Huanying xinshang Ding Fengzhang de zhuye


  
王維

 九月九日憶山東兄弟
wangwei WangWei wang wei Wang Wei
獨在異鄕爲異客,
毎逢佳節倍思親。
遙知兄弟登高處,
徧插茱萸少一人。


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九月九日(きうげつきうじつ) 山東(さんとう)兄弟(けいてい)を (おも)

(ひと)異鄕(いきゃう)()りて  異客( い かく)()り,
佳節( か せつ)()(ごと)
に  (ますま)
(しん)を思ふ。
(はる)かに知る  兄弟(けいてい) 高きに登る處,
(あまね)
く 茱萸(しゅ ゆ )()して  一人(いちにん)()くを。

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◎ 私感註釈

※王維:盛唐の詩人。701年(長安元年)?~761年(上元二年)。字は摩詰。太原祁県(現・山西省祁県東南)の人。進士となり、右拾遺…尚書右丞等を歴任。晩年は仏教に傾倒した。

※九月九日憶山東兄弟:太陰暦九月九日の重陽節(故郷の)山東の兄弟に想いを寄せる。 ・九月九日:太陰(旧)暦九月九日の重陽節を謂う。太陽暦の十月中旬。菊の節句。重陽とは、「九月九日」が陽の数字の最大の「九」が重なることからいう。重九。九日登高節は、高いところに登り、遙か離れた地にいる親族を偲ぶ節。李煜の『謝新恩』「冉冉秋光留不住,滿階紅葉暮。
又是過重陽,臺登臨處,茱萸香墮。   紫菊氣,飄庭戸,晩煙籠細雨。新雁咽寒聲,愁恨年年長相似。」、李清照、毛沢東の『采桑子』「重陽 一九二九年十月」「人生易老天難老,歳歳重陽。今又重陽,戰地黄花分外香。   一年一度秋風勁,不似春光。勝似春光,寥廓江天萬里霜。」らにある。蛇足だが、一月一日(元旦)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、そしてこの九月九日(重陽)と、奇数の重なる日は全て節日になっている。 ・憶山東兄弟:(故郷の)山東の兄弟に想いを寄せる。 ・憶:(時間、空間を越えて)遠く想いを致す。 ・山東:函の東側の(作者の故郷のある)山西省の方のこと。戦国時代でいうところの齊、楚、燕、韓、魏、趙の六国の地で、函の東にあるからこう呼ばれる。なお、「山東」にはこの外、山の東。華山以東の地。山東省等の意がある。

※独在異郷為異客:ひとりだけで(故郷を離れて)他郷にいて、他郷を旅する者となっている(が)。 ・獨在:ひとりだけで…にいて。 ・異鄕:他郷。故郷を離れてよその地にいること。 ・爲異客:他郷を旅する者となっている。 ・爲:〔ゐ;wei2○〕平声。なる。なす。 ・異客:他郷にいる人。旅先にいる人。

※毎逢佳節倍思親:めでたい節日(重陽節)になるごとに、ますます肉親のことを思う。 ・佳節:めでたい節日・毎逢:…になるごとに。…に出逢うたびに。後世、白居易は『訪陶公舊宅』で「我生君之後,相去五百年。毎讀五柳傳,目想心拳拳。昔嘗詠遺風,著爲十六篇。今來訪故宅,森若君在前。不慕樽有酒,不慕琴無絃。慕君遺榮利,老死此丘園。柴桑古村落,栗里舊山川。不見籬下菊,但餘墟中煙。子孫雖無聞,族氏猶未遷。毎逢姓陶人,使我心依然。」と使い、南宋・陸游は『春晩懷山南』で「梨花堆雪柳吹綿,常記梁州古驛前。二十四年成昨夢,毎逢春晩即悽然。」と使う。 ・佳節:めでたい節日。ここでは重陽節のことを指す。 ・倍:ますます。日本語の読みとしては副詞的な扱いであり、実際にも副詞のような位置にあり、「倍+動詞」で副詞的な意味「ますます…する」の意を伴う。 ・思親:肉親、親戚、身内を思う。 ・親:親族。「おや」だけでなく、広く親族兄弟を指す。

※遙知兄弟登高處:遠くから、身内の兄弟が(重陽の日の風習で、)高い山に登り、家族や親しい人を憶っているだろうことを察知する(が)。 ・遙知:遠くから察知する。「遙知」は兄弟登高處,插茱萸少一人」までかかっていく。盛唐・岑參の『梁行軍九日思長安故園』「強欲登高去,無人送酒來。
遙憐故園菊,應傍戰場開。」や後世、盛唐・杜甫の『月夜』「今夜州月,閨中只獨看。遙憐小兒女,未解憶長安。香霧雲鬟,清輝玉臂寒。何時倚虚幌,雙照涙痕乾。」に同じ。 ・兄弟:身内の兄弟。けいてい。 ・登高處:重陽の日の風習で、高い山に登り、家族や親しい人を憶い、菊酒を飲んで厄災を払う。 ・登高:高い所に上り、家族を思う。魏・阮籍の『詠懷詩』其十「昔年十四五,志尚好書詩。被褐懷珠玉,顏閔相與期。開軒臨四野,登高望所思。丘墓蔽山岡,萬代同一時。千秋萬歳後,榮名安所之。乃悟羨門子,今自嗤。」や、盛唐・崔國輔の『九日』「江邊楓落菊花黄,少長登高一望鄕。九日陶家雖載酒,三年楚客已霑裳。」や、南唐・李煜の『謝新恩』「冉冉秋光留不住,滿階紅葉暮。又是過重陽,臺登臨處,茱萸香墮。   紫菊氣,飄庭戸,晩煙籠細雨。新雁咽寒聲,愁恨年年長相似。」や南宋・陳亮『念奴嬌』「登多景樓」「危樓還望,嘆此意、今古幾人曾會?鬼設神施,渾認作、天限南疆北界。一水橫陳,連崗三面,做出爭雄勢。六朝何事,只成門戸私計。   因笑王謝諸人,登高懷遠,也學英雄涕。憑却江山,管不到、河洛腥無際。正好長驅,不須反顧,尋取中流誓。小兒破賊,勢成寧問強對。」等とあり、現代では在米留学生・朱海洪『元宵』「東風拂面催桃李,鷂鷹舒翅展鵬程。玉盤照海下熱涙,遊子登臺思故國。休負平生報國志,人民有我勝萬金。憤起直追振華夏,且待神洲遍地春。」とある。

※徧插茱萸少一人:みんなが、(重陽の日の風習である、邪気を払うという)茱萸(しゅゆ)の実を頭に挿しているものの、ひとり(作者自身)を缺いている(ことを)。 ・徧:〔へん;bian4●〕あまねく。=遍。 ・插:挿(さ)す。 ・茱萸:〔しゅゆ;zhu1yu2○○〕かわはじかみ。ちょうせんごしゅゆ(朝鮮呉茱萸)。日本では、ぐみとしている。初夏に黄色い花をつける。重陽の日に登高して、この喬木の実を頭に挿して邪気を払うという後漢の桓景の故事に基づいた重陽の風習の一。「茱萸」の解釈について、NPO法人武蔵野自然塾 梅田 彰氏より次のような論考のメールをいただいた。正鵠を得た御指摘なので、以下に紹介する。
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「茱萸」の解釈については、ハジカミとかワハジカミとかの解説がされておりますが、小生は和名をカラスザンショウ、漢名を食茱萸、茱萸、食椒と呼ばれている植物が正しいと考えております。以下、その理由を下記します。

「茱萸」自体の意味は「赤い実」の意味ですが、これはカラスザンショウの蒴果の果皮が秋に赤熟するからです。そして、中国では産地の略称を頭につけて命名する慣習があり、コショウ(胡椒)は「胡の国の小さい実」、キュウリ(胡瓜)は「胡の国の瓜」、ゴシュユ(呉茱萸)は「呉の国の赤い実(カラスザンショウと同様に蒴果の果皮が秋に赤熟する)」、ショクショウ(蜀椒)は「蜀の国の小さい実」およびセンショウ(川椒)は「四川省の小さい実」ならびにカショウ(花椒)は「(蒴果の果皮が赤くて)花のような小さな実」の意味で、いずれも華北山椒の別名です。この華北山椒はマーボ豆腐やザ―サイに使われている山椒の仲間で、日本のサンショウによく似ています。この華北山椒も日本のサンショウも蒴果で赤熟します。

日本では「茱萸」はグミ(グミ科)のことを指しますが、これは漢方薬として有名なサンシュユ(山茱萸・ミズキ科)「太行山脈地域の赤い実」についての漢書(本草書など)を読んだ日本人が、グミと同じくらいの大きさの「赤い(液)果」をつけるところから、グミの仲間であると誤認してグミに茱萸の字を充てたのだと思います。上記ゴシュユ(呉茱萸)「呉の国の赤い実」はカラスザンショウによく似たミカン科の植物で、液果ではありませんが、蒴果の果皮が秋に赤熟し、漢方に使われます。一方、カラスザンショウも同様に蒴果の果皮が赤熟し、食茱萸、略称茱萸、あるいは食椒と呼ばれ、健康食品的な位置づけであったと考えます。

日本のサンショウにしろ、中国のカホクサンショウにしろ、葉は奇数羽状複葉ですが大変小さく、髪の毛の中に「挟む」ことはなんとかできても「髪に挿す」ことはできず、さりとて、小枝ごと髪にさすとトゲで痛く、また果実を挿すとしても、果柄は非常に短くて、いずれも、髪に挿すのは無理です。それに対して、カラスザンショウの花柄は10cm以上と非常に長く、髪に挿すことができますし、果皮が秋に赤熟し、健康食品(食茱萸、食椒)であったから、登高のときに、髪にカラスザンショウの果実付き果柄をさし、やはり健康食品である菊を酒にうかべ、健康を祈る行事に使われたのだと思います。

古い日本語では、ショウガのことをハジカミと呼び、サンショウのことをヤマハジカミと呼んでいたようですが、漢和辞典の筆者が華北山椒の別名である「川椒」(四川省の小さい実)を、茱萸のことであると判断し、かつ、別名の「川椒」を、そのままカワハジカミと訳したのだと思います。しかし、カワハジカミなどという植物は存在せず、したがって人によってはハジカミと訳したり、色々な混乱が起こっているように思います。

なお、台湾で入手した蝶の食草図鑑である「台湾蝴蝶食草植物全図鑑」洪裕栄著を見たところ、カラスザンショウは中国名で食茱萸、茱萸、食椒と書かれており、上記解釈は妥当であろうと意を強くしたところです。

また、深江輔仁著「本草和名」(918)に、山茱萸は和名を「以多知波之加美、一名加利波乃美」、食茱萸は和名を「於保多良乃美」と書いてありますが、この「於保多良乃美」すなわち「オオタラノミ」を、日本植物方言集成(八坂書房)で調べますと、カラスザンショウの方言として、オオダラ(福井・三方、三重・員弁、福岡・粕谷)、そしてその転訛としてオオバラ(神奈川、静岡、愛知・三河)などが見られます。

すなわち、山菜として有名なタラノキ(ウコギ科)は、奇数羽状複葉の非常に大きな葉をしており、幹や枝葉にトゲがあり、枝数が少ないのが特徴ですが、このカラスザンショウもまったく同じように、奇数羽状複葉で巨大な葉をしており、幹や枝葉にトゲがあり、枝数が少なく、シロウトでは区別が困難のほど似ております。しかし、カラスザンショウはタラノキよりも樹高がたかくなりますので、オオダラと呼んだものと思われます。それゆえ、オトコダラ(和歌山、愛知、鹿児島・姶良)、クマバラ(静岡)などの方言もあります。

以上から、カラスザンショウのことを、昔はオオダラとよび、また、中国の習俗の影響を受けて果実をたべていたからか、果実に注目してオオタラノミ(カラスザンショウの実)と呼んでいたものと思われます。(以上:NPO法人武蔵野自然塾 梅田 彰氏
http://www.shizenjuku.org/)(2013.9.24)
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曹植「
茱萸自有芳,不若桂與蘭」や杜甫「明年此會知誰健,醉把茱萸仔細看。」等がある。また、王維は「茱萸」の詩もある。 ・少一人:ひとりを缺く。作者の王維だけその場にいないということ。 ・少:すくない。かける。 ・一人:読み方は、ひとりの意は「いちにん」。 *なお、日本語では「いちじん」:天子; 「いちにん」:右大臣、ひとり; 「かみごいちにん(上御一人)天子」の「…いちにん」などと読み分ける。

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◎ 構成について

 七言絶句、仄起式。韻式は「AA」。韻脚は「親人」で、平水韻上平十一眞。この作品の平仄は次の通り。

●●●○○●●

●○○●○○○。(韻)
○○○●○○●,
●●○○●●○。(韻)
2001. 7. 2完
      7. 9補
2004. 2. 7
2005. 5. 3
2008. 3.13
2012.10.31
2013. 7.12
2020.10.15
      10.17



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