人も、夏休みに入りました。
下の甥子は運動クラブに入っているので、連日登校しています。先日等試合の応援にと朝の6時半に家を出ました。私は5時半から起きて弁当を作ったのですよ。
それにしても甥子は中1からずっと、よく頑張っていると思います。
 私等中学の時も高校の時も、運動クラブに入ったものの、どれ位続いたかと恥ずかしいです。
 高校生の甥子も学生最後の夏休みですが、(2人共)真面目に休まず登校して、それだけでも当時を比べれば私は負けています。2人共、私よりマシな人間になるでしょう。

 又、オリジナルCDを2種類創りました。【地球の未来に】と【寝屋川まつり】です。【地球の未来に】は学校の教材にでもと、関連に送ったりしていますので、いつか皆さんのお目、お耳に届けばいいのですが………。
 寝屋川まつり(これまで3回行った時の印象<甥子>に書いています。)今年は8月30日、31日
にいつもの場所(打上緑地)であります。
例年、すごい出店の数ですよ。歌謡ショー、盆踊り、花火等盛り沢山の催物があります。

 詩歌集夢現第3集「夢幻」も世の中に出すべく、或る作家にそれを朗読したMDと共に送付したのですが、出版社気付で出したのでもうお手許に亘ったかと案慮している処です。
心ばかりの「お中元」も2件分送り、高くつきましたが【デビュー】の可能性の為。
行きたい演奏会にも行かず、買ったのですよ。

 去年からワープロに打ち込み始めて中断していた、私の詩歌集夢現シリーズ第4集「無限」、
又この6月から続行始めました。今の構想が変わらなければ、「因果」をテーマにこれまでの第3集迄に比べれば一番、自伝的要素が高くなるでしょう。

 下描をした絵も色を塗りたいし、本も(「神々の指紋上巻」を読み終え、下巻を)読みたいしと、鮹のように手?か足か8本あれば同時に8個の用事が済ませられるのに、と たまに思うことがあります。
(2003.7/23 01:13)



<言いたいほうだい><マイポエム>書き込んでいます。   

7/5(土)  2003年7月3日 於 サントリーミュージアム
  『バルビゾン派から印象派』の展覧会へ───日高よし子

       『時間の彫刻』

─────暗くなれば、電気を点ければ明るいし、朝になれば日が昇る。  
日が射さない場所でも電気の灯がある。
「夜」を知らない現代人。物理的なBrightに囲まれていても(それ故)「光」を知らない。
 何もかもが、「当たり前」に成り立っている現代社会。
もはや、「光」に出会えるのは、絵画や、音楽、或る建造物等、芸術的な物を通して、或いは、個人の「想像力」からだけとなった─────。     
 
産経新聞より入館券を貰ったので『バルビゾン派から印象派』の展覧会へ行った。
午後2時過ぎに家を出発。昨日の続きの雨が、気にならない程度に降っている。同展覧会最終日が7/6(日)なので、思い出した今日、雨の欝陶しい気持ちを追い払って、車を走らせる。
 国道1号線の「関目」を通過。この界隈は仕事をしていた時よく走った道路。沿道には「時間の彫刻」の古木が瑞々しい葉に飾られている。
 人間古びても、あの感性だけはもち続けたい────。
 この道を走る度に想う、あの頃と現在と、違う次元を走っているのではないかと。あの頃というより、あの頃を含めた以前の全ての年数と、それ以降からの現在と言った方がいいかも知れない。
 あの「彫刻」もこの「葉」も、それ以前には「見たことがない」。樹があった事は知っているが「見たことがない」のだ。

 それは、この展覧会で見た太陽と煙で変化する、モネの「ウォタール橋」の連作の様に
私の「眼の曇り」が取り払われ、「光の発見」をした如く
 
パンフレットの見出し文字に「光の発見────光の魔法」とある。
 この展覧会の会場は5階だが、エレベーターを降りてから階段を上がって行く、突然、一面に海が展開(ひら)ける。それは空間可能な限りのガラス張りの「光の世界」だった。この「展望ギャラリー」のあるサントリーミュージアム「天保山」は、安藤忠雄氏の設計らしいが、以前テレビで同氏が設計した「光の教会」を見た事がある。人為的にしている、「十字の窓」からの光は、か細く、ささやかな明かり採りの灯としか言いようがない。が、そこに「光の発見」があった。それ等は、屋外で当たり前に見る(見てもいない)光と同じ照度であっても、明度に「差」がある。
 同展示の中の、漆黒宇宙の中の「木星」という絵の、鬱蒼たる森に射す一条の光の如。

 「芸術は嘘を付けない」────それは、全ゆる芸術的作品に於いて言える
事だが、その芸術家の予備知識が全然なくても、ひとつの作品から、その当時の「状況下」が読み取る事が出来る。「その為」に表現しているのだろうから。
 画風の流れとしてのバルビゾン派の、「一条の光」を求めた表現法は、19世紀半ばのフランスの時代背景と密接に関連しているだろう。
 畏れ多い自然界の杜(もり)の現実的写実は、その当時の微小な人間の抗えない「現実」そのものと言える。

【バルビゾン派】を抜けた後の、【印象派】の絵画の明るさ。      
 「トンネル」を抜けた明るさであるし、「自由」という解放感でもある。
陽光は、こんなにも「燦々」と、惜しみなく与えられていたのだ。

 ルノワールの「ブーフを持つ子供」の透き徹るような白い肌と、着ている黒い服の胸元の白いレース飾りのビーズの輝き。その祝福された、生命の瑞々しい「煌めき」は、その絵の中で不滅の時を生きる。

 2時間程経った午後5時40分頃に当館を出た。           
 帰路を走る車の側道の街路樹の明快な緑色の多彩さが、目に映える。    
先程の「森」の欝たる残映が、次々塗り替えられていく心地だった。
                2003年7月6日 5:44:51

    <6/18、19、23、24>日の『六 月』という月
6/18(水)今年7月で17回忌になるという石原裕次郎の特集TV番組「裕次郎の最後の真実」を夜8時過ぎから観た。
 石原裕次郎を見ると「素麺」を思い出す。
私が小学6年生の時、私の一番下の妹の産まれる前後、母に代わって家事手伝いに来ていた20才代の女の人が石原裕次郎の大ファンだった。雑誌の「明星」や「平凡」を私にも見せ、裕次郎の素晴らしさを繰り返し述べた。「嵐を呼ぶ男」の歌を未だに憶えているが、その人の影響だろうか?
 7月だったので、食卓によく素麺が並んだ。美味しかったか、どうかなど憶えてもいない(母の作る素麺のまずかった事は憶えている、だしが薄かった)が、各自の器に入れてくれる時の、その女の人の箸持つ手に素麺が触れる、それが厭で厭で、それを食べるという事の堪え難さ、その事は、いまもはっきり憶えている。

 昭和56年、石原裕次郎の最初の動脈瘤の大手術の終わった後だったか、病院外を埋めつくしたファンがテレビに映し出されていた。それを「弟」が観ていた。病院のベッドで。入院中の弟の室に私が入った時、既に観ていたということだが、なぜかチャンネルを変えた方がいいと思った。でも、じーっと観ている弟を見ると、変える理由が見当たらなかった。弟は、慢性白血病で入院していた。発病後、2回目の入院で今回は「個室」だった。
 6月23日、弟は亡くなった。満33才でした。

 今夜の同番組中、生前の石原裕次郎がハワイで渡哲也に吐露したという言葉「人間の幸せとは?」「若し5年の寿命だとして、2年に縮まっても、酒を呑みたい」、それを悔いを抱きつつ語る渡哲也氏。

 入院中の私の弟は死ぬ少し前から絶食だった。それは私の一番下の妹が本屋で見た医療関係の本に、弟が好んで飲用していた炭酸飲料は、この病気には悪いと書いてあったと聞いたからで、妹と一緒に(未だ若い)担当医に会って、その事を質問し、そして、その後の検査後からと思うが「ガス抜き」が始まり、食事も「絶食」となった。

 「よくなって少しでも長生きして欲しい!」と希うのは家族や囲りの人間だが、当人にすれば、極端に言えば、明日死んでも「好物の物が欲しい!」と言う事だろう。
 今日の番組後、つくづく命は「当人の命」である事、「当人の意志」を尊重すべきだと思い知った。

 「あんなに誰からも好かれた人を他に知らない」浅丘ルリ子さんの言葉に象徴される、石原裕次郎の魅力は「そこにいるだけで、周りが明るくなる」「やさしさ」、まさに、
「太陽の子」だったのでしょう。
 「やさしさ」の基本は、まず相手を尊重するという事ですから、誰にもやさしくできる、それだけでも並みの人間ではありません。
人を愛する事が出来るから、「愛される」。
 海辺で育ち「海が大好き」だったという石原兄弟、「海に好かれ」海の上で太陽の愛を一杯浴びたから、人に「愛を与える」事が出来たのでしょうか?

 「やさしさ」という点では、私の弟も引けをとらなかったと思います………。
好き嫌いが多かった────「人間」ではなく、野菜類。
南瓜、トマト、玉葱、茄子、苺、西瓜(この果物、子供頃は食べていた)等が嫌いだった。嫌いな物が副食の時は、インスタントラーメンを自分で作って食べていた。
 連夜の付き合い麻雀、そんなある日、腕が痛いと言って病院に行き、検査の結果あの病名だった。(それ以前には、原因なく大きな痣(あざ)が出来ていると言っていた事があった)食物に好き嫌いがなかったら………病気をくい止められたのでは、と思ったりします。       
 (2003.6/19 02:27) 戻る
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6/19(木)
 今朝の「産経新聞創刊70周年」記念版の石原裕次郎の兄さん石原慎太郎氏と竹内久美子さん(動物学研究家)の対談記事の中に「かっこいい男の人が早く死ぬというのは、 テストロンというかっこよさを演出する男性ホルモンが、一方では免疫力を低下させる 作用があるから」と竹内久美子さんの言葉にありました。
 昔から「良い人間ほど早く死ぬ」と言いますものね。
 ストレスという事でしょう。そしてストレスと感じない程に人間が鍛練されているのでしょうが、その分「身体」に応えていた。人間、そんなに「いい子」でいようとしたらどこかに無理が出るのは当然と思います。
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6/23(月)  
 今日は6/18付に書いている私の弟の22回目の命日です。
又、昨日は叔父(私の母の弟)の7回忌でした。考えたら2日違いの命日だったのです。今更に気付くなんて………
以前に比べて階段の昇降に無理がある母は欠席し、私一人で法事へ行ってきました。
 住職の読経の間、家の内を見ていてつくづく私が昔住んでいた海老江(福島区)の家を思い出した。お仏壇の位置、その横の床の間、続き間の欄間、隣のリビングルームには同じ様に天窓があった。
 生前の私の父があの家を建てたのは昭和36年頃、その叔父がその家を建てたのは確か、平成7〜8年頃と思う。ふと、叔父は私の父が「目標」だったのではと思った────
 「商売せえへんか?」「サラリーマンがいいですわ」。
もう25年以上前の叔父と私の弟の会話です。
「日高はんが血だらけの海で<助けてくれ!>言うてる、夢を見たんや」
その夢見の悪さに、わざわざ私達の家を訪ね、私の弟にそんな話を持ち掛けてくれた。
 確かに、あの頃の我が家はガタガタだった。それから、数年後にあの家を処分し、一時、家族は離散した。

 昭和40年に死亡した私の父の生前時、暫く父の下で働いていた事がある叔父の義理固さからか、自分の家族と私達を置き換えての不憫さか、私の母の弟という血縁意識が為させたのか、兎に角これ以降も、叔父にはよくして頂いた。
 私の父は「酒」で死んだが、叔父は家族想いで、何の道楽もなく仕事だけの人だったとか。
 平成9年6月25日叔父逝去。
あんなに良い人がなんで母の兄弟中、真っ先に亡くならなければならないのか?と世の 無常を嘆かずにいられなかった。
 私の父の死亡時全然泣かなかった(泣けなかった)私も、叔父の時は以後数日間、涙は涸れる事がないのではと思うくらい、溢れた。
 「究極の感動感」の代名詞と言える前橋汀子の音楽に出会ったのは、その数日後の7月8日だった。その事と「涙の溢出」は、感動度に極めて関連性があったであろうと、改めて想う。
 
 “感動の 器の素地は 悲しみが 彫りて深き 芸術を 容れ”        

 “悲しみが 或る日 突然襲うよに 喜びにも また 見舞うる心”(平成9年作)

 その1年後、夢にまで見た初めての前橋汀子のコンサートに行ったのは、6月26日だった。以後「六月」が大好きになった────

 「死に立ち合った」あとの、「生の喜び」───それは「亡くなった人」達の「頑張れ
!」のエールであったと、思います。

 叔母さん、3人の娘さん、当日は何かと心遣いして頂き有難う御座いました。
お3人の方はよく気が付き、愛想良く、本当に気立てのいい娘さんに育たれましたね。
なによりも、御両親の深き愛情の賜ものでしょう。

 私が少女時、未だ叔父さんも独身の頃、たまに私の家に来られる時はアイスクリーム等必ず何か手土産持ち、又やさしく話し掛けて下さり、「大好きな叔父さん」でした。

 「慈愛」に充ちた叔父さんから受けた御恩は生涯、忘れません。
これから以降、私が若し「名を成し、財を為し」たなら、その心志を継ぎたい。
              (2003.06/24 3:58
─────────────────────────────────────────
6/24(火
 先日首輪を離していて居なくなった頃からか、我が家の愛犬「コスモス」の様子が「 違う」のです。【お手、お代わり、握手、ウエイト】迄は変わらず「出来る」のに、「 よし」と言っても、「OK」「食べてもええ」と言っても食べない、私の姿が見えなくなってから食べ始めています。しかし、昨夜、今朝はすぐに食べません。
梅雨の渦中、気分も「鬱陶しい」のでしょうか

   “そんなん なしにして なんぼ ありでも”

 私の母が天井から「蟻が降ってくる」という位、我家には蟻が常住していますが(居間、台所問わず)昨日は朝からその量が多く、夜など居間のテーブル(食卓)、座敷とそこら中一杯、普段何匹かいても気にならない私も遂に、殺虫剤で駆除しました。
蟻の行列の行跡をじっと見ていると、「蜜」に向かっている分ではないのです。
ただ「行ったり、来たり」しているのです。これって何でしょうね?
 しかし、あんな小さな蟻を殺っつけなければならない「人間」て、小さくて、弱い生きものだとつくづく思います。
 前にも書いたかも知れないけれど、蜜に集る「蟻の群れ」を見て、皆一様に「きもちわるー」と思うのは、原始時代の「人類の記憶」でしょうね。人類がまだ家など持たず「地べた」で寝食していた野性動物に近かった頃、蟻の大群に襲われたかもしれない。
だって、「蟻の群れ」を見て、何故気持ち悪いのか、説明出来ないでしょう?
こういう風に考えると、私、私達の年齢は「ン万才」「ン十万才」ですね。
それこそ、生物発生時迄遡ることになるでしょう。
                  (2003.6/24 12:13) 戻る


6/1(日)  『手のひらには?』
  暫く書き込みが空いてしまいましたが、私事乍ら今月のブロバイダーとの契約時間を超過してしまって、以降は割増料金になるので、インターネット使用を控えていました。
 これの下【5/30】と、【言いたい ほうだい】書き込みしています。

 さて6月になりました。近畿地方を通過するかと言われた台風も、何処かで「空中分解」してしまったようです。歩く径々では紫陽花の花が雨待ち顔に咲き連なっています。
 先週には新聞(産経)のアクセスフレンドという若者向け(?)の詩とか漫画等の投稿欄があるのですが、そこに掲載された詩の投稿者の「曲を付けて下さい」の呼び掛けに、早速私が作ってデモテープをお送りしました。桐月さん、聴いていただけましたか?
「手のひら」というリズミカルな詩だったので、すぐに曲のイメージが出来上がりました。その年代年代で、のせる「手のひら」のものも変わっていきます。
 現在の私の手のひらには【私の母と、甥子(亡妹の子供)2人】があります。
いろんな意味で、頑張らねば!と思っています。
            2003.06.01 16:00
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5/30(金)   『2006年人類滅亡?』
5/29(木)のTV『アンビリバー「聖書の予言・2006年人類滅亡?」』、皆さん観ましたか?聖書に隠された暗号を解読すると<2006年><核戦争><人類滅亡>という文字が見付けられたそうです。2001年の9.11テロも暗号の中で予言されていました。<ヒトラー><ケネディ暗殺><阪神大震災>も。
 でも何故「暗号」だったのか?というその「暗号の鍵」がヨルダンの死海の底にあるらしく、これから探索を始めるとか。
 その暗号を解読したのは「コンピューター」だった。現在のコンピューター技術から未来を予測すれば、「人類は全てを得て、すべてを失う」と思えませんか?
幸いにも「予言」に遭遇出来たという事は、それを回避しえるという事です。
そして、考えられる事は、解読出来ない侭だったら、人類がコンピューターを「知らず」にいたら────人類は滅亡しない、という事だったのでは?
 ここまでの核兵器の拡散、化学物質の蔓延による地球環境の悪化、ヒトゲノム、ナノゲノムの凌駕を思えば、「2006年」滅亡説も、別段驚く事でもないような気がしますね。
 その「予言」を信じる、信じないに関わらず、この機会に皆さんも一度【もし3年後に自分が滅亡するとしたら?】と仮定して、生きてみたら如何でしょう?
きっと「得るもの」がある筈です─────

 私が自然界や音楽から受けた感動感によって綴った歌や、文章を改めて思い返してみると、例えば「誰のために・地球の未来に」、「地球は青かった」等、何故か「それ」への危機感ばかりを書いています。それは自分でも不思議です。結局、その為にその「感動感」が与えられたと、それ等を伝える事が私の任務、使命だったと今更に思います。
                           *

 その後のニュース番組で「2007年」より消費税が10%になる、というニュースに地球が滅亡してるがな、と甥子と笑い合いましたが、ほんとにその「2007年」に又、笑い合いたいものです。


5/8(木)      『無力感』
   
『言いたい ほうだい』書き込みしています

 ざざ降りの雨にいつもは自転車通学している甥子を今朝は車で送って行こうと外に出ると道路が冠水していました。此処寝屋川に住んでから8月で16年になりますが、昨夜からの雨にしてもこんな事は初めてで表通りに出る迄、まるで「バーチャル通り」を徐行で進みました。送って帰った時には雨も小降りなったせいか、嘘のようにきれいに干いていました。もっとひどい雨の時(台風下)でもこんな事はなかったのに、どこに原因があったのでしょうね。
 午後その甥子を迎えに再度学校へ、3時10分にという時間に着く心算が警察の検問に引っ掛かり「シートベルト着用違反」で1点切符をきられました。
たまに今迄も送り迎えした事があり、私がうっかり時間に行かなかった時など学校の公衆電話から催促の電話を掛けてきていましたが、もう公衆電話がなくなったからと今日は念を押されたのに────学校の門の前で甥子は待っていました。
「キップ」を見せて、すべて了解?
 しかし、思い出すのば去年の今頃4,5月と2ヵ月間、自転車事故で左腕骨折した甥子をこのように送り迎えした事。そして頂度その頃にこの車の上にスピーカーを取り付け、私の朗読や音楽を流しながら走り過ぎ去ったこの1年。
 ただ「走った」だけだったと無力感に苛まれます。でも実益には結び付かないけれど、こうして詩歌集夢現第3集「夢幻」等一連の詩や文章を書いたり、朗読、歌を作って唄ったり演奏したりしている、いまが本当の「
自分自身を生きている」気がしています。  この歳近くになって、やっと見出だせたものです。

 昨朝には仕事を見付ける為、又ホームヘルパーの登録をしてきました。
「趣味」が仕事に生かせればと思っていますが─────。
          2003年5月9日 3:27:59
                戻る


5/5(月)     
 
『マイポエム』『クラシック好き』『マイメードソング』更新しています。
        『端午の節句』
 世の中は「ゴールデンウィーク」ですが、社会に出ずにいる人間にとっては「コールディウィーク」の延長というだけのもので、甥子2人に「潮干狩り」でも行こか」と誘っても以前の様に「行く」とは言わず淋しいような、嬉しいと言えば嘘になるし複雑な気持ちで過ぎたこの数日でした。現在高校3年生、中学2年生の2人、振り返ればその頃の私といえば親と何処かへ行ったという記憶もないし、表現は適切ではないけれどこんなに「べったり」ではなかった様に思います。特に上の甥子は可愛くて未だに「ガンダム」好きで、ガールフレンド等眼中にない、いや正確に言えば「眼中に入れて貰えず」でしようか?私等「好きでもない」ボールフレンド位いたものです。

 たまに出掛ける母が、「子供の日やから」とお寿司を買ってきました。
昼ご飯を作る前だったので、それがタイミングのよい昼食になりました。
午後には昨日に私が買ったかしわ餅を食べて、「端午の節句」の由来が新聞に載っていた事を思い返し、季節の変わり目の健康を祈り、又いまある命を感謝する為の祝事であったと「ちょっと前の人間」に自分を置き換えて述懐した次第です。
「そのこと」を見失ってしまっているのが「現代人」。私達の世代はそのことを未だ「 化石」化してはいない。しかし、豊かさに慣れた世代には実感が伴わないから本の1ページの如くというより、テレビのワンシーンというところか。それ故、高いビルディングを見上げ、その雲と同じ高さに身を置いたとて「癒されない」と嘆くのがおちなのだろう。
          
『再度445のページ』
 容量が多いのでこれまでniftyとbiglobeと10MBづつの容量を使い2件にファイルを分けて送信していましたが、更新とかの手続きが二重になるし、不効率なので、niftyを解約し容量を増量して元々のbiglobeだけにしました。現在その作業中、結局この「ゴールデンウィーク」はそれにかかりっきりでそれでも未だ終わっていません。音楽、朗読関係をniftyの方に流していたので、それを外してbiglobeに流してもエラーメッセージばかり、画像のロールオバー効果も同じく。
これまでも「問題の多い」我がパソコンですが、送信エラー等初めてで困惑しています。この休み明けにはホームページソフトの会社に電話しようと思っていますが。
 ですから以前のようにはリンク先へ行かないかも知れませんが、暫くお待ち下さい。
         (2003.05.05 15:50)2003年5月7日 3:06:02


5/1(木)   「察知能力」            
  
【言いたい放題】【マイポエム】書き込みしています。   
   【アートコーナー】桜の「通り抜け」の写真等       
   追加しています。
                   
   
  意図するところあって本を買う気になる。近頃の書店には文芸本が少なくなったので「古本市」に行く。あるワあるワ、昔の本屋みたいに文芸本がどっさり。           
  若い頃の様に心ときめく。「60%引き」新書なみで?文庫本ばかり6冊買う。          
  それでも1500円にお釣りがあった。          
  夜その中の一冊
『みみずくの宙返り(五木寛之著)を読む。
   その数篇のエッセーの内の「泡のような無為の日々」に
【人間には不思議な能力が備わっている。例えば「気配」。(略)気持ちを集中してじっと背中をにらみつけていると、ときにふっとふり返る相手がいる……】                            ──── この第六感的察知能力。                             
  先日テレビで太平洋の孤島に生息する「木に登るペンギン」というのを観た。             空飛ぶ鳥だったペンギンの元祖の直系で現在3種類しか現存していないとか。             餌場の海から岩場、森の根の「ジャングル」を抜け4時間かけて森の空間のコロニーへ餌を運ぶ。其処はペンギン達の出産場所であり成育場所である。                
 「ジャングル」を歩ける様に親は子に教える。やがてひとり立ちしたペンギンは海に着いた。     が風が強く浪は荒い。その次の日も同じように、ペンギンは海に入らず
「気配」を窺っている。    やっと風の鎮まった日、ザブーンと初めての狩猟の為海の中へ潜っていきました。           
  最近線路内で遊んでいた幼児が電車にはねられ死亡したニュースがあったが、 「教えられ」又
「学習」という経験の中で危険度の判断力が身につく。しかしこのペンギンの場合の「気配」の窺いは「教えられたもの」ではなかった、何が危険度の判断させたのか?人間にはなくて、人間以外の動物にあるもの、しかし、これも第六感的察知能力でしょうか?           
                 2003年5月1日 23:26:36  戻る                           


4/11(金)〜<4/13〜4/18迄一拠掲載>
   『犬とこの道』
この欄の書込み暫く空いてしまいました。病気で寝込んでいた分でもありません。
日々変わりなくいつもの事を、いつものようにしていました。

    “辛夷散り 桜満開 新学年”
 この間、甥子達は新学年になり上は高校3年生、下は中学2年生になりました。
面白い事に今度クラスが6組になった下の甥子ですが、高校生の甥子が1年生の時は1組2年生の時が6組だったので、同じクラス名になっていってるのです。来年の中学3年の時は「5組やで」と今度の上の甥子のクラス名を先取りして笑い合いました。

    “亡き妹に 「甥子は高3 中2になったよ」”
 今年8月20日で私の妹が亡くなって丸10年になります。昔は10年一昔といったものですが、現在の「時」は経過というより「通過」と言えるように速い気がします。
ま、何事も過ぎてしまえば、あっという間ではありますが。
 今日の夕方、郵便局へ行く時犬のコスモスを連れて行き、その首輪の紐を引きながら、その途上にある保育所迄の往復路、甥子の雄樹と手を繋いで通った事を思い出していました。雄樹を保育所のクラスの部屋まで送り玄関を出ようとすると、雄樹が追い駆けて来て何故かいつも「指きりげんまん」手を振って、再度のお別れをしたものです………。

    “甥子と この手繋いで 保育所へ 
         この道 いまは 犬の紐引き”
こうして歩いていると、犬のコスモスが雄樹にだぶって見えてきます。

 マイペースでおっとり、ゆっくりだった甥子も、今はその面影なく負けず嫌い、上の甥子もやり込めるほどになりました。
 日々が写真のフィルムの様に一コマ一コマ、一日一日過ぎ去る如く巻かれているとしたら、雄樹との「この道」のフィルムは数千枚になる事でしょう。
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4/13(日) 『桜の通り抜け』 
 <クラシック好き!>BGM入れ替えました。

 「伯母ちゃん伯母ちゃん」と、あんなに私にベッタリだった下の甥子も、私が急遽「今日造幣局の通り抜けに行こ!」と言葉を投げ掛けると、「行かない」とつれない一言。
上の甥子は「俺は行く」と、可愛いではないか。
 この「通り抜け」に行ったのは平成8年が最後だから7年前、帰り路に「楽しかったー」言うとったのにと、下の甥子に言っても「憶えてない」、ほんまに憶えてない?

 「切れる」と言う言葉の如、現在の子供は我慢を知らないと言われます、結局親が子供に何でも与えられる豊かな時代となった事が又弊害を産んでいると言えるでしょう。
ですから、それも含めて「楽しみな期間」の持続の為「決めて」いることがある。    昼食時、上の甥子「出店が楽しみ、雄樹の買いたいゲームのソフトがあるかも」と下のに言っています。「欲しい物買うのは月に1個」と決めてるのに、今月始めにプラモデルを買った後ゲームソフト(中古)が買いたいと言っていた雄樹に駄目印を出したばかり。「伯母ちゃん、ゲームのソフト買ったら駄目?花見の記念に」と私に訊ねます。「今回
は<花見の記念>という事で、こうといてもええけど、使うのは来月でええか?」「いいよ」。それで雄樹も花見に行く事に決定。
3時前に家を出て着いたのは4時前、少し離れた所に車を駐める。
「その流れ」に着き、真っ先に目に付いた「フライ饅頭」の看板。「関東煮き」(おでん)等死語になっていく言葉が多い中で復活した?「フライ饅頭」(あんドーナッツ)。
だがその実物を見てみて、買う気はしなかった、色、形、匂い、「違う」………
其処を過ぎて、造幣局の方角の反対を歩き、天満橋上より川沿いの桜をバックに写真を撮る。この期間だけはこの辺り歩行者は一方通行の為、信号を渡って、又渡り元の通りに戻って今度こそ造幣局へ向かう。その途上の川沿いの桜は葉桜に囲まれるように花があるばかり。少し遅かったね。「伯母ちゃん、この出店にゲームソフト売ってると思う?」「さぁそんなん分からへん」と言いながら歩き川沿いの径から造幣局の方へ上がり、中へ入る。
    “ 「関山」の 今年の桜 「通り抜け」”

 やはり葉桜となり半枯れの花もある中「大手毬」「紅手毬」のまろやかな濃桃色が目を惹いた。そして真っ白の「白妙」も。
    “ 「白妙」の 白拍子つく 「紅手毬」 

 移壌された中、唯一ひと枝残ったので名付けられたという「幸福」、その残った命が数本この花の宴に幸福をふりまいていました。
 人間も同じ、戦争とかで生き残った一人が家族を増やして行くようなもんやなぁ、甥子に言うと「ウン」。かけがえのない命です。
    “ 生きている 桜のいのちも 「幸福」よ ”

 太平的風格「楊貴妃」の妖艶さ。
    ” 太平の 「楊貴妃」の 妖艶さ ”
 大陸的な枝っぷりと艶やかさには、ただ感嘆!

 「鬱金(うこん)の桜」                        
 黄緑色の桜花、語源そのままの一句です(?)
    ”金ぴかの 太陽 ブルーの うみ さくら”

 それと唯一の枝垂れ桜。
    “ 格倍の 枝垂れ桜の うつくしく ” 戻る

4/16(木 )『目も口も満腹』(「通り抜け」の続きです。)
 途中家で留守番の母の為「桜饅頭」を買い造幣局を通り抜けた後は、くるっとその逆方向の露店通りを歩き乍ら引っ返しました。
    “ 人だらけ 風 いき かえる 「通り抜け」”    (「夢現」より)
 それにしても次から次へよくもまぁ、これだけ人が集まるものだと思う位人だらけ。
嬉しい事に今時、薄いけれど1枚100円のお好み焼きがあり4枚(1枚は母用)買って休憩がてら、桜の花の下で3人地ベタリアンとなり食べました。時たま川沿いの桜の木の花びらが、

  “さくら 舞い 散るも 花 ゆき 花道や ”
の如、舞うように散っていきます。咲いても、散っても花道をゆく主役です。
そしてその花びらを、出番を待つ真下のつつじの葉が受け留めています。処々蕾をつけているつつじに混ざって、つつじの葉の真ん中に落ちた桜の花弁は、つつじの花芯の如く見えたりします。見上げていた憧れの美しい桜花を手にした、つつじの喜びが伝わるようです………。「伯母ちゃん、いつ迄此処にいてんの?」その言葉にほどなく立ち上がり、再びその露店並ぶ川沿いの径に歩を進めました。
昔リンゴ飴とかみかん飴は食べた事があるが、初めての串に3個差した形のぶどう飴を見付け、それを一本買い1個づつ3人で味見。で、味見だけでそこを離れ、たいこ饅(回転焼きともいうがその形からして、てんつくてんつくの、太鼓の形がきっと由来でしょう)を買い、それを歩き乍ら食べ「美味しかった」。
 目で桜を食べ、口で食物を食べ、もう「満腹」でした。
でも甥子達は買いたいプラモがなく、特に下の甥子は造幣局の中でもずっと不機嫌だったので、ほぼ帰り道に通じる所辺りで「なんか買いたい物見てくるか?」と私の言ったのが運のつき、時計を持っていないので大雑把乍らそれから小一時間「待ちぼうけ」。
「集合場所」に決めた其処を離れ、川沿い所に立つと川面には散った花弁が一棹の桜の木の如き紋様を描き乍ら流れていました。
   “ さくら 群れ 川面で出会う 花弁たち ” 戻る

4/18(金)『昼月から燈月』 (「通り抜け」の続きです。)
 それは、川沿いに別々に立つ桜木全ての花びらの「出会いの場」でもありました。
今日の此処に集っている桜見物の人達とも、言葉を交わす交わさないは別にして、生涯「袖触れ合う」事もなかったかも知れない出会いのように………。
でもその中で若しかしたら「生涯の人」との出会いをした人がいるかも知れません。
そんなもの想いに耽っていると、「選挙行ったか?」隣に立っている人の会話が飛び込んできます。選挙?忘れてた!急いでその場を離れました。
 思った通り「集合場所」に戻っても甥子達はいません。選挙何時迄やったかな、気もそぞろの待ぢぼうけ。又露店を見る気にもなれず、立っている場所から視線を伸ばした先では「焼肉屋」さんが大繁盛、野菜食べなアカンでと、心の中でおせっかいを焼きながら、もっと手前に視線を戻すと、2才位?の子が顔程ある棒付きの丸い飴を下から上へ舌を滑らせ舐めています。美味しい?あの年頃の子には最高に美味しい事でしょう、それにしても大きな飴で笑ってしまいます。赤ちゃんもいる若夫婦、一休みしている風でした。
やがて、その飴はどこかにしまったかして、お母さんが包装紙にくるまれた飴の袋をむいて自分と皆にも与えて、立ち上がりました。その時2才位の子が、きれいにむけてなかった袋の紙をポイと道路に捨てています。アカンわ、教えたらんとあの子、あのまま大きくなってしまう、言うか言うまいか?団欒に水を差す?そんな想いの交錯する中、あのお母さんはちゃんとゴミをしまっていたと、又「ポイ」した時も見ていなかった事を思い出し、「親の姿を見て」ちゃんと出来る子になるやろと、私の前を通り過ぎて行く「家族」を見遣りながら結論付けたのでした。

 ほどなく、空と同色だった昼の月がほんのり燈りを点し始めました。
それと同時に空の色は青く青く、まるで手品のように藍色に一変していました。
月も露店の灯りと変わらない位の燈明をその輪郭から放っています。
   
 “ 昼月が 燈明となりし 「通り抜け」 ”

“ ただひとつの  なればこそ 輝きぬ ”  (「夢幻」より)

 その月の点燈が合図のようにやっと下の甥子が此方に向かって進んで来るのが見える。「遅かったなぁ、何しとったん?カズは?」「兄ちゃんは一本80円の焼き鳥屋探す言って、途中で別れた。俺は穴にボールを入れるのやって、店の端から端迄見て来た」
ま、こういう所へ来たらそれしか楽しみもないわなぁと、待ちくたびれた気持ちを引き摺りながらも思っていると、上の甥子が例のおっとり様子で姿を現わした。
「今日選挙やったのに、何時迄開いてるんやろ?」「知らん」、そりゃーそうでしょう、甥子は未だ選挙権ないんやし、私がうっかりしてたのが悪いんやから………
3人揃った処ですぐ元来た道を歩く。が曲がる所を間違って、再度歩き直し、見覚えのある建物、私の車ミニカを見付け、出発進行!

    “ さくら ひと さいて ちるちる 「通り抜け」 ”    

 すべてのものがそうであるように、私達も「今日」をちりぢりに、
 通り抜けていきました。                     
             (2003.04.18 15:38)


4/2(水)  『花見』
【言いたい ほうだい】書き込みしています。

 
 “いったいに 人と桜わ 平和なり”

 「桜満開やった」犬のコスモスを公園に散歩に連れて行った上の甥子の言葉に、急遽私の母に「桜見に行こか?」と誘い、車で出掛けました。少し走った川沿いの辺りの一帯、去年は半分散った後でしたが、今年はいっぱいに拡げた扇のようにいまが見頃の満開で、今日の曇天の空の下、桜雨になる前の汀の生命が打ち寄せる波の如でした。
戦争下のイラク情勢を思えば、こうして桜見物出来る事の平和の得難さを一段と感じます。そして、民主国家の得難さも。バクダッドから避難させるのではなく「人間の楯」にし、逃げ出す国民を殺すイラク、フセインの独裁国家。自分の蒔いた種子が現在の惨状を招いたという責任を取らず、「自分」を護る為に国民に犠牲を強いる独裁者。
国民選出議員で運営される議会のある日本ではこんな事等あり得ないでしょう?

  
“花さえも 知らず散りゆく 人 イラク   
        おもえば いとし わが国 日本”

           2003年4月3日 2:41:34 戻る


3/30(日)  
『いっぱい咲く「私」

マイポエム書き込みしています。それからアートコーナー<写真パチリ>も追加掲載】
 
冬という季節を脱いだ、暖かい「春」の陽射し。
さながらそれは母鳥の胸の温みを思い出した小鳥の如くです。
 ベランダで洗濯物を干す真下、犬のコスモスは暖かい地面に
抱かれるように四肢を伸ばして、眠っています。
 そんな今日、新しい号bU0と過去の印刷分の在庫一掃?を兼ねて 「にゃこリンの夢現シリーズ」ペーパーマガジンを配布の為、車を走らせました。
道路沿い処々には桜の花がちらほら開き、賑わいの春のファンファーレを奏でていました。
門真の大池町、寝屋川の高宮栄町と今日は此れ迄に配った事がない所だと思います。
一人でも多くの人の目に留まり、ホームページへアクセスして頂ければ嬉しいですが。
 賑わいと言えば、春休みに入った甥子2人、土日とクラブのない下の甥子はエネルギーがあり余っているのかして話声の大きな事。閉口です。しかし、この休みの間は2人の甥子が食後の食器洗いをして呉れるので、私は「時間」を得した様な気持ちです。
 「なんで縞馬に模様があんの?」「虎と同じや、動物の視覚はモノクロやから保護色みたいなもんや」我が家の「虫博士」の上の甥子に聞けば答えてくれます。学者タイプかな?と今度高校3年生になるその先の進路を考えて思ったりします。仮に適格であったとしても大学には行かせてはやれないし………やるせないですね。
『そうや、人間以外の動物は<食べる事>だけ、色彩の<美しさ>は要がないように創られてるんや、
人間の美しいという「感動感」と「知性」は表裏一体。防波堤の為の美しさの感覚、色彩。こんな風に創られたって、不思議やろ?その事を人間は分からなアカンな』と詩歌集夢現第3集「夢幻」にも書いている事を甥子達に説法?しましたが、ちゃんと聞いてたか?
「人間はいつか死ぬ、死んだ後でも遺ってるものがある、それは何や?」
「霊(たましい)」と下の甥子。『そうやな、たましいというこころ、例えば譲り合う心、そうして貰った人はそれがきっと嬉しくて「心に遺る」、そして今度は同じ事を他の人にもするようになるかも知れない。一つの芽から増えていく花のように、
「私」がこの世に一杯咲いてゆく。それが自分が「存在」したと言う意味ある事ひとつ』
「お金儲けしてる人間にもピンからキリまである、金儲け出来る人間が立派な人間なんやないんやで、
自分の事より他人の為に「して上げられる」人間、それが立派な人間なんや」。私が親から聞けなかったこういう類いの言葉、心の基盤に置いてくれればと願っています。
2003年3月31日 2:55:50     


3/24(月)〜3/25(火)  『ひがんなり』
 
<夏の墓参時の写真>
22日は朝から曇天だったので墓参りを取り止め、結局お彼岸の最終日の昨日23日、甥子2人と共に行きました。走り出してから後の座席でうるさい位喋っていた2人も、下の甥子が眠ってしまって上の甥子も眠ってしまい「一人」で運転しているような京都迄の道中でした。

それでもいつもの様に車の上のスピーカーから私の歌や朗読を流し乍ら走り、道路の両側を見遣やれば落葉樹は新たな芽を居並べ、あと一段の春の陽を待ちわびている様でした。出てから約2時間後の3時半頃墓処に着きましたが、どの墓も供花が飾られたその中で、当家の墓は忘れられた影のようでした。直ぐにいつもの如く墓を洗った。正月に来た時には洗えなかった裏側に回ると、3基の墓の内、右端の五輪塔には昭和52年7月建立と父の13回忌の年と共に建立した母の名前が刻銘してある。この五輪塔は日高家の先祖代々が祀られている。真ん中の長方形の右側面には父の両親、兄、そして生存の母の名前だけは朱色で刻銘され、左側面には6人弟妹(きょうだい)中、一番上と下が残り、亡くなった真ん中4人の私の弟妹4人の名前が(甥子の母親も)刻銘されてある。結果的に日高家の私の父の血筋を繋いでゆくのは甥子2人だけとなった。一番下の妹は嫁いでいるが子供はいない。私の一回り下で、もう産む事はないだろう。女が4人もいたのに母系列の遺伝子「ミトコンドリア」(母系でしか継げない、これを辿れば同類のルーツに行き着くとか)を引き継ぐ者は私達で途絶える。父母という「結婚の形」を見てきたお蔭で、結婚というものには憧れよりも絶望しか持っていなかったが、若い頃「女の子」が欲しいと思っていた。それは無意識的なもので、自分が存在しなくなった後も「自分」が、この世のつづきを見届けてくれるという、願望だった様な気がする。でも既にそれは願望だけで終わるだろうという事も「知っていた」気がする。そして、実際そうなった。
現在は、そうなった事に安堵している。却って一粒の肉体もこの世に遺したくないと想う。甥子2人を育てて来たからだろうか?継がせるものは自分の身体の一部ではなく、「精神」を最も重視する様になったからかもしれない。が、現代の科学のお蔭で、「ミトコンドリア」の絶える事に、それは私だけの所為ではないと分かっていても、一抹の責任を感じる。その左端の墓は小さいお地蔵さん。墓の裏には生後すぐに亡くなったという父の妹の名前「日高ヨシ」が刻まれ、横に水子供養ともある。
父にはその妹への想いが強かったのか「ヨシ」とつく名前を私と、亡くなった下の弟に、又一番下の妹にも付ける心算だったようだが、母が名前呼ぶのに紛らわしいと反対して「おまえの名前でも付けとけ」父の一言で母の名前の一字が妹にはあてがわれた。
 母が墓屋の商魂に乗せられて3基も造った墓だが、大きな容れ物に墓が淋しがったのか、思えば私の弟妹達4人は、この墓を造ってから亡くなった。
   
“父が逝き 弟 妹 五人亡く   
      墓は狭きか  此方は 広し”

 家族中生きているのは3人、死んだ人間の方が増さってしまった。

 墓を洗った後は墓前に近況報告をし、住職の読経後墓参を終えました。
    
 “かくかくが 祈る一つの ひがんなり”
その後定番の如く清水の参拝道で八つ橋を買い、帰路の道を急いだのでした。
     
“墓参路  ただそれだけの 40キロ(q)”
                      
 2003年3月26日 0:58:06         
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3/21(金)   『とうとうイラク戦』
 
【俳句短歌おまけに川柳】書き込みしています。

 天気予報に反して快晴の今日は彼岸の中日でしたが、下の甥子のクラブがあり墓参りに行っていません。明日もあるようなので、天気が良ければ上の甥子と行こうかと思っています。そんなんで今日の昼間は【朗読】の録音をしていました。
 詩歌集夢現第3集「夢幻」の第3部「甥子」に掲載分を抜粋して昨日から取り掛かっています。今日は平成10年に行った「寝屋川まつり」を録音しましたが、聴き返してみてBGMの演奏(朗読しながら電子楽器を即興で弾いている)がもうひとつだったので、又やり直しです。

    “静穏日 テレビ点ければ 爆撃音”

 穏やかな春分の日、イラクではとうとう戦争が始まりました。
イラク国民の方達を思えば、気の毒でなりません。
国民を戦火に巻き込まない方法が唯一あったのに、フセインが退出しなかったばっかりに悲しむべき事態になってしまいました。「人間の楯」となるべくイラクへ入国したボランティアも自分達の意向は無視されて、フセイン側から発電所等一番「危険」そうな所へ行くよう「命令」され、結局出国したと新聞で見ましたが、「人命」をどう思っているかというフセインの一端が読み取れるようです。
 被害者が少なくすむよう短期戦で終わる事を祈るばかりです。

            2003年3月22日 3:51:43                 戻る


3/18(火)  
インディーズ応募

 
【言いたい 放題】書き込みしています。

 
「sankei indies」にオリジナル歌「誰のために・地球の未来に」のMDを送付しました。広報カーからやインターネット(マイメードソング)にも流しているので何度も録音していますが、又し直しました。この歌は去年の5月に創ってからテレビ局や、広告代理店等にもMDを送っているのですが、仲々取り上げて貰えず、でもこの歌はなんとか世の中に拡め、地球環境への関心に役立てればと思っていますので、これからも機会があれば色んな処に打診したく思っています。


3/16(日)     
『慣 れ』という塵
 
俳句短歌コーナー4句首書き込みしました。

その中の一首
 “裏返す ホットケーキと 新聞と とろ火でまつ間 埋めるじかん(字間)”
 久し振りに午後のおやつにホットケーキを焼きました。
熱したフライパンの裏側を濡れ布巾で冷まし、その後よく練ったホットケーキミックスを適量フライパンに落とした後、焦がさないように、とろ火でじっくり待たなければなりません。その時朝刊を見ていなかった事を思い出し、新聞を読み出すと時間の経過の速い事、ホットケーキを裏返しすぐに新聞もめくって裏返し、そうこうしている間に4人分の4個はあっという間に焼き終わり、続けてもう4個明日の朝食用に焼いておきました。
 でも(3時45分)粉を練り始めて焼き終わる迄所要時間は1時間15分でした。
 今日は「sankei indies」応募用のオリジナル曲の再録をしようと思っていたので、それから自分の部屋に上がり歌「誰のために・地球の未来に」(この歌はこのHP「マイメードソング」にも流していますが)の録音をしました。(結局応募曲はこれに決めました)
しかし歌詞を間違ったり等思うようにいかず、けれど6時も過ぎ夕食の準備をしなければならないので中断しました。明日へ持ち越しです。

 
鋭利であった感性を錆びさせる「慣れ」という、「時間」の塵。
「モーストリークラシック」という雑誌の「ASTIME」bP9『ラブアンドピース』山田美也子さんのエッセイを読んだ後、その隣のページに掲載されている「1994年遺棄されたルワンダ難民の子供」の写真を「チラッと見ただけ」で見過ごしてしまいそうになった。よく見ると3〜4才の赤い服を着た子供が岩の様な石の上で眠っている。
安らかに、本当に「安らかに」なったのだ、と想える写真────
 テレビで(そういう映像を)最初に観た時の衝撃、でも何度も観ている内に「無力感」と諦感が加わっただけの、結局「慣れ」となってしまう。「情報過多」の弊害、「慣れ」は怖ろしい。世の中見渡せば「慣れ」てしまった事は限りないだろう。
慣れは大敵、結果的には悪を容認する事になる。自身の「慣れ」を絶えずチェックしよう。    2003年3月17日 3:48:40
                          戻る   


3/14(金)     
『くじ運はなし』

 
先日梅田へ出た時に買ったグリーンジャンボ宝くじ5枚の内末等が1枚あっただけでした。結局1200円の損で、やはり買わなければ良かったと思っています。
つい先日も書いたように今迄使っていたステレオが壊れたと思っていたら、買って1年半位のデジカメもとうとう壊れてしまい、はなから宝くじが当たるなど信じた事の無かった私ですが、若し当たったらデシカメを買おうと思っていたので、残念です。

 【デビュー目指して】今週は「sankei indies」にオリジナル曲を応募するため以前に作った曲に少し手を加えて練習していました。今週中には郵送する心算だったのに仲々イメージが湧かず私としては不甲斐ない事です。これ迄作曲する場合は一つのテーマから次々イメージが頭の中に拡がり、イメージがイメージを呼ぶという感じでしょうか、それが当り前だっただけに、やはり最近は余りエレクトーンをしなくなったからでしょう時間が掛かりました。

 今日は上の甥子の高校の終業式でした。思えば去年4月1日エイプリフールの日に自転車事故(不意に急停輪した状態で倒れ、前輪はグニャと曲がりました)で始まった2年生でした。左腕をずっと固定していたので2ケ月余り教室まで私が鞄を持って送迎しました。
締め括りの極め付けは2月の修学旅行の風邪引きでしょう。
でもどちらも大難には至らず、元気で終業式を迎えられた事喜ばしい限りです。
 先生方には大変お世話になり有難う御座居ました。

 大難と言えば思い出した事、私がまだヨチヨチ歩きだった頃母が目を離した隙に当時住んでいた家の前の道路を一直線に歩いて行き、踏切りも越えて(身長が遮断機迄達していなかったでしょう)出た大通りの処で、頂度私が男の人に抱えられ車に乗せられる「その時に」私の家に手伝いに来ていた親戚の人が「そこに」遭遇し連れて帰ったそうです。
私は勿論そんな事憶えていませんが、彼処迄の距離大人の足でも10分位掛かります。
ましてや踏切りの「電車」にも遭遇せずよく「無事」で、親戚の人も一秒違わずによくそこに居合わせて呉れたと、思い出す度「護神」という言葉が口に上ります。
 あの頃というか、私の子供の頃は「子盗り」という言葉があって「はよ帰らんと子盗りに掠(さら)われるで」とよく親に言われたものです。
若し、あのまま車に乗せられていたら、サーカスにでも売られていたかも知れません。  
 それから、場所は違うがその「同じ通り」で(「夢幻」にも書いている)私が運転している車で、若しかしたら女学生を轢いていたかも知れない情況に遭遇した。
すぐ側にトラックが駐まっていて死角だった横断歩道、あの時横断旗があそこになく女学生の服がそれに引っ掛からなかったら、間違いなくあの女学生を轢いていた。
まだ免許を取って間もない20才位のときの事。その時にもしかしたら「神」というもの存在を、目には見えないものに感謝しました。
 本当に大難であったかも知れない状況は「突然の事」。
でもこの私の2つの例は、どちらも注意すれば(親が気を付けていたら、私が徐行していたら)その状況に迄は至らなかった事です。勿論それ以後私は、横断歩道近くでは徐行する様になりました。
 日々の生活、大難を招かぬよう気を付けたいものです。
                       2003年3月15日 3:35:36
          戻る


3/12(水)
    『お好み焼』 のこと
 
 ここ数日は本当に冬が又舞い戻った様な気候でしたが、今日の午後あたりの早春の柔らかな日差しに、我が家のコスモス(犬)も地面に身体を座着させ干し物する私を見上げていました。「コスモス暇そうやなぁ」と語りかけた後、そう「思う」のは「人間」やからかと思い直しましたが、実際犬の生活を思った場合、ああしてるのが普通で、ああいう風に生きるようにしか創られていないのですものね。「平和」な犬を見詰めながら、この世の創造物の中で「人間」は「失敗作」であったと、やはり思わざるを得ません。
 一週間に1度位シルバーカーを押して出掛ける私の母ですが、昨日は出掛けた後すぐ「えらい風や」と戻り、昼食後今日こそ本当に出掛けました。
 今(午後5時)帰ってきて「今日も風があって寒かった、寒いから息を止めて帰って来たから、あーしんどい」とコーヒーをひと飲みして一息ついています。
「息とめたらあかんがな、酸欠で死ぬで」と言いましたが「寒いから息を止めて」とは面白い人間でしょう?
 今日の昼食は久し振りに
「お好み焼」をしました。これど大阪の味。
キャベツを小さく切り、今日の具は生姜、竹輪、豚肉、小麦粉に卵を入れたのをベースにそれらを混ぜ合わせフライパンに落とせば「ジューッ」といい音!匂ってきましたか?  一番目に焼けたのを、次の分を焼きながら食べ(勿論立ったまま)ましたが、オイシカッタ!計4枚要るので結構時間が掛かります(急ぐと中が半煮えの事がある)。
 私が創った歌「ずっと大阪」(マイメードソングコーナーで流しています)の4番の歌詞に「たこ焼」を入れているのですが、本当は「お好み焼き」にしたかったが6文字になり4文字の「たこ焼」にした分です。 私の母はお嫁入りの時お好み焼きの鉄板を持ってきたという位の大のお好み焼きずき、お蔭で私の子供の頃も日曜日毎に食べたのではと思う位常時食でした。一枚の鉄板に4枚焼けたのを3枚位食べた様に思います。私弟妹計6人分、母も焼くのに忙しかったでしょうが、一ヶ所の鉄板のお好み焼きを食べながら焼いていたように思います。
「今日は何しょうか?」「お好み焼き!」、もしくは「カレー」ならばご機嫌な「われら」でした。その鉄板も福島区の家を引っ越す時捨ててきました。
でももっと大きな鉄板を見ることになります。次の家で母は「お好み焼屋」を始めたからです。でも立地条件の悪さと、人の好い母の「商売」、赤字だけでその家も処分するはめ
になり、又引っ越すことになったのですが────もう約19年前の事です。

 そんなんでお好み焼きには愛着があります。少し前迄「最後の晩餐」は「お好み焼」と決めていました。今は?食物ではなく「クラシック音楽」で充分。
                       (03/03/12 17:58)          
 買物に出掛けました、母の言う通り本当に冷たかったです。サンド豆等を買って、早速夕食にジャガイモと肉と竹輪、ゴボ天と煮込みました。それと、昨日残して置いた干し大根と、ほうれん草をタラコと和えて酢の物にしました。
ほぼ出来上がった頃、嫁いでいる妹から電話があり「今日御飯食べにいってもええ?」、もっとはよ電話掛けてきたらええのにと電話に出た甥子に言いながら「ええよ、言うとき」と答え、急遽皆のおかずをへずって一人分拵えました。
 「コスモス肥えたなぁ」玄関入るなり妹の第一声。運動不足やなと私。食後下の甥子がコスモスを散歩に連れて行きましたが、人間と同じように御飯をやっているのでエネルギー消費とカロリー摂取のバランスがとれていないのでしょう。
「旦那出張?」「ウン」大体そんな日に食事しにくるので聞くともなく聞き乍ら、今のイラク、北朝鮮の話になり、妹も日本は憲法改正せなアカンと私と同意見ですが、物騒にミサイル実験を繰り返す隣国を思えば、そういう声がもっと声高に上がってもいいのにと、国会議員の鈍感さ、無能さばかりが目に付きます。
 拉致被害者の家族の方々がアメリカへ行き北朝鮮の「拉致はテロ」との認識を得ましたが、普通の国家なら拉致被害者を取り戻す為、軍隊を繰り出すでしょう。
それが「普通の国家」です。
何事も「アメリカ追随」と言われずにする意味でも「自分の国は自分で護る」普通の国になれる様、憲法改正論議の涌出を願ってやみません。
                 2003年3月12日 23:32:00              戻る


3/8(土)      『教育の風穴』
 
遅がけの昼食を終えてテレビを観ているとNHK教育テレビの「課外授業」という番組で、(面白い一度聞いたら忘れられない名前の)「しりあがり寿」さん(漫画家)が母校を訪れた授業の中、母校の小学生に「自分の欠点と思う処を書きなさい」、次に「それを漫画にしなさい」と見本を見せて描かせていた。それを2クラスのクラス対抗とし、数人ずつの選抜の中から審査員(先生方)が優勝クラスを決めるという主旨だった。
 仲々ユニークと思ったのは「欠点をクローズアップ」させた事。それをテーマにした事によって小学6年生の児童達に「自分自身と向き合わせ」る機会を与えた。
そして、その
欠点は「劣等感」になったかも、なっているかも知れなかった子供達に、若しかしたらそれは「個性」なのかも知れないという、意識転換をもたらした様に見うけられた。絵が嫌いだった子も「楽しかった」という感想を述べていたが、これこそ「教育」の理想だろう。時々この番組を観るが、実際の教育の現場にもこの様な「ゲスト先生」を招く制度を取り入れて「風穴」を開けてみるのもいいのではと思う時がよくある。
 教育界の一考を願う。
                     *
 もう春かと思わせる様な日もあったのに、ここ数日はきつい風が吹いたり、粉雪が舞ったりと寒戻りで、まだ「春来たりなば、冬遠からじ」とはいかないようです。
 そんな気候の今日もその後、マフラーをして自転車で特価のコーヒーを買うため甥子と共にスーパーへ行きました。特価の時は「お一人様一本迄」という場合が大概なので2人連れ立って行ったのですが、今日は一人で幾らでも買えた日でした。その帰りそのスーパーの前にある「100円ショップ」で雑多な物(便箋、コスモスの首輪の大、電池等)を選び、その他に甥子が見付けたパソコン用の「100円ソフト」(ゲーム形式でキーボードの打ち込む速さを競うソフト)を買って帰りました。ゲームはするけれど、いまの子にしては珍しくパソコンは嫌いな甥子2人なのでパソコンに興味を持たせるのにもってこいと思った思惑どおり、夕食後は2人で交互に計1時間程やっていました。英語のスペル通りにキーボードを打ち込んでいましたが、日本語の意味が表示されていて英語の教材にでもなりそうなソフトです。
 結果は、どんぐりの背比べでしたが、上の甥子が学校の授業でパソコンに馴染んでいる分の「差」で、下の甥子に勝ったようです。              2003年3月9日 2:56:25


3/7(金)  
 あの時』

 詩歌集夢現第3集「夢幻」第2部『父・瓦解』の朗読の録音したら、やはり第2部「母・天の川途上」、第1部「約束された人生」、第3部「甥子」等もしておこうと昨日から取り掛かっています。第4部俳句短歌集の「夢幻歌」、第5部「マイメードソング(歌詞楽譜集」と全180ページでも上下2段に詰め込んでいますから、普通なら360頁相当分です。それを抜粋してCDに編集しようとするのですから、どれを「捨てる」かでこの「本」の第一印象が違ったものになるでしょう。
 この本を書いて以降開く事もなかったページを読み返していると、その頃の波打つ生命の動悸が蘇ります。「感動感」というものにもピンからキリまである。

                       
   
 

”弦が斬る 一刀両断 分水嶺”

平成9年7月8日、初めて前橋汀子さんの「スラブ舞曲」を聴いて詠句した時の感動感は、私の身体がミリミリドーッと割れる様な、今思い出してもどうしてあんな風になったのか不思議です。
あの年はヘールポップ彗星が地球に最接近した年でした。
若し地球に彗星がぶつかったら「あんな」感じでしょうか?
 あの以前も以降も素晴らしい音楽は沢山聴いて感動するけれど、耳だけでなく「身体」のあの「感覚」は、「あの時」だけ。
そしてあの年は第2部『父・瓦解』の中の「葬儀」でも触れてますが、私の母の上の叔父が6月25日に亡くなり、悲しくて哀しくて暫らくは涙が絶えませんでした。
いま想うとこういう事もその時の「感覚」に作用したであろうと思えます。
 ですから、
 
“悲しみが ある日突然 襲うよに 喜びにも また 見舞うる心”
という短歌も自然と出来上がりました。

 
 書いても、書かなくても、「あの時」はあったし、時は過ぎた。
  時が過ぎても、「あの時」があるのは、
  書いて、書いておいたから────

                   2003年3月8日 3:46:17
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3/5(水)  『山にならい』を
 ご覧頂いたかどうか3/1より『ROUDOKU(朗読)』コーナーに「山にならい」を流し、又『アートコーナー』にその「山にならい」の書画を掲載しています。
それから、
『味わう日本語』に「プラス駄じゃれコーナーを設けました。 
最低<一日一句>を目標に続けたく思っています。
『又445のページ』niftyトッブページにはBGMで私演奏のシューベルトの「セレナーデ」を流しています。(biglobeの方はリンク付けています)
 昨日今日は詩歌集夢現第3集「夢幻」第2部『父・瓦解』の朗読の録音の続きをしていました。これ迄も詩歌集夢現第3集「夢幻」のPRの為録音したのが5時間分はあるのですが、今回のでプラス2時間位になりそうです。
 折りにふれ『ROUDOKU(朗読)』コーナーで流したく思っています

        
 2003年3月6日 4:08:04          



3/3(月)
    『雛まつり』

 昨日の続きですが、例のステレオ結局は不要物に積んであるのはミキシングも出来、テープ部も使える筈だったので、今日綺麗に汚れを拭き取って2階の私の部屋へ持って上がりました。昼食後に再試動する積もりだったのに、前夜といっても寝たのが今朝の4時で7時に起き、食後の満腹感も手伝って炬燵で2時間程寝てしまい、その後夕食の買物に出掛け今日は出来ず仕舞いでした。

「雛祭り」の今日、我が家は女子と言えば私と81才の私の母だけ。
もし甥子2人のどちらかでも女子ならなんの躊躇いもなくお雛さまを買って、昔の私の「桃色の夢」の花を開かせた事でしょう。
それでも買物時に
桃の花を買い、お赤飯を炊いて、子供の頃のこの日何の「飾り付け」もされなかった心に、ほんのり明かりを点しました。
6人弟妹(きょうだい)でも、男2人で女が4人もいたのに家にはお雛さまが無かった。親の「子供への念い(おもい)」は良くも悪くも通ずるものだと、死んでしまった妹2人の事を思い出した次第です。

 期末試験中の上の甥子、今寝に行きましたが、連日この時間(午前1時)迄勉強しています。先程「あー解らへん」と言うので「何が?」と聞くと「遺伝子が」と言うので、「そりゃー産まれる「いぜん(以前)」の事やろから解らんわなぁ」と駄ジャレを言って息抜きさせたのですが、息抜きになったか、な?昨夜もテレビのクラシック番組N響アワーを観ていて作曲家シベリウスを思い出し、勉強している甥子に東北地方の人やったらズーズー弁で「シ」を「ス」と発音するから「スベリウス」。受験生の前で言うたらアカンでと言いながら可笑しくて、ひと笑いしました。 
    
2003年3月4日 2:43:50                戻る


3/2(日)  『ミキシング出来ない!』
 
2/22〜23日に掛けて私の詩歌集夢現第3集「夢幻」掲載第2部『父「瓦解」』の朗読の録音をしたのですが、翌日続きをしようとしたらミキシングの出来るそのステレオのテープデッキが動かない、Wカセットだったのだが大分前に片方は故障してしまい、唯一のもう一方も遂にダウン。(これでテープ録音したのをMDやCDにコピーしているのです)
 安物だけれど我が家にはステレオが1階の居間に2台(1台の方は元々1番下の私の妹が使っていたもう約20年程前の物で、CDではなく昔のレコードプレーヤーが付いている、Wカセットの両方も使えなくなりもう不用物といえる)と2階の私の部屋(この分が今回故障したのだが3年程前にCDデッキが故障している、その時にリサイクル店で買ったステレオも1年程前にやはりCDデッキが故障、現在不要物の中に積まれている)にある。それと持運び出来るMDとCDが聴けるプレーヤーが1台、普段は台所に置き炊事中に聴き、広報カーで朗読等を流す時にも使っている。
 居間の一方のは買って未だ1年経たないので「健在」だけれど、マイクのミキシング機能がない。AUX機能があるのでそれで試そうかと思っているのですが、録音状態は未知数、心もとないことです。
 先日梅田へ出た時、私にしては珍しく「宝くじ」(グリーンジャンボ)を買ったので、それが当たったらミキシングの出来るステレオを買いましょう。その時宝くじ5枚と一緒に1枚200円のストレッチというのを買ってその場で「こする」と、同じ数字が3個出て500円が当たりました。幸先良いでしょう?(笑)
 話は元に戻りますが、今回の朗読分は詩歌集夢現第3集「夢幻」のPR補足としてCDを作りどこか出版社へ「売り込もう」かと思ったりしています………
                 2003年3月3日 3:44:32



2/26(水)  
 『愛』について

 
今朝新聞を見ながらテレビに視線を移すと、桂南光さん司会の「痛快エブリディ」と言う番組で「愛」をテーマにゲストがディスカッションしていた。
「愛はお金で買えるか?」というテーマ討論になった時に、洗濯等の家事をする為その場から離れたが、今(4時20分)をパソコンで辞書検索すると【あい】の下に括弧して(感動)、「呼び掛けの返事」とありました。
そして『愛』とは肉親への愛、異性愛、物愛(物への執着)、浄愛、不浄愛、善愛、不善愛、と一部は此の世の人間の欲望の代名詞の如き記述がありましたが、私がずっと抱いていた「愛」という定義は、高尚なもの「キリスト教的なもの」=無償愛だった。
「不浄愛、不善愛」なる言葉は「愛」の項目に不適切である。欲望の伴わないのが「愛」。
『「祈り」それを「愛」という』である。
 「愛」という概念を語る時、その人間の人生経験の過歴が大いに作用する。     
その経験の中でしか「感じる」事が出来ない。
私のこのホームページ『クラシックが好き』コーナーに『あなたは「愛」』という私が作った歌の歌詞を掲載している。又『マイポエム』に『「祈り」それを「愛」という』詩を掲載しているのでご覧頂ければと思うが、それは「芯」の『真の「愛」』から生まれた「言葉の花」である。その時には「地球の土壌の芯」と自身が同化している。私が謳った詞は「地球の言葉」と思える。与えられた感動感によって、それは謳わずにはおれなかったものばかり。そして現在『「誰のために」・地球の未来に』を作って歌っている。(「マイメードソング」コーナーで流しています)

 築き上げた地球の歴史。2003年の現在、「20世紀」は「美しい人類」の最終章であったかも知れない。
 
地球の「青さ」を美しいと「感じる事」が出来るのは素晴らしいことなのだ。
そんな風に創られた「人間」。
 40億年、宇宙の起源を数えれば160億年、その厖大なる時間の積み重ねに依って誕生した
「美しい地球」。
 天分的才能(独創性の伴った)と、日々錬磨研鑽を積んだ人の芸術からは、より感動感を得る事が出来るという
、「美しさの定義」の中で生きてきた人間。
 しかし、人類が「地球外」に飛び出したように、いまや「定義外」にいる。
 自然破壊はおろかヒトゲノムの解析等により、人間が人間を網羅して行くであろう未来という「明日」。
 同番組の中でニュートンが2060年に地球は壊滅すると著していたと、産経新聞の記事を紹介していましたが、ここまでの科学の進展、又現在の不穏な世界情勢を見れば、 結果的に人類が派生した事こそ地球の「末期症状」と思え、成程と納得してしまいます。
 ただ、未だ「選択肢」は残されているでしょう。その為に宇宙飛行士に「稀有な水の惑星、青い地球は美しい!」と言わせているのです。
太陽からの「愛」の光のお蔭で地球上の生物の生命がある。
「人間」も、たかがそれだけのものだと言うことを、今一度思い知らなければならない。    
        ─────* ─────────────        
【言葉あそび】
「相」手と、出「会」い、「愛」し「合」い、やがて「愛」を失い、「哀」をしる。
                 *
 ひらがなの五十音順「あいうえお」も、「あい」から始まる。

【「あいうえお」「愛」あいは上(うえ)を行く。                  
「わいうえを」わい(私)は上を行く、で最後の「ん」となり、おわり。】

                   2003年2月27日 1:26:37                  戻る 



2/20(木)  『右利きの不思議』
 
昨日は就職派遣会社へ登録の為大阪市内の梅田迄出た帰り、その近くの電器量販店に寄りパソコンのプリンターを買いました。私が発行しているペーパーマガジン「にゃこリンの夢現シリーズ」はワープロで印刷し、又パソコンの文章を印刷する時もDOSフロッピーに保存すればワープロで印刷できたのでこれ迄強いてプリンターの必要性を感じなかったのですが、最近デジカメで撮った写真画像のワープロへの貼り付けが出来にくくなりこの際思い切った次第です、と言っても2万円を切る品物ですが………。
値段の割にCDーRにも印刷出来るというのが「決め手」でした。
 車の混雑に帰宅したのは6時半を回っていて、それからお米を洗って夕食の準備取り掛かり、食べ終えてから早速プリンターのセッティング。ケーブルを繋ぎソフトをインストールして、試し刷りOK。次いで「CDーR」の印刷案内の説明を見始め、画面上で文字入力や背景貼り込みを試したりしている内に、時間を見れば午前2時過ぎ、それからお風呂に入ったら湯槽の湯は水に近いぬるま湯(我が家は給湯器だけなので)、身体の流し湯にそれを使って減らして48度の熱湯を足しても「無駄遣い」で、湯槽から上がったあとシャワーで熱い湯を身体の隅々に掛けてやっと「風呂の有り難さ」を思い出しました。
 結局寝たのは4時頃で、そんな日のご多分に洩れず今日は「焦点の定まらぬ」一日でしたが、昼食後少し眠ったのが良かったかして、気分良快その後は買物に出掛け冷蔵庫を「満腹」にしてやりました。
 寒戻りのような今日、夕食は買ったばかりの白菜や鶏肉を入れて「お鍋」、支度をしながら『白菜くんは99才やのに、なんでそんなに潤いの「水分」を持ってるの?』などと(この意味分かりますか?)「愚」グー(お腹が余計に空いてきた?)な事を言いながら包丁を走らせていると、掛けているMDからスメタナの「我が祖国」が流れてきて、思わず【日本人 持っているか 我が祖国】、以前詠句したのを思い出した。
 国を愛するという事は、住んでいるこの土地、育った所、家族、それは自分を愛する(自己愛ではない)事が出来ると言うことであると、冬の大根の白さを強く刻んだのでした。食事準備中の1時間〜1時間半の間、又その後の食後の洗い物の時の「心の内」をご紹介すれば、以前私のメモ帳の雑記帳(10×8p)に書いた事の続きを思いついたりする事も暫々(しばしば)。
 我が家には台所に湯沸器がないので寒中はゴム手袋をするが、右手の方が破れてしまい左手だけにはめ左手を重点的に動かし乍ら食器を洗っていると習慣性がないので洗いにくい、その時に何故「右利き」が多いかという事の原因を確信した。          
それは、
最初に「動かした」のが右足、右手であるからであると。
 その最初に動かした右手を使っている事が習慣性となり、その「遺伝子」を皆引き継いでいる。
例外的に左利きになったのは、右手が怪我か何かのアクシゼントがあり、左手しか使えない情況下に置かれ「左利き」になった。同じ様にそれも遺伝子に引き継がれる場合がある。
 私の父は「左利き」の要素が多かった。その「遺伝子」は私の亡弟に顕著に引き継がれていた。
私もその部分がある。「臭い」話になるがトイレで用を足した後の清拭の紙を持つ手は左手である。何事も自分が基準になるので、皆もそうかと思っていたが、甥子が小さい頃の「それ」を見た時に右手だったので、念の為他のものにも聞いてみると皆「右手」であった。
 インドの習慣は食事作法も日本と違って箸の様な道具を使わず右手で掴んで食べるという事から、「口に入れる聖なる手」と区別したのだろう、「不浄なものの手」としてトイレは「左手」と分けているのをテレビで観たことがある。
 その時に私というルーツに若しかしたらインド人がいたのかなぁと、グローバルな想像を楽しんだ。

 どちらにしても人間に培われた習慣性の元を辿ると、地球、宇宙の原理性を識る。
それは地球の自転と関係あるだろう。「作用」と「反作用」、(強風が左に吹けば、体を右側に傾けてバランスをとろうとするように)(「無意識」下の動作)その理の中で「生きもの」は出来上がったし、
人間も生きている。

 犬の「コスモス」の排泄物の処理をしながら、犬は何でも出来へん言う事は、せんでええ(しなくてよい)と言う事なんやなぁ。人間は出来る事が多すぎる、せんでええ事の方が多いかも知れん。
「人間として生まれた事の意味」。
 その見極めを忘れん様に、心の眼を曇らさんようにせんとなぁ。


 今夜は早く寝ようと思っていたのに現在日付も変わった3時30分、今日はこの辺で。
                
2003年2月21日 3:55:32                  戻る    



2/18(火)  
『リンクのお知らせ』

 『クラシック好き』のページに目次を設けリンクを貼りました。
少しは検索しやすくなったのではないでしょうか?
又、
『マイメードソング&MUSIC』も私の歌で「誰のために」に加え
「一瞬の」「ずっと大阪」
も流しています。
 
 これらの歌は勿論、他の歌もプロの歌手宛商品化して貰いたくて
テープやMDを送付したりして来たのですが、今まで一切返答なし。
自分としては自信作ばかりなので、残念です。
 
 何故か分からないけれど、たまに自分の歌が若しかしたら、とっくに
世間に流通しているのではと思う時がある。
しかし、それならばテレビ、ラジオ等から自身の目や耳に触れない事は
ないだろうから、やはり「願望念」がそう思わせるのだろうと想う。

「夢幻」の本の自家発行、そのPRの為「にゃこリン夢現シリーズ」ペーパーメールマガジンの発行、
配布、壁掛製作、そして去年(平成14年3月)から広報「カー」によるPR活動。
 何をしても空回りで、これからの情況を考えれば、気持ちは落ち込むばかり。
とにかく仕事を探さねば、甥子達が居なければとっくに、私の芯棒は折れている。
そのために、頑張らねば
。 
    2003年2月18日 2:52:19



2/16(日)  『新コーナー』
 『アートコーナ』に新たに猫のにゃこリンの「4ショット」及び「スライドショーを、又犬の「コスモス」のスライドショーも少し入れ替え掲載しています。
ここ大阪は今日一日中雨でした。夕方前の先程、少しの晴れ間、上の甥子に連れられて犬のコスモスは散歩に出掛ける事ができ、少しはストレスの発散になったでしょう。この家に来た頃生後2カ月でしたが、暫くほとんど泣かなくて「この犬泣かへんのと違うか?」、「しやから呉れはったんと違うか」(元飼主さんすいません)と言っていたのが嘘のよう、私の家の通りはどんつきなので人の行き来がほぼ決まっている、だから部外者が来ると『ワンワン』とうるさい位最近はよく泣く。我が家に来てからコスモスもやがて、半年になります。



2/14(金)
   『幸福の感性』

 今日は昼からパソコンでCDを作りました。これまでに録音した私オリジナルの歌や、「にゃこリンの夢現シリーズ」ペーパーマガジン又詩歌集夢現第3集「夢幻」に掲載分の朗読を60分程に編集し直したのです。
 タイトルは『地球の未来に』、このHPの『マイメードソング』に流している「誰のためにという歌や他「赤とんぼ」「シャボン玉」「自己責任」「山にならい」等の朗読ですが、全部で12曲しか入れる事ができませんでした。
 これらは私の広報カーから流していたものばかりですが、どれだけ一般の人の耳に届いた事でしょう?
『この手にはのらないけれど、手にすることが出来るものがあるのに………、この手に乗るそんなちっぽけなものではないものを乗せる、この手を持っているのに………
「心」のこの手────このゆくて』
(赤とんぼより) 
 現在の地球環境汚染が呈している現状の如く、情報も含めた「文明」の毒に気付き、各自が「人間の原点」に立ち還るべく「自然界の秩序」に思惟し、改めて地球という「生命体」の生命の循環の中での人間の役割、「在るべき姿」を見つめ直して欲しい、それが人間与えられた
「幸福の感性」であると思うのです。

 今回分のは2/14甥子の高校のPTA総会があったのですが、この1年PTAの委員をやってきた中でお世話になった委員長にお礼旁進呈する為に作りました。
委員長をはじめ委員の方々には、この1年なにかとお世話になり有難うございました。
   
          
”お赤飯 バレンタインデー ハート型”
「バレンタインデー」だったこの日、夕食はお赤飯を炊いてハート型に盛り付け、私からはハート型のチョコレート、私の母から普通のでしたが、甥子2人に「愛をこめて」プレゼント。チョコレート業界の商魂の賜の「バレンタインデー」ですが、一般的に貰える人と貰えない人がいて、男性の立場になれば悲喜、明暗が際立つ日と言えるでしょうね。
 私達が食べる用に買ったチョコレートは、たまたま特価品だった森永の板チョコ、明治製菓とこの森永の板チョコは私が子供の時からあったもので、手にする度「懐かしくて」嬉しい、「変わらないこと」が。自身はもとより、何もかもが変わって行く中で「変わらぬもの」を見付けるという事は、それだけでも嬉しいのに、あの「美味しかった」子供の頃の「私」という実在と、現在の私とを重ね合わせ2重の味わいをもてるという事です。何にでも言える事ですが「子供の頃」に食べたチョコレートは、最高においしかった!
 今日は赤飯を炊く時に塩を入れるのを忘れ、食べる時に胡麻塩を振ったのですが、下の甥子はおかずはそのままで真っ先に赤飯だけを食べてしまい「美味しかったから」と嬉しい事を言ってくれました。「塩」というのは大事で、これを掛ける、掛けないの差は歴然としています。
 私の子供の頃は誕生日にしか赤飯は食べなかったけれど、「餅米」を混ぜずに炊いた赤飯は不味くて(塩味もなかった)又、「鯛」という魚も骨が多くて、誕生祝いが少しも嬉しくなかった事が思い出されます。
 それにしても「人間」の味覚というものを最初に目覚めさせたのは「塩」だったのではないかと、その「きっかけ」は何だったのかと、今ふと思っています。
 皆さんはどう思われますか?    2003年2月15日 7:02:04                  戻る           


2/11(火)  『春「一」輪』
今。朝の5時51分まだ昨夜から寝ていません。12時頃から『マイポエム』
『甥子』のページを編集(にゃこりん夢現シリーズから移動)していて、こんな
時間になってしまいました。
 寒の緩んだ昨日は久し振りに広報カーから私の歌や朗読を流しながらペーマガを配りに行きました。途上なんという木か分かりませんが、針のように尖った枝先を持っていた木が、その通り一帯にかけてその針先の部分を切られていました。冬場その木を見るとハリネズミみたいで痛そうやなと
思いつつ、何故その枝先を持つ様になったのかその個性に興味津々だったのに、切られたのを見ると怒りの方が込み上げてきました。桜の木などの枝先の切られたのもたまに見掛けますが
堪りませんね。枝先を切られた桜はもう2度と花をつけません。
 私の近所にもそんな木があって、毎年その姿を見る度に悲しくなります。
桜は枝を大きく伸ばし艶やかに咲く、その部分が道路に突き出て邪魔になるからでしょうか?
そんな目に遇わすくらいなら『木ごと全部葬りなさい!』と言いたくなります。
 今日の『ハリネズミ』の木は、そんなに枝先も拡げないのになんでチョン切られたのでしょう?
 
 撒く所を物色しつつ車を走らせながら結局枚方の茄子作界隈を配りました。
 一軒の玄関先で紅梅の咲いているのを見つけ、未だ冬の心に
春「一」輪を活けて帰りました
2003年2月11日 7:14:04


 2/9(日)  『新コーナー』のこと
 結局昨夜は、といっても日付は変わって朝の5時頃就寝(炬燵で)。
今日も遅掛けの昼御飯を食べ終えてから又、昨日の続き。
445のトップページの「インパクトニュース」を「言いたい 放題」に合体させ(どちらに書いてもいい事なので)その空いた箇所に新たに「アートコーナー」を設け、写真のスライドショーや、マイアート作品を掲載するようにしました。
 夕方サーバーに流そうとダイヤルアップするとnifty、biglobeどちらにも繋がらず、夕食後の夜何故か「直って」送信出来ました。
 ほんと、やりにくいですわ
              戻る
───────────────────────
2/8(土)
 
昨夜風邪薬を飲んで寝てから昼になっても上の甥子は起きてこず、寝床でココアを飲ませました。夕方迄ぐっすり寝、体温を計ると36度5分「熱がないのになんでフラフラするんやろ?」と言うので「そりゃ何も食べてないからや」と答えましたが、それから「昼食」を食べ、すぐ2時間後に夕食(御飯はいつもより少なめ)も食べ切りました。
 まだ本調子ではないようですが明日一日ゆっくり休養すればスッキリするのではと思います。
 現在ホームページ『445のページ』をbiglobeとniftyに同じ物を掲載しているのですが無駄を省く為niftyからbiglobeへ各ファイルをリンクさせるようと思い立ち、その作業に今日は掛り切りでした。夕方それで一旦niftyに送信しWeb上で確認したのに再度アクセスしてみると、トップ画面の画像ファイルが全部剥がれて×になってしまって、又その画像の埋め込み、不要ファイルの削除をしました。
8.5MBのファイルをトップフォルダだけの253KBに減らしたのですから大変でした。一層の事トップフォルダだけを新規にし直せば良かったと、今思っています。

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2/7(金)   『北方領土の日』
 
「今日2/7は北方領土の日」です。『言いたい 放題』に書き込みしています。 
今週に入って日曜から水曜迄、夜の睡眠の平均3時間が4日間続くと、流石に生身の人間の身体です昨日はダウンでした。風邪こそ引かないけれど朝甥子の弁当を作った後は炬燵で寝て、犬の「コスモス」を散歩に連れて行き、洗濯を干した後又寝て、昼食後も又寝てその後買物に出掛け再度「コスモス」を散歩に連れて行き、その後僅かな時間に「朗読」の録音、それから夕食の準備、食後も新聞の朝刊夕刊を読んだ後はテレビを見ながらやはり炬燵で寝てしまいました。
 原因は今年から私のホームページの項目を増やしそれへの書き込みサーバーに送信とそれに尽きます。ですから、ほぼ毎日更新を座標にしていますが、一日おき位になるかもしれません。
 今年になってからは家の掃除も一日置きにしても、こんな具合です。
(こんな事をしたからと言って何の足しになる分ではありませんが………)

 下の甥子昨日は気分が良くなったとクラブをして帰校後は、体調優れないかして直ぐ就寝、氷枕、投薬しましたが夕食も食べず寝てしまいました。今朝もクラブは休ませ、「しんどかったら早退しーや」と言い聞かせて登校させました。

 上の甥子は今日修学旅行から帰ってきますが、朝8時過ぎ先生から熱も37.5度位に落ち着き、食事も摂っているので伊丹への出迎えに及ばないとの電話を頂きました。
ひと安心乍らも顔を見る迄は、心安からずというところです。

 今朝は下の甥子の弁当は昨夜食べなかったのを入れたのをうっかりして、さていつもの様に私と母の昼食を食べようと味噌汁を作り終え御飯をよそった迄はいいのですが、おかずがない、急遽玉子焼きと大根下ろしで食べ終えました。でも作り立てを食べるのは美味しかったです。

 夕食の準備をしている時に本人からと先生から、8時15分頃着きますのでと電話がありその時間に間に合うように学校へ行くと、頂度私の車の3台前の観光バスが甥子の高校へ入っていきました。グッドタイミング────順にバスから降りてくる生徒、そして甥
子がニョキと目の前に、安心したー元気そうで!
 
先生方にはお世話お掛けし本当に有難う御座居ました。

 車の中で開口一番「行かんかったら良かった?」「ううん行って良かった」。
今回の場合「行って後悔するか」「行かずに後悔するか」の選択しかなかった分で、本人の意思に任せたとはいえ「行って後悔していないか」とそればかり気掛かりだったので、その言葉に胸の重りがストンと除ける想いでした。
 全行程皆と同じようには行動出来なかったけれど、それでも札幌の「雪まつり」や水族館で「クリオネ」も見たそうで、良かったネ。
 犬の「コスモス」も甥子が玄関に入ると跳んで甘えて大喜び。
下の甥子もなにか俄に元気になったようです。
 人間ひとりの存在の大きさ、それだから「人間」って素晴らしいのかもしれません。
                     (am1:30)2003年2月8日 2:25:12
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2/5(水)   『甥子の風邪』
 
昨日はこれで何度目かというパソコンのリカバリ(振り出し)をして夕食までの午後の時間はそれに掛かりきりでした。フリーメールを含めて3つ持っている受信メールボックスの最後の一つも開かなくなり、致し方なく実行した次第。パソコンのウィルスには本当に悩まされます。最近はバック保存しておいたCDーRのファイルも「削除」されてしまっています。いい加減にしろ!

 夜8時半頃甥子は今病院にいると先生から電話が入りました。
38.8度の熱があり検査をしているとの事。皆さんにご迷惑掛けて本当に申し訳ないことです。近ければ飛んでいくのですが、なにせ北海道………
 11時半、病院から宿舎のホテルへ今帰ったと先生からお電話頂きました。
病院の診断は「インフルエンザの疑いがある」とのこと。明日は皆とは別行動で移動してホテルで安静に過ごすようです。先生にはお世話頂き有難うございます。
明後日伊丹空港に迎えに行くからね、カズちゃん。

 風邪と言えば下の甥子も昨日今日と37.9度の熱で、学校へは行っていますがクラブは休み下校後はすぐに寝ています。今日も登校時「しんどかったら早引きしといで」と言っていたのですが、学校に居る時は気が張っているのでしょう「しんどくなかった」ようです。今夕食は野菜と卵を入れたおかゆとリンゴの牛乳甘煮を食べさせ、氷枕をして寝ました。我が家は年寄りより若い者が先に風邪に負けて、しかし若いんやから回復もきっと早い、絶対。
2003年2月6日 3:14



2/4(火)
   『甥子 修学旅行』

メールボックスをフリーメールも入れて3つもっているのに
どれも開ける事が出来なくなり、今日又パソコンをリカバリ(振り出し)に
戻しました。午後2時半からやりはじめ終わったのが4時間後の6時半でした。
これを流すのも遅くなってしまいました。2003年2月4日 23:58:40

 
 “甥子は 修学旅行へ 今日「立春」”

 
昨夜氷枕をして就寝した上の甥子、4時半頃未だ気分がすぐれない、温かいものが飲みたいというので「しょうが湯」に生姜を擦ってレモンと砂糖を入れて飲ませました。
 5時半過ぎ起しにいくと「行ける」と万全ではないながらも決心したようで、着替え始めました。
      “北海道へ 甥子のリュック カイロ足す”
 その間私は何度も荷物のチェックをし、「沢山着たから大丈夫」の甥子の言葉にホッ。6時15分頃家を出て私の車で学校まで送って行きましたが、明けそめぬ空が、送って帰る30分の間に段速に変化していく姿は、鮮やかな「時の七変化」でした。
 今頃は昼食を摂り、北海道開拓民族館(アイヌ民族等の)へ向かうところでしょうか?今日の日程はその後、札幌の雪祭りへ行くようです。
「寒ない?カズちゃん」私の心も北海道です。
   (pm13:20)
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───────────────────────
2/3(月)   「節分夜」
 明日が修学旅行の上の甥子は帰校後昼食を食べてから「ちょっと寝とく」と、夕食時迄寝ていました。夕食は今日が節分であるので家族全員、巻寿司を丸かぶりし、イワシを食べ改めてこの1年の無病息災を祈った次第です。上の甥子は食事を全部食べたものの気分が優れないのか「もう寝る」といってベッドに入り、測熱すると37.7度でした。風邪薬を服み氷枕をして寝ましたが、なんとか明日には全快するよう祈るばかりです。   そういえば下の甥子も風邪気味かして、いつもより早めに就寝しました。そんなんで今年は「鬼は外」はやらず仕舞いで、甥子が寝た後、私は数え年分の57個の節分豆を、私の母は82個をそれぞれ食べましたが、甥子2人が寝てしまうと、何かひっそりと淋しい「節分夜」でした。
      “節分夜 風邪の鬼が いすわりて”
      “節分夜 風邪の鬼を 「鬼は外」”



2/2()  『昭和39年の修学旅行』

 これを送信後、炬燵でうとうとして自分の部屋に上がって寝たのが7時、頂度上の甥子が起きてきたのと入れ違いでした。で、起きたのが昼それから神棚、仏壇等の花の水を換え、お茶を沸かし仏壇に供え、洗濯機を回しと忙しいこと。
 昼御飯の下拵えしてから、洗濯物を干し、昼食を作り、結局昼食は2時過ぎになりました。途中からだが2時からの「ザ・スクープ」というTV番組を観ながら食事をしていたが警察、検察機構への不信感が倍増した。このHPの「言いたい、放題」にも書く積もりですが警察が「捏造」という「犯罪」を犯しているのですよ。
それが終わってから掃除をして、その後は上の甥子の修学旅行用の衣服等の足らない分を買いに行きました。もう明後日出発です。「♪2度と返らぬ思い出乗せて………♪」私が高校生の時に流行った「修学旅行」という歌ですが、同じような連続性の日々でも、一日として同じ日がない。そして同じ「日」ではない「修学旅行」も2度と経験できない。
「思い出」は一生つきまとう。結局人間は「思い出」の為ににしか生きていない。
それしか遺らないもの。楽しく、楽しく、いい思い出をいっぱい─────     
 そして、「旅の恥は掻き捨て」ではなく、その反対を「旅で誉れを寝屋川市民」の精神で。簡単なこと、挨拶が出来て、人に迷惑を掛けない、ゴミをそこらに捨てない。
そこの人達は、「森」を大阪寝屋川を知らないのだから「木」を見て「森」を見る。
これは国民として生きていくうえの基本だけれど。
若し、海外へ行ったらその「個人」が「国」の代表の様なものだから

 いまの子は恵まれていて甥子達もアメリカの9.11テロがなかったら、マレーシアに修学旅行の筈だったけれど、その後に急遽変更になり、それでも北海道に行きます。

 私の時は東京。中学も東京だったので何か損をしたような気持ちです。
でも日光東照宮には行きました。その頃は今程美術に興味はなかったけれど、その調度装飾等の密度の濃さに建物空間が狭く感じられました。もう一度行ってみたいですね。
華厳の滝へも行ったのですが、その年(昭和39年)は水が涸れていて残念でした。

 
電車の中で居眠っておられる先生の写真をお渡ししたら苦笑いされて受け取られましたが、柳原先生もご健在でしょうか?3学年途中で体調を崩されてそれ以後は、そうそう、高校卒業後に級友が先生のお宅に伺ったと、その時にお元気そうな事と「日高はどうしてる?」と気に掛けてくださっていた事を聞きましたが、先生の方こそ現在如何お過ごしでしょう?
けっして大声を上げて叱る先生ではなく、静かに諭すように話される先生でした。
私は風紀違反ばかりしていて、先生にはご迷惑御苦労をお掛けし、いま思えば恥ずかしい限りです。
 もう3時になるので今日はこの辺で。 (am3:)
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2/1(土)  
「見栄えはいいけど空疎

 
明日は甥子達の学校も休み、そう思う日の就寝はどうしても遅くなり、毎度の前例に違わず夜眠りに就いたのは今朝の3時過ぎ。テレビ「金曜フォーラム・美術館について」(城戸真理子さんの「芸術は楽しくなくては」「無名画家の為の美術館を」という言葉が印象的でした)を見ながら百人一首のカルタ用の型紙50枚(前半五十首は以前に買ってあるので)を作って切り取り、お風呂に入り夕刊を読み、それからそのカルタに百人一首の五十一首目から百首迄の後句部分を筆で書き始めものだから無理からぬこと。
 前半五十首は下の甥子用に、いまから13年程前に絵付きのを買い、当時2才位の甥子、上の甥子も一緒にその50首でよくカルタ取りをしました。当時絵札(17p×12p四方)を10枚づつをテーブルに並べてやり始め、次に20枚、30枚と増やしていきました。私が曲を付けてやると甥子も直ぐに憶えたものです。
 テーブルに並べられなくなった頃から普通の字札にし、毎日或いは2日に1回、いつからか1週間に1回になり、現在は何ケ月に1回するかです。

 この2/5に下の甥子の中学校でカルタ大会があるので、冬休みは毎日51首目から
1日四首づつ憶える事を「私からの宿題」としてやらせました。(クリアしなかったらゲームは出来ないという条件付にして)
 さてカルタも出来上がった事だし、今夜あたりお手並み拝見という処です。
 夕食後のそのかるた取りは、テーブルに並べられる五十首づつをしましたが、前後半とも下の甥子の勝ちでした。罰則はテーブルに拡げた下の甥子の右手の甲の上に、負けた上の甥子が右手を重ね、そこへ私が鉄拳を落ろすというもの。3回手を引いたら違反で固定されるという取り決めだったせいか一度も引かず、上の甥子にまともに「パチン!」でした。このカルタ取りをやっていても2人の性格がよく分かります。
上はおっとり他の事に気をとられたりしながら、その点下の甥子は何が何でも勝つという負けん気が強い。どちらの部分も長所、短所になりえます。

 今日がテレビ開局50周年というNHKの特集番組があり、昔懐かしい人形劇が幾つかスポットで流れていましたが、私は「チロリン村とクルミの木」世代です。
私が子供の頃、テレビももっと小さく勿論白黒テレビで、放映局は他に朝日放送、それから読売テレビの放映が始まったのを憶えています。
 チキンラーメンのCMを観て、欲しかったけれどその頃は高くて、たまに買ってくれた時(その頃のチキンラーメンは長方形で真ん中に窪み線があり2つに割れやすくなっていた)1個を半分づつして食べた。美味しかったなぁ。現在たまに食べる味とは全然違う。あの味は克明に憶えてる。少々高かってもええから
「チキンラーメン復刻版」て出しませんか?NHKやないけど、何周年記念とかの節目の時にでも臨時発売で。
あの味が、食べたい!
 しかし、人間の味覚の感覚って45年経っても、健在ですわ。

 食物といえば近頃の野菜、蓮根、ごぼう、小芋等昔に比べたら味が落ちました。家業が八百屋だったので否応なく野菜を毎日のように食べていたけれど、子供の頃はどれも美味しいとは思わなかった。が現在食べる野菜より繊維がもっときめ細かく、蓮根も糸を引き、ごぼうももっとしゃきしゃきしていて、小芋ももっと粘っけがあって「現在」と比べれば美味しかったと想う。10年前位には未だ糸引き蓮根もあったような気がするけれど………。
「見栄えはいいけど空疎」、現在のあらゆる物の特長ですが。
それは選ぶ方(客)が招いた結果でもあるでしょう。
昔のあの味が、食べたい!

 今日のテレビ開局50周年というNHKの特集番組の中の「新日本紀行」の再映を観ていて、その地方地域に特色があり、それこそその地方の顔であり、歴史であると思う。
テレビから始まった情報革命は皮肉な事に、全国画一化を促進させた。
 でもこれも観る方の問題であるのだが────。  (am3:50)
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1/30(木)
   『人間の存在意義』

 NHK教育テレビの月曜日「人間講座・宇宙から観る地球」(今回で最終回でした)の中での、講師松本氏の「人間(自分)」というものの捉え方が印象に残った。
 文明というものがもたらした消費の「速さ」(輸送、伝達手段の向上)と比例する地球上の鉱物質の激減。
『「自分」という持物など何も無い。この身体の臓器さえも借物である。これらは自分が拵えた物ではないから』。人間が地球を出て、宇宙から地球を俯瞰する如く、人間という「自分」を離脱させたような言葉。
『宇宙と地球を相関して思考出来る、それが現代に生きている「自分」という人間の存在意義である』。まさに科学と無縁な江戸時代以前を思い起こせば、星や宇宙の概念等「無」かっただろう。又その時代の人間にはそれは必要なかった。歩く道の距離こそ「宇宙的」だったに違いないから。
 『人間はどこから来て、どこへいくのか』この番組のメインテーマだったが、宇宙の生誕は140億年前とか。しかし、それは現代の「科学の限界」の数字であると思う。
以前はビックバンの46億年前と言われていたが、音波望遠鏡の開発によってもっと以前迄が測定可能となった数字。
 言えることは「私」という存在は、その測り知れない宇宙の永々たる連続性に繋がる命であるという事。それは「地球」という生命体から産まれた命であるという事を、文明の恩恵を受けている各自に自覚させる為の、科学の発達だっただろう。
 情報網の発達で世界中の国々の人の生活情況も観る事が出来る。
自ずから日本という国の「豊かさ」も発見出来る。
 それは「海」から来て、目覚めたのがその「場所」だった。それは自分が「選択」したのでは勿論ない。「自分」のお蔭ではないのだ。両親の、それ以前の、祖先からの……。「感謝」、死語化しそうなこの言葉を脳の天辺に置きましょう。

 究極人間の使命は、科学(文明)と自然の共存。バランス感覚。
その依存度を減じる事(勿論文明)。温故知新。戦後以降昭和30年代前半の生活状況を思い返せば、人間どんな風にでも生きていけると思いませんか?


1/29(水)  『寒さには上がある』
 前日このページと「マイポエム」を書き込んでいてすっかり遅くなってしまい、就寝したのが午前の4時前、朝はいつもと同じ時間7時に起きて甥子達の弁当作り等、いつもの事をいつもの様にやり終えましたが、昼食後炬燵で横になったら1時間ほど眠ってしまいました。その後は「にゃこリンの夢現シリーズ」ペーマガbT8を配りに行きました。 その帰り買物に行っても人はまばら(肉の特価日でいつもなら人が列をなしているのに)、魚屋さんのおじさんも「あー寒い!それしか言いようがないわ」。ほんとに今日は寒いのなんのって、そこら駐輪の自転車が大風にこかされていました。その横には、まだ年輪も浅いのに泰然とビクともしない木が「なによ、これ位」とすまし顔で立っていました。いま(午後6時前)のニュースで大阪の温度が零下1度であると伝えています。その前のTVでも大阪府下の堺とか南国高知の降雪状況が映っていましたが、不思議な事に滋賀県の彦根は降雪がなかったです。空は空、空は測れずですね。

   “部屋の戸を 風が出入り 開け閉める”
 戸が開き、パタンと閉まる。どこか隙間のせいで、風が我がもの顔に部屋を出入りする。こんな日は、本当に風が「生きもの」に思えます。

 インフルエンザ流行の為、今日はクラブが中止になった下の甥子が珍しく3時頃に帰ってきましたが、すぐに近くのコミセン(卓球台のある地域の憩いのセンター)へ出掛け結局帰宅はいつもと同じ時間でした。
 夕食は、寒い=すき焼き何も考えず反射神経の如く献立は決まり。
 台所の窓をいつも開けているせいか、洗い物のスポンジがカチンと凍っていました
寒さにはまだまだ上があるぞ、そんな声が聞こえてきそうです。                戻る

1/28(火)  『可能性の全てを「花」』
 「マイポエム」に書いている百合の花(名前が分からないのですがピンクのカサブランカと言いたい程の艶やかな花)がひと茎の八輪全部花開かせ、花瓶から姿を消しました。 現在その花瓶には松と葉牡丹、南天の実が「正月」を持続させています。
大晦日に墓参用に同じ花束を二つ買って、しかし余りに豪華なので結局一つをお墓に持って行き、ひとつがここにあるという分で、順々に大きく花開く「百合」の美しさを充分 堪能させて貰いました。
初めに開いたのほど花は大きく、ピンク色も濃く、後に開く程段々薄くなっていました。最後に開いたのは、ほぼ白と言える色で大きさも半分程でした。それを見ていると最後の最後の生命を振り絞って咲いたようで感動的でさえありました。というのも他のは皆蕾がピンク色にほんのりして花弁がほころび開いたのですが、この最後のは蕾が青い侭で、これだけは開かないだろうと諦めていたのに、その侭の色でポロッと花口を緩めたのです。その過程にはどんな葛藤があったことでしよう?

 生まれ来て、人間も自分の持てる可能性全てを「花」として開かせるのが、生命を全うする事だと教えられた様な気がします。

 現在甥子の高校のPTA「広報委員」をやっているのですが、今日3時30分から最後の広報委員会に出席しました。私自身が書いて発行しているペーマガと違って、多数の人の原稿、写真をレイアウトしていく行程はいい経験でした。
 保護者の方には是非とも目を通して頂きたい改めて思います。
 委員長にはお茶菓子等いつも御馳走になり、又担当の先生をはじめ委員の方々、お世話になりました。有難う御座います。
 又、時々このページ覗いて下さい



1/27(月)  『「朗読」の録音』
 
昨日の日曜日は自転車で上の甥子と「続き」の買物に行きました。
防水のズボン、ウエアー2枚(甥子は静電気に極端に弱く何でも着ないので木綿地のトレーナー)を買いました。結局雪道用の靴がなくて、土曜日ソックスを履いていず、はいらなかった靴をもう一度甥子だけで見に行かせ、私はそのスーパーの地下の食料品店へ行く為店前で別れました。あまり行かない処へ行ったので蓬莱の豚饅を見付ける事が出来買って帰ると皆大喜び。夕食時(炊飯器のスイッチを入れた積りだったのに入っていず待つ間)に食べました。でも「あん」はその侭美味しかったけれど、家でチンするのはやはりひと味違うかなと言うのが実感でした。

 今日は昼前新たな「朗読」分を録音しました。
以前にペーマガに掲載した「自己責任」他です。「言いたい ほうだい」でマクドナルドの事を書きましたが、そんな事もあってそれを録音する気になりました。
又このページのROUDOKUで流します。
 それとにゃこマガbT8も出来ました。今回号はリニューアルしたこのホームページの事を中心に書いています。このページの「にゃこリンの夢現シリーズ」をクリックして下さい。
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1/25(土)  『
甥子のスキー合宿』

 
スキー合宿に行っていた下の甥子は昨日午後5時前に帰ってきました。
ちょっと疲れ気味かな、顔を見た時の印象。「どうやった?、雨降ったやろ?」
「ううん、雪が降った、楽しかった」、その言葉を聞いてひと安心。
夕食時に「食事は何が美味しかった?」と続きを聞くと「カレー」「甘かったん?」、家のカレーは辛口ルーを使っていて、いつも辛い辛いと言っているので直ぐにそう思いました。以前、2人共小さい頃は私達のと分けて甘口カレールーでしたが、いつからか中辛、辛口にしていました。「それからうどんすき」が美味しかった。

 今夜又その話、「1日目に5回こけて、2日目が3回、最後の日は2回になった」「ほんなら今度行ったらもうこけへんな」「かもしれん」「スキー又行きたい?」「うん」。横で「2度と行きたない」と上の甥子、「こけて起き上がられへんかって、スキー板外してんぞ」。「あー滑りたいなぁ」下の甥子と上の甥子の初めての体験がもたらした極端さ。そういえばスキーの経験ありませんが、その昔、スケートは私が連れて行った亡妹(甥子の母)の方が上手くなって、後々ひとりでも行ってました。

 今日は午後から上の甥子と、2/4から行く修学旅行に必要な物を見に出掛けました。行き先が北海道の為、雪道用ブーツ等を探しましたが靴屋さん、スーパーにあったのはサイズが合わず、結局は今夜の夕食の材料等を買っただけでした。
歩いて行ったのでいい運動にはなりましたが………


1/24(金)  『犬は「毒をも喰らう」?』
 
上の甥子がほとんど残した一昨日の夕食「揚げ麺の八宝菜かけ」を昨日一日と今朝に犬の「コスモス」に食べて貰いました。猫と違って犬は「毒をも喰らう」と思う位何でも口にします。「そのお蔭」で捨てずにすみました。
 「食」における猫と犬の差というのは、その動物の「歴史」という、これも「遺伝子」のなせる業、「環境下」の永年の食生活によるものでしょう。
 その「コスモス」を朝の10時位には家の中から外に出し、私の車の右バックミラーに首輪の紐を掛けておいているのですが、私がベランダで洗濯物を干していると、此方を見上げています。洗濯物と「コスモス」とに視線を交互にしながら、こんなに注目してくれるのは「コスモス位やなぁ」と呼び掛けます。勿論犬には「なんのこと?」と、例のちょっと小首を傾げた顔で此方を見ているだけ

1/23(木)  『靴の「呼び水」』
 
朝から雨、この2、3日お腹の調子が良くない上の甥子を高校まで車で送迎しました。風の兆候かして微熱があったり、昨日も欲しくなかったと言って弁当の御飯を半分残していました。来月の4日から北海道へ修学旅行へ行く事になっているので、体調が良好な状態に戻るよう願うばかりです。
 下の甥子は折角のスキーだったのに、彼方岐阜の方はどうだったでしょうか?

 雨と言えば前日に干した侭にしていた洗濯物を、ベランダの屋根の内側に干したと「勘違い」して、可哀相なくらい雨ざらしになった洗濯物を3回に分けて取り込み、再度洗濯機に入れすすぎ、干し直しました。
 「靴を洗った日は雨が降る」私のジンクスの如く、甥子達の靴を洗った日は本当にその量に関わらず雨の降る事が多い。こんな僅かの水(甥子の靴の)が「呼び水」になるんかいなと、「雨女」(私が洗うからか)か「雨靴」かと思ったりしています。
兎に角、その靴はそのままにしておいた。

 この勘違いという大敵が多くなってきたのは、年?かな。
でも筋力年齢は「20才」若いんですよ。                            戻る

1/22(水)  『我家の「BGM」』
 
今日から中学1年の下の甥子が2泊3日でスキー合宿へ行きました。
私も今朝は5時に起きて弁当作り、ウインナーを炒め、目玉焼き、ほうれん草とトマトとジャコの胡麻酢和え、それに鰹醤油の海苔おにぎりという献立でした。上の甥子は調理実習があるとかで今日は弁当要らず、私と私の母親も同じ物を昼に食べました。
 此処大阪は昼から曇天の空模様で、スキー場のある岐阜県はどうでしょうか?
ひとり居ないと思うだけでなんとなく淋しい気がしますが、きっと一番感じているのは上の甥子でしょう。いつもよくあれだけ喋る事があるなと思う位、我家の「BGM」ですから─────


 2003年



 ”真っ白き 羊が原に 日出づる ”

今年の標語                                    

◇新年 昇る太陽に                  
これまでの願いを託し      
 前途洋々たる          
 未来へ踏み出す◇
        
  
今年こそ     デビュー
めざして !

 

 
 2003年
1/19(日)  【やっと445のページ】
 ホームペジ「にゃこリンの夢現シリーズ」をリニュアルし【445(よし子)のページ】とする為去年12月中頃から取り掛かり乍ら、
年末のバタバタに遂に年を越し、19日やっとインターネットに流しました。
 以前の「にゃこリンの夢現シリーズ」の内容を区分してリンク付け、もっと見易くする為【まるごと13のリンク】を付けているのですが、
ファイルを保存しておいても外れたり、やり直しのリンクが出来なくなったり、画面が作動(キーボードを押しても)しなくなったりと、
明らかにウイルスの仕業と思える「犯罪者」(これまでにも例えばデスクトップのアイコンが大きくなったり、背景がブラックになったり、
サウンドが鳴らなくなったり、「にゃこリンの夢現シリーズ」のフォルダのトップファイルを開けるのに数分掛かったりと、メーカーの
富士通に電話しても「リカバリ」するしかないと言われ、これ迄この1年半の間に3回パソコンを振り出しに戻しました。が「にゃこリンの夢現シリーズ」のファイルを開けると駄目。去年11月にウイルス対応のソフトを買い使っていますが、その影響かどうか、ブロバイダから取得しているEメールアドレスの受信メールボックスが使えなくなってしまい、現在はフリーメールの受信ボックス(hotmail)を利用しています)
お手上げ状態でした。19日は3時間程寝てから朝5時に又取り掛かり「成功」した次第。
 13のリンク中まだまだ書き込み出来ていない【工事中】が多いですが、徐々にやっていきます。                                  戻る

   ─────────────────────────────────    
1/18(土)いま日付が変わった朝の4:14分、リニュアルしたこの445のページリンク付けをして保存しておいたら
外れてしまい又一からやり直しという状態で仲々流せませんでした。今日はGO出来ると思います。
 明日は甥子達も学校が休み、私は今から寝るので起きるのも遅くなりそうです。



1/13(月)    【コンサートへ】

 大フィルとの共演の前橋汀子のコンサートへ行きました。

   “バイオリン 魂の芯の ビブラート”

  詳しくは【クラシック(前橋汀子)が好き】へどうぞ。



年末からバタバタしていて全然これも書き込み出来なかったが総括してみると、
昨年末は30日迄に大掃除を終える事が出来ました。そして大晦日は、

『温 故 知 新』                     

     ”早々と お節炊き終え 紅白観る”              

 大晦日の仕事お節料理の煮炊き、例年は夕方位から取り掛かるのを、今年は 
朝からし始めたお蔭で夕方には終える事が出来ました。買いそびれた物を買い 
に出掛け夕食を終えてからは、久しぶりにゆったりと紅白歌合戦を観て、家族 
4人無事新年を迎えました。81才の私の母、高校2年、中学1年の甥子2人 
という家族構成なれば、共々の正月は一年一年が貴重であり、皆健やかな事本 
当に喜ばしい限りです。煮炊きと言えば、近年の冬は極力換気扇を使わない、 
循環の風が冷たいから。その代わり窓を一杯に開けている。お節料理を炊きな    がら「母の時代」私の子供の頃が沸々と甦る。                          
 昔は換気扇等なかった。同じく暖房器具も練炭火鉢ひとつ。弟や妹達とそれ    に体をくっつけ、冷たいみかんを練炭の囲いの上に乗せ温めて食べた。            
その家の中の厳寒を補ったのが煮炊きの「蒸気」だった。それが乾き切った
空気をしっとりと潤してくれた。                                  そして現在の我が家の暖房具が電気炬燵だけの部屋に(それでも昔を想えば   充分過ぎる暖)、温度と湿度の加度の役目を果たしてくれている。                
「点けたその手で、ハイ換気」ガス会社の一酸化中毒防止の為の標語は、ガス    を使う時の必須条件となって私達もそれを当り前の習慣としてきたが、マンシ     ョンならいざ知らず、窓のある家は大きく開けて(煙の出る物、油類物以外)     換気扇を回さないようにすれば加湿器の役目、電気代の節減になる。     
現代という文明国のマニュアル社会が見落としてしまったもの、      
地球の「着膨れ現象」を思えば「温故知新」(古きをたずねて新しきを知る) 
傾向が、これからの必然的帰結となるでしょうね。             

    “換気扇 止めて 暖房 加湿きる”  

    
  { 少女の頃                                 
  吸い取り紙のように 雨を拭って行く 大地                  
  一粒 一粒の 言葉を  相槌を 打ちながら                 
  優しく飲み込んでくれる  「母」のよう                   
 明ければ 朝が 夜の 母が 忙しく 俎に走らせる               
 包丁の音の その途切れ目から 見え 立ち昇る                 
 夕餉の湯気の ホッとする 温かさのよう………                 
  母はいつも 隅っこにしか 居なかったけど                  
  でも「救い」でした。} 
                          
 
 
夢幻】 第一部 《約束された人生》P6より 
   

             *        


 ”初詣 八坂神社で 破魔矢 かう”               

 例年の京都墓参後、一昨年甥子一吉の高校入試合格祈           
願をした八坂神社へ、一年遅れのお礼参りを兼ねて初詣           
に行きました。露天で買った一舟のタコ焼きを3人で食           
べ、最後を食べた上の一吉はその器をそこらに(一杯            
散乱していたが)捨てずに「持って帰りました」、感心           
々々。正月早々嬉しい事でした。 
                    
            *                                   戻る      

         
 1/8(水) 「生命の礼節」
夜11時過ぎ途中から観たNHK教育TV人間講座「絵本のよろこび」の中でいい言葉に出会った
。絵本作家レオ・レオーニの「生命の礼節」という言葉。途中から観たのでその言葉のきっかけの
出来事は分からないが、きっと自身にとって身に余る境遇下に於いて鋭敏な感性が
本能的自己防衛(自堕落の拒絶反応)の為、敢えて自身を孤独下に置き「宇宙」と
向き合わせたものと思える。宿命的「詩人」である。

 それを全うする為に「温室の花」にはならないだろうし、又なれないだろう。
 現代の地球上の文明国と非文明国の余りにも隔たった生活情況を、文明国の人間が「身に過ぎたること」と 自覚する事、それが
「生命の礼節」を知るという事だ。       
文明国の人間にはそれでしか「幸福」は得られないのではないか。
   
                           
 人間とは厄介な生きものだから────                 
 「精神」を持っている。
    戻る                     


                                       
2002年
 
 12/15()  『トキコとコンサート』
 ホームページをリニュアルしようと思い立って取り掛かったが、先ず旧ページ(にゃこリン夢現シリーズ)の中味を区分している。昨夜も俳句短歌(壁掛)をコピーして今度の『俳句短歌おまけに川柳』に貼り付けた。
今朝の3時前迄やっていたが結構の数なので未だ全部終わっていない。
それから夕食の洗い物をして、新聞(14日の)を読み、寝たのが5時半過ぎ必然的に起床は昼前だった。
 コーヒーとパンで朝食を摂り、炬燵のテーブルに「モーストリークラシック」が置いてあったのでそれを少し見ていて山田美也子さんのエッセーの内容(春に亡くなられたというお母様へのおもいが伝わり)とその隣のページのガリガリに痩せ細った黒人の母子の写真(母親の乳を吸っているというより口に含んでいる)を見て涙がこぼれそうになった。風呂の水を汲んだ洗濯機を回してから顔を洗い、化粧水等で顔の手入れ後、エレクトーンを少し弾き、洗濯物を入れて(昨日のを)、今日のを干し、直ぐに昼食の支度に取り掛かった。
焼きそばと、トマトとほうれん草じゃこ入り酢の物にお味噌汁。
今日の味はABCでランク付けるならA、我ながら美味しかった。3ケ100円の麺だけど、これが決めて。
 昼食終わったのが3時前、NHKのテレビ「ふしぎ地球大自然」の再放送を見ていてトキコという鳥名を
何度も耳にし、一昨日行った加藤登紀子のコンサートの事を思い出した。彼女のインターネットのページに
アクセスし掲示板にあの日の感想を書き込んだ。ザ・ピーナッツが引退してからクラシック以外初めて行った
コンサートだったが歌唱力は勿論、客席と舞台を一体感出来るその求心力といえるパワーに圧倒された。
 休憩の後の第2部彼女が赤いドレスに着替えて出てくるだけで客席から声援が上がる、「百万本の紅いバラ」用の衣装というのが
分かっているのだろう、最後近くその歌になった時の盛り上がりで理解出来た。私も聴きたかった歌。
又この歌の事は書き入れる積りです。
 <コンサート終了後お渡しした、私の歌を録音したMDディスク聴いていただいたでしょうか?>
 【Email:nyakorin@hotmail.com】    このページトップへ戻る
著作 日高よし子【無断転載禁止】



                              
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