李清照(1084年~1151年頃)は、両宋(北宋・南宋期)の戦乱時代 の著名な女流詞人で 、現代でも通ずる繊細な感情の動きと口語も使った自然で親しみやすい作風とが相俟った、中国人の間では、極めて人気がある詞人である。
李清照、号して易安居士。易安室と署名するときもある。これは陶淵明の『歸去來兮辭』の「引壺觴以自酌,眄庭柯以怡顏;倚南窗以寄傲,審容膝之易安。園日渉以成趣,門雖設而常關。策扶老以流憩,時矯首而遐觀。」 からきている。彼女はこのことから、ただ単に隠遁を言いたいのではなく、実は「酒壺を手許に置き、自ら酌して、」悲しみを消し、「庭の木の枝を眺めてはくつろぎ」「窓に寄り添って気儘にたのしみ」「膝を入れる(坐れる)だけの(狭い)所でも(我が家として、くつろぎ)安んじ易いことがはっきりとわかった」という、自らは働きかけられなくなったという情勢の変化に伴い、受け身に回らざるを得ない無念さを「易安」の言葉とは裏腹に訴えたいのであろう。「審容膝之易安」は、言うなれば、不遇に安んずるという、悲痛な言葉でもある。
彼女は名門の出ではあるが、その号からも分かるとおり、時代の激浪に揉まれた多難な人生を送った。その時代が彼女を磨き、その詞は女后として、婉約詞派の両宋時の巨人であるばかりでなく、中国での最高の女流文学者の一といわれている。
作風は、彼女の人生の時期によって大きく異なる。一つの区分は、
一. |
前期の 京での新婚時代、 |
二. |
中期の建康在住時、 |
三. |
後期の靖康之変のために江南へ避難し、その地で夫を失うという、祖父の地も家庭も亡くした流浪の日々の時代 |
となろうが、各時期で大きく変わり、境遇と心境の変化に伴い、変遷を遂げている。その区分は、或いは、次のようにもできる。
一. |
前期の少女・新婚時代(徽宗大觀元年まで。二十四歳まで)と、 |
二. |
中期の靖康之変後、夫が死ぬまで(高宗建炎三年まで。四十六歳まで)、 |
三. |
後期の流浪の日々の時代(七十三歳頃) |
とするのもある。
人生のエポックをどう見るかによって変わってこよう。 年若い頃の羞じらい、新婚後の幸福感、間もなくの別居時の不安、靖康之変・夫の死去による混乱、流浪の人生の嘆きと諦め…と、その時代その時代に多様な作風を展開している。 いずれにしても、時代と運命に翻弄された中で、鮮やかに才能を華開かせている。
婉約詞派とはいわれているが、『花間集』などで見られるような華麗さや優雅さはなく、特に後期では、生活の中に美しさ、哀しさ、はかなさを見いだして、それに対して揺れ動く心を歌い上げている。また、北宋が滅ぶという事態にも直面し、蘇軾・辛棄疾に負けない豪放詞も作っている。
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彼女の人生については、出生は、斉州歴城の人(現在の山東省斉南市にあたる。他の説もあるが、いずれも現・山東省)で、歳若いときよりその才名があった。彼女が十八歳で、金石学者である太学生の趙明誠と結婚した。しかし、新婚一年後、政争のために夫と別居のやむなきに至り、二、三年の間、別れて過ごした。更にその二十年後に靖康之変があり、その変乱のために、集めた金石、文物も兵火に焼かれ、江南・建康(南京)へ避難したが、翌年の八月十八日、その地で夫を失う。後に残された文物も戦乱のために、再び失われ、更に、戦乱を避けての移動中に盗まれたりもした。逃げた先に、金軍が攻めて来、また、逃げ出すという、流浪の日々を送った。三年後、臨安(杭州)に逃れたとき、既に彼女を守る夫も亡く、
戦乱で、病を得ていた彼女は、その地の張汝舟と結婚したが、張汝舟は彼女の持っていた財物を取り上げようとしたりして、トラブルが起こり、「日加毆撃」ということになった。そこで、再び別れた。その後も、戦乱に加うるに政変と、逃れ逃れて各地を転々とし続けた。
彼女の人生を思うに、その辛さ、哀しさは、余りあろう。詞を見れば、どの作品にも、「酒」が、「涙」が出てくる。酒がなくては過ごせなかったのだろう。時代と境遇の激変に、個人の力では如何ともし難い、その想いが、詞のことばの中から強く訴えてきている。大変な時代を生き抜いた女性である。
物是人非事事休, 欲語涙先流。
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